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戦場の日々 1  作者: 諭吉
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人類の永遠のテーマである戦争を無くすには、多くの人に戦場の実態を知ってもらいたい為に実際の体験を書きました。

独立山砲第3連隊に動員令は下った。

「お前達は陛下の為に身命を賭して働く時は来た

一死をもって大君の為に働いて貰いたい。

願わくは出征まで数日あるのでその間、又は出征途中において間違いのなきことを望む」

盧溝橋事件は、ついに北支事変となり新聞は盛んに北支の炎天下に於ける将兵勇士の奮闘を伝える。

我々、現役兵士は一刻も早く出征出来ることを祈り、待っていた。

その時は来た独立山砲第3連隊に動員令は下った。

昭和十二年七月二十七日、午後四時に連隊全員、広い営庭に集合して連隊長殿の訓示を受ける。

しかし全員が行ける訳ではない、大部分の人は補充人員として残るのである、我々初年兵で残る者は全く悄気かえっている。

反対に出征する者は例えようも無いほど喜んでいる。

私は特に病弱で農学校もやっと卒業したほどで親も非常に健康について心配していた。

しかし思いもよらず甲種合格し戦場に行けると思うと、天に伏し地に伏したいほど嬉しかった。

命は遠からず駄目かと以前は思っていたのに入営、出征、何とこの運命の変転には我ながら驚いた。

翌日より続々と応召兵士が「万歳」の声に送られて入営して来る。

でっぷりと太り、腹は重役腹に突き出していて何処の社長か、支配人かと思われる四十歳前後の人が一等兵の軍服に着替えた姿を見ると吹き出してしまう。

今までは社会の中堅であり、家に於いては主人であり、父親であった者が今から我々二十二~三歳の若者達と一緒に軍隊生活が始まるのだ。

戦場生活も気の毒なような気もするが、我が民族の風雲急と聞くや、君国の為に一身一家を顧みず勇躍、家を出てきて君国の為に生命を投げ出そうと言うのだ。

毎日、酷暑の中で出征の準備は着々と進められる。

準備に汗一杯で多忙の時、故郷の父母妹が面会に来た。 少し待たせて行ってみると結婚間もない妹や母里の祖母、嫁に行った叔母が来ている。

何時しか話しは未だ見ざる戦場の話しに花が咲く。

別れる時、営門の所まで見送り「必ず手柄をたてて生きても、死んでも金鵄勲章を貰って来ます」と言えば、母は私をしみじみと見てニッコリと笑ってくれた。

この時、多分この母の顔は再び見ることは無いだろうと思った。 今まで随分と母には心配をかけ何の孝行も出来ないまま良く育てて下さったと思って、心の中で母を拝んだ。

しかし、今度の出征は御国の役にたち、大いに親孝行出来ると思うと本当に嬉しかった。

 

 昭和十二年八月十一日出征。

我が中隊は出征準備が終わり、午後六時営庭に整列する。中隊長殿は軍刀を抜かれ、どっしりした大きな馬の上から中隊全部の軍装を検査し終わるや「連隊長殿に頭右」で皆が敬礼する。

雄々しく武装に身を固めた勇姿の目は一斉に連隊長に集まる。

「馬につけ」で大砲を馬にひかせる者、弾薬を全部馬に載せる者、そして自分は砲隊鏡を背負い乗馬する。

中隊長殿の「前へ進め」の号令で粛々と営庭を出て行く。 営庭は補充隊で残る者や、見送りの人で満ちている。 その中から「衛藤しっかりやれよ」「元気で行けよ」と同年兵から呼びかけられる声を嬉しく聞き、無言で馬上より微かにこたえる。

営門の所では喨喨とした尺八の音色に送られて目指す北支の戦線へと出発する。

営門を出るや見送りの人々の「万歳!」の声が一斉に起こる。 その中を我々は新しい軍服、水筒、鉄兜、脚絆、靴、頭から新品の香りで満ちている。

鐙も轡も銀色に光っている。

遠からず敵弾に晒される身を悠々と馬上に乗せ、馬の蹄音も勇ましく進む、かかる感激は生涯に二度とは無いであろう。

行軍の途中、八十歳に近いお爺さんが狂喜の如く日の丸の旗を片手に持ち家より出てきて飛び上がり、飛び上がり「万歳」を連呼する。

我等もこの光景には感極まった。ところがお婆さんが出てきて「お爺さん、みっともないじゃないか」と顔をしかめて袂をひけば、お爺さんは「何がみっともない!」と顔を真っ赤にして、お婆さんを怒鳴って再び「万歳」を何度も唱えてくれた。

これが本当の日本人だ、戦場の露と何時消えるか解らない我等を心の底から見送ってくれた。

このように見送られ、我等は戦場で何時果てようとも思い残すことは無いと思った。

道々には日の丸の旗の波、波「万歳!」の声に送られて駅に着く。

初めての馬の汽車搭載を終わり、午前二時二十分軍用列車は汽笛一声、動き始めた。

午前二時というのに駅のホームには黒山の如く人が見送りに来ていて、期せずして起こる万雷の如き「万歳!、万歳!」の声、声、声。

我等は思わず感極まり、誰の目にも涙が電灯の光に輝いている。

私は故郷が遠かったので見送る人はいなかったが会う人毎に「しっかりやって下さい」と励まされ「有り難うございます、やっつけて来ますよ」と答える。

男あり、女あり、老人あり、少年あり、少女あり、その光景が次々に瞳に映ってゆく。

見も知らぬ美人から「万歳!」と見送られるのは実に嬉しいもので自分も「万歳!」と叫びたくて胸がむずむずするけれど、それは固く禁じられているので高鳴る感激を抑えて黙礼で答える。

汽車は一尺一尺、一間一間とホームを離れるや、歓喜の声に送られて「今ぞ出で立つ父母の国、勝たずば生きて帰らじと・・・」の歌を幾千の人々が歌いだし、幾万の旗がひらめいている。

次第に見送りの皆の姿が小さくなってゆく、声も次第に遠ざかってゆくが、皆は一層声を高めて「万歳!、万歳!」と叫んでくれている。

我々も汽車の窓から体を出せるだけ出して、貰った日の丸の旗を振り続けた。

(その時の光景が三年後の今日、  病院のベットの上でありありと  目の前に浮かんでくる)

見送りの人々の姿は次第に見えなくなり、車輪とレールがきしむ音のみが聞こえてくる。

駅を出てからも踏切、踏切には多くの人々が待っていて「万歳!、万歳!」を連呼して送ってくれる。

門司駅に着いたのは朝の八時頃だったが、何処の駅にも山の如く見送りの人々がいた。

我々は感激の至りで一死報国の念はますます固くなった。

門司で下車し、その日は馬は老松公園に繋ぎ花園町の山口さんの家に泊まり、もてなしをうけた。

朝六時に起床し、お礼を述べて出る。

午後三時には門司埠頭での全ての搭載を終わり、船は五時に出港予定。

御用船とは今までは客船の如くであろうと想像していが、船の中に入つて驚いた。

酷暑の八月十二日というのに、寝る所は二段になっており天井は三尺しかなく鰻の寝床みたいだ。

下の階には数百頭の馬が入っていて、馬糞の匂いがむっと上がってくる。

暑いこと話しにならない、武装して部屋に入っただけで、汗がだらだら滲み出て顔から汗がぽたぽたと落ちる。

寝る所は二段に仕切られており、我々初年兵は上段の寝床を命じられている。

先ずは装具を取り、下着一つになっても汗が出て仕方がない。

下着一つで甲板に出るが、一切の下船は禁じられている。 何時のまにか出港間近となり、門司市民の人々が見送りに来ていて見送る人々で一杯になる。

見送られる兵士も甲板に一杯で、私の所からでは見送りの人々が見えないので、私は給水タンクの上に登りロープをしっかり握って「万歳」と叫んだ。

他にも二人登って来て狭いタンクの上なので少し困ったが、お互い譲りあって陣取った。

波止場から桟橋にかけて小学生、中学生、国防婦人会、個人の見送りの人も多くいる。

向かいの桟橋には二十歳前後の女の人がハンカチを振っている。

船の上ではブリッチの所で若い男の人が盛んに手拭いを振っている、恋人であろうか、妻であろうか?

また三十格好の婦人が柱の側でハンカチを密かに目に当てているのを見た。

この人達には再会の時があるのであろうか?

この人達が再会できることを強く願う。

ドラの音が鳴り響き、汽船特有の汽笛が鳴り響けば静かに船は岸壁を離れ、岸壁は彼方へと去ってゆく。

「万歳!」の声も次第に風と機関の音で聞こえなくなり、旗を振っていた人々の姿も次第に小さくなってゆく。

門司の町を過ぎ、下関の町も遠ざかりつつあるが、我々はまだ一生懸命に手拭いや襦袢を振っている。

船内は暑くてやりきれないので、船上で潮風に吹かれながら移りゆく祖国の山々を眺める。

海の少し広い所に出たら軍艦がいて青い光りを点滅させている、何か信号を送っているのだ。

良く見ると此処、其処に御用船が停泊している。

軍艦に駆逐艦、巡洋艦が三~四隻見えている、我々の乗った船はだんだんと船足を緩め、やがて止まった。

向かいから海軍の水上艇が白波を蹴立てて近づいて来て止まり、水兵さんが水兵帽に白の水兵服を着て立っているのが見える。

舷から士官が縄梯子を伝って登って来た、如何なる命令が来たのだろう?

未だ行き先は不明である、釡山か。大連か、太沽かと噂が盛んに飛ぶ。

船員の話しでは「食糧の積み込みが四日分なので釡山ではなく、多分太沽ではないか」との話し。

話しを聞いて我々は近いうちに敵地に上陸出来るのが嬉しかった。

馬は下甲板に数百頭、並べて乗せたので馬の飼い付けは暑い上に一頭に飼料をやれば他の馬が、がたしち、がたしち前掻きし、癖のある馬はさらに食いつくので危なくてやりきれぬ。

水も水道の水が出ず大変だ。

空気は上甲板にある柱のような白い大きな管を通して入ってくる、進行中に受ける風を管を通して送り込むようになっているが、少しの風が入っても、何百頭の馬の息ではあまり効果がなく、全ての馬が汗をびっしょりかいている。

馬の飼い付けが終われば人間様である、少し塩辛い熱い飯を食べると裸でいても背中には玉の汗がだらだらと流れる、暑苦しいこと話しにならない。

「御用船とは、こんな豚小屋であつたか」と悲鳴を上げている者もいる。

食事が終われば甲板に涼みに出る、夜は出ることは出来ないがボートの中に隠れて寝た。

しかし、二~三度は日直将校に見つかり叱られた。

私は数度瀬戸内海を旅したことはあるが、玄海灘を航海するのは初めてで小山の様な波がうねる中、機関の音も勇ましく白波を蹴たてて進ん行くのは実に爽快であった。

そんな中、我等は全く悠然としたもので誰も戦場に向かっているとは思えなかった。

毎日、衛兵が出て対空監視しているが、軍船飛行機が常に護衛しているので、さほど大した心配はいらぬようだ。

夜は外部の電灯は消して警戒は万全を期す、航路は常に一定せず、朝鮮沖を通るので大連かと思えばさにあらず、太沽かと思えば再び大連方向へ行く。

全く怪しい航路を取って行く、これは軍艦が先頭を行っていて無電で命令が来ているとのことである。

外国船に我等の船が発見されない為だと、時には演習もあるが食事と馬の飼い付けの他はたいてい日陰の所で涼んだ。

毎日が酷暑で蒸し風呂状態なので汗はしたたかに出るが、風呂に入れないのでやりきれない。

船員の親切で風呂の代用として救命ボートの中に海水を満たしてくれた。

入部上等兵を誘って裸になりボートの中に入った。 船が傾く度にボートの中の海水はダブ、ダブと波が立って海水がボートから溢れ出ている。

入部上等兵はたちまち顔色が青くなり船酔いを始めたので帰ってしまった。

我々は太陽がギラギラに照る甲板上で潮風に吹かれながら入浴出来て良い気持ちだった。

部屋に帰ってみると入部上等兵は船酔いで寝込んでいる。

玄海灘を航海し続けた十六日の朝、見渡す限り黄色い海の太沽沖に着いた、少し雨模様だったか午後からは晴れる。

我等は海水は何処の海も綺麗に澄んでいると思っていたが、まだ陸も見えない所の海水が真っ黄色だ、こんな海は初めて見た。

夕方よりダンベル船が来て荷物の移乗を始める、タンベル船に乗っている支那人を初めて見たが盛んに何か喋っている。

工兵の話しでは、これら支那人は皆無報酬とのことで、この姿を見て敗戦国民の悲哀さを感じた。

夕方、私もダンベル船に愛馬と共に移乗し本船であった大龍丸を離れる。

広い海を白波を蹴立てて走り、約一時間も走ったと思えた頃、赤土の大陸を初めて見る、土ばかりで造った支那民家が此処其処に点在している。

赤褐色の海の中を多数の三角帆のジャンクが大小を問わず皆英国旗を掲げて上下している。

綺麗な芝生のある家には必ず英国旗が立っている、今までに見たことのない風景を眺めて充分に異国情緒を味わった。

岸には支那婦人が桶を担って泥水を汲みに来ている、

何に泥水を使うのかと思ったら支那通の人の話しでは

「支那人は井戸など掘らずに、この泥水を澄まして飲料水にしている」とのことである。

驚いてしまった、我等が理解することが出来ない民族なのかと思った。

上流の岸には三千トンぐらいの英国客船が係留してあり、甲板には背の高い外人が我々を珍しそうに眺めていた。

船を岸に係留して上陸が終わったのは夜中の二時だった。

支那大陸に第一歩をきざむ、上陸第一歩で困ったのは飲料水の無いことであった。

暑さは暑い、喉は乾く、馬にも水を飲ませねばならない、随分遠くまで水を汲みに行ったが飲める水はなかなか見つからない。

駐屯の兵営が近くにあったので行ってみたが「水は今頃は無い」とのことなので夜中まで方々を探し回ったら、線路の踏切の所に衛兵所があったので「水は無いですか」と尋ねたら「此処に砂糖水があるから飲みたまえ」とのことで有り難く頂いた

全く甘露とはこの事であろう、実に美味しかった。

少し厚かましくはあったが、この時ばかりと思って水筒一杯貰って帰った。

「有り難う御座いました」と感謝の言葉を三~四度言ったように覚えている。

上陸後全て船から汽車に搭載を終わったのは夜もほのぼのと明け始めた頃だった。

朝八時出発、行き先は不明であるが、一晩眠らなかったので少し体は疲れた

汽車は貨物列車で敵の襲撃に何時会うか知れないので、武装を解くのは命令で禁じられているので暑くて全く地獄だ。

軍隊では命令は絶対に守らなければならない。

午後からは馬の当番に行く、ここも馬の熱い息が充満していて暑苦しいので窓を開けてしまって風を入れる。

昨夜、眠ってなかったので何時しか居眠りを始めて危うく汽車から落ちそうになる。

ふらふらした状態で窓の外を眺めれば、鉄道の沿線には大きなポプラの木が並んでいて汽車は緑のトンネルの中をひた走りに走って行く。

そのポプラの間より高粱が高く伸びてる様子が彼方、向こうまで果てしなく続いている。

駅に着くと兵隊の残飯を貰いに子供がたかってくる、食い残しの飯を出すと兵隊の所へ目の色を変えて走って行く。

中には「マメ、マメ」とまめらない日本語で南京豆を売っている子供もいるし、汽車弁当の空を捨てると走って子供が拾いに来る。

発車まで残り一~二分まで兵隊が捨てたタバコまで拾って、五~六歳の子供がうまそうにタバコの煙を空に向かって吹かしている。

中には年老いた老婆まで、てん足の足でびっこ、びっこしながら鴨が地上を歩く時のような格好で残飯を貰いに来る。

かかる状況は満州旅行者から聞かされてはいたが、見るのは初めてだ。

日本人は子供にいたるまで恥を知っているが、支那人は恥という事を知らない民族じゃないかという気がした。

だから支那人は人の物を平然と盗んで悠然と泥棒市場に売っている、泥棒市場そのものが怪しき存在ではないか。

品物を売るにしても非常に掛け値がしてある、小さな子供でも徹底している。

途中、大津駅で昼食をとっていると国防婦人会の肩章を掛けた日本婦人が酷暑の中にエプロンまで掛けて、

かいがいしく一生懸命に我々皇軍の勇士にお茶の接待をしてくれる。

祖国を遠く離れ、しかも戦線近き所で日本婦人の心からの接待は本当に嬉しくて涙が出そうだった。

酷暑の中を走り回って兵隊の水筒も、お茶で満たしてくれている。

我々の汽車がホームを動き出すと、期せずして「万歳!」の声を送ってくれ汽車の窓からタバコ、キャラメルなど投げ込んでくれた、私はタバコを吸わないので一個づつ分けてやった。

涙が出るほど嬉しかった、かかる感激は戦地でなくては味わえないだろう。

途中の駅にも少数ではあるが日本婦人がお茶を沸かして待っていた、ある駅では夜の一時頃通過したにもかかわらず起きていて支那の苦力を使って、皆の水筒にお茶を満たしてくれたのには目頭が熱くなるのを感じた。

北京の駅は記憶にない、確かホームの無い所で停車したような気がする、この辺りまで来ると駅が次第に寂しくなってくる。

二十日の午前十時頃に最終駅である沙河鎮で下車。

下車といっても我々砲兵は一切の機材と馬を下ろさなければならない、

下ろし終われば今度は馬に鞍を置き、全部の機材を馬に乗せなければならないので大変だ。

正午過ぎに作業は終わり馬に携帯の馬糧を与える。

飯は途中の駅で食べていたので何とかなるだろうと思って馬を繋いで二日前にこの地で戦闘があったといぅので近所を歩いて見物した。

野砲の薬莢がいっぱい積んであつて

、いよいよ戦地に来たなと思い少し気が引き締まるのを感じた。

午後一時に全員集合し、出発する。

目的地は九里先で本日中に小営なる部落まで行軍予定とのこと。

午後になって、今から九里も行こうとするのに食べずに行軍とは少々無理があり以外な感じがしたが、これが軍隊なのだ命令は絶対である。

行軍中、腹が減って仕方ないので三時頃、命令無しでは乾麺包は食ってはならないものであるが「腹が減っては戦は出来ぬ」と少し乾麺包を食って我慢する、致し方ない。

我々、観測班は馬で行くから良いが

大部分の兵隊は重い背嚢を背負って、その上に馬も引っ張っているので大変である。

道案内人には支那の農民であろう、二十歳前後で破れた着物を着た青年を連れて行く、青年は高粱畑を早足で先にたって歩いて行く。

時々、青年は支那語で中隊長と話している、中隊長殿も馬上から何か言っているが、はたして解っているか、いないか?

翌日は午後二時過ぎに出発して間もなく小雨が降り始めた。

我々は防雨外套は持つていない、持つているのは冬の毛の外套のみだ。

暑いので濡れ鼠で行軍するが、支那の土は赤土なので雨が降ると滑って歩かれない。

だんだんと本降りになってきて道はますます滑る、そして道が周囲より低いので、すぐ水が溜まる、すると人が滑る、馬が滑る。

行軍中、高粱が踏み倒されていて戦いの跡がありあり残っていて、燃えた自動車が畑の中に所々転がっていて、ひしひしと戦場感が迫ってくる。

夕方より雨はますます酷くなり、道は膝が没する程に水が溜まりだした。

時たま日本馬がポカリと出てくる、どうした事かと不思議に思って行ってみると腰が抜けた馬で、異国の地で働けなくなって捨てらているのを見ると可哀想で、出来る事なら日本まで連れて帰ってやりたい気持ちでいっぱいだった。

我が中隊の馬も支那特有の赤土の為に滑って転び始めた。

今月十二日に馬は門司で乗船以来、

十九日まで一週間も運動してなかったので馬の足は極度に弱っている、

重い機材、弾薬を背負って一度倒れれば再び立つことが出来ない。

泥沼の中に座って動けぬ馬を皆でよってたかって打っ、蹴るして引き起こすけれど泥沼の中に座ったままで

起き上がれない。

元気な馬は起き上がり変な格好で歩く、けれど動けぬ馬がいる、転んだ時に捻挫か何かして腰が立たなくて仕方ないので荷物は他の馬に積める

だけ積み、残りは人間が担いで運んだ。

雨はますます酷くなり、行軍は思いのほか困難になってきた。

馬に乗ってる観測班の我々は機材など担いで歩いて行軍している者の背嚢を馬上で背負ったので馬を自由に走らすことが出来ない。

広い高粱畑にも、やがて夕闇が広がってゆく、倒れた馬を起こしたりなどしているうちに我が中隊は遅れてしまい、前の部隊との連絡が思うにまかせぬようになった。

「この道の先方を大隊本部が行っているから連絡を取ってこい」と私に命令があったので、道の両側は馬に乗っても見通しがきかぬ程伸びた高粱畑の中の滑る細道を馬を走らせた。

二十分も走ると途中に他の中隊がいたので追い越して行く、大隊本部に着いた時は夕闇が迫っていて、馬上からは道の様子は見えにくくなっていた。

大隊本部は部落の先端の分かれ道の所にいて、池知中尉と大隊長が馬から降りて地図を拡げ道を尋ねていた。

私は中隊の現在の状況を報告し大隊

長の命令を受け、復令をして中隊に

帰り報告する。

ついに雨は大隊本部のいた部落にさしかかった頃から大雨になってしまい、馬も人間もずぶ濡れになり金玉

までびちゃびちゃになってしまった。

中隊では遅れた者が後方にだいぶいるのて、此処で集結する為一時間休憩した。

馬の手綱を持って立っていると、物凄い音で雨は遠慮なく人馬をたたく。

たちまち周囲より低い道は川となって膝までの深さとなり水が流れて行く、全く信じられないくらい凄い。

人はもちろん、馬も未だ夕飼をしてなかったので馬が倒れたら一大事なので糧嚢の中から携帯の馬糧を出して、道に立ったまま少しずつ掴み出し食べさせると馬は嬉しそうに一生懸命食べている。

此のような大雨の中に立っていると、何故か故郷が思い出され故郷では今頃深い眠りに皆ついているだろう。

三日二夜、全く食もなく飢えはひしひしと迫ってくる、タバコも濡れて吸えない「濡れ果てて飢え迫る夜の寒さかな」の感が深かった。

遅れた者が後方にいるので後方連絡の為、川の様に水が流れている暗い夜道を出征の時に持ってきていた懐中電灯で照らして部落の外れまで行った時、向こうから四~五人で機材を担いで歩いて来ていた。

