初恋の螺旋
世梨香は、車の助手席に座り、窓から雪景色を眺めていた。高速道路を降りてからは、白く染まった田んぼが続いている。ときおり、木々に囲まれた一軒家が見える。同じ景色が繰り返されているようだった。
「誰のことを書くか決めたの?」
世梨香の母である初穂が、運転しながら言った。
「決めてない」
世梨香は外を見たまま答えた。
「おばあちゃんのことを書いてみたら?」
家族のことを作文に書きましょう、という冬休みの国語の宿題であった。世梨香はその宿題が嫌いだった。世梨香は初穂の問いかけに答えないことにした。
「もうすこしで着くわよ。ちゃんとお行儀良く挨拶をするのよ」
初穂は、ハンドルを握りながらため息を吐き、車のワイパーの速度を上げた。
久しぶりの帰省となる。四、五年前に家族で祖母の家に行ったきりだった。その時は青々とした田んぼが広がっていた。
世梨香が不機嫌な理由は、急に決まった帰省である。年末からお正月にかけて、母の実家に行くことになったのだ。
もともとの予定では年末年始、母は仕事に出るはずだった。世梨香も東京のアパートで年を越すはずだった。お弁当屋の店長のイマムラさんの母への好意で休暇を取れたのだった。
『おせち料理の仕込みや宅配で忙しくて大変な時期なのに、休ませてもらえるなんて、ありがたいことなのよ。今村さんに感謝しなきゃ』
世梨香はイマムラさんが苦手であった。
初穂は、世梨香を学校へと送り出すと、そのまま仕事へと出て行く。いつも帰ってくるのは夜だった。世梨香は、中学からの帰り道にお弁当屋さんに寄り、夕食を受け取ることになっていた。イマムラさんは夕食後のデザートをくれるときがある。コンビニで売っているプリンやシュークリームであったり、ケーキ屋さんで買ってきたものまである。世梨香はイマムラさんの厚意を素直に受け取ることができなかった。
世梨香が朝から不機嫌であったのにはもう一つ理由があった。中学校の同じクラスの親友の真子ちゃんと初詣に行く約束をしていたのだ。帰省の話を聞いて真子ちゃんに慌てて電話をした。
『約束したのに。いいよ、他の友達と行くから』
真子ちゃんにそう言われてしまった。世梨香の気持ちは落ち込んだまま、十二月三十日の朝が来て、車に乗り込んだのだ。
国道から小道へと入り、それからほどなくして、車は祖母の家の庭へと入った。タイヤが新雪を踏みつけながら庭の中へと入っている。
世梨香の祖母、雪恵は玄関の扉を開けて家の外から出てきた。玄関にうっすら積もっていた雪を箒で払っている。
「よく来たわね、世梨香ちゃん。まぁこんなに大きくなってぇ」
「お久しぶりです。おばあちゃん。お世話になります」
世梨香は車から降りて玄関へと向かい、雪恵に丁寧にお辞儀をした。
「世梨香、後ろの荷物を降ろすの手伝って」
初穂は車から荷物を降ろすのを優先したようだ。バックドアを開けて、荷物を抱えていた。
車に積まれた荷物を玄関先にあげたあと、初穂と世梨香は仏壇に線香をあげた。祖父の遺影がある。初穂は、久しぶりねお父さん、と仏壇の写真に語りかけていた。
その後、三人はコタツに脚を入れて、お茶を飲みながら蜜柑を食べた。
「世梨香ちゃん、中学校はどう? 楽しい?」
祖母の声は大きい。耳が遠いからだ。自然と自分の声も大きくなってしまうのだ。
「楽しいです。仲の良い友達もいますし」
世梨香もいつもより大きな声を出して答えているが、後半は声が小さくなってしまった。世梨香は剥いた蜜柑の一切れを口へと放り込んだ。
「さて、そろそろおせちの仕込みをしようかね」
雪恵はコタツから立ち上がったって、障子を開けた。
「お母さん、手伝うよ」
初穂も立ち上がり、台所に行った。
一人、居間に取り残された世梨香は、卓の上に置いてあったリモコンで、床の間に置いてあるテレビを付けた。
年末だからなのだろう。テレビのタレントは晴着であった。みんな楽しそうに笑っている。
