後編「先輩、だいすき」
ずるずると地面を這って、人目につかない暗がりへ移動する。
指先は人間のかたちのままなのに、いくら冷たい雪をかき分けても、ちっとも寒くない。
いっそ凍傷みたいになっていて感覚がない方がましだった。
あたしの指はきちんと血が通っていて、粉雪の淡い感触も、そのひやっとした冷たさもわかる。
ただ、どうしようもなく、その程度では寒いと感じることができない。
うつ伏せになって、浅く積もった雪の中に埋もれてしまいたいと願いながら、暗い路地を這いずり回る。
ナメクジみたいに。
遠く、表通りから聞こえてくるクリスマスソングが、ますます自分を惨めにした。
両足の付け根から生えてきた無数の触手は、いつしか、六つほどの肉の房になってまとまっている。
ぶよぶよした肉塊の中身が、サナギのように溶けて再構築されていく自分の臓物だとわかってしまう。
やだ、やだ。
こんな体はいやだ。
「どうして、あたしだけこんな目に遭うの」
あんな事故さえなければ、あたしはきっと、もっと普通に幸せでいられた。
泣いても泣いても埋まらない後悔も、張り裂けそうな胸の傷跡も、感じずにいられたはずだった。
先輩に出会って、あの人の言葉に救われて。
やっと立ち直れたと思ったのに。
こんな醜い体になってしまって、どう生きていけばいいんだろう。
足の代わりに生えてきた六つの肉塊の内側で、得体の知れないものがうごめいている。
――こわい。
こんなにも醜い異形なのに、それでも自分の体の一部なのだとわかってしまうのが恐ろしい。
痛くて、苦しくて、疎ましくて。
ねばねばしてぐちゃぐちゃした、言葉にならない不安感が襲ってくる。
先輩だって何度か褒めてくれた自慢の黒髪に、べったりと雪が張り付く。
惨めさで涙があふれた。
どうしてあたしは、クリスマス・イヴに、全裸で地面を這いずり回って隠れようとしてるんだろう。
何もかも、あの赤い空間に迷い込んだのが悪い気がした。
いいえ、それを言うのなら。
あの青い兵隊たちが、あたしを銃で撃ったりしなければよかったのに。
どうして撃たれなければならなかったんだろう。
そう疑問を持つと、あたしじゃない意識体が、その答えをささやいてきた。
――異端絶滅機関。
――第一段階の融合体のような存在、この世ならざる降臨者を駆除するための超法規的戦闘部隊。
――我らに刃向かう羽虫の群れ、いずれ滅び去るものども。
ちがう、ちがう。
あたしは人間だ。
怪物なんかじゃない。
体の中に巣くう何かにおびえながら、あたしは一人、冬空の下で震えていた。
もう何時間、ここで震えていただろう。携帯端末も時計も何もかも壊されてしまったから、正確な時間を知る術がない。
今ごろ、先輩はあたしを心配しているだろうか。
ナツミさんにも迷惑をかけてしまっているかもしれない。
ぽろぽろと涙をこぼして、あたしは嗚咽を押し殺した。
――お腹が、減った。
「……どうしたら、いいの……」
か細い声に応えるものなんているはずがなくって。
「探したぞ。おまえ、迷子にしたって限度あるだろ」
先輩の声がした。
そんなはず、ない。
だって、先輩は駅の場所しか知らなくて。
あたしだって自分がどこにいるかわからないのに、見つけられるはずがない。
それに、先輩の声がしたのは、あたしの後ろからだ。
醜い肉塊を六本も生やした、正視に耐えない気持ち悪いところは丸出しで――恐ろしくて、顔を上げることも、振り返ることもできなかった。
声を上げることもできず、ガタガタと震えるあたしに、先輩は何も言わず近づいて。
「とりあえず、これ着てくれると助かる」
ばさっと布のようなものを被せました。
先輩の匂いがして、あったかくて、たぶん先輩が着ていたコートだとすぐにわかりました。
「えっ、その、せんぱい……?」
先輩は何も言わず、あたしの顔の方に回り込むと、地面と体の間に腕を差し込んで抱き起こした。
今さらになって自分が裸で、おっぱいもお腹もお尻も丸だしなことに気づいてしまう。
思わず、先輩に胸を貸されてることも忘れて、胸を腕で隠しました。
「んー……裾長いから、なんとかなるだろ」
「あのっ……」
ちょうどお姫様抱っこの姿勢――といっても足はないから、ぶよぶよした肉塊の房を布地越しに持ち上げられている――で先輩に抱き上げられて。
かつてない混乱の中、先輩に向かって疑問をぶつけた。
「こわく、ないんですか」
「驚いたことは驚いたけど――事情は後で聞く。一番しんどそうなの、どう見てもおまえの方だろ」
それだけ言って会話を打ち切る先輩の顔には、嫌悪感の欠片も浮かんでいなくて。
なんていうか、図書室で顔を合わせているときのぶっきらぼうで愛想のない、いつもの表情でした。
こんな返答されると思っていなかったから、あたしは、どうしたらいいかわからなくなる。
よく考えるとコートの下は裸で、先輩にはお尻をしっかり見られていて、お姫様抱っこされていて。
これってすっごく恥ずかしいことでは。
「お、重くない、ですか」
「鍛えてるからな」
「……羽のように軽い、ぐらい言ってくれてもいいと思います」
