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冷たい宇宙の魚たち

作者: たっくん

 地球がなくなってからおよそ30年が経った。けれどそれはわたしの体内時計の換算にすぎず、ほんとうのところどれくらいの月日がながれたのかは判らない。それは3年なのかもしれないし、あるいは300年なのかもしれない。それとももしかしたら――とわたしはこんなことを考えたりもする。それはつまり、宇宙空間では時間なんてものはあってないようなものなんじゃないかってこと。根拠なんてものはない。ただ、なんとなくそう思ってみただけのことだ。そうであったら良いと思う。けれど、そうでなくたってとくべつおおきな問題はない。

 わたしはいま、ただひとつのおおきな暗闇のなかを泳いでいる。両の手を前に突き出し、外側へむけて濃い暗闇を押し出す。それはまるで平泳ぎの動作みたいに、わたしの躰は前へ前へと進んでゆく。どこか特定の目的地があるというわけではない。ただ、いずれどこかへたどり着くことができればいいとは思う。地球人だって宇宙人だって、あるいはそれらとはまったく違うなにかしらであれ、そこでなにかと出会うことができればなと思う。

 だって、ここはあまりにも静かすぎる。わたしはいままで(つまりはこの宇宙空間に放り出されてから)他の生命体と接触を果たしたことがない。でもそれってどうして? わたしがこうやって宇宙空間を遊泳している以上、わたし以外の誰かが(さしずめそれは他の元地球じょうの生物が)おなじようにゆらゆらと泳いでいたってなにもおかしなことはない。むしろそれが世のなかの道理というものだろう。なのにどうして、わたしはこうしてひとりぼっちでいなければいけないのか。

 ミライ――とわたしは脳の奥のほうへ柔らかく突き刺さる、そのなんとも懐かしい言葉を呟いてみる。彼女はミニチュワのダックスフンドで、その割にはちょっとだけ体格がおおきかった。臆病でよく吠え、名前を呼ぶとすぐにわたしの元へその細長い尻尾を左右に振りながら駆けた。ソファーでうつぶせになりながら小説本へ視線を落としているなか、彼女はわたしの背中に座り込み、そこで目を閉じるのがお気に入りだった。それは親亀と子亀の様子みたいでちょっとだけ面白かった。正確な年数は忘れてしまったけれど、彼女――ミライは3・4歳ほどだったはずだ。それが人間の年齢に換算していくつくらいになるのか、わたしは判らない。けれどたぶん、彼女はわたしよりもちょっとだけ年上だったはずだ。彼女はわたしのことを、ゴム風船のように自由奔放で、すこしだけ厄介だけど目の離すことのできない妹のように思っていた。そういった視線を感じないわけにはいけなかった。わたしたちは言葉でコミュニケーションを取ることのできない代わりに、視線とか雰囲気とか、そういったものでお互いのことを理解していた。彼女はわたしにとって、ほんとうの家族以上のなにかだった。それがなんであるのか、わたしはついに理解することができなかった。果たして彼女は知っていたのだろうか? わたしたちが何者であるのか。その関係性を、どのように形容することが正しいのか。彼女は、その答えを知っていたのだろうか?

 どちらにせよ、わたしは彼女の答えを知ることができない。なぜならわたしたちは散り散りになってしまったから。それはまるで、脆く砕けた硝子の玉みたいに。わたしはいまイメージする。宇宙空間に散らばった硝子玉のかけらたち。黒く染まった淀みのなかを、自由気ままに進んでゆく彼らたち。彼らは再び出会うだろうか? あるいはなんらかの引力をもってして、再びその身を引き寄せあうことができるだろうか? できればいいと思う。そういったひとつの結末が、わたしたちを包み込んでくれたらどれだけ幸せなことか、いまのわたしには想像することすら叶わない。


 最初こそ戸惑いと好奇心の渦巻いていたこの宇宙空間も慣れてしまえばなんということはなく、いまとなってはただただ暇を持て余すばかりだ。せめて携帯端末くらいはもってくるべきだったなあと後悔するのにはもう飽き飽きで、そもそも地球がなくなったのは瞬きすらも許さない一瞬の出来事であったのだから、そんなことを考える暇などあるわけもなかった。それに運よく携帯端末を所持していたところで宇宙空間にコンセントの差し口などあるわけもなく、結局のところそんなものは宝の持ち腐れだ。仮にそんなものがあったとしても、ライトニングケーブルが手持ちにあるとも限らない。