これで集結が終わったので出発したが、ますます道は行軍には困難な

状況になってきた。

私は馬上で人の背嚢を背負ったまま、暗夜の高粱畑を腰に銃剣を有するのみで再び大隊本部へ連絡のため出発。

高粱が夜風に「さわ、さわ」と音を立てる、敵が高粱畑の中に隠れていて「ズドン」と一発みまわれると終わりと思うと、あまり良い気持ちはしなかった。

滑って危ないので馬を走らせることも出来ず、馬を急がせて一人で闇の高粱畑を行く。

全く知らない道を行けども行けども高粱畑で、一つの部落を通った時に友軍の自動車があったので、なんだ友軍はこんな所にいるのかと思い安心した。

それから一里も行った頃、馬が突然くるりと回って来た道を帰ろうとする。 手綱を引き直しても、何としても前に行かない。

暗闇を透かして見ると、二~三十メートル前方に何かしら黒い物が動いている、敵が現れたかと思って息をころした。




困り果てていたところに一人の伝令が来たので二人で無理やり拍車を入れたら二頭でようやく前に進み始めた。

よく見ると前に通過した部隊が倒れて駄目になった馬を捨てたのだろう、泥の中で立てずにもがいている。

高価な馬をどんどん捨ててゆくのをみると、随分勿体ないような気もした。

大隊本部との連絡も漸く取れて夜中の三時半頃、小さな部落に着いて二人で雨の中を中隊が通るのを待っていると三十分ぐらいして中隊が到着、もう夜は明けようとしていて東の空は白み始めている。

何も食べずに夜中行軍したので眠くてならない。

馬を急いで畑の中に繋いで土ばかりで造ってある二~三間ぐらいの小さな家の中に三十名近い人間がいるのでどうしょうもなく、とりあえずは小隊長を囲んで焚き火をして、装具を交互に置いて濡れた軍服を乾かし、

軍服が乾くと皆、土間に寝転んだ。

夢うつつに十一時出発の命令を聞くと、安心して再び深い眠りに落ちる。

一睡したと思ったら夜は白々と明け渡っているけど空腹でならない。

朝起きて鶏の徴発に初めて三人で出かける、二人は上海事変で徴発を経験しているので、その要領でやる。

三羽を料理したが調味料など無いので、携帯用の持つている食塩を入れてソップを作り皆に食べさせる。

「腹が減っては戦は出来ぬ」で食べなくては戦争は出来ない、米は一日分しか持たないのを鶏料理で二食分を食べたのて残りの食糧は米一食分と乾麺包二袋のみだ。

出発命令は来た、熱い湯を飯盒の蓋で飲んで急いで準備する。

近くに井戸はあるが、一個大隊の兵隊が汲むのでなかなか順番か回ってこない。遠くに、もう一つ井戸かあるというので戦友とあちこち馬の水嚢を持って探し回る。

初めて支那語で水のことを「良水」と言うことを覚える「良水」も天津に駐屯したことのある兵隊が教えてくれた。

支那人を見る度に「良水、良水」と手真似でもって話すが珍しそうに眺めているだけで、女は我々の姿を見れば逃げて行く。

破れた服を着た四十歳前後の農民らしき支那人が親切にも桶を持ってきてくれ水を汲んでくれたので冷たい井戸水を満喫する。

此の辺りの井戸は非常に深いので一般には日本での岩清水のように冷たいが、多量に飲むと必ず下痢をする。

水筒にも一杯に入れ、持ってきた水嚢にも皆の水筒用として満々と入れて持って帰った。

水を汲んで帰ると天津にいた後藤上等兵が「謝、謝」を連発する、有り難うとの意味だ。

夕べの雨が低い所に溜まっていて道はまだ水が流れていて丈の高い高粱畑の間からは雲間に青い空が見える。

夕べ大雨の中、落伍していた中隊長殿の当番兵である特務兵の吉浜という男が青くなって到着する。

その男は途中で歩けなくなり暫くは

道に寝ていたが部隊とはぐれたら命の保証は無いと思い、これではならじと歩けなくなれば這って足跡を頼りに這って来たとのことだった。

身は敵地にあるので内地みたいな気楽なことは出来ぬ、動ける間は命の限り部隊についていかなければ誰も守ってくれる者はいないのだ。

正午頃に雨上がりの蒸し暑い中を出発、今日は暑いこと甚だしい、馬上にいても服が絞れるくらい汗が出る。

相変わらず背の高い高粱畑の中だが、自分ら挺身班は中隊を離れて連隊本部へと行く。

途中、川の流れている林の中で大休止をして昼食をとる。

遂に弱っていた私の馬が倒れたので

駄馬にやり、代わりに弱っていて良く歩けない馬を貰う。。

貰った馬はふらふらしていて乗っていても気が気でないが作戦上、任務遂行の為に可哀想だがやむをえない

暑いのて喉が渇いてならないが広い畑の中なので周囲には水はない。

遠くに緑の山が見える、そこまで行ったら綺麗いな水が木々の下を流れていることであろうと思って、四~五里向こうの山へと炎暑の中を楽しみに行軍する。

着いて見れば全くの禿山に近く、短い草が薄く生えているのみで期待が外れ、これには全く力が抜けてしまった。

夕刻には北営樹林と言う五~六十戸の小部落に着く、広い河原が部落の中央にあるが水は少ししか流れていない。

伍長と二人で支那人の家の庭に馬を繋いで宿舎を探して歩く。

北支の家は如何なる小さな家でも大きな土壁を以て家を囲んであるが、その土壁の中にどんどん負傷兵を担架で運び入れてるので行って見ると暑いのに天幕が張ってあり、そこが治療所になっている。

軍服を鮮血で血塗り、白い包帯を血に染めて勇士が横たわって唸っている。

砲声が「ドーン」という響きを立てて聞こえてくる、激戦が此処から四~五里前方の山岳地帯で行われているので野戦病院だ。

我々は戦線が近いことが嬉しくて武者震いしたが、第一戦での戦闘の厳しさは後程次第に解ってくる。

しかし四~五里前方の戦場より此処までは朝に出発しても夕刻にしか着かず、重症者はほとんど助からないと聞き気の毒でならず、負傷者には自然と頭が下がった。

明日は我々も、かかる運命になるやも知れぬ身なのだ。

民家に二頭の驢馬がつないである、小さな時からお伽噺には聞いていたが見るのは初めてだ。

子牛くらいの大きさで大きな耳、物怖じしそうな目、実に可愛らしい動物だが力は非常に強いとのこと。

伍長が「二頭を徴発しよう」と言うので一頭を引っ張って行こうとするが、なかなか動かないので二人で懸命に引っ張って行って驢馬を繋ぎ戻って見れば、他の一頭は歩兵の人に取られた後だった。

戦場では友軍の物でないならば持ち主がない物と言ってもいいかも知れない、先に取った者勝ちである。

中隊が着いたとのことで行ってみると草原に馬繋場が作られていた。

中隊長から「何をしていた」と叱られたので「中隊の宿舎割をして待ってました」と答えたが「そんなことでは駄目だ」とお目玉をくらった。

その夜は馬の側で天幕を張って露営だ。

持っているだけの米を全部出しあって夕飯を食うが実に美味しかった、米はこれが最後で明日からはどうなるのかと思うと心細い。

翌日は早朝に起床し、出発準備を終えて七時に出発する。

我々砲兵の出発は、朝は出発時間よりも二時間以上も早く起きて朝食と昼食の準備をし朝食をとり、体には装具を付け馬繋場に行き馬の水飼をし、馬糧を食べさせ、馬の蹄の検査をし、馬の背を撫でて鞍を置き、夜に使用した外套、天幕の装具も馬に載せ、更に機材、砲車、弾薬を積まなければならず大変である。

同様に夜に着いても機材、その他を下ろし整理して、警戒の為に砲車も準備しておいて馬繋索を張って馬繋場所を作り馬を繋ぎ、馬の一日の疲労を回復させる為に脚をマッサージし、汗を取る為に馬体全部を撫でてやり、出来れば藁等の寝藁を持ってこなければならない。

次は水飼、これが北支の如き水の少ない所では暗くなって夜中に宿舎に着いてから水を探し歩くのは、一方ならぬ苦労をする。

飼付けは、飼付けの号令により一斉に飼付けして終わりである。

飼付けを一斉にするのは馬は利口な動物であるから、まちまちに与えたら悪い癖が出てくる。

他の馬が飼付けした馬を蹴ったり、

咬んだりし始めるからである、飼付けが終われば中隊長の注意がある。

それが長い時は敵情から今日の行軍、並びに戦闘のことから支那民衆

に対する態度等があり、それが終わると皆夜に必要な装具を持って割り当てられた宿舎である支那人の汚い家に行くのであるが一夜の宿を取るに必要な鍋、釜に相当するだけの一切の道具を持っていかなくてはならない。

米から調味料は言うに及ばず、宿舎に着けば夕食を炊いてたべなければならず、食べ終われば明日の朝食と昼食の用意である。

時には鶏など取った時にはご馳走を作るので時間を要する。

空腹だったが漸く夕食を食べ終わった。

今夜の宿舎は支那人民家に多くの人間が寝ようと言うのであるから各人は寝床をこさえねばならず、寝床が出来れば、すわっという時は暗夜に何時でも装具を取れるように枕元に置いて、はじめて眠れるのである。

けれども敵地であるから夜は警戒が

必要だから歩硝にも立たねばならず

、馬も繋いだままでは夜中に放馬して何処ともなく走って行ったのでは、出発という時に全くどうにもならないので、馬にも馬番が必要である。

歩硝も馬番も七日交代くらいて立たねばならない。

出発が如何に早かろうと、如何に夜遅く着こうと、こうなのである。

朝は暗いうちに起きて出発準備を終わり、挺身班は中隊よりも先に連隊本部と一緒に北営樹林を出発する、夕べは大砲の音を時折天幕の中で聞いた。

いよいよ明日から戦闘なので山岳戦に不必要なものは此処に全部預けてゆく、そのため私達の小隊も馬の荷物が減り馬にも余裕が出来たので、さっそく昨日の弱った馬は換えて貰ったので今日は心強い。

午前中は山また山の隘路を行く、道はほとんどが荒れ果てた田舎道で、道路に沿って黄色い電話線が行けども、行けども張ってある。

敵の敗残兵に切られたら復旧の苦労は大変だろうなと思った。

八月の大陸の焼けるような太陽は容赦なく我々を照りつける、水は無し、軍装は重し皆、汗は軍服に滲んでいる。

午前中は森の中を多く通つた、森の中にはリンゴの木があり所々に赤い顔を覗かしている。

リンゴの木はあるが、我々は馬上なので森の中に有るのを取りに行く訳にはいかず、人が取ったリンゴを有り難く頂いて食べたが本当に美味しかった。

前を行っている中隊では准尉が「行軍中にけしからん」と言って、取ってきたリンゴを捨てさせていた。

我々の中隊長は「腹をこわさぬように」と注意してくれた。

それからは木も無い焼けるような道を行く。

所々に敵の死体が転がっていて、暑気の中に異様な匂いが満ちている。

見ると黒い木綿の服を着て腐って黒くなった支那兵が辺りには木らしいものは一つも見えな石河原の中に死んでいた。

八月の大陸の日光を遮るものは無く、我々を容赦なく照りつける。

河を離れて二里も行った所では相当数の歩兵部隊が天幕を張っ露営している。

ところが兵隊達は小さなリンゴを沢山持っていたので、私は馬上からちょと話しをした、話しをしていると大事なリンゴを我々に三~四個づつくれた。

聞けば、此処から戦線までは二里ぐらいあり、此処には水は無いので、一里半ばかり後方にある河まで炊飯に行かなければならず、馬も一回、一回河まで水飼に引っ張って行くとのことに唖然とした。

我々は喉が渇けど、今は一滴の水も無い、貰ったリンゴはもはや動けぬという時に食べようと鞍嚢の中にしまう。

今になって思えば、あの幕舎は仮包帯所ではなかったかと思う。

幕舎には捕虜が二人繋がれていた、今までは死んだ支那兵は見てきたが、初めて見る生きた支那兵である。

服装は非常に粗末だ、先に見た死んでいた支那兵と同じ服装だ。山の上には歩硝が立っていて、山の麓には大きなリンゴの木が一杯あるが一個のリンゴもなって無い、たぶん歩兵が全部取り尽くしたのだろう。

自分は幸いにも玉蜀黍が近くに多くあったのて銃剣で切ってきて馬に食べさせる。

自分は奇跡を求める気持ちで段々畑をリンゴがなってないかと登る。

ところが奇跡的に玉蜀黍畑の中に誰も手をつけてないリンゴの木が一本あり、枝にはリンゴがたわわになっているではないか。

胸やらポケットに入るだけ入れて、それから胸のボタンを外して服の中にも入れた。

挺身班の者を呼んだら皆来て、それぞれ一杯ちぎってポケットなどに入れていた。

斜面を下りたら歩兵がいて、先ほど貰っていたのてリンゴを少しずつ分けてあげた。

今までは貰ったリンゴは食べずに大事にしまっていたが、今回は少し食べた。

残りは水が無いとのことなので大事

に鞍嚢にしまう。

鞍嚢にしまっていたら連隊本部付きの通訳さんが来たのて鞍嚢からリンゴを出してあげると、彼は腹をこわしていて飯が食えぬとのことだったので非常に喜んだ。

昼食となり、我々は乾麺包を出して食べるが如何せん、この食べ物は水がなければ食えたものではない、これのみは続けては食えない、何故なら舌が荒れて咽を通らないのだ。

そこで通訳さんが「腹をこわしているので、私の飯を食わんですか」と全く有り難く、戦友と三人で食べた、その味は今でも忘れられない。

昼食が終われば再び出発、ますます道は悪く、険しくなり、暑さは暑し喉は渇く。

ある山の頂上で小休止があり、付近には馬の死体があった。

馬の死体の側に見馴れぬ赤い飴玉大の実がなっている木があり、その実を取ってきて皆で食べたが美味しくはなかった。

麓の所に泥水があるというので飲めやせぬかと思い自分は飲めなくても、せめて馬だけでもと思って愛馬の鞍より水嚢を外して取れば、馬は気違いのようになって水嚢に頭を突っ込み「フー、フー」と言って水嚢に水が無いのを知ると、ガッカリして水嚢から頭を上げるので可哀想でならなかった。

それで馬を連れて麓まで行って見れば、水とは名のみ雨水の濁ったのがドボドボしていて、中には支那兵の死体まで浮いている。

馬が、もし飲めばと思ったが、飲みたいのはやまやまらしいが水面を「フー、フー」と匂いを嗅いだのみで飲もうとしない。

馬は汗が出るので水が無ければ苦しかろうと思うけども、どうしようもなく、そのまま行軍する。

負傷兵が五~六人、担架に担がれて来ているのに出会う。

何処に行くのかと聞けば、我々が今朝出発した部落まで行くとのこと、その距離を思うと負傷者には気の毒だった。

我々は第一線との電話線を伝って連隊本部を尋ねて行く途中、道が二つに分かれる場所で電話線が無くなっていたので、どの道を行けば良いのか困り果てた。

衛生中隊がいたので尋ねるが要領を得ない。

しかたなく小隊長は確認のため入部通信下士官を連れて山に登って行く、ふと見ると反対側の中腹に大きな赤壁の家が見える。




自分は水が飲みたくて赤壁の家まで行くことに決めた、ところが後藤上等兵が同行しようと言うので中園上等兵や川上、中島に馬を頼み急ぎ足で行った。

赤壁の家の入り口の所には四十歳くらいの黒い支那服を着た頑丈そうな支那人が出てきたので、さっそく「良水有、没有」と聞けば「没有」の一点張りで、畜生と思い怒鳴りつけた。

支那人は縮こまって「来、来」と言う。

後藤上等兵はまだ来てなかったので一人で後について行く。

土壁の囲いの中に入ってみると、小さな土蔵の棟が幾つもある。

ある小さな棟に入って瓢箪で作った水汲みを持ってきて雨垂れを溜める水瓶が据えてある所へ行くと、底に水が一寸ぐらい溜まっている。

支那人が飲んでみせたので自分は「グイ、グイ」飲んだ、何とも言えぬ旨さであった。

肩を叩く者がいる、ひょいと振り返って見れば後藤上等兵だ「何を飲んでいる」「水だ」と答えれば「そんな水は飲んではいけない、支那人を信用してはいけない。若し毒が入っていたらどうする」と言う。

子供の時から支那人は信用してはいけないと教えられてはいたが水の欲しさに、つい飲んでしまったのだ。

しまったと思って唾を吐いたが追いつかぬ。

心配になってきて水の中をよく見れば、なんたることかボウフラが万といて動いているではないか。

けれど、もはや致し方ない。

そのまま後藤上等兵が棟へと入っていったら金色の大きな仏像が三体並んで立っているお寺で、仏像の下には支那兵の服や、色んな物が転がっている。

たぶん支那兵が二~三日前までいたのだろう、仏像の下を棒であさつていると血の滲んだ日本兵の外套があった。

殺られた戦友の物であろう、思わず目頭が熱くなった。

寺を出て裏に回ってみたら、リンゴがなっていたので二人でいっぱいちぎって服のポケットに詰め込む。寺の入り口の所には軍医で中尉の人がいて、さっきの苦力を捕らえている「この苦力は、お前達が連れてきたのか」「いや、今ここにいた苦力ですが」と答える。

「こ奴はかかる戦場にいるとは怪しい、良民ではないぞ」と言って「すまないがお前達、向かいの所に兵隊がいるから帰りに引き渡してくれ」と言われたので行くことにし、ボーフラの入った水のことを話した。

「毒は入ってはいまい」と言われクレオソードを二粒くれた、二粒飲んだが不安は消えない。

苦力を兵隊に渡し、しばらく行くと向こうの方で渡した苦力が走っているのが見えた、銃声が三連続して山々に木霊する。

銃殺、頭にピーンときた、苦力は草原に倒れて再び起き上がらなかった。

いよいよ戦場だ、戦場では人間の作った法規も道徳も一切関係無いのだ、強い者が戦場を支配する。

戦友がさかんに呼んでいる声がするので走って帰った。

再び行軍、馬を引き這って登るがごとき山道を登り始めた、非常に道は狭く、落ちれば麓まで一気に落ちる。

狭い道の途中で負傷者を運んでいる担架と出会う、全く抜き差しならぬとは、この事であろう。

我々は道が狭いのて、馬を方向転換させ引き返すことが出来ぬ。

衛生兵の人達も、この険悪な道をせっかくやって来たのに気のどくであったが、少し引き返して貰う。

衛生兵達は不承不承引き返してくれたので感謝した。

八つの担架には黒くなった血を軍服に、仮包帯に滲ませて顔色も悪く横たわっている。

野戦病院まで後五~六里も、この重症者達は行かなければならないのかと思うと、気の毒て頭が下がった。

衛生兵達は退がってくれたが、この狭い崖の細道は坂があまりにも急なので、自分の馬の鞍が尻の方へずり落ちて、見るまに尻に鞍がはまって動けなくなったので馬は驚いて暴れだした。

太陽は山の端に落ち、夕暮れで空は赤く染まっている。

夕暮れで皆急いでいて前の者はどんどん先に行き、担架に乗せられた重症者も、この先で待っている。

全く、この時は泣きたいほどだった、しかし泣いてもどうにもならない。

馬が暴れるので気が気でない、一歩誤れば千尋の谷へと転落してゆくのだ。

自分は一生懸命に馬の手綱を片足で踏み押さえて腹帯を解いた。

幸い鞍は取れた、早く鞍を馬の背に乗せようとしたが鞍には装具が乗っているので大変重い、それに馬は一頭だけになったので前の馬の後を追おうとしてもがく。どうにかして鞍を馬の背に乗せ、今度は鞍がづらないよう腹帯を強く締めて後を追った。

ずっと待ってくれていた重症者を乗せた担架も、やっと通ることが出来た。

中隊は頂上で待ってくれていてほっとした。

狭い急な坂を登り終わったら、急に喉の渇きを感じだした。

我々はすでに飢えと、渇きと、疲労でくたくたになっているのだ。

頂上にも担架の一隊が休んでいたので「水は此の下の谷間にありませんか?」と尋ねた。

「此の下には井戸がありますよ」と一人が答えて言う。

此れを聞いて皆、急に元気が出た、「よし下りよう」と立ち上がって馬の手綱を取り、重い足を引き摺って歩き始めた。

東から西へと向かい、向かいの山との間に広い河原があるが、一滴の水も流れていない。

また、その向かいの山の麓には灰白色の支那人の家が四~五十軒ある、屋根まで土の家だ。

周囲の山はどの山も禿げ山で一本も木が生えてない。

その部落の周囲には僅かに緑の柳の木がある、その僅かの木を見たときに水はたぶん有るだろうと思った。

此れだけの家があるからは水は絶対必要なのだ、必ず水は有ると思った。

今までとは反対に急な下り坂を降りる途中で、また担架の一隊と出会って困った。

中腹の所まで下りた時、岩から時たま水滴が落ちている、その一滴を舐めてみたが、一滴ではどうしょうもなく諦めた。

次第に足元は暗くなってゆく、麓に着いたときは日は落ちてしまっていた。

四~五名の兵隊に会ったので井戸のことを尋ねたら「そんなものは此の近所にない」と聞いた時には本当にがっかりして、全身から力がぬけてしまった。

山を下り終わって河原にでた、機関銃、小銃の音は四方から聞こえるが、何処に敵がいるか、味方がいるのか解らない。

辺りは真っ暗になってきたので全員、乗馬して河原を上の方へと進んだ。

ところが戦友の川上が夜間は目が見えなくなったとのことで困った、自分は一案を考えて自分の背に白い旗をつけて、自分の後ろを歩かせた。

行けども行けども、ただの河原で猫の一匹も出てきそうにない、だんだんと不安になってきた。

小隊長も少し心配し始めた、馬に乗っていても、馬にも1日ろくに水を飲ませてないのを思うと、馬が可哀想でならなかった。

幸いに十名ばかりの歩兵に会ったので尋ねたら「此処から千メートル行った所に部落ががあり、そこに歩兵の大隊本部がいる」とのことで「我々が探しているのは山砲の連隊本部である」と尋ねたら「知らない」とのこと。

