第1章 16話 希望の鎖
シルフィの言葉を受け止めながら、胸の奥で、もう一つの思考が形を成していく。
言葉にはしていない。
だが、ずっと消えなかった感覚がある。
――逃げ場は、最初から無い。
息子の顔が、脳裏に浮かんだ。
泣きそうな顔で、必死に手を伸ばしていた。
ただ生き延びるだけでは、帰れない。
それは何となく感じていた。
この世界は、あまりにもはっきりと「悪魔」という存在を中心に回っている。
神託の巫女。
勇者。
賢者の石。
七体の悪魔。
偶然にしては、出来すぎている。
まるで最初から、そこに辿り着くことを前提に道が敷かれているような感覚。
「……シルフィ」
私は、静かに口を開いた。
「さっき言ったことに、もう一つだけ、付け足させてほしい」
シルフィは、警戒するようにこちらを見る。
「息子を助けるために、この世界に来た」
「それは、間違いない」
言葉を切り、続ける。
「でも」
「この世界に来てから、ずっと感じてる」
「逃げても、隠れても」
「結局、悪魔の存在からは離れられないって」
シルフィの瞳が、揺れた。
「それは……予感?」
「多分な」
苦笑する。
「根拠はない」
「でも」
「神託の巫女がいて」
「勇者って仕組みがあって」
「世界が、悪魔を中心に回ってる」
「そんな中で」
「“何も関わらずに帰れる”方が」
「不自然だと思った」
地下の空気が、さらに重くなる。
「だから」
視線を逸らさず、言葉を続けた。
「どのみち」
「オレは、悪魔と向き合う」
「契約しなくても」
「君がいなくても」
「何かしらの形で、避けられない」
シルフィの喉が、ひくりと鳴った。
「……だったら」
一歩、踏み出す。
「君を一人にする形じゃなくて」
「一緒に選んだ形で、向き合いたい」
「それが」
「オレにとって、一番後悔の少ない道なんだよ」
シルフィは、しばらく何も言えなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……最初から」
「全部、背負うつもりだったんだ」
「違う」
首を振る。
「背負うっていうより」
「逃げ道がないって、分かってただけだ」
「だったら」
「一人で進むより」
「君と並んだ方が、まだましだと思った」
その言葉に、シルフィは目を伏せた。
「……ずるいね」
「私が一人で死ぬ覚悟をしてたの」
「全部、ひっくり返す」
「ごめん」
「許さない」
シルフィは少しだけ、笑って返す。
「でも」
「嫌じゃ、ない」
その小さな言葉が、地下に落ちた。
シルフィは、深く息を吸い、吐いた。
そして、決意を固めるように、私を見上げる。
「……分かった」
「あなたが、そこまで言うなら」
「私は」
「あなたと、契約する」
声は、まだ揺れていた。
だが、逃げはなかった。
「一人で終わる道を」
「一緒に続ける可能性がある道に変える」
私は、静かに頷いた。
「うん」
その瞬間、胸の奥で何かが静かに定まった。
――悪魔は、避けられない。
だったら。
守る理由を、隣に置いて進む。
それが、勇者になるということなら。
それでも、構わないと思えた。
*
砦の中は静まり返っている。
だが、その静けさは安堵ではなく、何かが起こる前の張り詰めた沈黙に近かった。
迷いは、もうない。
それでも、決断の重さだけが、確かにそこにあった。
砦の奥、集落の集会所として使われている村長の家の前だけに灯りがついている。
大きな声でシャルルを呼ぶ。
私の声のとおり、シャルルは床板を外した。
地下を出たとき、外はすっかり夜だった。
地上へ上がると、真っ先にこちらを見たのはシャルルだった。
「……どうしたんだ」
次いで、奥に座っていた村長が、ゆっくりと立ち上がる。
「話は、済んだのか」
短い問いだった。
だが、その一言に、すべてを察している響きがあった。
私は一歩前に出る。
「はい」
一瞬、喉が詰まったが、続けた。
「結論から言います」
「オレは、勇者になります」
空気が、止まった。
シャルルの目が、わずかに見開かれる。
「……正気か?」
「正気だよ」
村長は、眉一つ動かさなかった。
だが、その沈黙が、言葉以上に重い。
「……契約も、するのか」
村長が問う。
シルフィが、私の横に並んだ。
そして、小さく、だがはっきりと頷く。
「はい」
「二人で、選びました」
シャルルの拳が、ぎゅっと握られる。
「……本気か」
声が、低く沈んでいた。
「契約するってどういうことか分かってるんだよな?」
「うん」
「逃げられないって、分かってるよな」
「分かってる」
私は、即答した。
「逃げたら」
「シルフィだけじゃない」
「オレも、死ぬ」
「二人とも、だ」
シャルルの視線が、私からシルフィへ移る。
「……それでもか」
シルフィは、一瞬だけ目を伏せ、そして顔を上げた。
「それでも」
「そっちを選んだ」
シャルルは、何も言えなかった。
歯を噛みしめ、視線を逸らす。
沈黙を破ったのは、村長だった。
「……なるほどな」
深く、息を吐く。
「つまり」
「巫女が勇者と契約した」
「それが、教会に知られれば」
「騎士団が、巫女を探す理由はなくなる」
私は、頷いた。
「はい」
「正式な勇者が存在する以上」
「“未契約の巫女”という名目は消えます」
「捕まえる理由も、なくなる」
村長は、目を閉じた。
長い沈黙。
その間に、何人分もの未来を計算しているようだった。
「……村は」
ぽつりと、呟く。
「これで、守られる」
シャルルが、かすれた声で言った。
「代わりに」
「二人が、戦場に立つ」
視線が、私に戻る。
「……レン、関係のない、おまえだけが……」
「関係なくはないよ」
私は、静かに答えた。
「オレは、戻れない場所に踏み込んだ」
村長は、ゆっくりとこちらを見据えた。
「……それでも、やると」
「はい」
不思議と迷いはなかった。
村長は、しばらく黙った後、深く頭を下げた。
「……すまん」
その言葉に、胸が痛んだ。
「本来なら」
「子どもを守るのが、大人の役目だ」
「それを」
「お前たちに、背負わせる」
シャルルが、はっとしたように村長を見る。
「村長……」
「だが」
村長は顔を上げる。
「選んだのは、お前たちだ」
「ならば」
「村として、できることをする」
その言葉に、シャルルが静かに頷いた。
「……俺もだ」
拳を解き、まっすぐにこちらを見る。
「反対はする」
「正直、何もできない自分を許せない」
「でも」
「決めたって言うなら」
「背中は、守る」
短く、力のこもった声だった。
シルフィが、小さく息を吸う。
「……ありがとう」
その声は、震えていた。
だが、もう逃げはなかった。
村長は、最後に言った。
「今から」
「集落の者たちに、最低限の説明をする」
「余計なことは言わん」
「“村は守られる”」
「それだけで、十分だ」
灯りが、静かに揺れる。
私は、シルフィの隣に立ったまま、思った。
――もう、戻れない。
だが。
選ばなかった死より、選んだ戦いの方が、まだ前を向ける。
その覚悟だけが、確かにそこにあった。




