第1章 10話 覚悟
村外れ、畑の向こう。
夕方の風が、背の低い草をざわざわと揺らしていた。
「もう少しで、1カ月だね」
「……こうして外に出るとさ」
シルフィが、足元の石を軽く蹴りながら言った。
「なんか、変な感じしない?」
「変?」
「うん。村はいつも通りなのに、空気だけ違う」
周囲を見渡す。
「分かる気がする」
「だよね」
彼女は少し安心したように笑った。
「私だけが神経質になってるのかと思った」
「神経質になる状況じゃないと思う」
「それは……まあ、そうか」
短く息を吐く。
「レンさんってさ」
「うん?」
「ここに来て、まだそんなに経ってないんだよね?」
「そうだね」
「なのに、変に落ち着いてる」
ちらりと横目で見る。
「シャルルみたいに慣れてるわけでもないし、ジキルさんみたいに覚悟決まってる感じでもないのに」
「そう見える?」
「うん。だから不思議」
少し間が空く。
「……怖くないの?」
唐突な問いだった。
「正直に言うと」
考えてから答えた。
「怖いよ」
「だよね」
「でも、逃げ続けるのも、怖い」
シルフィは、その言葉を噛みしめるように黙った。
「……それ、ずるいな」
「何が?」
「私が言いたかったこと、先に言われた感じ」
苦笑して、肩をすくめる。
「私もさ、怖いんだ」
「でも、ここにいる限り、何も起きないフリをするしかなくて」
「それが一番、しんどい」
風が吹き、髪が揺れる。
「レンさんは」
少し照れたように視線を逸らしながら言う。
「“何も知らない人”なのに、ちゃんと見ようとしてるでしょ」
「だから、話しやすいし、信頼できる」
その言葉に、胸の奥がわずかに温かくなる。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
軽く笑ってから、ふっと表情を変えた。
「ねえ」
「何?」
「もしさ」
言葉を選ぶように、少しだけ間を置く。
「大切なものを捨てないといけなくなったら、どうする?」
「俺は……」
即答できなかった。
「ごめん、ちょっと軽率な質問だったね」
「レンさんの大切なものって、息子さんになっちゃうか」
納得したように頷き、そして、ゆっくりとこちらを見た。
「レンさん」
「ん?」
「目を逸らさないでいてくれてありがとう」
夕日に照らされた綺麗な笑顔だった。
シルフィは少しだけ、声を落とす。
「まだ言ってないことをちゃんと言わないと」
私は、何も言わずに頷いた。
その反応を見て、彼女はほっとしたように息を吐く。
「ねえ、レンさん」
「何?」
「ちょっと、いい?」
夕方の風が、草を揺らしている。
「私さ」
シルフィは、いつもの軽い調子で言い出した。
「“シルフィ”って名前、嫌いじゃないんだ」
「響きもいいし、ここではみんなそう呼ぶし」
「でもね」
一歩、近づく。
「これから先、たぶん……名前が、意味を持つ」
黙って聞いていた。
「だから、今のうちに言っとく」
少しだけ照れたように笑う。
「私の本名、ハル」
「この村で育った、ただのハル」
その言葉は、神託でも予言でもなかった。
ただの、自己紹介。
「もし、何かあったら」
「私が“シルフィ”じゃなくなったら」
「そのときは――」
言葉を切り、視線を上げる。
「ハルって、呼んで」
夕焼けが、彼女の横顔を照らしていた。
その顔は、巫女でも特別な存在でもない。
私は、短く頷いた。
「分かった。……シルフィ」
名前を呼んだ瞬間、彼女はほんの少しだけ、安心したように笑った。
そしてその背後で――
森が、静かに、息を潜めていた。
まるで、次の一歩を待つかのように。