 わたしはつくづく実感する。かつてそこに確かにあった、わたしたちの社会をかたちづくっていた関係性。さまざまな歯車と歯車の噛みあいによって生じていたわたしたちの豊かな営み。なにかが生き、死に、食べ、食べられ、支え、崩し、作り、壊し、それらがコピーアンドペーストのように、けれど確かにかたちを変えながら蠢いていた世界。もしかしたら、あれはわたしのみていた長く壮大な夢の一部だったのでは? いま宇宙空間に浮かんでいるこちらのほうが現実で、わたしはようやく目を覚ました宇宙の赤子なのでは? そんな思考実験も退屈な時間をすり潰す手段のひとつにすぎず、正直に云って楽しくはない。

 暇だ。つまらない。楽しくない。そんな言葉の連続する毎日であるが、ときたま交通事故的になにかに遭遇することもある。それはつまり、かつて存在していたわたしたちの生活をかたちづくる部品の一部。要は、木製椅子の脚とか、きれいにアイロンがけされた白いシャツとか、乱暴に丸められたティッシュぺーパーだとかだ。そういったものごとのほとんどは使い道のない部品にすぎない。それでも、かつてわたしたちの世界の一部であったものを手に取って確かめることはすくなくない刺激になった。

わたしはイメージした。木製椅子の脚、その全体像を。椅子の置かれた白く艶やかな大理石の床。白く塗りたくられた四角い部屋に、淡く差し込む昼さがりの陽。窓硝子の外では子供たちの声が聴こえる。子供はふたりいて、ひとりは女の子でもうひとりは男の子。女の子は白いシャツを、男の子は赤いシャツを身に着けている。そのうち女の子のほうが、どうしてだか泣いていた。転んだのか、いじめられたのか、あるいは男の子に振られてしまったのか。判らない。けれど、白いシャツの女の子はおおきな声で泣いた。そのうち、赤いシャツの男の子がポケットティッシュを取り出して、白いシャツの女の子の涙を拭いてやった。拭いても拭いても涙は溢れ、それはまるで永遠を思わせる深夜帯の雨みたいだなと赤いシャツの男の子は思った。赤いシャツの男の子が最後のティッシュペーパーを取り出したとき、それは起こった。その瞬間、地球は消滅したのだ。

 わたしは小説本から顔をあげ、ふむ、と呟いてみた。手に取ったA4用紙にはまだ余りがあったが、物語はそこで終わっていた。これは小説と呼ぶべきものなのか。あるいは、あの日起こった地球の消滅に対するひとつの予想であるのか。どちらにせよ、これがわたしのおおいなる退屈をすこしの間紛らわせたのは確かだった。そしてこのA4用紙に書き殴られた物語には退屈を紛らわす以上のおおきな意味があった。それはつまり、この物語は、明らかに地球の消滅以降に書かれたものであるということだ。それはつまり、この宇宙空間のどこかに、わたし以外の生きた人間のいる可能性を示していた。

 そりゃあ、頭のなかでは信じていた。この宇宙空間のどこかしらには、わたし以外の生きた人間がいるのだということを。けれど確証がなかった。ここは、あまりにもいきものの気配が希薄すぎる。なにかを信じ込むのにはなにもかもがなさすぎる。そのなかで、わたしの元へ偶然やってきたこの物語は、ひとつのおおきな確証となった。ここにはまだ生きている人間がいる。そう思うと頭の奥のほうが冴え、いままだよりもずっと思考がクリアになってゆくような気がした。

 そんなときだった。わたしが、彼らに出会ったのは。


 彼らは突然やってきた。なんの前触れもなく、なんの物音も立てず、唐突にわたしの目の前に現れたのだ。彼らは魚だった。いちいち数を数えることを諦めるくらいの群れを成す彼らは、まるでそれ自体がいっぴきの巨大ないきものであるかのようにわたしの頭上を泳いでいった。まさかこのようなかたちでいきものとの接触を果たすとは思ってもいなかったわたしはなにも言葉を発することができなかった。けれど、気がつくと手が伸びていた。指先は何匹もの魚たちの滑らかな腹のうえを滑った。手を伸ばしても、彼らはけっして逃げなかった。なので、捕まえるのにたいした時間はかからなかった。