歩兵と別れて、再び我々は敵が何処にいるのか解らない殺気を含んだ暗闇の中を前進した。

半道ほど行った頃、遊軍の歩硝から質問を受ける「山砲からの連絡だ」

と小隊長が答えた。

小隊長は馬上から歩硝に状況をきいていた「この先が部落への入り口」とのことで、我々は部落の中へと入って行った。

夜目でよく解らないが、どの家も頑丈な土壁の塀を以て囲んである。

土壁の屏のなかには土ばかりで作った小さな家がある。両側が土壁になっている道を曲がって十字路の所に出た。

此処でひとまず水のありかを尋ねることにして、馬の水を汲んでくることにしたが、全く知らない土地で我々は水が何処にあるか知らない。井戸はないとのことで尋ね尋ねて部落の外れまでゆくと溜池がある、懐中電灯でよく見ると黒ずんだ泥水だ、水の表面には油を水に浮かしたようなキラキラひかるやつが浮いている。

溜め池には多くの兵隊が水を汲みに来ている、歩兵は濾過器を使って綺麗な水にしていた。

水の出が少ないので二十人くらい列をなして待っている、自分は夜道では日は暮れないと思ってその列の最後について待った。

戦友の中島は待ちきれずに濁水に口をつけ「ぐうぐう」と飲んでいるではないか、慌てて止めたが聞く耳を持たず「ぐうぐう」と飲んで飲み終わって「待てるもんか」と満足そうにすましている。

自分は順番を待つけど容易に順番はこない、小隊長を長く待たしては申し訳ないと思ったので水嚢に水を汲んで飲まずに帰った。

今日昼間のボウフラ水の一件があったので濁水は飲む気になれず、つくづく思ったのは内地の綺麗に透き通った清水を飲みたくてならなかった。

馬に水を飲ませれば、いくらでも飲むので疲れきった体で何度も往復をした。

この部落は夕刻通ったばかりで銃声がしていたが、溜め池の上の方には敵がいるとのことで、池に行く道は歩兵が堅固な土塁を築き、機関銃を据えて物々しく警戒している。

水飼の水を両手に一杯持って警戒陣地を通るのは一苦労だったが、やっとのことで水飼は終わった。

だが餌がないので腹をすかした馬はじっとしていない。

支那の家屋には馬の繋ぎ場所がないので馬の手綱を持っていると昼の疲れが一気にでて睡魔が襲ってくる、何時かふらりとした時に手綱が手をはなれて、馬が噛みついたり蹴ったりしていて油断ができない。

歩兵は今夜半、夜襲をするとのことで忙しく準備していて此処、其処で飯盒で炊飯している。

歩兵が炊飯している所に水があると聞いたので、戦友と交代で馬を持ち合って炊飯に行った。

歩兵は夜襲準備のために水筒に水を補充している、濾過した水を大きな釜で沸かしている。

自分も順番を待って水筒に水を詰めて持ち帰り皆と一緒に飲んだ、その水の味は甘露そのものだった。

我々は前方に敵がいて前進不能とのこと、明日には大隊本部が此処に来ると解り、夜の明けるのを待つことにした。

午前二時頃、通信下士が連絡に出て帰って来ないので向かえに行けとの命令で、戦友の中島と探しに行ったが見つからず、虚しく帰って来た時には東の空が白み始めていた。

眠いが我々は先ず馬を飼わなければならない。

部落を出ると、青々とした広い玉蜀黍畑がある、これはしめたと思い腰の銃剣で玉蜀黍を切って持ち帰り馬に与えた。

玉蜀黍には実がついていたので、食糧を持たない我々は実を焼いて食べた、これが朝食だ。

夏の夜は明けやすい、六時頃に連隊副官が来たので早速出発する。

広い河原を横切って昨日通った山の方向へと進む。

急坂だ、細道を馬から下りて登りはじめた。

皆はたいした荷物は無いが自分は重たい砲隊鏡を背負っているので、今朝食べた玉蜀黍では余り力がついてなくて一苦労だ。

観測斑は約七百メートルくらいの山頂に着いた。

砲車は山の中腹に砲列を敷いている、眼下には昨夜宿泊した部落が見える。

向かいの山は僅かに緑をとどめている、その山の中腹には眼鏡で見ると小さな姿が動めいている。

一斉に我が中隊は初陣の砲弾を敵に向かって砲撃する。

「シュル、シュル、シュル」と砲

弾が唸りをあげて飛んでゆき、敵陣で爆発し真っ黒い土煙が打ち上がる。

敵兵が慌てて走り、逃げているのが眼鏡から手に取るように見える、続けて数十発を撃った。

ところが何処から来たのか「ヒュル、ヒュル、ヒュル」と音をたてて我が軍の砲車の後方に敵砲弾が二発落ちた。

戦闘は初めての経験で自分の側に落ちたのでなくとも気持ちの良いものでない。

敵の砲兵を血眼で探したが見つからず、砲車らしいのが見つかったので中隊長に報告をした。

その方向を皆が一斉に見たが、敵らしき砲車はいっこうに発射せず、動かないので中隊長は「おかしい」と言い出した。

よく見れば砲車ではなく岩だったので、全く自分の面目まるつぶれで申し訳なかった、私の初陣での初失敗だった。

中隊の砲手以外の者は頂上の観測斑のところに燕が電線に止まった様に並んで腰を下ろして見ていたので恥ずかしかった。

正午頃に我が中隊の歩兵が山の右側面を攻撃したので、敵は一つ向こうの山に退却したらしく敵の姿は認められない。

今朝、連隊副官の宮地少佐が来たが

面白いことを言い出した「今朝、屁をしたら身が出て、今までビチャビチャで気持ちが悪くてならなかったが漸く乾いた」と言ったので、皆苦笑せざるをえなかつた、

綺麗な水があれば、当然綺麗な水を飲むが無いので数日来、泥水ばかり飲んでいるので、皆ひどい下痢になっている、誰も経験していることなのだ。

泥水は飲めないと言っていれば命を失うことになる、泥水なんか飲みたくはないけれど、生きるために仕方なしに飲んでるのだ。

昼食は残りの乾麺包を食べたが、水がなくて食えない。

中腹で歩兵が濾水をしていると聞いたので、下りて行ってみると泥水を

濾水していたので、久しぶりに綺麗な水を腹一杯飲み、水筒にも満たして帰る。

午後から陣地を撤収して下山し、我々挺身斑は中隊長に連れられて中隊より先行する。

昨夜、一夜の宿を取った部落を右に見ながら山の中を行く。

途中で幾組もの負傷兵を運ぶ担架に出会う。

その中には胸部貫通とみえて胸を開いた軍服は黒くなった血が滲み、白い包帯も真っ赤になってしまっている。

顔には手拭いが覆ってあるが、そこから覗く顔の部分に置いた手も真っ赤になっていて、顔色は血の気をうせているが微かに呼吸している、肩の中尉の肩章が痛々しかった。

我々、挺身斑はある畑の所に馬を繋ぎ再び急な山を登り始めたが足が重くて足が上がらない。朝は玉蜀黍で昼食らしきものを食べてないので体のきついこと話しにならない。

まるで千斤の重みを足につけたようで、這うようして山頂に着いて中隊の陣地を決めた。

山が急傾斜で山砲を分解搬送するのも困難なので、近くにいた連隊本部に行って鶴嘴を借りて急な坂に道を作る。

振り上げる鶴嘴の重いこと重いこと、

夕方までに苦心してやっと道が出来上がった。

体はヘトヘトになり、暫し腰を下ろして登ってきた山を眺めていると下の方から籠に湯気のたっている親指大の馬鈴薯を持ってきて、幕舎の中にいる連隊長の所に入っていった。

その時は馬鈴薯が珍味に見えて、涎が出てしまった。

次第に辺りは暗くなってきたので我々は下山し馬に乗って帰るが、途中で日がくれてしまった。

我が中隊は何処にいるのであろうかと探し回っていたら河原に露営しているのが解り、中隊と合流する。

近所には玉蜀黍が多くあるとのことなので、重い足で馬を引っ張って行き玉蜀黍を馬に与える。

我々は火を焚いて実を焼いて食べた、

旨いが玉蜀黍ばかり食えるものではない。

朝と晩は玉蜀黍、昼は乾麺包、ろくな食事もしてなくて、きつい行軍で身体が少し馬鹿になったような疲労を感じる。

平坦な場所に馬の毛布を敷いて、横になり夜空を眺めれば、星は金砂の如く瞬いている、徴発した驢馬が悲しげな声で「キュ、キュ、キュ」と啼いている。

嫌な啼き声だが昼の疲れで、いつの間にか深い眠りに落ちた。

ふと周囲の声で目覚めれば、馬が放馬したとのことである。

何しろ石河原で馬を繋ぐことが出来ないため、鞍を並べて馬を繋いだのが原因で放馬してしまったのだ。

眠たい上に、重い足取りで馬を捜し出して繋ぐが、一頭だけ入部上等兵の馬がいないので再度、皆で捜すが見つからず我々は疲れて動けぬので、早朝から捜すことにする。

眠さと疲れで、そのまま星を仰いで眠る。

眠いけど早朝から起きて馬捜しをし出発準備をする。

入部上等兵の馬は見つからない、今朝も玉蜀黍を食う、腹の下痢は良くなりそうにない。

昨日準備した山頂の陣地に至る、しかし砲隊鏡で捜すけれど敵影は見えず、次第に霧がかかり遠くは見えなくなる。

敵の迫撃砲弾が二~三発、大分離れた所に落ちたが被害はなし。

此処は山頂で食なく、水なく、タバコも無しである。

戦友の中島が二~三日タバコを吸ってなくて言うには「人がタバコを吸っているのを見ると、打ち殺してでもタバコを取り上げて吸いたい」と悲鳴をあげていた。

昼になっても昼飯は無しだ。

誰か持っていた乾麺包を皆で分けて食べたが、飯らしい物を食べてないので舌が割れていて咽を通らない。

乾麺包は間食にでも食べる時は良いが、続けて飯がわりに食べれば舌が荒れてとうてい食べれるものでない。

折から霧雨が降り始めたので、我々は持っている携帯天幕を拡げて霧雨を受けた。

じっと暫らく待っていたが、なかなか溜まるものでない。

半時間程たったら露ほどの大きさの水滴が点々と溜まってくる。

それを掬って集めるとだいぶ集まる、サイダー瓶一本分ぐらい集まったので、皆で盃一杯づつくらい飲んで渇きをしのぐ、哀れな話だ。

誰であったか、最後の一本のタバコだと言ってタバコを出した者がいた。

一本のタバコを鉛筆で十等分に区切って十人が一区切りづつ吸っていて、皆は美味しそうにタバコを吸っていた。

それを見た中隊長が「もう誰もタバコは無くなってきたね、俺の最後のを出してやろう」と言ってケースに入っていたタバコを十本ばかり出して皆に一本づつ配った。

皆の喜びようは表現出来ない、一服吸ってはタバコを眺め、一服吸ってはタバコを眺めて「此れから先は何時吸えるか解らぬぞ」と言っては、うまそうにタバコを吸っていた。

午後には霧が時おり晴れる、晴れ間に敵を捜せど敵は見えず。

遥か後方の山の頂きにはギザギザになった万里の長城の一端が見えるではないか、万里の長城の近くに来たと、何とも言えぬ喜びが胸に込み上げてきた。

通訳の話しでは「長城の向こうには井戸がある」とのことだ。

長城を越えたら水が飲める、そんな喜びもあったろう、秦の始皇帝が築いた歴史に名高い万里の長城が見えるという喜びは大きかった。

自分は皆に砲隊鏡を覗かせて万里の長城を見せた「あれが万里の長城か」と感慨深く皆はみていた。

夕暮れが迫る頃「挺身斑は先行せよ」と前進命令を受け、我々は急な坂を下り麓に着けば辺りは白河原だ、次第に暮れゆく中を馬を走らす。

もうこの時は入部上等兵は自分の乗馬が他の中隊と一緒にいるのを見つけ、返して貰っていたので一緒に馬を走らせた。七騎の馬は今日の戦闘で斃れた敵の死体が散らばっている暮れゆく河原を白砂を蹴立てて走った。

歩兵と連絡を取るため山麓にある城壁に囲まれた部落に行った。

此処を占領した歩兵部隊本部を尋ねてまわるが、勝手解らぬ部落ゆえ捜しだせない。

歩兵は今夜、夜襲に行くとのことで

民家の中で三々五々に炊飯をしている、慌ただしい戦場風景だ。

回り回って大きな城門の所に来た。

数十尺の煉瓦の城壁には月光がさしていて、城壁の赤煉瓦に月光が明暗を映している。

城壁には高い楼門があり、その屋根は破れている。

そこから月光が映画の光線みたいに

楼門の中に流れ込んでいて、楼門の影は城壁に斜に落ちている。

煌々たる月が東の山の端から顔を出したのだ。

この光景には恍惚とした感じになった、全くの詩だ。

私に文筆の才能があったなら「月下の古城」とでも言うような詩でも書いたであろう。

城壁を出た所に池があって、水面には煌々たる金色の月を映している。

我々の馬は今日は水らしきものを飲ませてないので、すぐに水嚢を取り出して全部の馬の水飼をした。

黒みがかった泥水を馬は「ぐう、ぐう」と一息に飲みほしてゆく

「愛する馬よ、元気でいてくれよ」と皆もそう祈って水を飲ませたであろう。

聞けば今夜の夜襲のために歩兵の大隊本部は早く出発したとのことだったので再びもとの道に戻って前進した。

しばらく行くと兵隊がいっぱい寝ていた、夜襲の為に集結中なのだ。

僅かの暇に或る者は火を焚き炊飯し、或る者は何処からか玉蜀黍を取ってきて焼いて戦闘の腹ごしらえをしている。

大隊本部はすぐ知れて連絡はとれた。

今夜、夜襲に行くならば我々は飯など炊くことは出来ないと思ったので

他の者は玉蜀黍を取りに、が自分と戦友の中島は大至急炊飯することにした。

幸いにして遠からぬ所に池を見つけたので飯盒に米を定量入れて残り火

にかけ、それから皆の水筒を持って行き、池の水で水筒を満たした。

明日は水の有るところに出会えるか知れたものじゃない、泥水でも持ったにこしたことはないのだ。

泥水が飲めないと言っていれば命の方がさきに無くなってしまう。

十五分と経たないうちに炊飯できたので食って、残りの熱い飯を鞍嚢の中に全て入れて出発を待つことにした。

馬には玉蜀黍を食べさせ、馬の手綱を足に結わえて、そのまま土の上に横になった。

戦闘と言うものは万事敏捷に行動しなくては、事に間に合わないのだ。

身体は疲労していたが米を炊いて食った。

しかし、米は持ってなかったので、その米はどうしたのか記憶にはないが、たぶん連隊本部より少し貰ったのだろう。

微睡む暇もなく出発。

荒れ果てた白河原の道らしき道もない月下の山岳地帯を前へ前へと前進した。

十一時頃まで行軍して、そのまま露営となる。

我が中隊は部隊の後尾を来ていたので、先行していた我々挺身斑は中隊に戻った。

我々、観測小隊は馬糧など持たぬので玉蜀黍畑の中に馬を全部繋いで玉蜀黍を刈り集めて与えた。

「馬は便利に出来ているな」と誰かが言ったので苦笑した。

馬の飼付け後は馬から蹴られる心配の無い所で鞍を枕にそのまま寝た。

故郷では家の中で暖かい布団を着て寝ているだろうなと、ちらりと頭に浮かんだが何時のまにか深い眠りに落ちた。

目覚めれば四時まだ暗い、皆は飯盒で飯を炊いたり、鞍を置いたりして準備を始めている。

我々も慌てて準備する、夏の夜は明けやすく辺りは明るくなっていて六時に出発する。

途中でリンゴがなっていたので千切って食べた。

山間の道を何ら敵の抵抗もなく部隊は前進する。

右翼方面から砲声か聞こえてくるが、我々はひたすら前進した。

今までの土は赤土ばかりであったが、この辺の山の土は真っ黒な腐植土である「国の山の土に似ているな」と誰か言っていた。

登り坂を登ったら眼前に秦の始皇帝が匈奴の侵入を防ぐために造ったという史上に名高い万里の長城が

右の向かいの向かいの山から、うねうねと頂きから頂きへと連なって、また左の向かいの向かいの山に続いている。

木も無い山の中の高い頂きに煉瓦造りで、しかも幾千里の長きにわたると聞き、此れが二千数百年前に築かれたかと思うと、全くの驚異で目を見張った。

たった今、占領したという城壁には日章旗が翻っている。

小休止があったので馬から下りて、背負っていた砲隊鏡を出して砲声が聞こえていた右翼隊の戦闘を見ると盛んに城壁に砲弾を打ち込んでいる。

城壁にパッと黒煙が上がり、暫くしてから音が聞こえてくる。

支那兵が城壁上をチラチラ動いていて、山の斜面には友軍が日章旗を置いて伏せている。

我々は再び出発し大きな城門を通ったが、その大きさと堅牢さには驚いた。

高さは十四~五メートルはあり大きな煉瓦で築かれている。

門も直線ではなく曲線になっている

ので馬に乗って通れる、そしてその門には扉がある。

この山の頂きの城壁には昔は番人がいたであろう。

城壁には二~三百メートル毎に望楼があり非常に芸術的にできている。

一つの望楼は丸く、その窓も丸い。

向かいの望楼は四角で、窓は三角。

そのむかいの望楼は五~六角形て、窓は楕円形の窓が設けてあるといった具合に各々が異なっていて二千年前の支那文化なのだろう。

目指した万里の長城を一気に越して下る、再び荒れ果てた山の中だ。

皆は相当疲労していて倒れる者も出てきたので、疲れた者を馬に乗せて

私は歩いた。

何処を見ても山また山、こんな山の中から何時平野に出れるのかなと思った。

途中にリンゴ畑があり、一杯なっていたので遠くまで走っていって取ってきた。

午後二時頃、小さな部落に着いたが、昼飯も食べずに行軍したのでヘト、ヘトになる。

此処で大休止をしたので皆は玉蜀黍で腹ごしらえをした。

民家に水を捜しに行って、此の地方のお金を見つけて来た者がいた。

銅製の四角な物で、とても珍しく大小により一両とか十両とか書いてあった。

此の時点で我々は食糧が全く無くなってしまい、連隊命令で食糧は現地調達とのことだったが、畑にあるのは生育途中の高粱ばかりで食糧にはならず、馬鈴薯などは滅多に無く「困った事になったぞ」と皆は顔を見合わせる。

部落には泥水の池があったので、皆は腹にも水筒にも充分補充した。

此処からは部隊は旅団で行軍することになる。我々は前衛砲兵として大隊に配属され行軍序列に入る。

昨日と変わらず今日も白河原の行軍だ。

両側は高粱畑になっている、一里行った頃に銃声が聞こえた「挺身斑、前へ」の逓伝で馬を走らせ中隊に先行して行く。

伝令が白河原の右の土手の所で待ってくれていた、私は下馬して河原から右に溝を伝って行く。

唯一の通路である此の溝は兵隊でいっぱいだ、歩兵は溝の土手を登り、どんどん散兵して各個前進を開始している。

頭上を敵弾が「ピュー、ピュー、ピュー」と掠めてゆく。

歩兵は重機関銃を土手に上げて射ちだした「ダ、ダ、ダ、ダ」と物凄い音である。

顔を上げて見れば土壁に囲まれた部落の家の土壁に土煙りを上げて

着弾している。

敵は土壁から銃先を出して盛んに射っている、敵との距離は百メートルを余り越えない程度だ。

歩兵の一個中隊が攻撃した後は待機となったので、我々は馬の手綱を握ったまま溝の中で疲れのため敵弾の通る音や、 傍らの重機関銃の音を聞きつつ微かに眠ってしまった、溝の中では疲れて多数の兵士が眠っている。

今までは敵前で眠るということは非常に大胆な者のすることと思っていたが、疲れていれば誰でも眠れることが解った。

夕暮れも近まった頃、敵がいた部落は占領され、一名の捕虜を捕まえてきていた。正規兵の服を着ていて年の頃は二十歳を少し過ぎてまもない若者であろう、旅団長のもとに連れてゆかれ通訳によって尋問されていて、捕虜はさかんに涙を流して命乞いをしている。

後で捕虜を足で蹴ったり、銃で打っているのを見て、我々は弾は尽き如何に傷ついても、銃剣一本になっても最後まで戦って死なねばならぬと「死すとも捕虜にはなるまい」と誰もが言いあっていた。