チャンネルを変えた。地元のテレビ局のニュースだった。ニュースキャスターが大雪への警戒を促している。また、町で野生の猿がゴミを漁っていたという目撃情報が多数あるらしい。夜間にではなく早朝に生ゴミを出すようにと、アナウンサーは真面目な顔をして注意を喚起していた。東京では考えられないニュースだった。コタツの上の壷には、干からびた梅干しが入っていた。白いカビだと思ったら、塩が粒となって浮いていた。食べたら酸っぱかった。
台所からは、雪恵と初穂の会話が聞こえてくる。
「それで、どうするつもりなの? 返事を待っていただいているのでしょう? 良い人なのでしょう?」
電話でいつもやりやっている内容であった。
「世梨香のこともあるし、それにお母さんだってずっとこのまま一人暮らしってわけにはいかないでしょう」
トントントンという包丁の音が聞こえてくる。
「私はここでのんびりと暮らしているからさ」
「そういうわけにはいかないでしょう」
世梨香は立ち上がり、台所の障子を開けた。
「散歩に行ってくるね」
世梨香がそう言うと、初穂も雪恵も気まずそうな顔をした。
「こんなに積もっているの、東京では珍しいし」
東京でこんなに雪が積もったら、電車が動かなくなってしまうかもしれない。学校も休みになるかもしれない。東京のすべてが止まるかもしれない。
「夕ご飯には戻ってくるのよ」と初穂は台所でバイ貝を洗っていた。
「そういえば、佐々木さんのお孫さんも東京から正月は戻ってくるって聞いたよ。世梨香ちゃんと同じ中学三年生だよ。一緒に遊んだらどうだい? 電話してみようか?」
台所から出てきた雪恵の提案を丁重に断る。
「行ってきます」とだけ世梨香は言った。
世梨香は、近くの公園で時間を潰すつもりだった。世梨香は畦道を歩いた。
世梨香は耳をすませた。降雪のときに、シンシンという音が聞こえると思っていたけれど、そんな音は聞こえてこなかった。幽かに聞こえてきたのは、水の音だった。畦道の片側に、幅五十センチほどの用水路に水が流れていた。
この水はどこから流れてくるのだろうか。冬でも凍らないのだろうか。世梨香は用水路へと落ちないように気を付けながら指先を水の中へと入れた。水は冷たかった。
田んぼは雪で埋まっているのだから、水を流し続ける必要なんてないのではないか。そんな疑問が世梨香の頭に浮かんだ。
しばらく立ち止まって、水が流れ続けている理由を考えたけれど、結局分からなかった。世梨香は、頭と肩に積もった雪を払って、また歩き始めた。
少し歩くと、ガラス・ハウスがあった。ガラス・ハウスの内側には水滴が付いていた。ガラス・ハウスの天井へと舞い降りた雪は溶け、したたり落ちている。ガラス・ハウスの周辺だけ雪が積もっていない。まるで雪がガラス・ハウスを取り囲んで埋めようとしているようだった。
世梨香がガラス・ハウスの中を覗き込むと、イチゴの花が咲いていた。緑色の小さなイチゴもいくつか見えた。ガラス・ハウスの横に煙突とストーブが見えた。ガラス・ハウスの中をそれで温めているのだろう。冬なのにガラス・ハウスの中だけ春だった。
公園が見えてきた。丘の上に一本だけはえている桜はとても寒そうであった。
ジャングル・ジムや滑り台がある広場に人影がある。子どものようであった。その子どものピンク色の服が、雪の中で蛍のように淡く光っていた。
公園にいた子どもは世梨香に気付いたようだった。押していた雪だるまから手を離し、世梨香のところへと走ってきた。
「こんにちは」
世梨香の所へやってきた子どもは笑顔で挨拶をしていた。
「こんにちは」と世梨香も答えた。
「私は佐々木コスモスって言います。小学六年生です」
佐々木コスモスと名乗った少女は、自己紹介をすると頭を礼儀正しく下げた。
この少女が祖母の言っていた、佐々木さんのお孫さんなのであろう。ただ、どうみても中学三年生には見えなかった。