 わたしの両の手に包まれた彼は、500mlのペットボトルくらいのおおきさをしていた。躰は薄い青に染まり、細長い顔がじっとわたしのことを睨んでいた。なにをするの? そう問い掛けているようにもみえた。一方のわたしは、なにをするべきなのかきまっていた。なんの迷いもなかった。わたしは、おおきく口を開け、彼の喉元に噛みついた。歯と歯が皮膚を破り、そのしたで脈打つ肉をすちゃりと押し潰した。その間、彼はまるで置物のひとつに取って代わったみたいに身動きひとつしなかった。彼はむしろ、その躰がわたしに噛み砕かれ飲み込まれることを期待しているみたいだった。

 食べることのできない頭と尻尾以外をきれいに飲みくだしたわたしの手は、既につぎの獲物を捕らえていた。わたしは両の手にそれぞれいっぴきずつの彼らを捕らえ、今度は乱暴にかぶりついた。わたしはすっかり失念してしまっていたのだ。わたしの腹の底に眠る食欲のことを。けれど一度目を覚ましたいま、わたしの食欲はとどまることを知らなかった。わたしは彼らを捕り、食べ、そして食べ続けた。その行為は3日3晩続き、そしてやがて、わたしは最後のいっぴきを飲みくだした。かつてそこにあった魚たちの群れは、もうどこにも見当たらなかった。代わりにわたしの周りには、頭と尻尾だけになった彼ら(であったものたち)が無数に浮遊していた。彼らは思い思いの目をして、どこでもない宇宙空間のただ一点をみつめていた。

 結局のとこ彼らが果たしてなにものであったのか、わたしには見当もつかない。かつて地球じょうに息づいていたいきもののうちのひとつなのか。あるいは、この宇宙空間で生きる種であるのか。彼らは、わたしになにもかもを伝えることなく息絶えた。あるいは伝えることなどなにもなかったのかもしれない。わたしだって、なにかを伝えようとこの空間を泳いでいるわけではないのだ。

 食事を終えるとおおきな眠気がやってきた。起きているのか眠っているのかも判らない生活を続けるわたしにとって、このような充実感のある眠気はとても久方ぶりのことで、わたしはそのありがたみをじっくりと噛み締める間もなく眠りに落ちた。

 けれど、眠りは長く続かなかった。物音がしたのだ。とても巨大で、地面の深くからやってくる地鳴りのような、あるいは、深い夜の底に潜む獣の唸り声のような。

 わたしはすぐに目を覚ました。そしてつぎの瞬間、そいつがわたしの目の前に飛び込んできた。


 はじめ、わたしはそいつのことをおおきな壁だと思った。重い唸り声をあげる大きな壁。けれど違った。よく目を凝らしてみると、そいつにはわたしの身長とおなじくらいのおおきな牙があった。わたしはそいつの全体像をやけに冷静に確かめることができた。何本も連なった牙を包み込む口。それ自体がひとつのおおきないきものを思わせる一対の目。目は、確かにわたしの存在を認知しているようだった。そしてそれと同時に、わたしの周りに浮かぶ無数の魚たちの残骸のことも。

 わたしには判っていた。彼は怒っている。そしてその怒りがどのようなかたちで行動に移されるのかまで、わたしははっきりと判っていた。不思議と怖くはなかった。むしろ当然の道理だとさえ思った。むしろわたしは歓喜していた。この宇宙空間でさえ、結局のところかつて存在していた地球となんら変わりはないのだ。わたしたちは常になにかを食べ、そして食べられる。そういった連鎖が、ここでも当たり前のように起こり続けている。それってなんて素晴らしいことなのだろう?