日が暮れて我々は白河原に戻り露営した。

水は一滴も無いので馬には玉蜀黍を与えて、我々は歌の文句の如く疲れていたので背嚢を枕に星を仰いで前後不覚に眠ってしまった。

夜は二時から三時まで馬繋場の当番を命じられて、任務が終われば微睡む暇もなく出発だ。

時は午前四時で辺りは真っ暗だ、暗闇の中を手探りで馬に鞍を置き、身体に装具を付け、馬には玉蜀黍を食べさせ、我々はその実を若干食べて出発する。

万里の長城の夜はほのぼのと明けてきて、昨日占領した部落に着き、我々は此処で旅団行軍に入るため待機していた。

其処には泥水の池があったので人も、馬も泥水を腹にも水筒にも一杯に満たした。

ところが一等兵が洗面器になみなみと綺麗な水を持ってきて台の上に置いた。

その水を見た者は「飲みたいな」と誰もが思ったに違いない。

ところが少尉殿が出てきて顔を洗ったときは皆が驚きの目を見張った、

数日来、我々は顔など洗ったことは

無いのだ。

顔を洗った後の水でも飲みたかったが、次々と他の者が顔を洗っていた。

この光景を見て苦笑してしまった。

旅団行軍で出発、行軍途中には青い葡萄があった、酸っぱいのを皆は珍しがって顔をしかめて食べている。

遠望に小さな森がいっぱいある大きな盆地が見えだした、暫く山の中の行軍が続いていたので、平野が見えると皆喜んでいた。

敵の存在を確認するため我々が先行観測をすれば我々から三~四キロメートルの距離の平野の中に陣地を構築中の敵兵を発見。

中隊が到着しだい砲撃し、敵が逃げたので再び前進し平野へと向かう。

このまま前進すれば中隊長の話では

「近くにある鉄道に出れる」そうだ、此の山の中に鉄道があるのだろうかと不思議に思えた。

平野には所々に葡萄畑があり、熟しきれない青い房が下がっている、此の地方はあまり高粱畑は見えず、大豆畑が遥か向こうまで続いている。

旅団は長い長い行軍隊列で畑の中で大休止をした。

我々は昨夕、乾麺包の補充を一個づつ受けていたので、それを出して食べたが舌が荒れていて食べられない。

馬は畑の大豆を気違いみたいに食い荒らしている。

自分は馬の自由に任せて手綱を離し、暫し休まんと中島と並んで大豆畑の中で寝転んだ。

青空から焼けつくような太陽の光線が大豆の葉の間から差し込んでくる。

疲労でぐったりとなり目をつぶっていると「敵襲」の声でガバッと跳ね起きてみたが、何が起こったか見当がつかず「機関銃、前へ」と誰かが叫んでいる。

大変だと思ったので中島と二人で敵襲の中、一緒に飛び出して悠々と大豆の葉を食べている私の馬と小隊長の馬を引っ張ってきた。

皆が指差す方向を見れば我々の行軍している方向の右側方に大豆畑を貫いている白い道路がある。

その道路を支那馬に乗った七~八騎の支那騎兵が、こちらに向かって白埃を蹴立てて走って来るではないか。

僅か七~八騎をもって此の大部隊に向かって襲ってくるのか。

多分我々を支那兵と思って連絡に来てたのだろう。

機関銃手は昼飯を食っていたが慌てて機関銃を取り銃弾を装填し、照準を合わせて引き金を引く。

銃からは「ダ、ダ、タ、ダ」と弾を発する音がし白煙が火と共に出る、銃手の背は弾の出る度に反動で揺れている。

支那騎兵の騎手は馬を反転させようとして焦っている、我々の長い隊列の兵隊が敵に気づいて一斉に射ち出した。

銃弾は雨の飛沫の如く支那騎兵の周囲落ちている、一騎がバタリと馬上から落ちた。

残りはようやく反転して、再び白埃を蹴立てて逃げて行く。

騎手を失なった馬は銃弾に驚き行くべき方向を失なって、我等の方向に走ってきたが、手中に入ったと思った敵の馬は天晴れにも逃げてしまった。

我々は再び出発、相変わらずの炎天下の中を行軍し始めたら尖兵より報告がきて「前方の部落に敵がいます」と、行軍は停止し観察班は小高い場所から敵情観察をする。

我々の急襲を知った敵は部落の先端の入り口の所を出たり、入ったりしているのが眼鏡で見える。

右に左に三十名、五十名と移動するのが見える、服装は真っ黒で笠まで背負っている。

我が山砲は砲列を敷き終わった、中隊長の号令は下され砲弾は唸りを立てて敵陣を爆破する。

歩兵は敵陣に向かって前進し、歩兵が部落に突入するや、我々挺身斑は中隊長と共に直ちに乗馬して出発し、大豆畑の中を馬を走らせる。

途中で気付いてみれば鞍尾に着けてある外套、天幕、膝覆が落ちている、しまったと思ったがどうしようもない、中隊長にその旨を言って一目散に引き返した。

遠からずして見つかったので降りて急いで装着し、再び馬上に跨がり、馬の足跡を唯一の頼りとして中隊長の後を追った。

我々は演習の時、装具の「堅確」と言うことを非常にやかましく言われていたが、この時ほど「なるほど」と痛切に感じたことはない。

大豆畑からリンゴ畑に入り、大きな柳の垣根にぶち当たってしまって出られない、再び垣根を伝って回ってみたが出られない。

諦めて来た道を引き返した。

其処、此処に藍色の支那軍服に血を滲ませて支那兵が多数死んでいる。

辺りは寂として人影も無く妖気が漂っていそうだ。

今まで敵が居た所なのだ何時、何処からか潜んでいる敵が襲ってくるとも限らないのだ、寸分の隙があってはならない、目と耳に全神経を集中して如何にすべきか考えた。

また柳の林の中に入り込んで見渡しがきかぬので迷った。

ところが向かいの木陰から出てきた者がいる、新聞記者だと一目見て解った。

相手もほっとした様子だったが、私もほっとした。

先ず私が尋ねた「先刻、此の近所を五~六騎の乗馬が通らなかったでしょうか」「全く知らないんです、何しろ歩兵の一線の後をついてきていたら、はぐれてしまって道に迷っているんですが」との答え。

私も今、同僚を見失って困っている旨を話し、一緒に友軍を捜すことにしたが耳をすませど柳の木の青葉に鳴るそよ風の音のみきこえる。

お互い、たいした武器は無いけれど二人でいることは心強く思った。

これと思しき方向に話しつつ歩きだした、リンゴ畑に出たのでリンゴを馬上で取って食べ鞍嚢の中にも五~六個放り込んでおいた。

少し歩いて行っては耳をすまし、耳をすましては歩いていった。

私は記者に同情して「かかる所まで来て随分と困ることも多いいでしょう。第一食料も無く、水も無く、道も無い山の中に一人で来て」と言ったら「本社からは万里の長城戦に入るのは命じてはこなかったが、ついて来たら引き返しがつかずに、とうとう此処まで来てしまったのですよ」と笑って言った。耳をすますと遠くの方から人声らしい声が聞こえてくる、しめたと思った。

声を頼りに二人で進んだ、次第に声は大きくなってくる、人影も見えてきた。

見れば私の中隊の戦砲分隊だ、二人一緒で部落に入り、通り抜けて部落の先端の土手の所に中隊長がいて、私が来るのを待っておられた。

私は馬から飛び降りるなり、近くの木に馬を繋いで遅れた旨を説明してから砲隊鏡を据え敵情を探索する、前方は広々とした畑だが、千五百メートルばかりの前方には大きな城壁が木々の上に聳えている。

よく見れば城壁の上から、此方にチエッコ(機関銃)で盛んに射っている。

友軍歩兵は、どんどん畑の中を伏しては走り、走っては伏して前進している。

観測結果を中隊長に伝え、すぐに中隊長の号令で砲撃を開始する。

砲弾は一発一発が敵陣に命中し、炸裂する、願ってもない光景だ。

旅団長閣下と連隊長も私の側に来ておられ、敵情報告を聞いて眼鏡を手にして見ておられた。

敵の小銃弾が「ヒューン、ヒューン、ヒューン」と飛んで来る、飛んで来る、なにしろ敵に暴露して砲列を敷いているので。

気が付いて後ろを見たら先刻一緒に迷子になっていた新聞記者が十六ミリの映写機をこちらに向けて撮影している。

敵弾下で前線とも通信手によって電話が引かれ連絡は取れてきた。

前線からの要求により城壁の中央にある楼門や、左端の機関銃、その右にいる城壁上の敵を砲撃する。

「ヒュル、ヒュル、ヒュル」と頭上を唸りを立てて通る砲弾がある、砲列の後方に「ドカン」と敵の迫撃砲弾が落ちた、続けて五~六発落ちてきた。

城壁のずっと右に敵の密集部隊か移動するのが眼鏡で見えた、直ちに砲撃。

敵は血迷ったのか、此方に向かって進んで来ていたが砲撃にあった大部分の敵兵は高粱畑の中に姿を消してゆく。

暫くしてから再び五~六名の敵兵が、

此方に向かって悠々と来ている。

私は前にいる歩兵に敵兵を指差して教えたが肉眼では容易に見つからぬらしい。

敵兵が此方に向かって来ているので面白半分で皆で騒ぎだした、此の光景を見て連隊長も笑われていた。

こちらから四~五名が敵に向かって射ちだした、土煙を上げて敵兵の周囲に銃弾が落ちている、敵は驚いて立ち止まったが一~二名の敵が倒れた。

我々を友軍と思っていたらしい、慌てて走って引き返しだした、倒れた敵兵は畑を這って逃げ始めたので、

こちらに向かって来ていた敵兵を射つのは止めた。

夕暮れ時になり真っ赤に焼けた太陽が、今まさに山に沈まんとしている。

銃声は一層激しさを増し、前線には

迫撃砲弾が何発も炸裂している。

戦友の川上は前線の大隊本部に連絡に行っているが、無事であれと一心に祈る。

観測兵として第一線の戦闘を見ているが、前線勇士に対して一兵も傷つかぬようにと祈ってやまない、戦闘に於ては誰しもそう思う、部隊長などは一層兵士の無事を願うであろう。

夜はそのまま徹することになり、戦友も無事に帰ってきた。

戦友からは敵弾下での電話線架設の有り様を物語って聞かされた。

夜には少量の米の配給があったので炊飯するため部落に井戸を探してまわった。

此の部落にある唯一の井戸にはいっぱいの人が並んでいて、帰り道が解らぬほど井戸は遠かった。

高粱の殻など集め敵に見つからないよう炊飯した。

その夜は一睡したかと思ったら起こされた。

理由は砲列の近くに高い木が二本あるから、明けたらその木の上で観測せよとのことである。

木の上に登って観測出来るよう準備にかかったが容易なことではない。

明け方までに漸く準備は終った。

ところが前方の敵陣地である楡林堡が陥落したので前進せよとのことである。

夜を徹して準備したことは全く、くたびれ儲けとなってしまった。

我々、挺身D斑は直ちに六騎で先行出発した。

途中、高粱畑の中で道に迷ったが楡林堡城壁に出た。連隊本部との連絡も取れたので、城壁上の右突端に観測地点を設ける。

やがて砲車も来て砲撃準備は出来たが、肝心の敵が現れて来ないのである。

夏の暑い太陽の下で、山から谷から敵を見逃すまいと捜索していると耳を掠めて「ビュー」と弾丸が二~三発通った、城壁の下では「敵襲」と言って銃撃している。

見れば二~三百メートル先の所に敵が四~五名現れて観測手を狙撃したのだ。

高粱畑の中に隠れた敵を機関銃で掃射したら姿は見えなくなった。

城壁下の家には支那兵が残していった食糧があり、南京米は嬉しかった。

珍しいことに黒砂糖もあったが、これら以外は何も無かった。

有るだけの材料で昼飯を炊くことにした、幸いに豚が多くいたので一頭を屠殺して、ありあわせの南瓜と一緒に煮たが塩が無いので南瓜と豚の砂糖煮である、南京米も炊飯したが、いずれも食べられない。

南瓜と豚の砂糖煮の方は甘いばかりで、南京米の方は異常な臭気があって、いくら腹が減っていても咽を通るものではない。

そのまま陣地で夜を徹す。

明けて出征から約二週間後の八月二十八日、楡林堡を出発、炎天下の中を行軍したが敵には会えず。

道は広くて大きい、道の両側は高粱、粟、馬鈴薯、大豆畑があり、そのずっと先には禿げた山々が連なって聳えている。

人の住んでる木陰のある部落を幾つか通って小休止、小休止には馬から降りて草むらに寝た。

寝ていると山川中尉の軍服の股が破れているのが見えたので、出征の時に袋に入れて持っていた針と糸を出して自分が縫ってあげたが、人が着ている服を縫うのは容易なことではない。

途中からは山川中尉が自身でぬ縫われた。

山川中尉とは応召の日、自分が迎えに行ったので、知りあって以来よく話をしていた。

よく働き、よく語る呑気な人である、股の破れは簡単に縫合しただけだった。

「出発用意」と伝令が来る、これを聞くとドキリとする、何故なら馬に機材を乗せ、自分も背嚢を背負わねばならず、再び死ぬほど歩いて行軍をしなければならないからである、我々は再び炎天下の行軍となる。

行軍途中に馬鈴薯畑を見つける、さっそく掘って次の食糧にする予定だが、掘っても親指大の物では食糧として多くは望めない、それに日照り続きで土は固くて行軍中に手で掘るのは容易ではない。

なかなか戦争も思わざるところにも苦労があるものだ。

十一時頃、我々は相変わらず炎天下の畑の中を行軍中に飛行機が飛んで来た。

五色の布の付いた通信筒が落下され、再び低空飛行してきて白帯の付いた箱を投下し出した。

我々は嬉しさ一心で旗を手にして旗を振り回す、肉眼で飛行機の窓から人が箱を投下しているのがよく見え、高粱畑に箱が落ちてくる。

一丈余りに伸びている高粱畑の中を捜したが、高粱の背が高くて箱が隠れた状態なので全部は見つからなかった。

自分も一箱見つけたが中には乾麺包が十個はいっていた。

通信筒には、これから攻撃する情報が入っていた「敵城は非常に強固な陣地を構築してあるも敵影を見ず」とのことである。

大休止の時、途中で取った馬鈴薯を水炊きにして食べるが味が無くて食べられたものではない。

再び出発、行軍途中の道々には堅固な陣地が構築してあった。

午後四時頃だったと思う、血を見ずして目的の敵城に入城する。

城の中の町は小さな家々で全戸の戸は閉められて、戸には色々と文句が書いてあり、赤や藍色の支那特有の風習である紙が貼ってある。

この紙は毎年の正月に福の神が家に入るようにとの縁起物である。

ずっと町の奥のほうに入って行くと十字路付近に汚い着物を着た支那人が急作りの日の丸の旗を振っていた。

籠の中には小さなリンゴが一杯あり、我々一人一人に渡していたが農民といえども、我々は彼らにとっては敵であるから、如何なる悪意があるかも知れぬので「絶対に食べることを禁ず」と命令されているので誰もリンゴを受け取らなかった。

ある師範学校の校庭に馬繋場を設けて馬を繋ぎ、久しぶりに水を汲んで来て馬体を洗うなど馬の手入れをし、我々も中隊長の訓辞を受けてから空き家になってる支那民家に入った。

中隊長からは「数日来の戦闘で人馬とも疲労の極に達し、特に馬のごときは乗馬の五~六頭を除けば鞍傷して肉が出ている状況であるから此処に約十日間ばかり休養するよぅに連隊命令が出たから人も馬も休養し、特に生きた兵器である馬の傷の全治に全力を注ぎ次期戦闘の準備をせよ」とのことであったので、ここ数日で見違えるほど日焼けして黒くなって、頬が落ちている顔を見合わせて皆が喜んだ。

そのつもりで宿舎も準備した、我々の宿舎は師範学校の敷地の隅にある割合大きな家で綺麗である。

大きな土間には寝台など作り、10日間の宿舎で気持ち良く過ごせるように出来上がった。

庭に出てみると主なき家には、戦争など知らず美しく鶏頭の花、百日草、しばくれの花が咲いている。

無心の花は語らなくても我々の心を慰めてくれた。

花を久しぶりに見た、今こんな花が祖国の庭にも咲いているのだろうと田舎のことが思い出される。

悠然とした気持ちになって過ごしている時、中隊の伝令である石田一等兵が来て「今より一時間後に出発準備を全うすべし」と、これには誰も面食らった、面食らった。

予想し難きは戦場である、明日は多分こうなるだろうなと思っていても一つも当たらない。

自分勝手の予想を当てにしていたら痛い目にあう。

だから皆は何時でも「今すぐ出発」と言われても困らぬように心掛けているが、十日間の滞在と言った一時間後に出発では困る。

飯も出来たか、出来ないかの飯を食べて出発準備をする。

もはや夕日は落ちていて暗闇は辺りを覆い民家の中から皆出てきた。

中隊長の声が暗闇の中を伝わってくる「目的だった城を捨てた敵は、此処から六里前方の砂城堡という所に集結中との情報が入ったので、夜を徹して行軍し急襲せんとする」とのことである。

「お前達は真っ暗である夜間行軍にはまだ慣れぬから連絡を切らぬよう十分注意せよ」と、「前へ」の号令で我々は敵を一挙に殲滅すべく夜行軍は出発した。

暗闇の中に聳える西門を通り高粱畑の中を西へ、西へと月なき星空の夜を速い歩度で進んで行く。

小休止の声を聞けば大地に朽木の如く倒れ、むさぼり寝た。

「出発」の声を聞けば昼間の疲労のみでも相当きついのに、この寝ずの行軍は、さらに一層こたえた。

武装は重し、道は川の中か道路か知らぬが砂地で一足ごとに滑り困難は一方ならず。

自分は乗馬なので連絡が切れぬよう気をつける。

ある分隊は連絡が切れて他の道を行ったため小休止の時「出発準備」の声がかかってから姿を現した。

このため我々連絡兵は曹長殿からえらく叱られた。

行軍中に最後尾から先頭に行こうとして馬に乗って追い越しているとき、突然「衛藤」と声をかけた者がいる、光吉伍長だ。

光吉伍長は原隊にいる時には同じ班で、特に自分は可愛がって貰っていた。

出征の時は再び同じ中隊に編入されたので非常に親しくしていて、玄界灘の船の中では「骨は頼むぞ」とお互い言い交わした間柄である。

「あ、光吉伍長ですか、夜間行軍は随分きついでしょう」と言えば「うん、きついぞお前は観測で良かったな、俺も観測なら良かったけれど交代しょうじゃないか」と笑って話しをした。

「肩章まで交換して貰えますればね」と、自分はまだ初年兵なので肩章が二つしかないので冗談で言った。

自分も伍長が気の毒で、軍隊でなかったら交代して班長の背嚢を背負って歩いてあげたかった。

先頭の兵は敵と遭遇し始めた。

暗夜に銃声は不気味に響いてくる、

盲ら撃ちの敵弾が「ビュン、ビュン」と頭上を掠めて通る。

部隊は状況確認のため暫く停止したので皆「助かった」と言って路傍に横になる、寝ているほうが休めるし、敵弾にも安全なのである。

「出発」の声を聞いて前進する。

我々の急襲で逃げ遅れ、息を絶ったばかりの支那兵が道に点々と斃れている。

明けやすき夏の夜は東の空が白み始めた、目的地まで後一里弱とのことだ。

ふらり、ふらりして行軍していたが「敵近し」と聞き、歩速度は非常に速くなってきて我々は駆け足で前線に着いた。

この辺りの道は畑よりずっと低く、狭いので前の部隊を追い越すのは混雑する原因となる。

前に行く者、止まる者、特にこういう場合は各々その任務により各人が殺気だっているので混雑することがある。

大豆畑の中に砲列を敷く、愈々戦闘開始だ。

自分は観測手たる任務により敵情探索をする。

「望楼付近に敵あり」と報告し、続けて砲撃距離や角度を報告する。

砲弾は一発ごとに望楼を壊してゆく、何しろ一個大隊の山砲て望楼や城壁を砲撃しているので砲声は山野に轟き渡り敵を圧倒する、敵は不意の襲撃を受けて慌てたことだろう。

城内より城壁の左後方に逃げて行く敵影を認め砲撃する。

城壁上には早くも日章旗が風に揺れているのが見える。

我ら、挺身班は乗馬して中隊より先行する。

途中、挺身班の他の者は遅れ、私と小隊長のみで馬を走らす。

敵は泡を食って逃げたので、敵の逃走後の城内に入る、城内の町の所々に支那兵が武装したまま死んで横たわっていて死の町を馬を走らせて西門を抜け畑の中に出る。

畑から眺めれば、二千メートル向かいに幾重にも山が聳えているが草木は非常に少ない。

山砲の連隊本部と出会う、此処では友軍の右翼からの進撃で向かいの山から敵が出てくるだろうと推測し、砲列陣地は配置され待ち伏せしている。

砲隊鏡には敵影は見えず高粱、粟、大豆畑があるのみ。

再び自分は小隊長の命令により中隊長を誘導するため馬を後方へと走らす、城内で中隊長に会い中隊を先導する。

ところがこの辺りは木も無く、馬の繋ぎ場所がない、自分は敵情探索があるので非常に急いでいて、やむにやまれず中隊長殿の馬と自分の馬を

大平伍長に頼んでゆき、中隊の砲列を敷いて敵が現れるのを待機する。

突然正午頃、敵騎兵が右の高粱畑の彼方から一斉に走って来る。

砲列の後方から敵の五~六騎に盛んに機関銃、小銃を撃っている。

銃弾が我々の頭上を掠めて通るので気が気でない、同士討ちにならないよう大地に腹這いになる。

銃撃後、一人倒れ、後は逃げたので行ってみたら馬諸とも敵の騎兵中尉が炎天下の高粱畑の中に虫の息で倒れている。

軍服は血塗られて意識もなく、何か夢うつつで言っているが、どんなことを言っているのか知るよしもない。

この最後の姿を見たら家族は気が狂うだろうが、敵陣で倒れては如何ともしがたい。

あまりにも可哀想だったので自分の水筒より最後の水を飲ませてやった。

その日は昼食も無く、終日焼ける大地で敵情探索をする、はたから見たら楽そうだが、楽な仕事ではない目が痛くて涙が出る。

太陽が西の山にだいぶ近づいた頃、

自分の所用で伍長に頼んであった馬の所に行ったら自分の馬がいない、慌てて辺り、近所を捜したが影も形も無い。

小隊長に報告して城内を一巡したが

見つからない、誰に尋ねても手がかりは無い、全く泣きたくなってしまった。

馬は軍隊にとって重要なもので、明日から馬が無くては自分の任務の遂行が出来ないのだ、日が沈まんとする頃まで捜したが影も形も見えず。

愛する馬は今、何処にいるやら、かくなる上は天助を待つのみ。

中隊は夕刻、陣地を撤収して宿舎にむかった。

自分はやむを得ず残っていた一頭の馬に乗って宿舎へ向かう。

途中で鉄道線路を見る、山の中で線路を見ると、何だか都会に行った時を思い出した気がする。

駅舎は我が軍の空爆で大破していた、我々は駅前の広場に馬繋索を張り馬を繋ぐ。




広場前の客棟と書いてある家に我々、観測小隊は宿営する、客棟には多くの部屋があった。

庭には南京米が山と積んである、それにアンペラが掛けてあるのみ。

それに甘草の根みたいな薬草が、これも山のように積んである。

南京米は楡林堡で悪臭に懲りていたので、南京米は皆悪臭があると思い気にも止めなかったが、他の部隊が次々と取りに来るので良質そうな南京米を我々も取っておいた。

この南京米は敵の軍隊の食糧なのだ、今は我々の部隊には米一粒もないのだ。

これで食糧を得た、食べてみたら臭いはそれほどでもなく旨い。

支那人から白砂糖を買ってきて味をつけて食べてみたが、砂糖は非常に高かった。

日が暮れてから大平伍長が「馬がいた」と言いに来てくれた、それを聞いた時は本当に嬉しかった。

駅前の馬繋場に行って、帰ってきた馬を暫く撫でてやり、馬が見つかったのでほっとした。

本部で馬一頭が不足しているとの事だったので乗ってきた馬を返しに行った。

本部の兵隊が私の馬を乗り回していたとの事だった。

我々は此処に約一週間滞在し人馬ともに休養した、次の戦闘準備の為である。

特に馬については鞍傷の治療が大事である。

自分はこの時、大平伍長と馬の交換をさせられた。

それは出征の時に大平伍が貰た馬が悍馬で乗りこなせず、あまり元気の無さそうな自分の馬と交換を申し込んできたので、自分はその丈夫そうな馬を見て交換に応じた。

現状では中隊の馬のほとんどが背に肉塊を出している、中には肉衣まで出ていて、その上に肉衣まで脱いで肋骨まで出ている馬がいる。

馬にとって戦とは過酷なもので肋骨まで出していても重い砲を分解駄積され、死の直前まで働かされるのだ。

此れまでに幾頭の馬が倒れ、かかる馬ばかりでは戦闘は困難なので、此の地で支那民家から各中隊に十数頭づつ買い上げて補充した。

出征から一月余り経った九月六日の午後に突如出発命令は下る。

二時頃出発、夕刻には新堡安なる町に到着。

今日は三里余りの行軍で楽であったが、馬の手入れが終わる頃には辺りは真っ暗になっていた。

宿営のため民家に入る、民家には住人がいたのて半分を借りる。

女、子供は一室に塊って震えているので、我々は知っている十ばかりの支那語で身ぶり、手振りで「君らの生命、財産、並びに貞操は日本軍人は決して脅かすことはない」と説明する。

