見知らぬ恋人
ガチャンと音が鳴って、自販機の取り出し口にホットレモンのペットボトルが落ちてきた。
加奈子は、それを取り、そばのソファに腰を下ろして、隣を見た。
妹の富子が、ニタニタした顔で、身を乗り出して、こっちを覗き込んでいる。
「何よ、富子。何か、あたしの顔に付いているとでもいうの?」
「姉さん、よくこんな大病院に1ヶ月も入院してられるわね?あたしなら、とっくの前に大脱走してるわよ。根性あるわよね」
「姉を茶化さない。.............、それよりも、父さんと母さんはどこ行ったの?」
「さあ、さっき、担当の山根先生と面談するって診察室に消えたっきりだから。それよりもさ、あたしもコーラが飲みたい。ねえ、150円貸してよ。妹からの一生のお願い」
「あんた、お金持ってるでしょ。自分で買いなさいよ、自分で」
「さっき、売店でポテトチップス買って、もうないの。ねえ、お願い!」
「あんたの浪費癖は一生ものね、はい、これ」
「あんがと。じゃあ」
富子は、小銭を握りしめて自販機へと駆けていった....................。
「あと、3ヶ月の余命ですな。はっきりと宣告しまして」
「と、言われますと?」
「加奈子さんの病状は、かなり進行してますよ。悪性腫瘍が肝臓から脳に転移しています。あと、しばらくもすれば、自覚症状が出てきますよ。あなたたちも、御覚悟して、最後まで、優しく加奈子さんを見守ってあげて下さいな」
「そうですか.............」
二人の夫婦は、黙って、下をうつ向いていたが、そっと涙が流れているのを、山根医師が見ていた。こんな時は、ねぎらいの言葉よりも、沈黙。直感で、山根医師は知っていた。
「先生?」
去り際に、父親が、山根医師を振り返って、言った。
「お世話になります。どうぞ、最後まで、加奈子のこと、よろしくお願いします」
「ええ、最善を尽くしますので、ご安心下さいな」
加奈子は、一人で病室に居た。ベッドの上には、一冊の文庫本。
「恋に落ちたら」
というタイトルだ。彼女は、大のロマンス小説好きだ。恋。恋愛。巡り会い。そんな言葉で、加奈子の胸は、もう、ときめいてくる。でも、彼女には、まだ、恋愛の経験なんてなかった。想像の世界で、恋をして、デートを重ね、やがて二人は...............。
「姉さん!」
富子が、病室に飛び込んできた。その片手に、小さな封筒が握られている。見慣れぬ青い封筒だ。
「こんな手紙、姉さんの病室の扉の下に差し込んでたわよ。いったい、何よ?あたしにも教えてよ」
「いいから、いいから」
加奈子は、その不審な封筒を富子から受け取ると、そっと封筒を開いた。しばらく、文面を読む。それは、加奈子に宛てた一通のラブレターであった。以前より、あなたを見かけて、僕は、とたんに熱烈な恋心に落ちて...............。
次第に、加奈子の顔色が紅潮してくる。それを、富子が見逃さなかった。
「姉さん、それ、ラブレターでしょ?騙しても駄目だぞ。顔に出てっから。ねえ、どこの人?」
「そんなのじゃないわよ。山根先生からの連絡状よ。あんた、もう、遅いから、帰んなさいよ、母さんが心配して待ってるわよ」
「へへっ、お熱いことで」
そう言うと、富子は、病室を去っていった。
残された加奈子は、何度も手紙を読み返し、やがて、青い便箋を閉じると、ひとつ、ため息を突いて、天井を見上げた。
暗い星空の下。
パジャマにサンダルという格好で、加奈子は、深夜の病院の屋上にひとり佇んでいた。しかし、彼女の頭の中は、さっきのラブレターで一杯だった。チカチカと明滅する星を眺めた。
「星空が綺麗。この星空の下のどこかに、あたしを愛する人がいる」
でも、彼女は悩んでいた。あの手紙、誰からだろう?名前も手がかりも書いてはいない。
でも、その熱い文面を思い返す度に、彼女の胸は、熱く鼓動した。誰でもいい。どこかにあたしを恋してる人がいる。それだけで、もう、彼女は、ロマンス小説のヒロインだった。
「あたし、こんな気持ち、始めてだわ。不思議ね、恋って」
鼓動は止まない。静かに、加奈子は、屋上をあとにした............。
病院は、お昼の時間だ。