「私は……世梨香」
世梨香は、名字を名乗らなかった。名字も名乗った方が、この田舎ではとおりが良いのだろうけれど……。
「やっぱり! ここで待っていたんだよ」
コスモスは嬉しそうに雪の上を飛び跳ねる。コスモスの長靴も、鮮やかに光を放つピンク色だと世梨香は気付いた。全身がピンク色だった。
「私を待っていたの?」
「うん。おばあちゃんに聞いたの」
世梨香は、祖母がササキさんの家に電話をして、世梨香が公園に行くということを伝えたのだろう。
「それでね、宿題を手伝ってもらいなさいって」
「宿題?」
世梨香は、コスモスの言葉に首を傾げた。どうして私が手伝わなければならないのだろうか。だけど、田舎では近所付き合いが大事だと聞いたことがあった。断ると、おばあちゃんに迷惑がかかるかもしれない。
「私に手伝えることなら……」
「ありがとう! じゃあ、インタビューさせて。初恋したときって、どんな感じだった? 胸がやっぱりどきどきした?」
世梨香はその唐突な質問に驚いた。
「初恋? それが宿題なの?」
世梨香には、それが小学生の宿題にはとても思えなかった。だけど、世梨香は小学生のときも家族について作文を書いたことがあったのを思い出した。そのときは、家族のことを原稿用紙いっぱいに書いたものだ。
「うん。おばあちゃんがおじいちゃんに一目惚れしたことについて調べて書くつもりなんだ」
「そうなんだ……。でも、私は恋については分からないから手伝えないかな。ごめんね」
世梨香は、恋なんてものを、まだ、したことはなかった。それに、冬休みの宿題で誰のことを書こうかもまだ決められていない。
「あれ? 世梨香さんは、中学三年生だよね? 初恋は中学三年生のお正月、野生の猿に襲われたときに、おじいちゃんが助けてくれたんだってだっておばあちゃんに聞いたんだけど」
「コスモスちゃんのおばあちゃんは、そうだったんだね。でも初恋をする時期って、人それぞれなのかもしれないよ」
それに、今日は十二月三十日で、世梨香の中学三年生のお正月は、明後日だ。未だ来ていない。
「それなら、雪だるまを作って遊ぶ? 一人だと大変なの」
滑り台の横には雪の球体があった。公園を転がして大きくしていたのだろう。
「それなら手伝えそうだけど……」
「じゃあ、決まり! 一緒に雪だるまを作ろう!」
コスモスは元気よくまた雪の塊のところへと走り出した。世梨香もその後に続いた。
雪だるまは大きかった。転がせば転がすほど大きくなっていく。
「今度は、こっちの方向に転がしてバランスを整えましょう」
雪だるまは、上手に方向転回しながら転がしていかないと、不格好なロールパンのような形になってしまい、まんまるとはならないようだ。
「もう少し力を入れて」
「いち、に、の、さん」
世梨香とコスモスは、雪の塊を押すに押した。公園から陸上グラウンドへと押していく。足と腰に力を入れて二人で息を合わせないといけなかった。呼吸をするたびに白い息が吐き出された。世梨香はダウンジャケットを脱ぎたくなるほど体が熱くなった。
完成した雪だるまは、コスモスと同じくらいの背丈であった。
「じゃあ、明日に顔と手を作ってあげようかな。世梨香さんも、手伝ってくれる?」
「いいよ。それに、今日はもう夕飯の時間だろうし、お家に帰らないとね」
「うん。それじゃあ、世梨香さん、また明日!」
「じゃあ、また明日ね。コスモスちゃん」
世梨香とは逆の方向に実家があるようだった。公園の入口で別れた。
世梨香は実家へと帰った。雪恵と初穂は、爪楊枝を使ってバイ貝の中身を取り出しているところだった。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「世梨香、寒くなかった?」
「うん」
「お腹空いた? 晩ご飯にする?」
