16 絶望するよりも素敵な旅を選ぼう
本来ならば未来の夫ジルと出会う大切な日の記憶、しかしこの異空間ではその記憶を別のものにすり替えることが出来るようだ。
「ダメよ、過去の私! 闇の精霊の誘いに乗ってはダメッ。貴女はこれから、素晴らしい出会いと生きていく本当の意味を知るのよっ」
「くくく……残念だな、ティア。過去のお前に今のお前の助言は、一切聞こえないのさ。聞こえるのは……闇からの復讐を勧める囁きだけ。さあティア……呪文を唱えるんだ。邪魔な聖女クロエを魔女裁判にかけて、馬鹿な王太子を投獄し。真の聖女たるお前が、この精霊国家フェルトの新たな支配者になるパラレルワールドを望むのだっ」
噴水で佇む過去のティアラに闇の精霊は、ふよふよとした瘴気となって禁呪を唱えるように促す。
それは闇の精霊が、ティアラに最後のチャンスと言わんばかりに提案してきた悪魔の囁きでもあった。
『支配者? 私が、この国の……? 私ね、もうこれ以上頑張ることが出来ないの。誰も私のことを認めてくれないわ。みんなみんな、意地悪ばかり。けれどもし闇の精霊の魔法で……運命が変えられるのなら』
いつしか過去のティアラの瞳には、希望の光が消え失せて、暗い絶望の色が見え始めていた。その震える口元からは、少しずつ禁呪を紡ぐ動きが見える。
びゅううううっ!
すると、その呪文に呼応する様に、景色が次第に記憶のものからパラレルワールドの別のものへと変貌していく。噴水の周辺に咲いていた花は枯れて、黒い羽を広げる小悪魔のモニュメントに取って変わる。カラスの羽がまるで吹き荒れる嵐のように、空間中を駆け巡った。
「きゃああっ。まさか、本当にこのままパラレルワールドに移行する気なの? どうして過去の私には、今の私の声が届かないの」
現在のティアラと過去のティアラの間には、時空の歪みが発生して、徐々にその距離を遠いものにしていってしまう。闇に魅入られた過去のティアラに手を伸ばしても、ブラックホールに阻まれて届くことはない。
「あははっ! いいぞぉっいいぞぉっティア! 共に世界を変えようではないかっ。この精霊国家フェルトからっ」
このままブラックホールに飲まれ、パラレルワールドへと移行するのかと思いきや、黙って成り行きを見守っていた幻獣ポメが勇敢にも駆け出した。
「きゃうんっ」
「ポメ、危ないわっ。戻って……貴方までブラックホールに飲み込まれたら……私、私……」
「大丈夫だよ、僕を信じて。こう見えても幻獣カーバンクルなんだよ。ティアラはそこで、過去の自分に見せたい未来の景色を祈っていて。僕が過去のティアラの目を覚まさせるからっ」
そう告げるとポメは小さな身体を活かして、ブラックホールの渦の中に思いっきり飛び込んでいった。取り残された現在のティアラは、せめて祈りがポメを守るようにと。そして、未来の素晴らしさを過去の自分に届けるために祈りを捧げる。
祈りが効いたのか、上手い具合にブラックホールの荒波を乗り越えるポメ。さらに軽い身体を浮かせて、ぴょんっと時空の歪の向こう側にいる過去のティアラの元まで辿り着いた。
「くいーん、きゃうーん」
突然現れた茶色い毛並みの可愛らしい小動物に、洗脳状態だった過去のティアラもハッと目を覚ます。尻尾を振り懐いてくるポメに思わず身をかがめて、その丸い額と密やかに飾られたエメラルドグリーンの魔石を撫でた。
『このワンちゃんは……ポメラニアンかしら? 私に、何か用? ごめんね、もう私……闇についていくことにしたから……ワンちゃんと遊んであげられないの』
「ティアラ、闇に飲まれちゃダメだ。お願いだよ、僕を見てっ。僕に気付いてよ……僕、キミと一緒にずっと店番していたポメーラだよっ。前世のキミと約束したんだ……今度はキミの使い魔になるって。そして、気ままにいろんなところに旅に出ようって」
『旅に出る、幻獣と……気ままな旅を。いろんなところに……そうだわ。私、生まれ変わる前にそんな約束をしたような気がする。とても可愛らしい小動物と……幻獣ポメーラと……』
過去のティアラが前世での約束を思い出すべく、頭を抱えて目を瞑る。すると、闇の精霊とのシンクロが徐々に解けていき、目の前には本来あるべき未来が浮かび上がってきた。
「絶望するよりも素敵な旅を選ぼう! そっちの方が、ずっとティアラらしいよ。それにほら……キミには彼が待っている」
ティアラとポメが近い将来、旅先で見るはずの景色。異国へ向かう汽車は宝石のように美しい星スピカの下を走り、やがて迎える朝の日差し。車窓から見えてくるのは、青い、青い……海。
そして、ティアラとポメを守るように寄り添ってくれる運命の男性の姿。
『……ジル!』
予知夢の如く過去のティアラが運命の男性の名前を口にした瞬間、異空間は消えて……。気がつけば、現在のティアラとポメは元のハルトリア公爵邸に帰還していた。