じとっとすわった目でにらんでも、先輩は素知らぬ顔です。
ずるい。
つい先ほど、鉄砲で撃たれて体をめちゃくちゃにされて、下半身からは不気味な肉塊がぶら下がっている状況なのに安らいでしまっていた。
やっぱり先輩はすごいなあ、なんて思ってしまう。
鼻を先輩の胸に押し当てると、男の子の体臭がした。
汗のにおい。筋肉の厚み。太い骨の感触。
すべてが愛おしかった。
路地から表通りに出そうなあたりで、あたしは一つの懸念事項に気づいた。
「あの……せんぱい、どこに行くんですか?」
たぶんここは旧市街のどこかだ。
まさか先輩の家までずっとお姫様抱っこされるわけにもいかない――不思議と先輩なら大丈夫そうな気がしてくるけど、悪目立ちしすぎる――し、第一、あたしの体に起きた異変は解決しない。
よもや病院に行ってどうにかなるとも思えなかった。
先輩はわりとしっかりした足取りだったけど、目的地ぐらいは教えてくれてもいいと思う。
「あー……こういうの、詳しそうな知り合いが一人いる」
曖昧な口調に対して目で問いかけると、先輩は観念したように行き先を白状しました。
「俺の幼馴染みの親父さん。金持ちで研究者で善人だから、まあ、たぶんなんとかなる」
「……雑ですね」
たぶん件の動画の大学教授さんでしょう。
今どきそんな何でもできる科学者なんているわけないのです、漫画じゃあるまいし。
早速、不安を覚えたあたしに、先輩はなんとも言えない表情で弁明します。
「学生だからな。他にコネなんてないぞ」
「……いいです。あたしも、行く当てなんかありませんし」
でもずっと先輩に抱っこされるのは無理がありますよ、と指摘すると、先輩は「それもそうか」と言わんばかりの表情に。
まさか本気でお姫様抱っこしたまま歩くつもりだったとは。
先輩はひょっとしてバカなのでは、と思いました。
「おい、顔に出てるぞ」
「せ、せんぱいってかわいいですね!」
「誤魔化すなよ」
じゃあ電話して迎えをよこしてもらうしかないか、とぼやく先輩を、彼の腕の中から見上げる。
コートをあたしに被せたせいで、今の後輩は普段着のジャケットぐらいしか着ていない。
冬物のインナーぐらいは着ているんだろうけど、外を出歩くにはどうしたって薄着だと思う。
なのにちっとも寒そうじゃない。
体は温かくて、服の上からでもそのぬくもりが伝わってくる。
心地よい先輩の体温と匂いに包まれていると、なんだか、すごく安心したせいかな。
――お腹が、減ってしまう。
ぐきゅるる、とお腹の音が鳴った。
はしたない、恥ずかしいと顔を伏せる。
気にするな、と先輩が言っているような気がする。
けれど空腹感は、収まるどころかどんどん強くなっていく。
なんで、かな。
ぎゅっと先輩の胸に顔を押しつける。
いつもより敏感になった嗅覚が、先輩の匂いを、息づかいを嗅ぎ取っていく。
ああ、なんで、どうして。
――せんぱいはこんなに美味しそうなんだろう。
足下に伸びている肉の房が、ぶるぶると震え始める。
ようやく羽化できるよろこびを、あたしに教えてくれるサナギたち。
熱い唾液が口の中に満ちて、歯茎から生えた歯が犬歯のように尖っていく――肉を噛み千切るための、サメのような歯に。
先輩の胸に顔を埋めて、うっとりと目を細めて、両腕を先輩の背中に回して抱きついて。
「大丈夫か?」
ものすごい勢いで自分の思考が、倫理が、道徳が、本能に塗りつぶされていく。
それがいけないことだとわかっているのに止まれない。
もう、いいよね。
――だってこんなにも、せんぱいは美味しそうなんだから。
ぐちゃり、と湿っぽい音。
ぶちぶちと硬い筋を噛み切って、深々と肉をえぐり取る。
びゅるびゅるあふれ出す鮮血の鉄くさい香りを楽しみながら、皮下脂肪の甘みと筋肉の濃い味を楽しむ。
人間にしてはずいぶんと頑強な体組織だったけれど、接触分解型エーテル・サーキットを構築したあたしの牙なら問題なく噛み破れる。
がくがくと震える先輩にしがみついて、右肩と首の根元から口を離す――舌の上に乗った肉片を嚥下し終えると、たまらない幸福感が湧き上がった。
これまで食べたことのある、どんなごちそうよりも美味しい。
「せんぱい……とっても、おいしいです……」
ねっとりした唾液の糸を引きながら、先輩の血でべとべとになった口の周りをなめ回した。
すごい。
先輩はお肉がだけじゃなくて、血まで美味しい。
がっしりと上半身の力だけで抱きついているから、先輩の表情は見えない。
「がっ」とか「ぐっ」とか、言葉にならない苦悶の声を上げてはいるけれど、悲鳴一つもらさないなんて。
――先輩は可愛いなあ。
愛情を込めて、舌で先輩の喉笛を舐めあげる。
蛇のように長くなった薄紫色の舌が、こりこりした喉仏を唾液で汚していく。
だらだらと首を伝い落ちる汗はしょっぱくて、先輩がどんな激痛に耐えているのかすぐにわかった。
「せんぱい……もっと、食べさせてくださいね」
先輩は肩を深々とえぐり取られていて、あたしに食べられてしまった傷から、どぱどぱと血があふれ出していた。
ああ、こんなに血が出てしまって。