女、子供達は解った様な、解らない様な顔をしているので数回繰り返すうちに「明白」と言い安堵の面持ちになった。

我々は狭い家を半分ほど借りたので、土間の辺りなどに寝転ぶ。

夜中に南京虫の襲撃にあって安眠できないのて、仕方なく馬繋場に行って鞍を枕に外套を被って眠る。

こんな夜は故郷の人々が安らかに眠っている姿が目に浮かんでくる。

午前五時、明けやすき夏の夜だが暗いうちに出発、眠くてたまらない。

二時や四時に出発準備の声を聞いて、起こされる時は例えようのない辛い思いをする、五体は疲れていて痛く、頭は重いが此処は戦場だ、祖国が勝つ為には如何なる困苦も死線をも越えてゆかなければならない。

この日は広い平野を行軍、先頭は遥か前方を砂煙を上げて行軍している、後方を見れば一里ぐらい後方でも砂煙を上げて行軍していて長い行軍隊列だ。

我々は中間なので先頭から「小休止十五分」と言ってきたと思って休止準備をしていると「出発用意」の号令でやりきれぬ。

正午頃、幅五百メートルぐらいある川に出会う、五百メートルと言われると大河のよぅにあるが、大洪水の時だけ満々となるだけで、平時は濁水が百メートルばかりの幅に一~二尺の深さで流れているだけだ。

河原で昼飯を食べている時、手綱を足にゆわえてある馬が、口に被せた馬糧袋を打ち振り食べるので水泡や砂が飯盒に飛び入って困り果てるが、さりとて馬を繋ぐ木もないので致し方ない。

此処で防毒面を各人は受領する、それでなくても重い軍装はさらに重みを加えてきた。

午後より、両側に山が見え始める。

三時頃、先頭は敵と遭遇したようで砲声が聞こえてくる、眼鏡で見ると向かいの山の山頂に先頭部隊の砲弾が着弾しているのが見える。伝令が来て「たいした敵ではない」ことを伝えて行く、間もなく砲声は絶え、前進は開始される。

敵は崖の所など壊してあるが、我々の急追に壊す暇も無かったとみえて大して壊れてはなかった。

まさに日が暮れんとする頃、山と山との間の石河原で大休止する。

辺りには薪がないので炊飯することが出来ず、乾麺包を若干食べて出発する。

暗闇が山間を覆い尽くし、道なき道の河原を上へ、上へと登って行く。

雨が夜半に入る頃から降りしきる、上に登るに従って次第に河原は狭くなり、雨により河原は急流となり、行く手を阻む。

暗夜に、分解した大砲を駄載した馬を急流の中を渡すのは目から火が出るような辛い作業だった。

大陸の夏は昼の焼けるがごとき炎暑にかかわらす、夜は冷え冷えとして夏服では耐えかねる程だ。

それのみならず今夜は川の中に腰から下を幾度かつかって濡らし、上半身も雨で濡れている。

眠さと、寒さと、飢えと、重い軍装で倒れそうだ。

身は敵地にあり内地の演習の時のような落伍は赦されぬ。

倒れても起き上がって行軍して行かなければ守ってくれる者は誰も無く、死を覚悟しなければならない。

かかる困苦も君国の為なれば、小休止の時は濡れた大地に濡れた着衣のまま、馬の手綱を足に結わえて震えながら微睡み夢を見る。

懐かしの母、父、兄弟姉妹の夢だった。

午前四時、家も無い山間の畑の中で大休止の命下る。

馬繋索を張り、じめじめした畑の中で濡れた着衣のまま震えつつ睡魔の中に落ちてゆく。

敵陣近くに現れた我々大部隊は暗夜の谷間の中で、人馬の寝息も静かに夜明けを待っているのだ。

目覚めれば昨夜来の寒さで全身はがたがた震えている、

寝てるあいだに湿りが背に上がり背中がべちゃべちゃだ。

だいぶ先の方で火が見える、震えながら火の側に行けば、連隊段列長の立川少佐が四~五名と寒さを凌いでいるところだ、幸いにして近所に馬鈴薯畑があって馬鈴薯を焼いて食べている。

自分もそれに倣って小さな馬鈴薯を掘ってきて、遠慮して端の方にくべる。

馬鈴薯を焼いて胃の府を満たさんとすれば火は消え、暖まらんとすれば馬鈴薯は焼けず、二兎追うものは一兎も得ずで唯一の火の種である木をいじり回しては煙りにむせぶ。

枯れ草を集めて来ても昨夜来の雨で濡れていて燻し、涙の原因になるばかり。

東の空は白み始めた、夕べの雨で土手の下を濁水が谷川となって流れている。

我々は砂城堡で手にいれた最後の南京米を濁水で炊いて食べた。

出発、これからは山間を抜け下り坂だ、広い広い平野が見渡す限り眼下に横たわっている。

畑の中を真っ直ぐに通っている道路を行軍、行けども行けども高粱畑だ。日中は炎熱の下で行軍、水が無くて馬が可哀想でならない。

前衛の歩兵が西瓜五~六個を網袋に入れて我々本隊の前を前衛から遅れて歩いている歩兵がいる。

足には豆が出来ているのだろう、びっこをひいている「一つくれ」と言っても小さいながら網袋の中の五~六個の西瓜を決して出そうとしない。

彼は西瓜のご馳走を戦友と分かつため網袋に入れて持っているのだ。

我々は其れを察しているので煙草一個と西瓜一個の交換を申込んで交換した。

一個の西瓜を皆で分けて、甘くもないのに舌鼓をうって食べた。

午後五時頃、大城という町に着く、その夜は民家に宿営して安眠する、

翌日は休養で休む。

この町には砂糖倉庫があり、取ってきてしたたかに舐めた。

この日から全くの粟飯時代となる、補給部隊との連絡が取れなく食糧は尽きた。

粟ばかりの飯で我慢しなければならず、粟飯を炊飯しても固かったり、柔かったりで良く炊けない。

妻は毎食ちゃんと炊飯してくれて全く有難いものだと、皆いまさら有り難がっている。

中には国に帰ったら妻には小言は言わぬと誓う者もいる。

持っているだけの大枚一円五十銭を払って住民から驢馬を買い、中隊で砲弾、弾薬運びに使用する、今現在中隊では馬が足りないのだ。

明けて九月十二日の午前4時、静かな帳に覆われている未明に出発する。

相変わらず高粱、粟の畑の中だ、敵影は見えず。

本日は前衛砲兵で先頭を行軍する、おかげで西瓜畑にありつく、無理をして食えるだけ食べ、持てるだけ持って行軍中も親の仇のよぅに食った。

 (三年後の今日、久留米の陸軍病院のベットの上で尚その味を忘れずにいる)

夕日が平野の彼方に沈み始めた頃、ある部落に到着、宿営しようとしたが敵の捕虜が言うには「我が軍は今夜、二里ばかり前方の部落に集結中である」との事で速やかに殲滅すべく、直ちに出発したが敵は逃げた後だつた。

夜の十一時頃、山麓の北口村なる部落に到着し宿営する。

そこには水は無く暗闇の中を遠い所まで水汲みに行く、昼の疲労の上に空腹と相まって目が眩みそうだった。

明朝の準備を終わり眠りにつけば南京虫の攻撃で眠れず、外は寒し全く戦争は辛苦の限りを尽くさねばならず楽ではない。

明けて午前九時出発、全く山の中だ、石河原の道を行軍するのだが、石河原は足が痛くて懲り懲りだ、石河原の道の両側には山が聳えている。

もし此の天険から敵が攻撃してきたら我々は全滅であらう。

その石河原伝いに電話線が引っ張ってある、電柱とは名のみで一握りの太さの柱で高さは一間そこそこだ、何時壊されても可笑しくない。

昼食は山の中でボロボロの粟飯に大王城で得た砂糖で食べたが塩気が無くて食べられた物じゃあない、一握りの塩さえも無いのだ。

木も無い山の中、水も無い石河原をひたすら遡る。

午後三時頃にある部落に着く、そこには濁水の池があり、皆は水筒に水を補充していた。

ところが大隊本部の軍医が来て「その水は飲むな」と叱りとばして注意を与えているが、他に水は無いので皆は知らぬ顔をして水を飲んでいる。

戦友の牟田一等兵は濁水の中に水筒をすまして浸している。

軍医が「おい、そんな水を水筒に入れてはならぬ」と言うと「はい」と返事はするけど水筒に水を入れ続けている。

軍医が再び叫んだ「俺は、お前達の為を思えばこそ止めるのだ」と言ったところ牟田は水が一杯になった水筒を肩にかけて「はい」と目をぱちくりして言った。

皆も笑ってしまって、軍医も呆れて笑わざるを得ず苦笑する。

また水の無い石河原を遡り伊香保なる部落で天幕露営をする。

暗夜十一時頃、肌寒い強風と共に大雨になる、眠いのでそのまま微睡むのも束の間、背中の寒さで目が覚める。

雨水が背中を流れているのだ、悪寒の如き身震いがする、全く厳冬の寒さだ。

雨足は遠慮なく我らを虐待する、段々畑の中腹に天幕を張っていた我々には何処に移動しても勝手が悪いので、明るい時に見えていた三~四丁上の空き寺へ、暗いので手探りならぬ足探りで歩いて行く。

明るい時には眼前に見えた空き寺も、暗闇の中では非常に遠い感じがする。

その空き寺からは時折灯りが漏れている、灯りを目当てにして溝に落ち、土手を這い、石垣を登って、やっと土壁の壊れた所から空き寺の中へ入る。

寺の中には一杯の人間だ、誰もが寒さで震えている、家の窓、棟の木まで壊して火を焚き暖を取っている。

寒さに震えつつ、煙りに咽びつつ長い夜を明かす。

人間が多すぎたので充分な暖は望めなかった。

長い夜が明けて、辺りを見れば夜中の大雨で鞍や手綱も泥の中に埋もれ、先端が少し覗いているだけだ、馬が放馬して鞍や手綱を踏み込んでしまったのだ。

出発の命令が何時くるかも知れぬのが戦場の常なので下の川まで行って、鞍や手綱に付いている泥を洗い落とす。

中園上等兵も涙顔で泥を洗い落としていた。

聞くところによれば昨夜、山頂の歩硝が二名とも凍死したとの事で、昨夜の寒さは思い出してもゾッとする程だった。

馬も寒さと疲労とが加わってか、朝には二頭が死んでいたほどだ。

歩硝は敵弾ではなく凍死とは死んでも死にきれない思いだったろう。

しかし死に至るも任務を全うした行為は、日本軍人として亀鑑というべきであろう。

まだ九月の半ばと言うのに昨夜の寒さは終生忘れることは出来ないだろう。

この地帯は高原地帯で木は白樺のみで寒冷地帯というべきであろう。

午後、半道ばかり移動して民家に宿営する。

家の前を内地のような綺麗な水が流れていて便利が良い。

その夜は馬当番を仰せつかった、夜は敵襲の恐れがあるので絶対に焚き火は禁止である。

寒いので燕麦の殼を周囲に立てるが、寒風は夏の軍服を通して肌を刺し耐えられるものではない、外套を着たが寒さを防ぐことは出来ない。

焚き火は禁止であるが、昨夜の凍死の件があるので火を焚こうとしても薪が無いのだ、他の当番の者が近所から焚きつけになりそうな物を拾ってくる。

火が周囲から見えにくいように燕麦の殼で囲い、火を焚いたけど寒い。

火の正面は熱く、背中は氷を当てているよぅだ、歩硝が凍死したのもうなづける。

寒いので、あまり火の側に近づき過ぎていたので外套の裾、腕の所を焼いてしまった。

全く恨めしい任務についたものだと、つくづく思った。

かかる時は何時も故郷のことが浮かんでくる。

すると母のことが思い出され、母が我が子を国の為に捧げたのを喜ぶと共に、自分の健闘を祈って下さる母の面影が浮かんでくる。

俺は一死報国、大君の為に報いる決心だ、母上何とぞ御安心あれと念じた。

出征から一月余りたった九月十七日、寒さを凌ぐため家の薪になる物は全部燃やして、余すところ何も無い宿舎を午前八時半に出発する。

山の坂道にかかった所で、原連隊にいた時の観測教官であった池知少尉と久しぶりに会う「衛藤、タバコは持たぬか」との挨拶だ。

その一言は如何にタバコに欠乏しているかを察するに十分であった。

自分は何とかして着ている物は質に入れても、求められれば求めて差し上げたい気持ちだが如何せん、自分はタバコを吸わないので一本も持たない。

其れを聞いていた入部上等兵が徴発していたタバコを三~四本差し上げると、池知少尉は非常に喜んでおられた。

やがて山は非常な急勾配になる。

山砲は分解して馬に駄載すれば、如何なる天険もよじ登れるように出来ているが、この急勾配を越えるのは一方ならぬ苦労であろう。

中隊長は、この急勾配を非常に心配されていた。

車両部隊は此の急勾配の山を車両で越さねばならないのだ、自分達は車両部隊は果たして、此の急勾配を越えることが出来るだろうかと不安になった。

しかし軍隊には不可能ということは赦されないのだ、状況いかんにも関わらず命令されれば如何なる事もなさなければならないのだ。

車両部隊は車の荷物は馬に乗せ、車両は人間が抱えたり、押したりして寸尺と運んでいる。

車両部隊の此の時の苦労の様子は、私は筆を以て記す事は出来ない。

故国の人はかかる苦労は想像だにしてないだろう。

午前中に、この天険を越し終る。

山越えのさい山の頂上では飛行機が竿の先の通信文を取るために低空飛行しては失敗し、失敗しては低空飛行して対空連絡をとっていた。

午後三時頃、自分は先頭で山を下りたが、後の者達は無事に山を下って来れるだろうかと心配していたが、全員の苦心惨憺の結果、無事に全員の集結が終わりほっとした。

今度はさらに下りの石河原を行軍、

物質の欠乏はあったが、幸いなのは高粱畑がいたる所にあって馬糧の心配が不要なことであった。

小休止となれば馬の手綱を放して、自由に畑の高粱を食べさせる。

斯くして道なき石河原の谷間を下り、日暮れ前には広い河原に面していて、小さいながら城壁のある部落に着く。

村人は全員避難していなかったが、瀕死の病人が一人残されて唸っている、弱小国である哀れさを感じるが、どうすることも出来ない。

此の部落に宿営、徴発した豚の塩焼きをしたいが塩が無い、十二時頃まで留守の民家に行って塩を探すけど無く、漸くのことで一握りの塩を得て豚の塩焼きを食べた後、疲れで前後不覚に眠る。

九月十八日 目か覚めればこれは如何に、皆は出発準備を終えている、慌てて馬繋場に駆けつけてみれば中隊の馬は全部、引き出されてしまっている。

准尉から非常に叱られ、皆は出発しようとしているのに、そのまま立たされた。

此れには全く弱り抜いたが、ついに赦され六時三十分に出発する。

今日も道は相変わらず極悪だけど久し振りに広大な畑の中を行軍する。

自分が愛する「観勇」と呼んでいる支那馬は、だいぶ疲れてきて今迄のように乗るのは少し無理になってきている。

午前十時頃、我々は広い畑の中に深い溝のようになった道を行軍中、日の丸を付けた飛行機が頭上を掠めて飛ぶ。

空を仰いで見れば六機の機体には敵に多大な恐怖を与える爆弾が抱かれていて、操縦士が手を振っているのが、ちらりと目に映った。

飛行機からは近辺の城に敵ありの情報が入る。

深い溝の道から上の畑の小高い丘の辺りには、三國志に出てきそうな大きな城壁が見える。

情報どうり敵がいる城に遭遇する。

直ちに我が山砲は砲列を敷き砲撃を開始する、殷殷たる砲声が辺りに轟く。

砲隊鏡には城壁上より我が軍を盛んに射っている敵のチエッコの銃火が見える、距離は二千メートル無い位なので、砲弾は見事に命中して城壁上に炸裂する、破片は飛び散り砲隊鏡には敵が逃げ惑う姿が見えて痛快である。

見れば援護の砲撃で前進した歩兵が、高い城壁に梯子を掛けてよじ登って行くではないか、鉄兜が折からの日射しを受けて輝いている。

歩兵が一人、また一人と城壁上にたどり着いてゆく。

自分は「勇士よ無事に登り着け」と一心に心から祈りに祈った、突撃中の歩兵の全員が命を懸けての進軍であるのを見て、手は汗でじっとりとなっている。

中隊長に「中隊長殿、友軍は楼門右二十の地点で城壁をよじよ登ってます」と報告したが、歩兵が命懸けで城壁をよじ登る姿を思い出して声は感動で震えていた。

中隊長は眼鏡を目にあて「うん」と唸って見ている。

城壁上に達した歩兵は立ったまま銃を構えて、ぐっと右肩を振って射撃している。

一つ、又一つと鉄兜が右の方へ移動して行く、城壁上に今、到着した機関銃兵が城内をつるべ射ちにしている

歩兵の命懸けの突撃光景を見ていると感動で無意識に目が潤んでくる。

中隊長が振り返って皆に「友軍は城壁の一角を占領せり」と言う、我々山砲は砲撃に際しては此の言葉を如何に心待ちに待っているか、皆の顔には安心したのか喜びの色が溢れている。

歩兵部隊の城内突入によって我々も前進しようとした時、左の高地より相当数の適兵が我々に向かって高粱畑の中を、見えつ隠れつして向かって来ているのが眼鏡に見えてきた。

たちまち敵のチエッコ弾が頭上を掠めてゆく、敵に向かって我が山砲も一斉に砲撃を開始する。

高粱畑の中の敵陣地に天空高く土煙を上げて砲弾が爆裂すると敵は蜘蛛の子を散らすように四散する、がよい地形に陣地した敵は容易には退きそうにない。

我が砲の一斉砲撃で敵陣地がだいぶ変形しても尚、敵は頑張っている。

敵が我々の背後を突かんとしているとの報に一個大隊が増援されたので、我々も其れについて出発する。

友軍歩兵は岡の麓の段々畑の土手に伏して日章旗を掲げている。

歩兵は高粱畑の中を走っては伏し、伏しては走って前進して行く。

友軍は敵との距離四~五十メートル離れた土手にいて、お互い手榴弾を投げ合って次々とドカンと土煙を上げて炸裂している。

突撃する勇士の姿に感動感激の涙で眼鏡が曇り見えなくなる、歯を食いしばって歩兵の勇士よ安全なれと必死に祈る。

中隊長に歩兵の突入を報告するが、突撃の光景に感動、感激のあまり声が喉にかかってかすれていた。

突撃した歩兵は右に行き、左に行き塹壕の中に逃げ遅れた適兵を銃剣で突き刺しているのが眼鏡で手に取るように見える。

電話機を握っていた通信手が「第一線の万歳を叫んでいる声が聞こえます、万歳を叫んでいます」と、それを聞いた誰の目にも感動、感激の涙が光っていた、ついに敵城は多くの犠牲の末に陥落した、此の時夕陽は戦場の地平線に沈まんとしていた。

夜になり我等は一里後方の張篠という部落に宿営する。

夜は寒いので火を焚いて暖をとり、その回りで眠りについたのは夜半過ぎだった。

明ければ追撃の為、出発準備をしたが取り止めとなる。

此の地では幸いに食塩が多量にあり、毎日、粟ばかりの飯と南瓜の塩煮に舌鼓をうつ。

内地を出発してから約二ヶ月、第一線の戦場に出ると未経験なことが多くて演習とは違い緊張の連続だ。

歩兵の命懸けの突撃などは、生まれて初めて見る光景で勇士の姿に感動、感激する。

二十五日の出発迄、一週間滞在し久し振りにゆっくり休養する。

休養中のある日、俄に空が黒雲で覆われ、どしゃ降りで屋根を打っ音に驚き外に出て見れば雨と共にラムネ玉のような雹が降っている、此の珍現象に皆が驚きの目を見張った。

自分の背の低い愛馬、支那馬だが疲れていて乗馬が出来ないので日本馬と交換する、その日本馬は数日前、せん痛の疑いで熱湯をかけたため腹部の肉がだいぶ露出している代物だ。

中園上等兵の馬は死に、川上上等兵の馬は歩けなくなる、皆馬運が良くない。

休養中の二十五日の朝、不意に我が一個小隊に出発命令がくる、大隊長は城外まで見送りに来てくれた。

道はあったり、無かったりの石河原を行軍、此の山中を行軍するのは援護する歩兵の一個小隊と、我等山砲の一個小隊のみである。

山砲は小銃や機関銃が少ないので接近戦が出来ないので、歩兵の援護が必要となる。

途中、二騎の旅団伝騎に会う、味方もいない山中で、よく二騎くらいで任務遂行しているなと、此の時は感心した。

後には伝令任務としては当然の行動と思えるようになる。

日中は照り返しで盛夏の如く暑い中に石河原を行軍中、五~六名の負傷兵を運んでいる担架に出会う、一人は右腕が吹き飛んでいて担架から鮮血が滴っている、顔は手拭いで覆ってあるが覗いて見れば、さながら死人の如し。

此処から五~六里後方にある野戦病院に無事到着できるかどうか、我々は勇士の無事到着を心から祈る。

日が暮れてから山中の駄馬鈴なる小部落に着く、先見隊が来ていて此処で一緒になる。

夜のことなので、馬の水飼をするのに捜せど、尋ねれど水が無い、困り果てたあげく下の河原に濁った所が見えたので降りて行き、穴を掘れば少しずつ水が滲み出してくる。

その水を手で掬って水嚢に入れるが一杯に満たすのは容易なことではない。

大事に水を持って帰り、馬に飲ませれば一気に飲み干して物足りない顔をしている。

可哀想であるが、水汲みばかりしていては、夜が明けてしまうので止めた。

夜は火を焚いて暖をとって土間で眠る、夜が明ければ一緒に来ていた歩兵は出発したが、我々山砲は引き返すとのことで休んでいると伝騎兵が来て「速やかに出発した歩兵を追尾せよ」との伝令である。

我々は山砲一個小隊のみで霊邸にある師団司令部に援護に行くのであるが、道もない山を越え、谷を越え、川を渡って行軍する。両側が聳え立つ山の間の河原を行軍中、不意に山頂から銃撃を受ける。