 彼はおおきく口を開けた。口の奥は深い暗闇に包まれ、その更に奥のほうからは生暖かな風がやってきた。その風は、とても心地よくわたしの躰を洗った。わたしはそのまま深く息を吸い込み、むせ、そして笑った。とてもおおきな声で、腹の底から声を出し、久方ぶりに心から笑うことができた。あるいは地球が存在していたころでさえ、わたしはこのように笑うことがなかったかもしれない。

「ありがとう」と試しに呟いてみた。それに応えるみたいに、彼の口がわたしの躰をゆっくりと包み込んだ。おおきな牙が頭上にせまる。いまならまだ逃げられる。けれど、逃げる気など起きるわけもなかった。わたしはいま、ありえないくらいの幸福感に包まれているのだから。

 そしてわたしは食べられた。意外なことに、痛みはなかった。けれどそれがあまりにも穏やかな捕食であったので恐る恐る目を開けてみると(わたしはいつの間にか目を閉じていたのだ)、目の前にミライの姿が飛び込んできた。

「どう?」なにかを確かめるみたいにわたしの目を覗き込むミライ。わたしは、何度かつよく瞬きをして、頭をぐしゃぐしゃに掻いて、それからおおきくため息をついた。

「いいんじゃない。でも、自分の名前を犬につけるってどういうセンス?」

「えー、だって、好きだから。ダックスフンド」

 ミライの茶色く染まったショートボブは、確かにその雰囲気だけではダックスフンドの毛色に似てなくもない。わたしよりもうんと背が低いというのも、そういった点では似通っているのかもしれない。

「それで、どう? これ、今度の文芸部の雑誌に載せるつもりなんだけど」

「いいんじゃない」

「ほんとに?」ミライの目は、心配そうに震えている。

「いいと思うよ」とわたしは再度肯いて、それからちいさく笑ってみせた。

「でもさ、これ、まだ足りないんだよ。このままじゃ乗せられない」

「どうして?」

「タイトル」とミライは云って、首を傾げた。「どうしてもタイトルが思いつかないの。ねえ、こういうのってずるかもしれないけど、カコが名前つけてよ。駄目かな……?」

「わたしが?」とびっくりしてわたしは聞き返す。わたしは小説なんて書いたことがない。読んだことはある。けれど、小説のタイトルを考えたことなんて一度もなかった。

 無理だよ――そう云ってしまいそうになる手前、ミライはその一対の目に涙を浮かべていた。どうしてこんなことで泣かなくてはいけないのか。わたしにはさっぱり理解できなかった。けれどミライに泣かれても困るし、それに、タイトルを考えるのが嫌というわけではないのだ。

「冷たい宇宙の魚たち」と試しにわたしは呟いてみた。恐る恐るミライの目をみると、そこからさっと涙の色が引いてゆくのが判った。ミライはすぐさま手に持ったシャープペンシルでタイトルを書き、それからちょっとだけ大げさなため息をついた。

「わたしさ、ひとりだといっつもどこか欠けてるんだ。タイトルを決められないのだってそう。カコと会えてほんとうによかった!」

 それは大げさだよ。云おうとして、けれどやめた。あるいはそうなのかもしれないと思ったからだ。わたしだって、ひとりでなにもかもやり遂げられるわけではない。むしろ、ひとりでできないことばかりだ。きっと気づいていないだけで、わたしだって心のどこかでミライを頼りにしている。だから、ミライの云うことに間違いはない。

 ミライは、できあがったA4用紙何枚かを先日手に入れたホッチキスで丁寧に止め、それからそれを放り投げた。文芸誌と名付けられたそれは宇宙空間を心もとなく漂い、やがてわたしたちの視界から消えてしまう。やがてあたりには、まっとうな静けさがやってきた。言葉は交わさずとも、わたしたちはきっとおなじことを考えていたはずだ。あの物語が、誰かの元に届けばいい。そしてそれが、わたしたちの生きていることのひとつの正しい証明になればいい。そしてできれば、それを読んだ誰かが、この宇宙空間で生きる意味をみつけてくれたら、そんな素晴らしいことってない。そうだろう?

 地球がなくなってからおよそ30年が経った。けれどわたしたちは生きている。そしてきっとこの宇宙のどこかしらで、わたしたちとおなじ誰かが生きている。だからわたしはきょうも泳ぐ。この暗闇の水のなかを。冷たい宇宙の魚たちとして。



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