これじゃあ先輩は死んでしまうかもしれない。
――もったいない。
先輩のお肉はすごい。
一口食べただけで体の奥から力が湧き上がってきて、これまでの弱々しさが嘘のように、形態変化を進行させてくれる。
体細胞の一つ一つが熱を放って、内側から作り変わっていくのがわかる。
あたしは自分の牙を舐めあげる。
どういうわけか、普通の人間よりずっと頑丈な、先輩の鋼のような筋肉すら噛み千切れる、降臨者としての捕喰器官。
この先輩はえらい。
きっと特別な人だから好きになったし、こうして美味しく食べられるんだ。
下半身からぶさがっていた六つの肉塊が、音を立てて破れていく。
粘液質な音を立てて、新しい肉体が産声を上げた。
もぞもぞとうごめく、一対二本の前足を持った獣――それが六頭分、あたしの下半身から伸びている。
鋭い爪を持った獣たちは、あっという間に先輩のコートを引き裂いて、その姿をあらわにする。
この子たちもお腹が空いているみたい。
「ねえ、せんぱい……きっと、せんぱいを食べたら、お腹いっぱいになるはずだから……」
「待て……おまえは、まだ……もどれ……」
「いいですよね」
答えを待たず、あたしは先輩の喉に食らいつく。
六つの獣たちもまた、先輩の足や腕、お腹にかぶりついて、その勢いで先輩の体が地面に倒れ込む。
くちゃくちゃと咀嚼音を立てながら、先輩の血肉を、体温を、むさぼり尽くして。
――あたしは怪獣になった。
◆
――神様の話をしましょう。
あらゆる宇宙は本質的に有限です。
時間は常に未来に向かって進み続け、空間はいずれ来る終わりまで膨張し続け、限りある物質とエネルギーによって万象は編まれています。
物理法則の軛はあらゆる存在を縛り、たとえ知性体が文明を築き上げようと、その大半は生まれついた星の上で滅びを迎えてしまう。
この宇宙は、数多ある平行世界――人類史と呼ばれる物語の中でも、恵まれたバリエーションの一つです。
四次元宇宙より上位の視座において、宇宙の根幹を成す可能性事象――エーテルが身近にあり、文明は容易く無尽蔵のエネルギーを手にすることができました。
すべての星はエーテルの波動を放ち、それは地球も例外ではありません。
天地開闢の瞬間より数多の星々の原型が生まれ、天体生命というべき存在へと発展してきたから。
星は永久機関たるエーテル・サーキットを構築し、その恵みを星の隅々にまで行き渡らせています。
この宇宙は豊かで、尽きることない光にあふれていて。
星の似姿たる人類種もまた、自身の魂という名のエーテル・サーキットを持ち、その脆弱な肉体に不釣り合いなほどの可能性を秘めています。
そう、諸人は輝ける地上の星なのです。
だから神様たちはこの世界を欲しました。
青く輝く美しい星、惑星内核より放たれるエーテルの波動、膨大な量の光を蓄えた人類種。
そのすべてを欲しいと思ってしまった。
この世界にも、人間にも、価値があるのだから――すべてを征服したいと思うのも当然だから。
焦がれるように、むさぼるように、すべてを欲する熱情。
そう、神様たちは。
――恋をしたのです。
◆
とてもいい気分でした。
大好きな人のぬくもりに包まれて、お腹いっぱい美味しいものを食べて。
身も心も満たされたあたしは、うとうとと微睡みに落ちていました。
「んっ……」
目を覚ますと、そこは学校の屋上。
人気のないそこは、あたしと先輩が出会った思い出の場所でした。
冬期休暇中の今は、誰も人がいないから落ち着いて眠っていられました。
時刻は夕方、何もかもが夕闇に閉ざされて、強まった雪と風が視界を覆っています。
もしお腹が空いていたなら、つまみ食いのためにも人間がいた方がよかったかもしれません。
でも今のあたしは、先輩のおかげでお腹いっぱいでしたから。
先輩のおかげで形態変化も無事に終わりつつあります。
脆弱な人間の皮膚は、降臨者に相応しい防御回路に覆われて、死人にも似た青白い色に。
流石に先輩以外に見られるのは嫌ですから、皮膚の一部を変異させ、延長した皮膜をドレスのようにまとっています。
ひらひらした朱色のドレスを着ていると、まるで自分がお姫様になったみたいで胸が弾みます。
いつの間にか、血のように赤く染まった両の瞳は、きらきら輝くルビーのようでとっても綺麗。
両手の指は細長く伸びて、ナイフのように鋭い爪が生えてきました。
試しに校舎をひっかいてみたら、バターみたいにすっと爪が入ってわくわくします。
これならきっと、人間だって綺麗に切り分けられますね。
そうそう、あたしの新しい体には六頭のお友達がいます。
あたしの両足の代わりに下半身に備わった、素敵な捕喰のための猟犬たち。
先輩に噛みついていたときは一メートルもないぐらいだった彼らは、今では一つ一つが二〇メートルを超える大きな体になりました。
電車を丸呑みできそうな頭と、柱みたいに太い前足。
そんな怪物たち六つも生えていて、とっても可愛いんです。
当然、この子たちの巨体は屋上には収まりきりませんから、あたしは屋上の少し上に浮いています。
――そう、あたしは空を飛べるようになったんです!