我々も近くの家の屋根に観測所を設けて砲撃する、敵は小部隊とみえて、我々の砲撃を食って一斉に退却する。

丁度その時、我々は幸いにも先発して霊邸に向かったが道に迷っていた歩兵の一個小隊と遭遇する、地獄で仏に会ったような気持ちである、歩兵もそんな気持ちだったらしい、とても喜んでいた。

さっき我々が砲撃した山を歩兵が占領して、再び我々と一緒に行軍する。

曲がり角を我等の部隊の半分が、その曲がり角をでたところを、真向かいの山の頂上にいる敵から銃撃され

た。

「パン、パン、パン」と石河原の石に銃弾が当たって耳をつんざく。

敵の銃弾に歩兵は、そのまま大地に這う、我々はまず馬から飛び下り、手綱を放して一鞭くれれば馬は後方へと走って行く。  

歩兵も、砲兵も全員が後方へ無我夢中で下がる。

川上の馬が、かかる危急にも気づかず茫然と立っている、中島が慌てて走って行って引っ張って来た。

後退途中には支那馬が弾薬を鞍に載せたまま死んでいた。

この突然の銃撃を受けて中隊長が頭部を負傷された、「衛生兵、前へ」の声を聞いて、皆憂いに包まれる。

中隊長が如何に中隊の核心であるのか、此の時感じた。

深川少尉が指揮を執るけど、皆の心は静まらず。

二門の山砲を深川少尉と山川少尉の指揮で砲撃、敵は一度後退したが再び現れチェッコを打ってくる。

石河原に伏せて砲隊鏡で観測していると敵の銃弾が鉄兜を掠めて唸って通る、再度の味方の砲撃を今か今かと待った。

この時ぐらい味方の撃ちだす砲声を心強く思ったことは無かったが、この激烈な砲撃も急勾配の山頂にいる敵には効果が薄いのか、砲撃すれば暫くは姿を見せないが、またこそこそと出てきてはチェッコを射ってくる。

我等、山砲が集中砲撃するので、歩兵に攻撃してくれるよう頼んだが、歩兵曹長の小隊長は二十名そこらの歩兵では攻撃は如何ともしがたいと断ってきた。

目的地の霊邸に行くには此処を突破しなければならないが、不安な気持ちで如何にすべきかと困っていた時、旅団伝騎兵が通信封筒を持って来た。

よく、この山の中に此の小部隊を尋ねて来たものだと感心する。

通信文には「今日、午前八時に一個大隊を増援に出したので、合流して霊邸に行くように」と書いてある。

困っていたので、この増援の助け船には全く拝みたいよぅな気がした。

この山峡で長居したら危ないので四時頃、ひそかに後退する、戦場で初めて敵に背を見せた、あまり良い気持ちがするものではない。

この戦闘では歩兵が四名戦死、一名負傷者がでる。

最後尾を負傷した中隊長と退る。

ところが馬がびっこを引き出したので、降りてみれば蹄に石がはまって取れない。

石を取ろうと焦れば尚取れない、部隊とはだんだん離れてゆく。

これほど不気味なことは無い、今にも敵が襲撃してきて射たれそうな気がする。

一生懸命に石を落とせば気のどくに思ったのか、やっと石は取れた。

馬は疲れていて、前からのせん痛の傷もあり血の尿を出していて河哀想だけど乗馬し鞭をあてて中隊を追う。

小部落に鶏がいたが、何時もなら追うけど状況が状況なので誰も追う者はいない。

増援の大隊と合流し、夕食を炊き食べてから出発する。

前回の道には敵がいたので、前回の道とは違う石河原を行くことになり、石河原の入口に着いた時は日は既に暮れていた。

此れからが愈々難路とのことで部隊は前進せず、小隊長が道路偵察に出かける。

小隊長を待っ間、我々は石河原に手綱を握って横たわる。

昼の汗が乾かずに、ヒヤリと肌にさわり高所の夜は寒さがひしひしと増してくる。

小隊長が道路偵察から帰って来た。

偵察によれば、この先の道は行軍には非常に困難とのことだ。

眠れもせず、寒さに震えながら出発を待った。

漸く出発となり前進してみれば、これは如何に立て板の如き山肌が五~六間ある。

人間一人でも這って登らねばならぬ程の所を砲を駄載した馬を登らせようというのだ。

自分の馬は乗馬であつたので、馬の背には鞍のみであったから、気合いもろとも引き上げれば、馬は一気に

飛び上がって来たので自分は一息をついたが、後の戦砲隊は如何にして来るのであろうかと心配でならないが、立て板の所を越えて来たので前進する。

一難去って又一難とはこのことだ、道の右側は一気にそそり立つ山肌で、左側は一歩踏み外せば千尋の谷で、谷底は何処にあるか暗闇で解らない。

此の道は少し堀り取って作ってあるので爪先上がりになっていて馬の蹄は滑る。

非常に危険な箇所なので前の者と、後ろの者とは互いに声を出して連絡を取り合って進む。

戦友の中島一等兵は馬の鞍が尻から落ちたと後方から言ってくるけど、自分の馬を後ろに退げることは出来ない、さりとて手綱を放して自分が

行けば、馬は断崖を墜落するのみ、如何ともし難い。

山腹に吹く寒い夜風の中、乗馬でさえ困難極まりないのに、駄載した馬は如何にして登って来るのであろう。

今のとこ駄載した馬が登って来ている様子はない。

中島の後を来ていた川上に尋ねれば「今、数頭の馬が最初の崖を登って来た」とのことだ。

歴史上に名高いナポレオンのアルプス越えも多分このようであったのだろ。

暗闇で時計を見れば十時を少し過ぎている。

北支の秋の山肌を吹く風は故国の師走を思わせる、しかし着ている軍服は今だに夏服だ、全く地獄の一丁目とはこの事だ。

切り割りになった頂上へ来れば、向かいから吹き上げる風は風雪の中を思わせる。

こんな時に思い出すのは、何時も故郷の父母のこと、今ごろは安らかな眠りについているだろう、此の苦しみ、此の苦労は想像だにしていないだろうと思った。

登りは一方ならぬ困苦であったが、

下りも足元は見えず相変わらず千尋の谷の崖の細道だ。

危うく足を崖から踏み外しそうになり心臓が止まる思いをした。

難路も難路、かかる剣山を越えるのは初めてで、中隊の数頭の馬が谷底に消えた。

馬には砲を積んでいたので、それが無ければ戦が出来ない。

暗い中、落ちた砲は崖をつたって持って上がらなければならない、決死の仕事だ。

我が小隊の馬も一頭が谷底に骨を埋めたとのこと。

こんな中、我が馬は無事に山を下って前の部隊との連絡も終わり、自分は寒い畑の中で中隊が下山し集結するのを待った。

再び出発したのは午前一時を過ぎた頃だったろう、嶮岨な道を登ったり、下ったりして行く、寒さは寒し、暗さは暗し、ある部落に着き暖を得たのは明け方近い四時頃だった。

鞍を枕に微睡めば夜は白々と開け放たれ、出発準備を始めねばならず、昨夜の空腹を粟飯で満たす。

出発準備をしていると、極めて靴の状態が悪い者は地下足袋を下給するとのことで、数日前から靴は破れて小石が入り、痛くて我慢しかねていたので交換して貰う。

今日は昨夜と違い平坦な道を行軍し、午前十一時には目指していた師団司令部のある霊邸に到着。

困難に耐えてはるばる援護に来てみれば、最早その必要は無くなり本隊に復帰すべしとの事であった。

それを聞いて力が抜けてしまったが、その日は労をねぎらわれて休養する。

我等は久しぶりに酒を下給され日本米を食べる、醤油などは出征以来で珍しく舌鼓をうった。

二箱貰ったタバコを大事そぅに皆、吸っている。

霊邸の高い城壁の前には数十台の自動車が並び、食糧が山と積んであるのを見て、この山の中によくもこんなに運んで来たなと思って感心した。

だが今日、平静関の山岳地帯で、霊邸にくる途中の補給物質を積んだ百数十台の自動車が襲撃され師団参謀が戦死したとのことで補給部隊も大変だなと思った。

二十八日の朝、まだ明けざる霊邸城を後にし、再び来た道を帰る。

昨夜の道ではなく他に道が有りそうなものと思っていたら今日も又、昨夜の道だ。

溜め息が出るが、登ってみると足元が明るいため昨夜ほどの困難はなく

、無事に越すことが出来た。

太陽が西に傾く頃、昨夜大隊と会った所で炊飯、食事をして再出発、暗夜の石河原を一昨日来の疲れで足を石に躓かせつつ行軍する。

手綱を手に持ってふらりふらりと歩いていると、何時しか前の馬の尻にぶつかって驚き目覚める。

このようなことを繰り返しつつ一里、二里と重い足取りで夢うつつに行軍して行く。

道辺の木や石に、いやと言うほど頭

を叩かれたのも二度、三度にあらず、夢うつつで馬鹿のようになって行軍し、ある町に着いたのは夜も明けんとする午前四時過ぎであった、馬の餌付けをして眠る。

目覚めれば入浴場があるというので出かける、この町の唯一の入浴場だ。

浴場に入ってみると天井が低く、窓が無いため声が響いて話は出来ない。

湯が一尺ばかり溜まっていて五~六名の兵隊が入浴していたが、湯は薄黒くなっている。

入浴すると汚ないぬるぬるがべったりと肌につく、洗いに来たのか、汚れに来たのか解ったものではない。

疲れを癒す暇もなく出発、この度は

山岳地帯を出て保定に向かうとの事で嬉しかった。

今日、再び万里の長城を超える、延々たる城壁は今も尚、昔が偲ばれて、三國志の中にいるような気がする。

河岸の望楼が水に映っている、その美しい景色はさながら一幅の絵である。

その望楼の入り口の所に可憐な幼児が路上に座っている。

多分、避難民の子供では?

足遅きをもって捨てられたのであろう、何という悲しいことであろう。

誰しも憐れみを感じて持っていた乾麺などを与える、無心の童子は喜んで笑って食べる。

しかし、この光景を見て勇士達の心は曇った。

城壁の門を出た所に誰が捨てたのか羊羮の皮が落ちていた、最近は甘いものを口にしたことの無い我々は食欲をそそられる。

もし故国に帰れる日があるならば饅頭を百個食うとか、羊羮を四~五十本食うとか、呑兵衛の方は四斗樽を家に据えて毎日飲み明かすなどと言って空想に耽っている。

万里の長城のあった山岳地帯を下り終われば又道無くして河原だ、川原の水は綺麗で冷たくて腰の深さで流れている。

此の川を右に渡り、左に渡って部隊は下って行く。

誰かが「支那という所は水の無いときは一滴も無く、有る時は水の中ばかり」とこぼしている。

此の夜は河原村なる部落に泊まる、村の名にふさわしく河原の側にある。

家の中で火を焚いて暖をとり、馬の毛布を被って寝る。

目覚めれば午前四時、暗い中で出発準備をはじめる。

炊飯のため皆の米を研ぎに行った時、足を滑らして川の中に落ちる、寒い朝で流石に震え上がった。

夜が明けるのを待って出発、昨日と変わらず川を右に、左に渡り歩く。

午後一時頃に搭街駅なる部落に到着まで十五回も川を渡った

その夜は早く準備も終わり、ゆっくり休むつもりだったが南京虫の攻撃にあう、火をつけて見ればアンペラにうようよいるのに飛び上がってしまい、とうとう寝れなかった。

明けて行軍、午前中は前日と同じく川越え。

正午には川辺に大きな城壁のある町で大休止する、近所に馬糧が無くて遠くまで高粱を刈りに行く。

原隊で同班だった川端一等兵が数日来の下痢との事で青くなっている。

クレオソード十粒をやり「一度に飲むように」と言うと「十粒も飲むのか」と驚いていたが「大丈夫だ」と飲ませる。

後で会った時「クレオソードで下痢は止まった」と喜んでいた。

此の城壁のある町は見た目には見事なもので川に影を落としている姿は実に綺麗で如何なる宮殿なんだろうと思ったけれど、城壁の中の城内を見たら全くの廃墟だった。

支那の文化は城壁にありと言っても過言ではないだろう、秩序の維持がされてない民族は、各集団で一致団結して外敵を防御しなくてはならない。

この城を抜ければ、山また山と幾峰も越えて行く。

小休止の時に色づいた柿が見えたので、疲れた足も忘れて走って行き、あやし落として食べれば渋柿で口は動かなくなる。

上棟駅に着き、近所には珍しく甘藷の畑があったので、掘って動けなくなる程食べた。

夜は寒いので土間で焚き火して、南京虫の防御の為、戸板を外して高台を作り、その上で寝る。

明ければ同じく行軍、今日は一望千里の平野で安心する。

後方を見れば数日来、苦心惨憺して越えて来た山が幾重にも聳えている、山砲はいくら山の大砲でも、もう山は懲りごりだと皆こぼす。

今日からは広い畑の中の行軍と解ると皆、生き生きとしてきた。

正午頃に清のなんとか皇帝の陵に参拝する。

黄色の瓦が松の木の間に見え隠れして大きな松の木を幾つか通り抜ければ、奥には大理石の石門があり、石門を通り抜ければ最奥に直径二十メートル位の大きさで、高さ四~五メートルの大塔があり、その中に皇帝は永遠の眠りについているとのことだ。

周囲は荒れてはいるが階段には大理石に龍の彫刻がしてある、名工が彫刻したものだとか。

此の陵には支那巡査が汚れた紺色の綿服を着て煤けた家の中にいた。

此のように荒れ果てた前皇帝の陵を見て、我々日本人には異様な感じがした。

午後より雨となる、北支に於いては雨は珍しい、ある部落に宿営し、明ければ行軍。

数日来の行軍で身は綿のように疲れているが、午後三時に易県到着。

此処には相当な食糧が来ていて霊邸以来の日本米を食べる。

此の地方は星野鉄雄少佐なる人が事変前より宣撫した所で、支那人は平常業務に服し砂糖、野菜などを治安維持会で売っていた。

勿論、占領した地は速やかに治安維持会を作らせ宣撫して「皇軍は断じて無道のことはしない」と説いて平常業務に服せしめるのだが、此の地方は特に行き届いていた。

支那人は星野少佐を神の如く尊んでいるとの事である。

翌日は滞在し休養の予定だったが、突然夜中に変更になり、こんな時間に目覚めているのは歩硝ばかり、夜中に易県城を出発。

我等が越えて来た川を遥か後方に眺め、広い畑の中を行軍中、敵飛行機一機が飛来するも、山砲でもって

対空砲撃していたが敵機はそのまま去る。

保定の二~三里手前から物凄い陣地が掘ってあった、外堀として第二防御線は深さ一間、幅二間くらいの塹壕が幾重となく遠くまで続いていて敵や、味方の重、軽機関銃の薬莢があちら、こちらに山と散らばっている。

支那兵の死体は犬に食われたのか、骸骨になって転がっているのもあれば、真っ黒の死体で悪臭を放っているのもある。

畑の中に土を盛り上げて日本兵の墓標が立っているのを見て、思わず熱い涙が込み上げてきた、激戦の跡が偲ばれる。

保定の町には日が傾いた頃に着く、民家は砲撃で傾き、人は誰もいない、いるのは野良犬ばかりで弾痕跡が激しい城壁は、折からの夕陽に映えて妖気を漂わせている。

日がくれてから場外に宿舎をとる。

保定には酒保があるとの噂を聞いて

戦友四~五人と出かける、タバコあり、羊羮あり、サイダーあり、ビールあり、酒あり、汁粉ありとのことだ。

何と言っても出征後間もない八月中旬の戦闘開始からタバコなるものは殆んど下給されていないのだ。

ただ我が小隊が霊邸の師団司令部援護の時、各人に二箱づつ貰っているのみである。

だから、ある者は新聞紙を丸めて紙の煙りを吸っていたり、畑からタバコの葉を取ってきて気長に乾かし、紙に巻いて吸ったりしているのでタバコの声を聞けば目の色が変わってくる。

タバコの値段は支那で平時一個二銭

くらいなのが、二十五個入りで十円とのこと。

皆、いづれにしろ金は使い道が無いのであり、命は何時、吹き飛んでしまうかも知れない運命なので「十円でも二十円でも買う」と頗る鼻息が荒い、ビールは一本が一円、サイダーは一本が五十銭とのことだ。

何でも良いのだ、飲めなければ見るだけでもして来なくては気が収まらない。

数日来の行軍の疲れも何のそので戦友四~五人と外出禁止を犯して出かける。

数十丈もあろうと思える高い城壁に沿って行くと大きな城門の所に出る、城門の両側には銃剣を煌めかした歩哨が立ち、楼門の上にも立って城門を固めている。

城内には日本兵は入ってはいけないとのことだ、断じて出入りを禁じられている。

それは民衆に恐怖を与えない為の、最高指揮官の心遣いだ。

その代わり支那人にも時間をきって出入りを許可しているとの事である。

今、その時間帯とのことで、道には汚ない黒い着物を着た民衆が、一杯道に溢れて往来している。

やっと歩けるかと思われる子供や、

腰の曲がった老婆までもが皆、重い石炭や、小麦粉、野菜などを運んでいる。

此の姿を見ると、弱小国の悲哀を感じ可哀想でならなかった。

城壁の外には各部隊が隙間もないほど宿営している。

城壁を半周して一里ばかり歩いたところで酒保を尋ねれば「後、一里くらい」と答える者もあれば「後、半道ぐらい」と答える者もある、人間の感覚は曖昧なものだ。

部落を抜けて池の辺りを通り、林の中を通って酒保へ、酒保へと歩き続けた。

やっと着いたが通りには兵隊が一杯いる、出征以来、約一ヶ月半後の皆の軍服はだいぶ綻び始めている、中には尻のところが無くなって中の汚れた褌が公然と覗いている者もいる。

時計屋が三~四軒、人のいなくなった住民の家屋で店開きしていて、どの店にも人が一杯たかっている。

肝心のタパコ屋も、羊羮屋も、ビール屋も既に店を閉めている、早々と

売り切れたとのことだ。

これを聞いて一度に力は抜けてしまった。

ところが汁粉屋がまだ営業しているとのことで、走って行ってみると黒山の人だかりだ。

汁粉屋の親父が頭を下げて断っている、取って食った様な女将さんも悲鳴をあげ頭を下げて断っている。

汁粉の材料は後、二十杯分しか無いというのに百人近い人間が押し合っているのだ、大の男が一杯の汁粉にありつこうと思って狂気の如くして並んでいる。

此の商人達は、命も危ない戦線に金儲けの為とはいえ来ているのだ、日本人にも金儲けにこんな熱心な人がいたかと感心する。

遂に我々は一杯の汁粉にもありつけずにとぼとぼと帰る。

欲しいものを手に入れるには朝、早く行かないと手に入らないと解ったので、明日は暗い内から出かけることにして眠りにつく。

目覚めれば四時、時遅しと跳ね起きて戦友の川上、中島と皆の注文を受けて勇躍出発する。

一里半の道を歩いて着いた時は漸く明け始めていた。

出征以来、味わえなかった物を味わおうと、通りには多くの兵隊が酒保の開くのを待つている、我々も其処ら辺りを歩き回って酒保の開くのを待つ。

暫くして店が開けば長い行列が出来る、長い長い列に果たして我々は一箱のタバコでも買い求めることが出来るであろうか、何とかして買って戦友を喜ばせてやりたいとの思いで一杯だ。

幸いにして一箱二十五個入り五円で三人で三箱買うことが出来た、皆の喜ぶ顔を思い浮かべて帰途につこうとしたが、汁粉屋も開店していたので一杯の汁粉にありつく為に長い行列をして待つている。

野戦の汁粉もいいかと、三人で長い列に並んで待つ。

汁粉の器は近所の住民のを拾い集めて来てるので同じ物は一つもない。順番が来て大枚十五銭を払って、水に色をつけた程の少し甘い汁粉を食べてかえる、全く阿保みたいな味だった。

出征から二ヶ月後の十月十日、酒保で忘れられない思い出のある保定城を出発して、山一つ見えない高粱畑の中を行軍するが、敵死体が散乱していて悪臭が鼻をつく。

十月十一日の夜だった、定県に向けて行軍中、川に出会うが深すぎて渡河困難とのことで鉄橋を馬が歩けるようにする為、近所から戸板、その他、全て橋渡しになりそうな物を集めて百メートル余りの鉄橋を馬が渡れるようにする。

鉄橋を渡ったのは夜もだいぶ深まった頃だった。

行軍途中に、何処から来たのか自動車部隊と一緒になる。

狭い道で我々を追い越して行ったが、追い越しつ、越されつしているので、戦場では自動車部隊など全く役に立たないと皆でけなしている。

数十日来、雨なき大地に自動車が砂塵をもうもうと巻き上げ、鼻も口も砂だらけになり癪にさわってしかたなかった。

自分の馬は病人が出たので病人を乗せ、自分は裸の支那馬に乗っていたら、自動車に馬は驚いて走り回り、そのあげく自動車の前に、どたりと地面に落とされた。

馬を打っても致し方なく、全く泣くに泣けずにいた。

夜半に定県城に着く、城壁を見た時は、やれやれ助かったという感じだった。

「連隊は北京に返せ」の命令が来たとのことで、皆は凱旋だといっぺんに元気が出る。

その夜は町の風呂屋に宿営するが、狭かったので翌朝、茶店に宿替えする。

茶店の主人と少し知っている支那語と、手振り手まねで話す。

主人が私の認識票に彫ってある「山砲三」を見て、名前と思い違えて私を「山砲三」と呼ぶ、それが面白くて皆笑う。

定県では、殆んど秩序が回復しているので支那人が肉、野菜、饅頭等を売りに来る。

一個五銭の梨を一杯買って、皆で珍しがって腹一杯食べた。

一日休養して疲れを癒す。

十月十三日、午後から宿舎を出て駅に着く。

汽車への搭載開始は日も既に落ちてからだった。

暗い中で無事搭載が終わり出発を待っていると、搭載の時かいた汗は肌に冷々と感じ、軍服の破れたところからは何の会釈もなく吹き込んでくる風は冬の寒さだが、軍服は未だに夏服なのだ、全く寒くていてもたってもおれない。