「まだ大丈夫。それより……おばあちゃんの写真とかアルバムがあったら見せて欲しいです」
小学生のコスモスちゃんも、宿題に取り組んでいた。自分もやらなければならないと思った。
「宿題で家族のことを作文しなきゃいけないんですって」
初穂が補足をするかのように口を挟んだ。
「はい。そうなんです」と世梨香は俯きながら言った。
やっぱり、昔のアルバムを見るには、理由が必要なのだと世梨香は思った。
「久しぶりに見てみようかね」と雪恵が言った。
アルバムは仏壇のある部屋のタンスに大事そうにしまってあった。東京のアパートでは、家族のアルバムは物置の奥で埃を被っていることを世梨香は知っていた。
雪恵が畳に座ってアルバムを開いた。アルバムの一ページ目は、写真の四方が茶色にくすんだ白黒写真だった。
「これが世梨香ちゃんの曾おじいちゃんと曾おばあさんだよ」
世梨香も祖母の隣に座ってアルバムを覗き込む。
古ぼけた写真の真ん中に、男の人と女の人が真ん中に写っている。真ん中の女の人は白無垢を着ていた。結婚式の写真なのだろう。
アルバムの次のページをめくると、男の人だけが写っていた。お侍さんのように剣を腰に下げているけれど、服装は洋服で、帽子を被っていた。
「この写真って」
見覚えのある写真だった。
「そうだよ。仏壇にあるのと同じ写真だよ」
同じ写真が写真立てに入って仏壇の線香の後ろに置いてある。曾おばあちゃんと曾おじいちゃんの結婚式の時の写真と、戦争に行く前に撮った曾おじいちゃんの写真だった。
曾お婆ちゃんと結婚をして、すぐに戦争に行って帰らぬ人となった曾お爺ちゃん。
戦争に行く前に宿った命。それが、お婆ちゃんだったと世梨香は聞いた。初めて聞くことだった。
「じゃあ、おばあちゃんは曾おじいちゃんにあったことが一度もないの?」
「ないんだよ」と、雪恵は答えた。
「会ってみたい?」
「どうだろうねぇ。お父さんよりも、もう随分と年上になっちゃったからねぇ」
雪恵は目を細めながら仏壇を見た。仏壇には蜜柑がお供えされていた。
「世梨香ちゃんは会いたいのかい?」
世梨香はドキリとした。台所から料理をしている音が幽かに聞こえた。
「分からない」と、世梨香は黙々とアルバムをめくるのだった。
一年の最後の日が来た。世梨香はお昼ご飯を食べた後、退屈してしまった。雪恵と初穂は相変わらずテレビを見ながら爪楊枝でバイ貝をほじくり出し、黙々と食べ続けていた。いつまでも食べ続けそうな二人だった。
「遊びに行ってくる」
世梨香は立ち上がって言って家を出た。
昨日も通った道だった。畦道の水路には、今日も水が流れていた。昨日からまた新たに積もった雪の上を世梨香は歩く。
公園には、雪だるまがぽつんと立っていた。昨日、コスモスと雪だるまを押して回った足跡もすっかり無くなっていた。公園の遊具は、薄らと雪化粧がされている。
「世梨香さん、こっちこっち」
雪だるまの所に来た時、突然、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
見上げると、コスモスはジャングルジムの頂上の鉄のパイプに座って、手招きしていた。
ジャングルジムから見る景色は、よりいっそうの白い世界が広がっていた。丘の上の一本桜がよく見える。枝が広がっているためか、積雪で折れたりしないようにしているのか、支柱がいくつも立てられていた。学校の正門の所に植えられている桜よりも、何倍も大きかった。
「なんだか、あの桜、一本だけで寂しそう」とコスモスは呟いた後、「雪だるまさんも、一人で寂しそう」と言った。
公園の真ん中にポツンと立っている雪だるまを、世梨香とコスモスは眺める。
「となりにもう一つ、造ってあげる?」
「それがいいね!」とコスモスは元気よく返事をして、ジャングルジムから飛び降りた。
今日は、世梨香が胴体の部分を、コスモスが頭の部分をそれぞれ造ることにした。そして、一人で雪玉が押せなくなると、二人で力を合わせた。