ここに先輩がいたら真っ先に自慢してあげたいんですが、昼間にあたしが食べてしまったから、たぶんもう死んじゃったと思います。
たくさん食べて満腹になったあとなので、特に確認はしなかったけれど。
それが悲しいです。
「少し、お腹が減っちゃいました」
そろそろ遊びに出かけようかな。
今夜はクリスマス・イヴ、きっと街のどこもかしこも人で賑わっているはずです。
異端絶滅機関にちょっかいを出されるのが嫌で、今までエーテル波は出さないように努めていましたが、これだけ成長したあとならいいでしょう。
怪獣らしく、暴れよう。
「そろそろ出かけようかな――たくさん遊んで、たくさん騒いで、たくさん食べて」
きっと楽しい降誕祭になるはずです。
「――ちょっと待て、パーティなら先約があるだろ」
不意に、声がしました。
驚いて目を向けると、そこにいたのは大好きな先輩でした。
ドアが開く音も、足音も、気配もしませんでした。まるで空でも飛んできたように、突然、先輩は現れたのです。
先輩の格好は、それはもうひどいものでした。
衣服は血だらけでボロボロ、髪はボサボサでまるで猛獣に襲われたような有様です。
ただ、少し変でした。
あたしは先輩をお腹いっぱい食べました。
お肉というお肉を食いちぎって、血を飲んで、それはもうひどい大けがを負わせました。
よしんば生命をとりとめていたとしても、自力で歩けるような状態ではなかったはずです。
あたしが傷つけた、という事実を思うと胸が痛みますが、それはそれ。
血で染まった衣服の隙間、がっつりとえぐられたはずの傷口は――完全に塞がっています。
「せんぱい、来てくれたんですね……よかった、あたし、せんぱいのおかげで、こんなに立派になれたんです! ほら、空だって飛べるんです」
先輩は痛ましいものを見るような目で、あたしの下半身から生えた六頭の巨獣を眺めると、深々とため息をついた。
「……ごめんな。もっと早く気づいてやればよかった。俺はいつも、気づくのが遅すぎる」
「そんなことないです。せんぱいが来てくれなかったら、あたし、きっとたくさん、好きでもない人を食べてしまったと思います」
先輩が来てくれたから、好きな人を食べて生まれ変わることができた。
この新しい体に満ちる活力が、大好きな先輩の血肉でできていると思うと、それだけで頬が赤くなってしまいます。
先輩のお肉が喉を通って、食道を滑り落ちて、胃に収まる感触。
思い出すだけでしあわせな気持ちになれます。
それを聞いて。
一瞬、先輩はびっくりしたような顔になりました。
「…………マジか。好きな人か、俺が?」
「そうですよ。あたしの初恋の人は、せんぱいなんですから」
「……いや、そうか。そっち方面の感情だったのか……」
ああ、お兄ちゃんになついた妹みたいなものだと思ってたようです。
先輩はひどい人だなあ。
巨獣の頭が、うなり声を上げながら先輩をにらみつけます。
腕の一振りで先輩をミンチにできる怪物を前にして、あの人は眉一つ動かしませんでした。
「せんぱい、覚えてますか。あたしが、どうして一緒にいてくれんですかって訊いたときの答え」
「……ああ」
――だっておまえがつらいのは、一人でいることじゃなくて、一人をかわいそうと思われることだろ。
あの言葉に込められた共感と理解に、どれだけ、あたしが救われたのか。
それはきっと、言葉にしたって伝わらない。
人間同士でも伝わらないのに、人間と怪獣じゃもっと伝わらないだろう。
「教えてくれ。どうしておまえは、今、笑いながら人を殺そうとしている」
真っ直ぐな目で問いかける先輩の目にあるのは、食い殺されかけた恐怖や怒りではありませんでした。
それは悲痛なまでのいたわりの心。
知っています。
あなたはいつだって、目の前の不条理を悲しみながら、他人を助ける優しい人だったから。
「……せんぱい。知ってますか。人間って、胴体を押しつぶされると死んじゃうんです。骨が折れて、内臓がぐちゃって潰れて。おかしいですよね。子供の玩具みたいに壊れちゃうんです」
思い出します。
一度目の死を――不幸な交通事故であっさりと息絶えた親子三人の記憶を。