祖国の人は、此の有り様を知るや否や、我々はこれしきの寒さにびくともしないが、此の有り様を祖国の人に知って貰いたいのだ。

汽車は汽笛一声ホームを離れ暗い広野の中をひた走る。

我等が背嚢を背負って三日間、夜も寝ずに歩いた道を、何の苦もなく引き返して行く。

今回は馬と同居だ、即ち馬の当番を仰せつかったのだ。

貨車の両端に馬を入れ、中程に鞍、乾し草を積み重ねてある上に眠る、時々馬の前掻きに叩かれ眠っているのを起こされる。

目覚めれば汽車はゴトゴトと震動してレールの上を、ひた走りに走っている。

何という有難い物であろう、汽車の中に座っていれば重い装備を付けて汗だくで歩かずにすむのだ、子供が初めて汽車に乗った時のように嬉しかった。

十月十四日 線路の両側に並木になっているポプラの木の間より、地平線まで続いている高粱畑が見える。

北支の線路には必ずポプラの木が植えてある、何のためか知らない。

過日、線路の側で休んでいた時、汽車の通るのを見て汽車で移動できたらなあと羨んだ所を通って行く、今迄の苦しみも何処かへ吹き飛んだようだ。

馬当番は短時間の汽車の停車中に水を汲み馬に飲ませ、走行中には飼付けもせねばならず、馬同士の噛みつき、蹴り合う馬の仲裁もせねばならず、馬との同居生活は全く楽ではない。

その上、皆の所に行けば馬糞臭いと言われる。

駅では支那の子供が「ナンキンマミ、タバコイリマセンカ」と変なアクセントで売りに来る。

羊羮を買って食べた、旨いこと話にならぬ。

夜の十一時に汽車は北京駅に滑り込む、この前通った時に水を飲んだ懐かしいホームだ。夜中で大変だろうとの隊長殿の心遣いで、そのまま汽車の中で夜を明かすことになる。

十月後半の北京の夜は、ひしひしと寒さが夏の軍服を通してがたがたと震えて眠れず夜明けを待つ。

午前六時頃に下車開始、北京城内の

宿舎に向かう、城郭の如き朝陽門は

初冬の空に白壁が朝日を照り返して聳えている。

実に立派な楼門だ、北京城内に入れば平和な空気が流れいて賑やかだ。

盛装した支那婦人、鞄を背から掛けた可憐な児童が通るのを見た時、我等には珍しく感じるより、不思議な気がした。

人通りの多い街の中を、我等が戦場焼けした顔で行軍すれば支那人はポカンとした顔で眺めている。

支那人から見られても何の感情も湧かないが、日本人が感謝の心を持って我等を見送ってくれる時は、我ながら勇士になったよぅな気になる、これは同じ民族の間に通う血のせいだろう。

城内をだいぶ行った時、黄色い瓦が幾棟にも幾棟にも続いていて、折からの日光を受けて松の間に見えている。

此れが幾人かの清の皇帝が栄華の夢を見た宮殿なのだ。

部隊は西海公園と紫金城内の博物館を皆に見学させるため、ここで大休止を取る。

お互いに馬を持ち合わせ西海公園に行く、池の蓮は今はうら枯れて見る影もないが、夏の盛りは見事だったろうなと思った。

公園は実に雄大で粋を極めた公園である。

搭に登ると広い北京の町が見えたが、戦友が自分の馬を持って待っているので急いで帰った。

次は博物館を見に行く、門は朱塗りの二~三階建ての見事な建築物であった。

館内の陳列品には支那の貴族文明を物語る、いろんな物が並べてあった。

宿舎は支那事変前の支那軍の兵舎である。

この兵舎では薪に困った、民家で暖炉を借りて炊事をしたりもした。

十六日には北京市内見物をして支那人が作った支那料理を食べた。

近所には市場もあり賑やかで、芝居小屋では我々を自由に入れてくれたので覗いて見る。

変な楽器を奏で、おどけた格好で台詞を言っている。

白髪の老人と姫らしき人物が出ているので、昔の王朝の物語であろう、変な声を出して支那歌を歌う。

かかる声を聴いて快い感じがするのだろうかと思う、音楽というものは頗る客観性の少ないものなのだろう。

故郷の父と母からと東京の学校の友達から手紙が来ていた、友達からは出征の知らせだった。

故郷からの手紙は嬉しくて二回も三回も読んだ。

出征後に船からと、天津で汽車の中から出した葉書が着いたと書いてあった。

慰問袋も戦線で貰えると聞いていたが、本日初めて頂く。

畏れ入ったのは慰問袋が一個小隊に一袋とは情けない、自分は鉛筆一本を頂戴した。

北京から移動するらしいとの噂を聞いて、気の早い者は凱旋と決めて土産等買った者もいたが、その期待に反して中隊は次期戦闘準備を整えた。

馬の整理があり、使用困難な馬は全部病馬収容班に預けることになり、自分も馬の手綱を引いて行く。

鞍傷で肉が出て骨まで現れている馬を数十頭を引いて通れば、支那人は如何なる思いをして見ているのか知らないけれど、仕事の手を休め、通りに出て哀れな馬達を眺めている。収容班でも我が大隊全部で百数十頭を持って行ったので困った顔をして不機嫌である。

しかし我々の戦闘を物語る傷ゆえ、仕方なく引き受けてくれた。

病馬は収容所に入れて、代わりの馬を受け取る。

帰りは支那人の人力車に乗って帰り、城門を潜った時は人の顔も見分けのつかぬ夕暮れ時だった、町には煌々と電灯が灯り美しかった。

出征から二ヶ月余りの十月二十一日零時、昔日の清帝国の首都、北京は静かな眠りについている、我々は粛然と宿舎を去る。

駅に到り汽車に戦備品を搭載し終わり、北京の町が眠りから覚める頃、汽車はまホームを離れ出発した。

北支の平野は既に秋声深くプラタナス、ポブラは美しく黄葉して、吹き来る風に名残を惜しむように中空をヒラヒラ舞って落ちてゆく、何処も同じで秋は寂しい。

高粱は刈り取られ、広大な畑は遠くの方まで見通しがきく。

汽車は東へ東へと走って行く、天津の駅は相変わらず賑わっていた。

郊外の飛行場には何処かへ空爆に行くのであろう飛行機が銀翼を並べている。

出征以来、三ヶ月にわたり奮戦した思い出多き北支の地を去りつつある、我等は北支の景色に別れを惜しみつつ眺めている。

唐沽駅に着いたのは午後七時であった。

明日は午前二時出発とのことなので駅前に馬を繋ぎ、街に出て歩いてみると見違えるほど変わっていて日本人が多いのに驚かされる。

酒を買ってきて入部上等兵をはじめ小隊の面々と気焔を上げる、止まるところを知らず四~五名の戦友と町に脱出して酒屋で飲む。

皆、各自が我が大将になっていて、あたるべからざる勢いである。

十一時、十二時、一時となり刻々と出発が迫る時間も忘れていると、川上が呼びに来た。

時計を見ると、まさに一時をちょっと過ぎていて慌てて帰って準備をする。

北支の町に秋の夜が更けてゆく。

我等は埠頭で乗船準備を終えて静かに夜の明けるのを待って乗船を開始する。

我々、砲兵隊の乗船は百頭の馬を起重機で吊り上げ、多くの機材も乗せるので苦労したが正午頃には全部終了する、しかし出発はせず日は暮れて夜になる。

夜になって、漸く船は岸壁を離れ黄海の黄色い海を白波を蹴立てて何処へ行くのか、暗夜の海上を幾隻かの船が一列従隊で一切の光を消して海の中を進んで行く。

気楽なものである、歩かなくても良い、ばたばたと炊事をしなくても良い、甲板の舷にもたれて潮風に吹かれて、果てしなき海を眺めていれば良いのだ。

十月二十四日の朝、水平線上に島影を見る、船員に聞けば朝鮮、木浦沖とのことだ、島影は次第に大きくなり湾に入る、行けども行けども湾は尽きず島影や朝鮮の陸地を両舷に眺めつつ進む。

何の為に此処に来たのか、何処へ行くのか全く不明である。

だから色々の臆測を以て私物命令が飛ぶ、凱旋といって喜ぶ者もあれば、満州出兵と覚悟する者もいる。

その日は湾内に投錨し、明日の上陸演習の日課を申し受ける。

戦場に来て、今さら演習とは何を以ての事であろうと理解に苦しむ。

大発が来て我々の最小限度の移乗演習だ。

演習は縄梯子を伝って船の舷を下りる、水筒、防毒面、大きな砲隊鏡に浮き袋まで背負うので、舷のぶらぶらする縄梯子は実際楽ではない、冷たい汗が額に滲む、大発に乗り船の周りを一周して再び縄梯子で乗船、此れが毎日の日課だ。

干満差の激しい潮流の早い木浦湾の中を船は何の為か知らないが毎日位置を変える。

この間、演習以外は上甲板に上がることは禁じられる。

軍隊の集結を誰にも知られない為だ。軍機密が何処から漏れるか解らないので、万全を期している。

天気は毎日良い、湾内といえども波が高い時は五千トンの龍山丸も多少上下する。

その時の大発の揺れは大変だ、船上に立っておれない、大半の者は青くなって元気が無くなってしまう。

そんな時は本船に帰って風が止むのを一刻千秋の思いで頭を枕につけて待つ。

自分は子供の時から、どんなに海に憧れていたか、洋々たる大海で小舟に身をやつし、魚を山のように捕るんだと夢を抱いていたが、本当の海はちょと違う、船と聞くだけで嫌になった、早く陸上の人になることを願ってやまなかった。

馬は半月にわたり船内で箱詰め状態になり弱ってきている。

船は夜、大きな船と腹合わせして水、食糧を補充し出航準備をす

る。

その時、隣の船に乗り移り羊羮を二十本買って隊員と食べた。

十一月二日の夜、船は準備を終わり、重い錨を上げて木浦湾を離れる。

航行中に杭州湾での敵前上陸する旨が伝えられ、諸注意を受ける。

十一月三日、この日は明治節であったが、我等は何の変わりもなく船中で過ごす。

二列縱隊の大軍船団は駆逐艦、巡洋艦に護衛され終日、白波を蹴立てて黄海を進む。

我等が乗る龍山丸には山砲、歩兵、工兵と、お門違いではあるが、約半月間の船上生活で顔見知りになり、

朝夕は互いに挨拶をしあっていた。

船は星なき夜を機関の音も旋律正しく響かせて、煙突からは煙を龍の如く吐き、黒煙は長蛇となり黄海の波の上に残ってゆく。

「ざざー、ざざー」と白波を蹴立てて刻一刻と船は敵に近づきつつある。

十一月五日の敵前上陸では生死は知れぬと言うことである、敵前上陸は非常に苦戦の予想で三分の二は斃れるであろうとのことだった。

多くの者は遺言を書いた、明日の戦闘を怖れる者は一人もいないのだ、君国の為に笑って死ぬ覚悟は皆、出来ている。

まさに日本男児の本懐は此処にありと言うべきだろう。

敵前上陸前の連合娯楽会では、明日をも知れぬ命のことを忘れて各々、十八番の芸に興じる。

詩吟あり。流行歌あり、唄あり、どどいつあり、全兵士は和気あいあいとして、夜更けに至るのを知らず。

娯楽会の光景は中甲板に入れず、上甲板から見て知らずに熱き血は五体に波打つのを覚える。

この光景はまさに詩だ、君国の為に笑って死ぬ覚悟の光景は終生、忘れ得ぬ思い出であろう。

この夜は出演者には船長から酒がふるまわれた。

今日は笑っていても、明日は此の内の幾十人かは護国の鬼となる者がいるのだ。

十一月四日、大船団は東支那海を二列縱隊で杭州湾へ杭州湾へと進む。我等は敵前上陸の準備万端が整う。

刻々と迫る敵地に緊張が現れてくる。

夜に入り明日の上陸戦闘の為、皆深い眠りに入るが船は休まず進行している。

午後十一時、いよいよ船は目指す杭州湾に着いた。

「ガラ、ガラ、ガラ」と錨は降ろされ、甲板上に出て見れば四面は濁水で、海上は天祐か深い、深い霧が流れていて数十メートル先は全く見えないのだ、大船団は微光だに漏らさず、静かに敵前で錨を下ろした。

船員は起重機を「ガラガラ」と動かしはじめる、工兵は船の準備を開始する。

敵は果たして此の大軍の来襲を知るや、否や十一月五日の午前二時には歩兵は起床し天幕には絶対必要な物のみを入れて背負い、その上に浮き袋を着け鉄兜に身を固めて一人、また一人と舷の縄梯子を伝って降りてゆく。

我等、山砲も上陸準備を終わり武装に身を固めて先遣隊に「元気でやって下さいよ」と言葉をかけて見送り、先遣隊の成功をひたすら祈る。

歩兵の移乗が終わるや大発はエンジンをかけて静かに本船を離れ白波を蹴立てて、敵地に向け濃霧の中に消えてゆく。

本船に残った者は大発の後を見送り、先遣隊の「武運長久なれ」と神に祈る。

誰も語らないが、ひたすら先遣隊の成功を祈っていると暗夜の霧をついて「ダダダー、ダダダー」と機関銃の音が聞こえてくる、皆耳を傾ける。

遂に敵と遭遇したのだ、友軍に不利でなければ良いがと歯をくいしばりながら心配する、気づけば手には汗をいっぱいかいている。

軍艦からの砲撃も開始され駆逐艦に依って煙幕は張られてゆく。

夜は次第に明けはじめて霧も段々に晴れてくる。

彼方の陸ではピカッと光る、砲弾が炸裂しているのが眼鏡で見える、隣

の御用船からも船上射撃を始める。

軍艦から撃ち出す大砲の音は杭州湾を圧し、此の海上に浮かぶ百数隻が一夜にして不意に湧いた襲撃に、敵はどんな気持ちでいるのだろうか。

我等は甲板上で歩兵部隊を上陸させた後の大発の帰りを待つ。

機関銃の音に、ずっと先遣隊の安否を気遣っていたら、暫くして先遣隊を送った大発が帰って来た。

「敵は暫し抵抗したけれど、敗走したので無事上陸した」と大発の船員の報告で、苦戦が予想されていたので、心の中の重荷が降りた様な気がした。

戦場に於ては友軍の誰をも自分の体の一部であるように心配しているのだ、隊長の部下に対する心配はいかばかりかと思う。

我等、山砲も漸くのことで大発上の人となり、濁水の海に浮かび本船を離れて敵地に向かう。

大発は陸に近い腰ぐらいの深さの所に泊まる、そこからは大砲も、弾も全部、人間の力で陸に運ぶ。

浜に上がって見れば幅二間、深さ一間もある塹壕が掘られ海岸線に沿って、何処までも続いているのだ、塹壕には点々とトーチカが築いてある。

敵が、此の堅牢な陣地をすげなく捨てたのは、不意の襲撃を食ったからであろう、辺りには上陸後に捨てられた浮き袋が散乱している。

大発からの重い機材を下ろし、道の傍らの石に腰掛ける。

故郷を思わせる稲穂、珍しい南国の家を眺めていると担架に一人、他に三~四人も手や足に白い包帯を巻いた者が来る、先ほどの戦闘で負傷者が退却して来ているのだ。

近寄って見れば一昨夜、演芸会で数え歌を唄って一同を笑わせた勇士もいる、痛そうな手を我慢して挨拶する。

「やられたですか、残念でしたね」と言えば「いや、何の軽傷ですからね、タバコを持ちませんか」と言う。

勇士達は暗い内からの進撃でタバコの事を考える暇も無かったのだろう、船上で知りあった人達には何の遠慮も無くなっていた。

後方に退って安心し急にタバコが欲しくなったのだろう。

我等は先刻、タバコを充分徴発したので各人に四~五本づつ皆出して与えた。

早朝来の必死の戦闘で苦戦、負傷の後で吸うタバコは何とも言えぬ味がするらしく、実にうまそうに吸っている。

担架の勇士を見れば、軍服は脱いで上から着せてあるが、胸に厚く巻いた包帯は鮮血に染まっている。

顔も手も青ざめ、口からは血の泡を吹いていて、息をする度に「「ぶす、ぶす」と音をたてている。

胸部の貫通で肺からの出血だ、あまり長くもてそぅにない、胸にのせてある軍服には伍長の肩章が光っている。

道に担架が下ろされたと気付き静かに目を開けたのを見れば一昨夜、我々の向かい側の所にいた班長さんだ。

一昨日の元気な姿が、今日はこのようなことになろうとは、戦場の常とは言え、あまりの激変に胸は塞がれ、熱いものが胸にこみあげてくる。

定まらぬ目で我等を眺め、かすかに「水、水」と言う。

あまり飲ませると、いけないとの事で、自分の水筒を口につけて少し注ぐと苦しそうに「ごくり」と一口飲んで静かに目を閉じる。

我等は傷ついた戦友に神助あらんことを祈りつつ前線へと急ぐ。

浜には船が帆を下ろしたまま、寄せる波に船底を洗わしている。

浜の者は、昨日は漁で沖に出たであろうが、今日は戦禍で人影も無く船は主待ち顔で淋しく横たわっている。

浜の土手に登れば、十一月と言うのに生暖かい風が頬を撫で通り過ぎてゆく。

九月以来、北支の山中で震え上がって凍死者まで出たのに、此の地方では外套も要らないので嬉しい。

土手の上から見渡せば、一面の水田には稲が黄金色に色づき。朝風になびいていて南国情緒豊かな眺めである。

田園の中の家は瓦葺きであるが、棟の両端が反り返っていて壁は白壁で、北支の土ばかりで造ってある家を見てきた我々には、この中支の風光は珍しくてならなかった。

家の後ろには北支では見かけなかった竹が繁っており、家の前にはクリークがあり、家の周囲には数十羽の鶏、家鴨が群れで餌をついばんでる和やかな眺めだ。

砂浜に砲を引き上げて中隊は集結する。

偶然、この時に高木先生の姿を見つける、戦焼けした顔は黒いが昔と変わっていない身軽な姿だ、軍刀を背負って大佐の肩章を付けた連帯長殿と歩いて行かれているので、自分は「高木少佐殿」と大きな声を出して呼んだ。

元教官は振り返り自分を見て立ち止まられ、頭のてっぺんから爪先まで見てから「衛藤か」と言われた。

農学校を出てから足掛け六年になるのに、良く覚えていてくれたものだと思って嬉しかった。

しかし六年後の今日、中支の戦場で会うとは夢にも思ったことはないが、運命の計り知ることの出来ない出来事に驚く。

先生は「元気だね」と笑って言われて、自分の肩の二つ星をちょと見て「何時、入営した」と昔の聞き慣れた声で尋ねる。

「本年、一月です」と二言、三言交わして先生も連隊副官で忙しく、自分も中隊が前進を始めたので名残惜しんで「では高木先生、お元気で」とお別れの言葉を簡単に述べれば「おっ、気を付けて元気で行けよ」と慈愛の言葉をかけてくれた。

再開の日があるや、否や知らず、中隊の後を追う。

この度の杭州湾上陸作戦は最小限度の所用人員で馬は一頭もいないので、少数の人間で大砲を引っ張り、弾薬も運ぶ、身には他にも多くの装備を付けており行軍は遅々としてはかどらない。

細い道では大砲を分解して人力で運ぶ。

自分達、観測小隊の人間は各人で各々の機材のみを持って行くので、割合に楽である。

私の出で立ちは軍服の上に水筒、防毒面、背嚢を左右の肩に吊るし、食料、飯盒等の毎日の絶対必需品を天幕に包んで腰に巻き、その上に五~六貫ある砲隊鏡とその脚を背負い、左手に鉄兜を下げている。

これくらいの持ち物は軽い方で、戦砲隊の者は十二発も入った十五~六貫もある重い弾薬を背嚢の上に担っている為、動きが遅いので観測小隊の我等が常に中隊の連絡などに出る。

誰も、この重い荷物を一匁でも軽くしようと思って、食料の米まで捨てる始末だ。

戦場に於ては先の事は考えない、先ず現在の苦痛を脱出することのみを願う。

先々の事を考えてやっていたら、現在の苦痛に耐えることが出来ないので、また先々は生きているか知れたものではないではないか。

自分達は中隊長の命令により集結地である金山衛に向けて出発する。

途中、曇り空は雨となり秋深き平野に降り始め軍服を濡らすが、重い装備のお陰で体が温もり寒くはなかった。

道を進んで行けば友軍の軽、重機関銃の薬莢、弾を包んであった紙の箱が今尚、硝煙の香りを留めて散乱し先刻の奮戦を物語っている。

所々には敵のチエッコの薬莢が山とある。途中で金山衛に歩兵部隊の後を追って連絡してきた小隊長に出会う、連絡がついたとのことで、雨が降ってるので家に入り、火を焚き暖を取りつつ中隊の到着を待つ。

この待ってる間に弾薬を運ぶのに車両が有れば持って来いとのことで、三~四名の者と探しに行く。

この辺りは全くクリークの多い所で、向かいに見える家に行こうと思って行けば、忽ちクリークに阻まれ橋のある所まで回らねばならず、見た目は近くとも遠い所になってしまうのだ。

クリークを伝って行くと家が五~六軒ある所に小舟が人のいない軒下に寂しく影を水に映して浮かんでいる。

多分、何か町に売りに行くために準備したのであろう。

捜せど車らしき物は一つも無い、この辺りは水牛が多くいるので鞍があれば持ち帰り弾薬でも乗せようと思えど鞍の形をしたものも無い、

いったい此の地方は物の運搬は何でしているのか不思議になってくる。

考えてみれば各家には、自分の家の軒辺りまでクリークを引き、小舟を二~三隻は持っていて運搬は全て小舟で行われているようだ。

家の造りも北支と全く趣を異にしている。

北支の家は土ばかりで出来ていて、小さい家の中には半分はオンドルを仕込んだ土の床なのに、此の地方の家は窓が大きく光を十分に入れてあるので明るく、全部木の寝台で年中蚊帳が吊られていて蚊帳の中には羽毛の扇が備えてある。

後で解った事だがマラリヤが流行するので蚊帳を年中吊ってあるのだ、こんな光景に南国気分をしみじみと感じる。

此の地方の家は田園の中に点々としていて林の中にも存在している、北支と違い秩序と平和とが維持されているのだろう。

帰りに家の側を通った時「ウン、ウン、ウン」と薄暗闇が迫る中に苦しそうな唸り声が聞こえてくる。

人気の無い此の町に、何事だろうと戸口に立てば血が点々と土にしみて家の中へと続いている。

敗残兵かと思い、どかどかと中に入り奥まった部屋を見れば、六十を越したと思われる親父が骨と、皮ばかりに痩せ、顔色も青ざめた体を寝台に横たえ意識も朦朧として断末魔のうめき声を洩らしている。

よく見れば胸に血のついた黒木綿を当てているので取り除けば、胸部貫通していて大きな傷が開いている。

可哀想だが我々は薬も持たないので、どうしょうも無く部屋を出ると、左の部屋からも微かに呻き声が聞こえてくるではないか、布戸を潜って入って見れば十五~六歳と思われる可憐な少女が腹に血の付いた汚い黒木綿を載せている。

