第01話 あっけなく
5月下旬、少し癖のある黒髪で大人しい印象を受ける男性、宮本樹は、ようやく慣れてきた通学電車に乗り込み、空いている席に着いた。
大学の最寄り駅まで1時間と少しかかる。電車に揺られること数分、次の駅に停車し、扉が開き、たくさんの人が乗り込んでくる。
樹は、その中の1人の女性と目を合わせお互いに会釈する。
樹は今年、大学進学のために実家のある神奈川県から上京し、個人経営の喫茶店を営んでいる叔父の下でバイトをしながら一人暮らしをしている。
樹が通っていた高校は男子校だったため、共学の高校からきた男子と何を話していいか分からない。女子とは話すだけで緊張する。その上、部活やサークルに所属していないため樹は友人が少ない。
その中でも親友と呼べるのは同じ高校から進学してきた1人だけだ。その友人は、多少遠くても広い部屋が良かった樹とは違い、朝起きるのが苦手だから授業に遅れると困るという理由で大学の近くにある少し狭いアパートに暮らしている。
そんな樹が大学生活の中でひそかに楽しみにしていることがある。それが、この女性との挨拶だ。
彼女の名前は水野葵。同じ大学の同じ学部に通う同級生だ。
葵はとても整った顔立ちをしており、彼女が持つ光があたると天使の輪が見える程に手入れが行き届いた長い黒髪は車内の人の目を惹いた。
樹は葵と話したことはほとんどない。話したのは、自己紹介の時といくつかのグールプに分かれて話し合うという授業の時だけだ。
だから、お互いに顔と名前を知っている、ただそれだけの関係だ。
しかし、必須科目が朝一である時はもちろん、選択科目もかぶっているものがあるらしく、毎日ではないが、週に多いときで4回程一緒になることがあった。
樹はこの声を出すわけでもなく、目を合わせて会釈をするだけのやり取りを楽しみにしているが、葵と付き合いたいと思っている訳ではない。
女子と話すだけで緊張し、よく言って真面目そう、悪く言うと地味な見た目の自分とは住む世界が違うと思っていた。
ただ、会いに行けるアイドルのような、普段は目の保養にして、時々話す、そんな関係を気に入っていた。
そういうわけで、樹は葵を恋愛的に好きなわけではなかった。
そう、なかったのだ。
それはこの日、電車に揺られ30分程経ち、席は全て埋まり、立っている人が増えてきた頃の事だった。
駅に停車し、人が乗り降りする。その流れを樹はなんとなく眺めていた。
すると、妊婦が乗り込んできて、樹の前で止まった。
「あの、この席座ってください」
「あ、ありがとうこざいます、助かります」
樹はその見た目故か、人に頼みごとをされることが多い。
それは、同級生の物を運ぶのを手伝って欲しいという頼みだったり、街を歩いていると観光客に道をたずねられたりもしていた。
そんな経験もあり、樹はこの時も自然に席を譲った。
席を譲った樹は、その間にも乗り込んできていた人達に押し流されていき、最終的には開閉する扉とは逆の扉に行き着いた。
その時、
「あっ」
と、後ろから声が聞こえてきた。
その声に振り返ると、目の前に葵がいた。しかも、振り返った拍子に目が合ってしまった。
樹はこの予期せぬ展開に頭が回らず黙り込んでしまった。
それは葵も同じだったのか、葵まで黙り込んでしまい、お互いに黙って見つめ合うという変な状況に陥ってしまった。
そのまま見つめ合うこと数秒、ようやく頭が回りだした樹は小さく会釈をして、慌てて身体の向きを元に戻した。
気まずい状況に場所を移したい樹だが、人が多いためそれはできない。葵が動く気配もしないので同じ状況だろう。
そのまま10分程電車に揺られ、1番人が多くなる駅を過ぎ、車内に余裕がでてきたが、未だ余裕があるとは言えない人の量の中で移動するのは変だし、それに何より、ここまで顔を合わせていないとはいえ、隣に居たのに、今更離れると次に話す時に気まずくなると思いそのままでいた。
樹は葵が場所を変えるならそれはそれでいいと考えていたが、葵も場所を変えることなく、結局、大学の最寄り駅に着いてしまった。
樹はようやくこの気まずい状況から解放されると思い電車を降りるが、当然同じ駅で降りる葵も樹の後ろについて降りてくる。
離れるタイミングが分からず、そのまま駅の出口に着いてしまった。
大学までは歩いて5分程かかる。
このまま何を話すでもなく近くを歩いて行くのは気まずいと思い、駅を出てすぐの場所にあるコンビニに寄っていこうと身体の向きを変えようとしたその時、トントンと肩を叩かれた。それに振り返ると葵と目が合った。
「えっと…水野さん、どうしたの?」
「私、宮本君が妊婦さんに席譲ってるとこ見てたよ。宮本君って優しいんだね。じゃあ、私先行くね。」
そう言い、最後にニコッと笑って歩き去って行く葵を、樹は立ち尽くし、見送る事しか出来なかった。
(水野さんって普段は綺麗って感じだけど、笑うと可愛いんだな)
そんな陳腐な事しか頭に浮かばない。
男子校出身である樹には女性に対する免疫がない。
大学でもトップクラスの美人である葵に笑いかけられ、褒められた樹は、これだけのことであっけなく恋に落ちたのだった。