幸せな家族なんて、純然たる運動エネルギーと質量に負けて、不格好な肉塊になるつまらないものです。
「ずっと、どうしてあたしだったんだろうって思ってました。何もかも失って、仲良くもない人たちにかわいそう、かわいそうって哀れまれて。一人だけ生き延びたのが、こんなに惨めなことだって初めて知りました」
でも、それはいい。
何もかもくだらないことだった。
「痛くても、悲しくても、苦しくても当然だったんです――パパとママが死んじゃったあの日、あたしだって死んでたんですから」
「……その姿になった理由が、それか」
「はい、そうです。一度死んでしまったあたしを、神様が蘇らせてくれたんです。空の果てから降りてくる神、異界より来たる巨神が」
そして二度目の死を思い出しました。
「あたし、せんぱいに見つけてもらう前に、いっぱい銃で撃たれたんです。怪物だって言われて、頭も腕も足も吹き飛ばされて。最後は燃やされちゃいました……あ、笑っていいですよ。面白いですよね、人間って本当、簡単に壊れちゃうんですよ」
ぎゅっと拳を握りしめる先輩は、何かをこらえるようにうつむきました、
ああ、そんな顔しなくてもいいのに。
先輩は可愛いなあ。
「それでようやく、本当の自分を思い出せたんです」
それはとても嬉しいことで。
「――せんぱい、あたしは怪獣だったんです。誰かを傷つけて、日常を踏み潰して、命を食べて、そうやって世界を愛する生き物なんです」
だから、そう、あたしの目蓋を濡らす雫はよろこびの涙のはずだから。
青白い頬を伝い落ちるそれは、ひどく冷たくて、寒さなんて感じないのに。
どうしてか、心のどこかが痛くてたまらなくて。
「わかった」
先輩は静かに呟いた。
彼の顔が前を向いた。途方もなく大きな決断をしたような、確固たる意思の宿った瞳。
その鋭い眼光に、あたしは震えた。
――危険だ。
あたしに溶け込んだ神様が、かつてない敵意を発した。
だらだらとよだれを垂らしながら、六つの巨獣が牙をむき出しにしてうなり声を上げる。
巨獣が前足を振り上げる――振り下ろす。
それは死そのものだった。
先輩は死ぬだろう。
体積も質量も、一・七メートルと少ししかない人体とは比べものにならない一撃。
軽く音速を超える打撃を前に、ちっぽけな人間にできることなんて何もない。
そのはずだった。
あたしはその一部始終を目に焼き付けようとして――信じられないものを見た。
消し飛んだ。
先輩を押しつぶすはずだった巨獣の腕が。
「……前に、ヒーローを信じるかって尋ねてきたよな」
何かが光って、前足を消滅させた。
それだけしかわからなかったけれど。
先輩は涼しい顔をして、淡々と言葉を重ねていく。
「もしもこの世界にヒーローなんてものがいたなら、もっとマシな現実になってるはずだって思うよ。だから俺は、この世界にヒーローなんていないって考えてた」
おまえも俺も、誰も悲しまずに済んだ現実だってあったろうさ、と呟いて。
深い悲しみと、それに抗おうとする意思の光を宿して。
先輩は怪獣を見上げている。
ありえない。
ただの人間が、エーテル・サーキットで編まれた怪獣を。
この世ならざる降臨者の肉体を破壊するなんて。
恐慌を来したように、あたしの巨獣たちが怯え、その顎で先輩に食らいつこうとする。
けれど、その牙は届かない。
「ようやく俺も覚悟が決まったよ。どこにもいないなんて、何もせずに言っていい台詞じゃなかった」
七色のきらめき――宙に浮かぶ光の盾、無数の輝きが獣の牙を阻んでいる。
次元障壁。
誰かを守るため掲げられた騎士の盾であり、その超人の本質を表す守護の権能。
あたしの中の異形、空の果てより降り立った神様が、その光におびえている。
まばゆい光を放ちながら、先輩の肉体が作り変わっていく。
大いなるエーテル波動、宇宙の始まりにも似た七色の奇跡。
声が、聞こえた。
「――おまえの涙が止まるなら、今から俺は世界最初の正義の味方だ」
ああ、知っています。
数多の都市伝説と共に語られる、確固たる実在の超人。
交通事故や火災から人の命を助け、犯罪から人を守ってきた正体不明のボランティア。
――けれど、その真実は。