顔色は無いが意識は明瞭で、我々が部屋に入るのを見て手を合わせ哀願するのでいじらしくなる。

通じぬ支那語で話すけど相手は苦しんでいるので、僅かの単語で話しても通じるはずもない。

可哀想に、この少女は腹部貫通の致命傷を受けて、戦場の真っ只中で治療してくれる人も無く、ただ居るのは年老いて傷つき僅かに生命を保っている父か祖父か知らないが居るだけだ。

可憐な蝶は戦禍の暴風の中に巻き込まれ哀れや羽根は破れて傷つき春を待たずに散ってゆくのだ。

我々は治療してやる術も無いので「元気な体になれよ」と祈って家をでる。

薄暗闇の中に悲惨なうめき声が聞こえ敵の民とはいえ憐憫の情、切々と我等の胸をえぐり、その声は何時までも、何時までも耳から去らなかった。

察するに、この親子は闇をつんざく銃声に安眠を破られ、驚いて逃げて行こうとする時はすでに遅く、急進する我が軍と支那軍の間に入り、暗夜の中で見分けがつかず狙われて傷ついたのであろう。

広い戦場に於ては、このような事は数知れずある事であろう。

戦争が無ければ、もっと生きていけた命だ、戦争の犠牲者と言っていい。

本道に出てみれば中隊は既に到着していた。

小隊長に車両は無かった旨を報告し、南京米で炊いた握り飯を頬張るも、ボロボロしていて喉を通らなかった、内地の熱々のご飯を思い出して欲しくなる。

秋雨をついて再び担いだり、引っ張ったりで行軍を開始する。

夜の秋雨が頬を冷たく打つ、だけど重い荷物を担いでいるおかげで、寒さどころではなく汗がでる。

牛のような歩きでも歩くだけは進んで、夜半には金衛城に着くが雨は篠つくように降っていた。

途中、道には点々と支那兵の死体が転がっていた。

一分隊が遅れて来ているとの事で、中隊長の命令で雨の中を一人で迎えに行く。

途中、暗夜のことで解らずに躓いて泥溜の中にばたりと倒れ、何かふわりとした物に乗っかったと思ってよく見れば、武装のうえに傘まで背負っている支那正規兵の死体ではないか。

良い気持ちはしなかったが「こん畜生」と足で蹴飛ばして、さつさと行った。

町を三~四丁外れた所で、遅れていた一分隊と会い道案内をして帰る。

家に入ってから、ずぶ濡れとなった服を火を焚いて乾かし、家にあった南京米で明日の昼飯までの準備をしたが、煙にむせて涙が出て仕方がない。

涙のうちに準備が終わり眠りにつく、うつらうつらと微睡めば朝である。

十一月六日、出発準備をしている時、船から運ばれて来た十一頭の馬が到着、全部の馬に弾薬を乗せ、余りの弾薬ならびに砲は人力で運ぶ。

午前八時に出発、幸いにして今日は雨が上がっているが、道は泥んこで重い武装の身に弾薬を担ったり、砲を引いたりなので苦労は一方ならず。

行軍途中には道の両側に支那兵や支

那馬が腹を膨らまして死んでいる。

クリークの手前には、この度の戦闘では一発の弾をも発していないであろうと思われる新しい敵の野砲が二門捨ててあった。

我が軍の急速な進撃に狭いクリークの石橋を渡り合わせず、捨てて逃げたものとみえる。

敵が逃げるのに困ったクリークの石橋は、我々が前進するのにも困った。

石橋の幅は二尺足らずの橋で真ん中

が高く半円形で、普通に言う眼鏡橋で大砲の幅に足りないので、分解しなければ渡すことが出来ない。

弾薬を担った馬を渡すにも石の坂になっていて蹄をすべらすので非常に危険で、石橋が三~四丁間隔にあるので全く弱り抜いた。

されども、この石橋は水に映った姿を見れば、まさに絵の如くである。

半円形の橋は船を以て交通機関とする此の地方では船が通る時、高く荷物を積んでいてもなんなく通ることが出来るのだ、此の地方としては眼鏡橋は芸術と経済とを担っている。

泥道は深くて砲車が動かないので道に藁を敷き詰め、その上に板を持って来て敷き、敵が道を壊してある所は修理をするなど遅々として前に進まない。

その苦労は祖国の人が全く想像が及ばない程だ。

午前中、汗だくの行軍で良く見ても半道も来たろうかと思われるくらいだ。

昼食後、橋の裾が大きく壊されている、これをえんぴで埋めていては日が暮れてしまうので、近所の住民の棺桶を持って埋めることになった。

支那の棺桶は分厚い材木で作ってあるので非常に堅牢な物だ。

此の地方では棺桶が朽ちぬように地上に藁で覆ってあるので持って来るのは容易だったが、二十名ばかりで持ち上げたら死人の汁が底から出てきて全く気持ちが悪くてならなかった、手には言い知れない悪臭が付いて取れない。

道を掘り切って壊された所へ棺桶を入れると道は忽ち修理ができた、こうして我々は寸尺と進んで行く。

通信班の者は各人、電話線を四巻きづつ担っているので一策を案じ、水牛を引っ張ってきて鞍は無いので、そのまま牛の背に電話線を乗せれば、此の地方の牛は背に物を乗せたことが無いので、異様な物が背に現れたとでも思ったか後ろ足を蹴り上げて、とうてい始末におえず手綱を離せば、牛は稲田の中を跳ね回ったため、電話線は稲田の中にばらまかれて捜すのに大変だった。

言葉を絶する悪路の中を終日行軍する。

こんな状態なので戦線へ急いでいる我々は、路傍の農民を使用しようと集めに行くが農民は逃げていない。

自分は割合身軽だったので戦友と二人で人を集めに行く、三人集めたので部隊に遅れては一大事と先回りして急げば、幾多のクリークに阻まれて軍服は汗まみれになる。

急いでいると大きな町に出たが、人一人通っていない死の町だ。

ところが計らずも出征前、我等の観測助教であった一中隊の江島軍曹に出会う。

聞けば、部隊もこの町に向けて来ているとの事にほっとして、家の前にあった砂糖黍をしゃぶりつつ眼鏡橋に立っていると、向こうの方で汚れた姿の苦力が一人ひらりと家に身を隠す。

逃すまいと走って行くと、おどおどして出て来て一片の紙片を差し出す、見れば日本軍の通信紙に某部隊の某中尉が書いた苦力の身分証明書と言うべき物て「この者は日本軍の為に従事した者で、最早疲労の極に達しているので帰宅させんとする」との意味が書いてあり、終わりに「皇軍勇士各位」と達筆な鉛筆の走り書きである。

何の怪しむ事も無いので、言葉を軟らげ「行」と言えば喜んで脱兎の如く走り去った。

こ町の各家には、まだお茶の暖かいのがあり住民が避難して、まだ間がないのだ。

この町は支那軍が通らなかったのだろう戦禍を被ってる様子は無く、商店には整然と商品が並んでる。

商店には支那に渡って以来、見たことも無い蟹、海魚等があり珍しかった、蟹は生きていて触れば足を動かす。

中隊の到着を待つうちに太陽は西の端に傾いている。

夜に入って中隊の大部分は到着したが、四分隊の砲車が未だ着かず、疲れた足を引きづって迎えに行く。

途中、暗い町の中を抜けてクリークの側を通る時、大きな発動機の付いた鉄船が浮いているのがぼんやり見える。鉄船が動かせたら大砲を乗せて楽に行けると思うと、何とか出来ないものかと漁船の発動機に経験のある中島と二人で行って見る。

ローソクを灯して機関を見たが「駄目」とのこたとだ、もしかしたらと

自分は胸を踊らせていたので残念でならない。

残念で惜しみつつ五~六丁行った所で、苦心惨憺して暗夜の泥沼の中を互いに励ましあって進んで来る第四分隊に会う。

迎えに二人で来たのを非常に喜んでいた。

自分は観測手で砲車のことは、余り解らないので皆の嚢を担い、後ろから砲車を押す。

疲れと空腹の足は泥沼に引っ張られて体から抜けそうだ。

かくして中隊に着き、戦友の炊いてくれてある南京米の飯を食べれば、喉を鳴らして通ってゆく。

飯を食べていたら突然、火事とのことで後ろを見れば火の手は迫っていて、物凄い炎を上げている。

食べかけた飯を持って避難すれば、砲車が危ないとのことで砲車を危険区域外に運び、再び飯を食べる。

炎は天にも届きそうな勢いで燃えて中天を焦がし、凄い勢いの火事である。

我が身に直接被害の無い夜の火事は勇壮で、まさに絶景である。

しかし、この寒空に、この町の住民はどうなるかと思うと、敵国の民とはいえ心は重くなる。

この火事は敗残兵の仕業ではないかとのことだった。

再び出発、夜行軍となるが、昼の悪路にまさる泥沼で膝まで没せんとする、泥沼は機材を背負った足を一歩又一歩進めるのに懸命の努力を要する。

真っ暗なので風で消えんとするローソクの灯りを互いに見せあって一尺又一尺と進んで行く。

クリークに来れば、クリークに架かった石橋は狭く馬は疲れた足を踏み外し、弾薬を背負ったまま水中に落ちる。

中支の十一月の夜風の寒い中に水中に入り、弾薬を外し、道に上げ、馬はクリークの土手を上がれぬので鞍まで下ろし、クリークから馬を引き上げ、下ろした弾薬を再び馬の背に乗せて行く。

後続が次々と落ちるのを、このように全部引き上げて、また次のクリークで同じことを繰り返す。

夜半より氷のような冷たい小雨が降り始めるが、辺りが泥沼状態なので疲れた体を休める所が無い、言葉を絶する昼、夜間行軍に泣こうとしても泣くことが出来ないとは、まさにこの事だろう。

明け方近い午前三時頃、某小部落の入り口に夏田に水を揚げる為に作った小屋で藁を被り微睡む。

寒くて目覚めれば小さい屋根だけの小屋なので寒風は吹き抜け、足は小雨でじゅぽり濡れている。

寒さで震えあがるが夜はまだ明けてないので近所の民家に入り焚き火をして暖まる、雨で濡れた軍服から湯気が立ち上る。

夜が明けて見れば、昨夕出発した町は半里もしない向こうで、まだ火事の煙が上がっている。

出征から約三ヶ月後の十一月八日、昨日の朝からの行軍に夜行軍までした強行軍で、僅かに一里も進んでいないのだ。

これでは戦線にますます遅れるばかりだ。

クリークは目的地まで続いているとのことで陸上ではなく舟を徴発して水上を行けとの命令に、早速小舟を二隻徴発し、小舟に砲を分解し、弾薬も乗せて前進する。

馬の十一頭は別動隊となり、我々は深川少尉の指揮で出発する。

我々、山砲は川を伝って中隊と共に行くこととなり、雨の中を機材を担いで濡れ鼠になって行く。

部落で昼食をし、そこで小舟を見つけ五人で乗ることに決める。

たまたま干潮の時でクリークの水は急流となって海に向かって流れている、我々は内陸に向かっているので干潮の時のクリークの水は逆流となる。





船頭の経験がある中島が櫂を操れど思うように進まない。

「疲れた」と言うので自分が櫂を握って漕いでみたら、これは如何に舟は忽ち反対に向きを変えてクリークを中隊の舟とすれ違って流れ出した。

すれ違う舟から中隊の者が「やんや」と笑っているがどうしょうもない。

中島が「どうせい、こうせい」と言っても舟は反対方向に行ってしまう。

中島の今までの苦労が自分の為で無駄になってしまったので、怒って櫂を取り上げた。

自分は諦めて櫂を操ることは止めた。

中島以外に舟を漕げる勇士は一人もいないので、中島が疲れたら半分づつ交代で舟に縄を付けて引っ張った、クリークが横に枝分かれしている所が一~二丁毎にあるので、その場所は舟に乗り、そこを過ぎれば再び舟を引っ張った。

その夜は川岸に舟を繋ぎ、火を焚いて暖かい家の中で疲れた体を休め、一睡すれば出発準備にかかる、馬がいないので馬の準備をしなくて良いので朝の準備が楽である、。

十一月九日 午前七時、今日は昨日の小舟を捨てて、大きな船で小隊全員が乗って出発する。

そこには煙を吐いている蒸気船がいて、兵隊を乗せた多くの小舟を引っ張って、まさに出発せんとしていた。

我々も漕ぐのに困っていたので、これ幸いと縄を投げて繋いだら、我が大隊と進行方向が逆だと解り、汽船が動き出したので急いで縄を切る。

全く惜しかった、鳶に油揚げをさらわれた様な気持ちで唖然として黒煙を吐いて去り行く蒸気船を眺めた。

機械というものは実に有難いものだと思いながら「ぎっこ、ぎっこ」と大きな櫂を三人で交代で漕いだ。

干潮になり流れがで漕いだだけでは大きな木船は余り動かなくなるが、どうにかして漕いで大きなクリークに出る、幅が二~三百メートルを越えるであろうか。

クリークの水は空と相映じて真っ青で四~五百トンもあろうかと思われる汽船が所々に浮いていて、日章旗を掲げた船もあり、日本兵が船上に居るのも頼もしい限りである。

この広いクリークに出てみて、クリークに汽船が浮いているのかと、さすが大陸支那と思う。

干潮で逆流は益々早い、船は遅々と進んでいると、クリークの真っ只中に絵や写真で見る海賊船そのままの姿の船が二隻並んでいる。

両端が反り返っていて高い帆柱があり、幾百本の綱が引っ張ってある。

こんな船に帆を張って東、南支那海を海賊して回っていたのではないかと思われる。

逆流は愈々早くなり、昨日の如く再び曳舟となる。

農民五人ばかり集めて舟の縄引きに加勢させる。

自分が監督をして農民と共に陸を歩くことになり、舟が岸に着きそうになったので、岸に着かぬようにと飛び降りれば、泥の中にひっくり返り

時計も銃剣も水浸しになるが、そのまま農民を指揮して舟を引かせる。

皆は舟の中で櫓を漕いだり、岸に舟が着かないように手にもった棒で突っ張ったりしている。

今、進んでいる大クリークは枝水路が多い為、枝水路の所で土手が切断されてるので、水の中に半身浸かって枝水路を渡らねばならず、度々枝水路を渡るのは十一月の気候では寒くて楽じゃない。

かくして行軍し夕方近くに某部落に到着、宿営する。

敵はこの部落の前方に居るので、各部隊は警戒を厳しくして夜を徹せよとのことである。

所持する米は無くなっていたが、農家の中に虫くれの南京米を捜しだし、炊飯して腹を太めて小さな部屋で皆で寝る。

小便に出て帰ってみると寝る所が無くなっているのには閉口した。

第一線では「ダダダダダ」とけたたましい銃声を響かせている。

上陸後、漸く第一線に着いた、待ちに待っていた第一線だ。

そう思って星のまばらな夜空を眺めれば、照明弾が美しく花火の如く上がり青い光を強く輝かせて、ゆっくりゆっくりと落ちてくる。

照明弾は三つ、四つと絶え間なく上がっては落ちてくる。

敵は我等の襲撃を非常に恐れて警戒しているのだ。

出征から三ヶ月後の十一月十日、夜の明けるのを待ち出発、早朝より頭上を「ヒューン、ヒューン、ヒューン」と敵小銃弾が掠めて通る。

敵、味方の機関銃、小銃の音は絶え間なく秋色深い広大な平野に空をつんざかんばかりに響き渡っている。

四~五百メートル前進したと思ったら、クリークの両側の田には銃弾が

「プス、プス、プス」と突き刺さり、舟の周囲には水煙を上げて銃弾が落ちる。

舟に「カン、カン」と銃弾が当たると、皆鉄兜に身を固めて船底に伏せる。

中隊長五十歳を過ぎて白髪も多い人だが身を踊らせて陸に飛び上がる。

「誰か一人来い」と言うので自分が続いて陸に上がる。

度胸の太い宮田曹長も後に続いて上がって来た。

稲を刈り取って積んである小積の後

ろに行き眼鏡で敵情を見ている中隊長の後ろに我々は行った。

小積の後ろでは少々心細い、銃弾が飛んで来れば銃弾は小積を貫通するだろう。

小積の後ろから見れば先頭を行っていた歩兵は陸に上がり、敵弾下を走って散開して銃撃戦になっている。

敵影は肉眼では見えないが、我が軍はクリークの右側にも歩兵が上陸して散開して行く、全く映画のスクリーンそのままである、だが頭は飛んで来る敵銃弾に緊張している。

陸に上がっている曹長は敵の方に向かって小便を始め「小便も命懸けじゃわい」と笑って用を足している。

「曹長殿、危ないですよ」と言えば「ビシュー」と敵弾が流れてゆく「そら来た、曹長殿」と敵弾下にユーモアが飛ぶ。

ところが曹長の足元に「パン」と泥しぶきを上げて銃弾が一発落ちた。

用を終わった曹長は名物の髭を撫でて目をパチクリさせ「危ないところであったわい」と軍刀を手にして舟の中に戻ってゆく、舟に足を跨いだ時「衛藤、用心しろ危ないぞ」と脅かされた。「何、大丈夫ですよ、支那兵の弾なぞに当たってたまるものですか」と笑って返す。

中隊長が「山砲の大隊本部は何処へ行ったろうか、向こうに見えるのは違うかな」と左前方四~五百メートルの林の中に友軍を見つけて指差されたので「では自分が行って確認して来ましょう」と言って飛び出した。

敵に姿を見せまいとして狩り残されている稲の所をなるべく選んで走る。

畦道は狭い上に二~三日来の雨でぬかるんでいて、足を泥に取られて幾度か滑って倒れたが息の続く限り一目散に走った。

腰より丈の低い稲に身を隠す術もなく敵の発見するところとなり銃弾が身辺に落ちるは落ちるは、身辺に来た銃弾は「ビューン」と耳をつんざいて通る。

漸く林にいる友軍に声の届く距離になったので「山砲の大隊本部か」と叫んだが、銃弾に気を取られて聞こえてそうも無いので、走りつつ二度、三度叫んだ。

「歩兵の二大隊本部」と言う声が聞こえてきた。

確めるため、今一度「その辺りに山砲はいないか」と叫べば、今度はすぐに返答が来た。

「山砲はいない」これを聞いて踵を返して、再び今来た道を走った。

敵は私に機関銃弾を浴びせ「ピュー、ピュー、ピュー」と銃弾は足元付近に泥しぶき、水煙を上げて落ちるのを見ると、あまり気持ちは良くない。

息が切れそうなので低い畦に身を伏せて休み、息を整えては又走った。

中隊長に山砲の大隊本部ではない旨を報告すると、中隊長は「よし前進」と命令し敵弾下に舟を進める。

大隊本部から「山中前へ」との連絡が来たので、連れてきていた支那人農夫三人と櫓を漕いだ。

農夫は背を腰の低さまで屈めて、額には脂汗を滲ませて一弾一弾にビク、ビクして漕いでいる。

我々は敵前強行通過で遮二無二敵前を漕いで進む。

弾よけになる大きな家の蔭に来て「やれ、やれ」と安心する暇もなく家を通過すれば又、敵弾下に出る。

数十隻の小舟はクリークを我先にと漕いで行くが櫓で進む舟の足の遅いこと話にならぬ。

敵前強行通過で続々と死傷者が出始める、幸いにして我が舟には出ず。

舟の中で皆は「あそこに落ちた」「そら、ここに落ちた」と銃弾が水煙を上げて落ちるのを調べている「ピシュー」と耳を掠めて通れば「今のは俺の頭の一尺上を通った」などと、今にも終わりそうな命のことなど忘れて馬鹿を言っている。

農民に櫓を漕がせ、自分は立って舵を取る。

舟の上に立って舵を取れば敵に丸見えなので敵弾が来る、来る。

曹長は相変わらず面白いことを言う「今の弾は衛藤の鼻先を通ったぞ」「あっ危ない、今のはお前の服のすれすれを通ったぞ」と言って戦場焼けした顔で皆を笑わせている。

自分も銃弾に掠められて風圧で「キュン」という時は、はっと思うが「支那兵の弾も、やっぱり銃の向いた方に出てくるわい」と負けずに言って皆を笑わせる。

こうして敵前を前進するが、幸いにしてこの舟には負傷者も無く、蒸気船が「山砲は速やかに前へ」と言ってきて曳航してくれたので自分は舟の舵を取らずにすみ嬉しかった。

我々は鉄橋のある所で上陸、高い線路の土手には歩兵が展開を開始しようと待機している。

我々は右側の高い土手に上がる、そこには血に染まり、今尚生けるが如き皮膚の色をした五~六名の支那兵が死んで斃れている。

今から展開をしようとする歩兵部隊から「援護射撃を頼む、迫撃砲がいるから制圧してくれ」との連絡があった。

そう言っている間に向こうの方に「ドカン」と迫撃砲弾が落ちた。

土手に本田測遠技手が測遠機を担いで上がってくる。

敵との距離を測ろうとするが、死体が散乱していて測遠機を据える場所がない。

本田技手は「衛藤よい頼む」と名前の語尾に「よい」を常に付けて呼ぶ。

死体をかたずけるのはあまりいい気持ちはしないが、据える場所を得るには死体を土手から落とさなくては他に良い方法が無いので、支那兵の死体の手を握って土手から引き落とした。

ぐにゃ、ぐにゃした手には、まだ温かみが残っていて一層気持ちが悪かったが斃れている支那兵を三人ぐらい放り落とした。

自分も線路上に砲隊鏡を設置しようとしたところ、今度観測小隊長になられた野中少尉が自分の後ろに立って眼鏡で敵情を見ていた。

中隊長に「中隊長殿、観測手一名を連れて先方に行きます」と小隊長が言うと、中隊長が頭を縦に振るのを見て「衛藤、行くぞ」と言う。

自分が再び砲隊鏡をしまい背負って立ち上がるのを見て、小隊長は右手に軍刀を握って敵弾が不気味な音をたてて乱れ飛んで来る線路上を一目散に走り出した、自分も後に続く。

小隊長は軽い装具の身だけど、自分は背の砲隊鏡が踊って思うように走れなかったが一生懸命に走った。

しかし敵弾は前から、右から、左から「ヒューン、ヒューン、ヒューン」と唸って通るのもあれば「パン」と足元に落ちるのがある、敵銃弾は物凄く来る。

小隊長が「危ない、下りよう」と言って土手を下りて走る。

ちょつと茂みのある所を乗り越える時、先刻まで我々を射撃していた敵兵は、我々の味方の銃弾に傷つき斃れている。

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