雪だるまが二つ並んだ。
「これで、雪だるまさんも、二人で仲良く、年を越せるね」
コスモスは満足そうに胸を張って言った。
今日は十二月三十一日である。大晦日であった。世梨香は真子ちゃんとの初詣の約束を思い出していた。来年は一緒に初詣行けるだろうか。
真子ちゃんは他の友達と初詣に行くと言っていた。誰と行くのだろうか。初詣に一緒に行こうという約束を破ったのは世梨香だった。冬休みが終わったあと、仲直りできるだろうか。仲直りしてくれるだろうか。
世梨香は、白い息とともにため息を吐いた。遠くにぶ厚い灰色の雲が見えた。これからもっと雪が酷くなるかもしれなかった。でも、コスモスと作った雪だるまは、ちょっとやそっとの風や雪では埋まったりしたいだろう。
「ごめんね、私、用事を思い出したの。今日はここまでにして続きは明日にしない?」
「分かった。今日も遊んでくれてありがとう」
コスモスに別れを告げて、世梨香は、帰路へと歩き出す。ふと、『またね、おばぁちゃん』という声が聞こえたが、振り返っても誰もいなかった。
世梨香は家へと帰った。 電話はテレビの横にあった。テレビがうるさかったのでテレビを消した。
「ちょっと、いま、観ているのよ」と初穂が言ったが、世梨香は構わず電話番号を押していった。
真子ちゃんに、今日のうちに伝えなければならないと思った。今年のうちに仲直りしなければならないと思った。「はい、もしもし立花ですが」
真子の母親の声だった。真子ちゃんの家には遊びに行ったことがなんどもある。世梨香が真子ちゃんの家に遊びに行くときには真子ちゃんのお母さんも家にいる。そして、美味しいおやつを作って出してくれるのだ。蜂蜜とバターがたっぷりとかけられたホットケーキが、密かに世梨香のお気に入りだった。
「もしもし。あの、私は真子ちゃんと同じクラスの……」
世梨香の声はどんどんと小さくなって、最後まで言い切らないうちに蚊の泣くような声となってしまった。
「あっ、世梨香ちゃん?」
「はい……世梨香です。真子さんはいますか?」
『真子、世梨香ちゃんから電話よ〜』という声が受話器を通してきこえてきた。
真子ちゃんが返事をした声も聞こえてきた。世梨香はほっとした。電話に出たくない、話したくないなんて言われたらどうしようかと思った。
「あっ、もしもし、世梨香ちゃん?」
受話器から真子の声がきこえてきた。いつもの明るい真子の声だった。
「あっ。真子ちゃん、私」
「どうしたの?」
「あのね。初詣一緒に行けなくなってごめんね。約束していたのに」
これだけは言っておこうと思った。もう友達だと真子ちゃんが思ってくれなくても、もう一度、ごめんね、と言っておきたかった。
「本当は世梨香ちゃんとも一緒に行きたかったけど、仕方ないよ。来年は一緒に行こうね」
「ありがとう。私も来年、一緒に真子ちゃんと行きたい」
真子ちゃんとの電話が終わったあと、初穂が世梨香に話しかけてきた。
「初詣の約束をしていたから、実家に来るの嫌がっていたのね」
どうやら初穂は世梨香と真子の話を聞いていたらしい。
「うん」
世梨香は観念したかのように肯いた。
「そう言ってくれたらよかったのに」
初穂はコタツの上の壷から梅干しを取り出して口に入れ、酸っぱそうな顔をした。
・
新しい年となった。
おせち料理でお腹いっぱいになった世梨香は公園へ行く。コスモスと遊ぼうと思ったからだ。しかし、そこにコスモスの姿はなかった。公園には、雪だるま二体が仲良く寄り添っていて、世梨香は少しホッとした。
手持ち無沙汰な世梨香は、一本桜の丘へと登っていく。ジャングルジムで見たときよりも、桜の木は大きかった。
『キッ、キッ、キッツ』
甲高い音が突然、上の方から聞こえてきて、世梨香は驚きのあまり深雪に左脚をとられて転んでしまった。
キッ、キッ、キッ、キィイ。