そっと、病室を抜け出していた加奈子は、気分転換に、外の内庭に出てみようと思った。内庭には、たくさんの入院患者が、ベンチで来客たちと談笑している。緑の芝生に座り込んで、辺りを見回す。見慣れた病院の一風景だ。
その時だ。加奈子の眼前で、ひとりの車椅子に乗った青年が、調子を崩したのか、ガチャンと音を鳴らして、車イスを倒してしまった。かなり、痛そうな様子だ。
「だ、大丈夫ですか?」
慌てて、加奈子が駆け寄り、車椅子を起こすと、彼を抱き上げて車椅子に乗せてあげた。
「あ、ありがとう。まだ、この椅子の使い方、慣れてなくて。本当にありがとうございます」
それが、きっかけで、二人は、話し出した。訊けば、彼は、最近、バイクで転倒し、足の骨を骨折したらしい。名前は、戸倉純一、都内の一人暮らしで、バイトで生計を立てて、夜間大学に通っているらしい。彼女はまだいないとのこと。将来の夢は、美術クリエーター。早く、叶うといいね、と、久しぶりに加奈子は心からの笑顔を見せた。
それから、話題は二人の共通の関心事に移った。
遠くから、声が聞こえてきた。
「姉さーん」
玄関から駆けてくる富子だ。
富子は、片手に風船を上げている。それが、なんの拍子か、途中でステンと転んでしまい、顔を地面にぶつけている。手を離れた白い風船が、フワフワと浮かんで、青い大空へと小さくなって消えていく。
「あれ、君の妹さん?」
「いいえ、知らない人よ。でも、今日は、どうもありがとう。楽しかったわ。また、会えたらいいのにね?」
「僕の方こそ。きっと、会おうよ、また、お昼に、ここでね」
「そうね、忘れずにおくわ、じゃあ、また」
「またね、加奈子さん」
「あんた、何やってんのよ、姉に恥かかせる気?」
「ちょっと転んだくらい、何よ。あたし、姉さんに届け物持ってきてあげたのに、ひどい!」
「何?届け物って?」
富子が差し出したのは、1本の赤い万年筆だった。
「お父さんから。山根先生が預かって、娘に渡してくれって頼まれたんだ、はい、お駄賃?」
「しょうがないわね、はい、200円。飲み物でも買いなさい」
「やったー。あんがと。じゃあね!」
それから、しばらくの間、加奈子は、父親からの贈り物を見つめていた.....................。
それからの毎日。
お昼には、純一と会って熱く語らい、交友を深め、病室に戻ると、父親がくれた万年筆で、誰にも送る宛てのない謎の恋人への返事をピンクの便箋に書いては消して、書いては消して、半日を潰した。しかし、彼女は幸せであった。充実した入院生活。いつの間にか、加奈子の顔に笑顔が戻っていた。
「いや、奇跡ですな、まったく」
と、山根医師が驚嘆していた。
「加奈子さんの脳と肝臓の腫瘍が、どんどん消えていますよ。この分なら、回復も時間の問題です。でも、これは何でかな?ぜひ、これは、学会に報告せねば」
「ど、どうも、ありがとうございます。これも、先生のお力ですよ。本当に救ってくださって感謝します、さあ、お前、帰ろう」
嬉しい様子を隠せずに、夫婦は診察室を急ぎ足で、あとにした。
また、加奈子は、書いた返事の便箋を握りつぶして屑箱に放り込んだ。難しいわ。
「姉さん、苦労するわね、ラブレターの返事」
振り返ると、ニタニタ顔の富子が、病室に居た。
「あんた、いつの間に。それよりも、何で返事書いてるって分かんのよ、あんたに」
「だって、あのラブレター書いたの、あたしだもの」
「ええっ、あんただったの」
「だって、姉さん、病気でしょ?ちょっとでも、元気だしてもらおうと思って。それに、姉さん、ロマンス小説好きだから、気に入るだろうなって。結構、苦労したんだから、あのラブレター書くの」
「あんたね、いくら妹でも、許せないこと、あるのよ、もう、こんなこと、絶対ダチカンネ!」
「オゴメンチャイ」
その時、病室の扉が開いて、果物の籠を下げた純一が姿を見せた。もう、足は、全治したらしい。パリッとした背広姿が、加奈子の瞳に眩しい。
「やあ、加奈子さん、この果物、差し入れだよ。ちょっと、陣中見舞いかな?僕、ようやく退院なんだ。でさ、これからも、君さえ差し支えなければ、お付き合いしたくて。これ、僕の連絡先のメモ」
「まあ、ご丁寧に。ぜひ、会いに行くわよ、喜んで!」
「はじめまして」
と、富子が言った。
「本当の見知らぬ恋人さん!」