都市の誇る幻想にして希望、夜闇を切り裂く一筋の光明――真なる銀のきらめきにも似た白銀の鎧、惑星内核にも匹敵する超高密度エーテル流体をその身に宿す超人。
ひるがえるマントは燃えるように赤く、胸の中央に埋め込まれた結晶体から伸びた光の筋もまたエーテルの赤。
鎧兜のような頭部には、バイザー越しにもわかる正義の瞳。
我らの宿敵。
人の織りなす可能性事象、虚空元素より生まれた最も新しき神。
「――銀の騎士」
思わず、その名を呟いていました。
それはまるで、星の光を束ねたように美しくて。
燦々と燃え上がる太陽のようにまぶしかった。
「涙を流す心があるのなら、オレはおまえを諦めない」
「なにそれ……あたしを、哀れんでるんですか……?」
ぽろぽろとこぼれる涙が、どんな感情に根ざすのか、もうわからない。
あたしの中の神様が、殺せ、犯せと叫ぶ。
シルバーナイトの手足をもぎとって、玩具みたいに犯してやれと叫んでる。
「ゆるさない……せんぱいまで、あたしを、惨めにするなんて!」
傷つけられた巨獣たちが、報復の念に燃えている。
六つの頭が、一斉にあげる雄叫び。
――戦咆哮。
ごああああああああああ、と。
暴風のような雄叫びは、音を媒介にして到達する死の調べ。
分子結合を破壊し、万物を粉砕する音。
校舎が砂でできた城のように崩れていく。
思い出も何もかも、先輩の肉体と一緒に消えてしまえばいい。
なのに。
視界からシルバーナイトが消えている。
ちかり、と死角の隅で光るもの。
見上げる。
身長二メートル超の騎士は、まるで魔法のように空を飛んでいた。
速い。
銀色の光が、流星のように空を舞う。
――逃さない。
あたしは殺意の塊となって、彼を追うことにした。
二〇メートル超の巨獣たちがとぐろをまく根元から、巨大な翼が生えていく。
黒い皮膜に覆われた、コウモリのような悪魔の翼。翼長六〇メートルを超える翼すべてが、エーテル波推進器として機能する。
あたしは怪獣だ。
音より速く飛べるようになったんだ。
飛び立つ。
砂のように崩れていた校舎は、衝撃波でたまらず全壊――砂塵と瓦礫の山となったそれらは礫のように飛散し、周辺の家屋も消し飛ぶかに思われた。
けれど。
「光の盾? 馬鹿にして!!」
瞬間、あたしを囲むように現れた次元障壁――――三六〇度すべてを覆い尽くすドーム状のバリア――が、飛来物と衝撃波の二次被害を完全に防いでいた。
でもわかった。
こうして街を、人間を壊すように戦えば。
あなたは決して逃げられない。
ごあああああああああああああ、と雄叫び。
その恐ろしげな音は、町中に響き渡ったことだろう。
もう、音波や電波に関する擬態は解いている。
これだけの巨体が暴れれば、それだけで野次馬が集まるはずだった。
それを殺そう。潰そう。食べよう。
ああ、きっと先輩は悲しむだろう――その顔を思い浮かべるだけで愉悦がこみ上げてくる。
さらなる形態変化が起きていく。
六つの獣頭が、新たな殺戮機構を獲得。
巨獣の喉が膨らみ、体内で生成した燃料を周囲の大気と合成――それを噴き出しながら着火。
赤く燃える炎の塊が、噴水のように六つの口から吐き出される。
火炎放射。
あたしの体を跡形もなく焼き尽くして、生まれ変わらせた洗礼の炎。
汚らしい吐瀉物のような火炎が、地面に落ちては雪を溶かしていく。
学校の敷地を満たして灰燼に帰していくそれは、可燃物と酸素を含んでいるから消えることもない。
如何に次元障壁であたしを囲っても、地表伝いに起きる火災を防ぐことはできない。
このバリアを解いた瞬間、内部を満たしていた焔の地獄が、街を包み込むことになる。
「せんぱい、このまま逃げ回っていたらみんな死んじゃいますよ!? 焼けて、燃えて、苦しんで! 窒息して、押しつぶされて、噛み砕かれて! みんな苦しみながら死んでいくの!」
それはとても楽しいことだから。
いいえ、それを絶望して悔恨して見つめる先輩の顔なら、あたしはもっと愛してあげられる。
そうだ、先輩はとっても頑丈だから。
手足をもいで何もできなくしたら、あたしの体に取り込んで、たくさん人間を殺す様を見せてあげよう。
それがいい。
きっと、きっと、先輩はそんな風になっても可愛いはずだから!