背中が寒くなるような声だった。獣の声だった。猿だった。キッ、キッと歯をむき出しにしている。
右手で幹を掴み、枝を大きく両脚で揺らしていた。桜の枝は上下に撓り、折れてしまいそうだった。
猿は、反動で揺れながらも、両眼は世梨香を睨みつけている。
怖い。
世梨香は起き上がり、その場から逃げ出した。丘を転がるように下る。後ろを振り向かなかったけれど、世梨香の後を追っかけて来ていることは分かった。
家の方に走った。しかし、猿が世梨香の行き先を塞ぐように立ちはだかった。歯を剥き出しにしてうなり声を上げる。体育でやった反復横跳びのように、雪の上を小刻みに動いている。
襲いかかってきそうだった。世梨香は、猿に背を向けて、来た道を戻り戻る。公園へと逃げ込み、ジャングルジムに登った。
ジャングルジムの頂上まで登った。猿もジャングルジムを登ろうとしていた。猿の手が世梨香の長靴に触った。世梨香は悲鳴を上げながら足を動かし、登ろうとする猿を蹴り落とそうとする。
登ってこようとする猿の手を世梨香は夢中で蹴る。長靴が猿の爪で引っ掻かれた。猿は世梨香の足に手が蹴られても、諦める様子はなかった。ジャングルジムの一番上で、払っても、払っても猿は登ってこようとする。
「おい! 猿」
と公園に男の声が響いた。そして、猿の顔が雪にまみれた。雪玉が命中したようだ。
男の子は、野球のピッチャーのように、雪玉を投げた。今度は猿の脇腹に当たった。桜の丘の方へと猿は逃げす。
「大丈夫か?」
世梨香は返事をすることができなかった。恐くて、両手をジャングルジムの鉄棒から離せなかった。
「大丈夫か? 降りられるか?」
世梨香はジャングルジムを登ってきた男の手を借りながら、やっとジャングルジムを降りることができた。
「大丈夫だったか?」
世梨香は、こくこくと肯くことしか出来なかった。
「まだ、猿が出るかも知れないから送るよ。家どこ?」
世梨香は黙って祖母の家の方を指差した。
世梨香と佐々木淳也は歩き出す。道ながら雑談をした。
どうやら佐々木淳也という人も、東京から帰省して退屈で公園に来たらしい。ササキさんのお孫さんらしい。妹はいないらしい。そして、世梨香の通っている第三中学の隣の、第二中学に通っているとのことだった。
「そしてら、学区的に同じ高校になるな」
世梨香は、彼の顔をまともにみることができなかった。顔が熱くなった。新雪に飛び込み、身体を冷やしたかった。
「このガラス・ハウスのイチゴ、俺のおじいちゃんが育てているんだぜ」
世梨香はガラス・ハウスの中を覗き込んだ。薄緑色だった莓の先端がほんのり朱く染まっていた。
正月が明けた。東京へと帰る日がやって来た。早朝、雪恵に見送られる中、車は出発した。
だが、高速道路で帰省ラッシュの渋滞にはまっていた。
「作文は書けたの?」
助手席に座っている母が言った。
「まだ」と世梨香はぼんやりと答えた。世梨香の頭の中で、おばあちゃんのこと、おばあちゃんのお父さんのこと。そして、コスモスちゃんのことが、グルグルと頭の中で混じり合っていた。
「おばあちゃんのことを書くんでしょ? おばあちゃんから聞いた話、忘れないようにメモとかしたの?」
前の車が少しだけ動いた。初穂はエンジン・キーを回した。ブルルルンというエンジンの音とともに車が少し揺れた。
「私、お母さんのことを作文に書こうかな。お母さんが、子どもの時のこととか、私が産まれたときのこととか、今のお母さんのこととか。あと、これからのお母さんのことも」
雪はやんでいた。ただ、高速道路は渋滞をしている。速度は出せず、ゆっくりとしか進めない。時々、前方が詰まり、車を止めなければならなかった。
「そう……。じゃあ、私が小学校のときから」
世梨香は母の話を助手席で静かに聞いていた。長い渋滞である。
母の話を聞く時間は、世梨香にはたっぷりありそうだった。
<了>