「あは、あはははははっ! もっと早くこうしていればよかった! 何もかも放り捨てて、すべて壊してしまえばよかったんだ!!」
そうすれば無駄に苦しまずに済んだのに。
答えはもうわかった。
なのに、どうして涙は止まってくれないんだろう。
あたしはこんなに楽しいのに、なんで、頬が濡れたままなの。
巨獣の頭が炎を吐き出し続ける中、あたしは涙を流して。
ふと、夜空を見上げる。
紅蓮の業火に焼かれる地上の照り返しを受けてなお、かき消えることない輝き。
――刹那、一条の星が落ちてくる。
輝けるもの。
星のようにまぶしく、太陽のように熱い一撃。
それは見惚れるほどに美しい神の裁き。
衝撃波を感じる暇もなく、決着はついた。
六つの刃が、天より振り下ろされた処刑刀のごとく、六つの巨獣を根元から絶ち切った。
切り離された獣たちは、再生も応戦もできず、一瞬で七色にきらめく光の嵐に飲み込まれて消滅。
その嵐の中心に、彼はいた。
先輩の、シルバーナイトの思考を理解する。
あたしという怪獣は、六つの巨獣を束ねた多頭獣であり、そのいずれもが本体でもある。
一つの頭を潰しても、すぐに再生して六つで一つの獣へと回帰する魔獣。
それが降臨者によって再構築された肉体の本質、無限再生する捕喰器官にして虐殺器官。
撃破へ至る最適解――すべての頭を同時に破壊する。
近距離戦では、六つの巨獣の攻撃を防ぎながら、同時撃破は難しかったはずだ。
ゆえに彼は距離を稼ぎ、恐るべき速度で一気呵成にケリをつけた。
成層圏まで上昇後、重力加速度とエーテル波推進による加速を足した速度――あたしの知覚範囲外から接近、次元障壁を攻撃転用した光の剣ですべての首を絶ち切る。
恐ろしいほどの反応速度、そして判断力だった。
けれど、まだ怪獣は残っている。
あたしの下半身から伸びた肉塊――絶ち切られた首の断面が、ぼこぼこと泡だって次の巨獣が生えようとしている。
シルバーナイトが両腕を胸の前で交差させる。
胸の結晶体が光り輝き、エーテル流体が渦巻いているのがわかった。
それが、あたしを滅ぼす光なのだとわかった。
「きれい……」
うっとりと見惚れながら、あたしは自分が間違えてしまったことを悟る。
ああ、ダメだなあ。
怪獣なら、ここで諦めちゃいけないのに。
「ディバイン・レイ」
シルバーナイトの声と共に、渦巻く光がこちらへ押し寄せてくる。
あたしの下半身に盛り上がっていた、小山のような肉塊が消えていく。
光に触れた部位、永久機関たるエーテル・サーキットで構築された肉体が、跡形もなく消失したのがわかった。
もう神様の声は聞こえない。
この光によって、消されてしまったのだろう。
ああ、光が、あたしを飲み込んでいく。
怖いな。
死にたくないな。
それでも――大好きな人になら、滅ぼされたって仕方ないと思えた。
「さようなら、せんぱい」
涙がこぼれて。
星が見えた。
まるで、それは。
――銀色の流星。
伸ばされる右手。
シルバーナイトがすごい勢いでこっちに突っ込んできて、あたしの手を掴んだ。
光の奔流がすべてを分解していく中、もう上半身しか残ってないあたしを、宝物でも守るように抱きしめて。
「――泣いてる子供を助けるのも、正義の味方の仕事だよ」
優しい声。
あたしを救ってくれたのは、いつだって先輩だった。
◆
「どけ。今なら、その怪獣を完全に滅ぼせる」
雪が降る、夜の景色でした。
あたしは雪の上に横たわっていて、体からはどんどん熱が失せていくのがわかりました。
当然です。
あたしを蘇生させてくれた神様は消えて、怪獣としての肉体は消滅して。
こうして切り離された人間としてのあたしは、どうして存在しているのかもわからない残滓です。
もうろうとする意識の中、うっすらと目蓋を開くと二つの人影が向かい合っています。
一人はシルバーナイト――二メートルを超える背丈。
もう一人は髑髏のような仮面を被った人――身長は一八〇センチぐらい。
銀の騎士が実在するなら、闇の処刑人だって実在していてもおかしくないはずでした。
「スカルマスク。人間は殺さないんじゃなかったのか」
「――それは怪獣だ。一年も前に死んだ子供の心と形を写し取っただけの、侵略の道具に過ぎん」
都市伝説に語られるお化け、髑髏仮面はあたしを殺そうとしていた。
それも当然だと思う。
あたしは先輩を食い殺しかけ、学校を跡形もなく壊して、街を燃やし尽くそうとした。
笑いながら、みんなを殺そうとした。
こんなの、赦されるはずがない悪人のすること。
「この子は泣いていたよ。それに、まだ誰も殺しちゃいない。なら、まだ間に合うさ」
シルバーナイトはどこまでも穏やかな声で、あたしを庇うようにスカルマスクの視線から隠してくれた。
「時間から外れた男――降臨者すらその時空復元で救うつもりか」
「……依代に利用されていただけだ。外なる魔神はオレが倒したさ」
「だが、異界への経路はすでに開かれている。その器を利用して、奴らは再びこの地へ受肉しようとするだろう――確実な措置は一つだけだ」
バカめ、と吐き捨てるスカルマスクを前にして。
シルバーナイトはひどく透き通った声音で、悲しそうにその問いかけを発した。
「なら教えてくれ。今ここで、泣いている子供がいる。助けを求める声がする――それを見殺しにする正義なんてあるのか」
しばらくの沈黙の後。
「そうして『助けられるかもしれない』をどれだけ背負う? シルバーナイト、貴様は決して神ではないのに」
「大げさだな。オレはいつだって、自分の手が届く範囲しか助けられない男だ」
それは紛れもなく、先輩の言葉だった。
声質もアクセントもぜんぜん違うけど、そうだってわかった。
「なあ、信じてくれないか――」
目を閉じる。
意識がまどろみに落ちていく。
「――この世界には、正義の味方がいるって」
◆
「ん……あれ?」
気づくとあたしは、見覚えのある景色に立っていました。
そう、ここは最寄り駅の前。
空は真昼の明るさで、ちらつく雪まであのときそっくりだった。
まるであの異界に迷い込む直前まで、巻き戻ったかのよう。
「ゆ、夢オチ?」
そういうのってありなんでしょうか。
いや、っていうかどんな白昼夢なんだろう。
あんな、ミンチよりひどい死に方したり、全裸で路上に放置されたり、大好きな人をむしゃむしゃ食べたり。
ちょっと擁護不可能な変態性癖の持ち主じゃないとあり得ないです。
「何が夢だ」
「ふぇ!?」
ぬっと現れた無愛想な男の人は、何を隠そうあたしの初恋の人。
高等部一年の先輩です。
「せ、せんぱい……どうしてここに?」
「ナツミから迎えにいけって言われてな。ちょうどよかったから、こっちの方まで迎えに来た」
ああ、やっぱりアレは夢だったんだ。
悪い夢を、見たんだ。
そう思った瞬間。
「おまえは、俺の後輩だよ――怪獣なんかじゃない」
「えっ……」
絶句するあたしを横目に、先輩は背伸びして「いや、俺すげえ頑張った。降臨者が介入してきたとこが時空復元の限度で苦労したーマジで疲れた」と意味のわからないことを口走り。
にやり、と人の悪い笑みを浮かべた。
「おまえの期待に応えるの、わりとしんどいからな? 先輩は神様じゃないんだぞ」
「……じゃあ、正義の味方なんですか?」
「やっぱり覚えてたか」
先輩はなんとも言えない表情で、あたしの顔を見た。
いや、それよりも。
すべてが夢じゃなかったのなら。
あたしはあの交通事故のときに死んでいて、この体は怪獣になるよう作りかえられたもので。
お腹の中に詰まっている内臓だって、人を食い散らかす異形に成り果ててしまう。
「落ち着け、おまえの体は人間のままだ。あの記憶は、もう起こりえた可能性になっちまった」
「……でも、夢じゃなかったんです」
先輩が奇跡を起こして、時間を巻き戻したのだとしても、あたしが犯した罪は消えない。
よろこんで先輩をむさぼり食い、手足をもいで玩具にしようとしていた邪悪なあたしも、たしかに現実だったのだ。
震えるあたしの肩に手を置いて、先輩は言う。
「……つらいよな。悲しいことばっかりで、こんなはずじゃなかったって後悔して、それでも生きるしかないって」
それはたぶん、嘘偽らざる先輩の本音だったのだと思う。
思わず、問いかけてしまった。
「そう思うなら、どうして、助けたんですか」
「俺のわがままだよ」
素直じゃない人だなって思う。
だから意地悪を言ってやった。
「……無責任です。あんなこと知ってしまって、今まで通りに暮らすなんて無理ですよ」
命を助けてくれた恩人に向かって言う台詞ではなかった。
正直、先輩が怒りだしても仕方ない。
けれど。
先輩の返答は違っていた。
「じゃあ、約束だ。おまえが生きてるのが楽しいって思えるまで、俺はここにいる」
ああ、この人って本当にバカなんだ。
うん、すっごいバカだ。
好きな人いるくせに女の子にそういうこと言っちゃうんだ――下心ゼロでそういうこと言っちゃう人なのか。
絶対、勘違いされるし下手なプロポーズより恥ずかしいこと言ってる自覚あるんですか。
ないですよね、先輩だし。
しかたない人だなあ。
「せんぱい、じゃあ……あたしが楽しくなれるように、お願い、聞いてくれますか?」
「一つ、いいこと教えてやる。今日の俺はサンタクロースも兼業中の先輩だ――後輩のリクエストぐらい応えてやるさ」
なんですかそれ、と茶化しながら。
あたしは切なる願いを口に出した。
「あたしの、なまえ……呼んでください」
ああ、と先輩はうなずいて。
「ホシノ・ミツキ。それが、俺の可愛い後輩の名前だよ」
先輩に名前を呼んでもらうのって、癖になりそう。
ゆるむ頬を隠しきれないまま、あたしは二つめのお願いをすることにした。
「ところでせんぱい、下の名前なんでしたっけ」
「…………ちょっと待て、もう八ヶ月ぐらい経ってるだろ」
だって今さら、急に名前呼びするなんて不自然ですし。
ええ、そう、忘れていたことにしましょう。
「――イヌイ・リョーマだよ。流石に名前ぐらいは覚えてくれよ」
これは正義の味方と怪獣の物語。
この星の歴史が終わるそのときまで、語り継がれる神話のはじまり。
そして。
「はい……リョーマ先輩」
あたしの好きな人の名前は、イヌイ・リョーマ。
学校の先輩で初恋で、この世界最初の正義の味方です。