春日の巫女
「沙穂。準備できた?」
隣室になった涼菜が、そう問いながら顔を覗かせた。
「やだ、沙穂。結び目が斜めになってるじゃない」
言いながら、きちんと結び直してくれた。
今日は潔斎明けの儀式が神宮を上げて執り行われる。二年に渡る巫覡たちと沙穂の潔斎に、巫女たちも倣うことで、神宮全体の気を浄化することにしたのだった。
最終の儀式には巫覡たちと共に巫女たちも列席し、月神への再度の謝罪と潔斎期間を無事に過ごすことができた感謝を捧げることになっている。
「できたわ。行くわよ、沙穂」
「うん」
神宮に籠りきりだった巫覡たちの姿を見ることができる機会とあって、巫女たちはどことなく浮足立っていたし、沙穂も巫覡たちと同様の潔斎を行っていたから、二年間、実家にも戻っていない。だから湟糺の顔を見るのも久しぶりだった。
神宮の中庭には、すでに正装した巫女たちが出揃っていた。
「いらしたわ!」
腰を低くした巫女たちの前に、巫覡たちが現れると、巫女たちの気配が一斉にざわめいた。やがて驚きの囁き声がさざ波のように湧き立ち、ちらりと目を上げた沙穂も、思わず目を見開いて巫覡たちを見つめた。
春麗を先頭に、清雅、夕霧、湟糺、そしてもう一人、新たな巫覡の姿がある。
「夕べ、任命されたばかりなんですって」
情報の早い巫女の言葉が、耳を掠めた。春麗が全員を一瞥すると、ざわめきが瞬時に収まって、儀式が開始された。
張り詰めた静けさの中、粛々と潔斎明けの儀式が執り行われていく。巫覡たちの厳粛なる意識がその場を支配し、終盤に差し掛かる頃には、明日から始まる日常の務めに向けた心構えが、沙穂の中にも生まれていた。
滞りなく儀式が終了したところで、沙穂は斎院に呼び止められた。
「沙穂巫女」
「はい。斎院さま」
「良く務め上げましたね。あなたにしては上出来ですよ。本当に、わたくしは嬉しく思っています」
「ありがとうございます」
「今日は宮司さまから帰宅の許可が出ています」
「本当ですか?」
「早くご両親にお顔を見せて差し上げなさい。きっとお喜びになりますよ」
沙穂は嬉しくなって笑顔で頷いた。
「ありがとうございます! 斎院さま」
「ちょっと沙穂巫女。慌てないで。正装は解いてから戻るのですよ?」
駆け出そうとしていた沙穂は、ぴょこんと頭を下げると自室に戻り、新たに加わった巫覡石をちらりと横目で見やった。それから大急ぎで巫女装束に着替えて部屋を飛び出した。
「姫!」
大鳥居の手前まで来たところで、懐かしい呼び声がして振り返った。
「湟糺! 巫覡さまたちにも、帰宅のお赦しが出たの?」
「そうだよ」
二年ぶりに会う湟糺は、少し精悍な雰囲気が加わった気がする。でも内面は相変わらずで、歩み寄って来ると人目もはばからず、いきなり抱き締めてきた。
「会いたかったよ、姫」
「うん。あたしも。でも、ここではやめて」
「やっぱり恥ずかしがり屋だね、姫は」
「湟糺が大胆すぎるだけじゃない」
言い返すと、湟糺が笑った。
「新しい巫覡は、もっと大胆かもしれないよ。何しろ、僕に挑戦状を叩きつけてきたくらいだからね。沙穂巫女を先に召喚するのは自分だって」
沙穂が戸惑うと、湟糺は、麗しくも僅かに首を傾け微笑んだ。
「もしかして、気付かなかった? 新しい巫覡がいること」
「遠すぎて、顔までは見えなかったの。あたし、まだ下っ端だから隅っこで」
「そ。早く僕に抱かれて、一人前にならないとね」
素直に頷くこともできなくて、頬が赤らむのを感じた。明日という日が、あまりに現実的すぎて。
そのとき現れた巫覡姿の人物を見て、沙穂は驚きのあまり目を丸くした。
「うそ……。新しい巫覡さまって――?」
「絢斗なんだよね、これが」
なぜか嬉しそうに、でも少し複雑そうな表情で、湟糺が絢斗を返り見た。
少し照れた様子ながらも堂々たる風格をみせる絢斗は、騎馬司としての経歴があるせいか、他の巫覡たちとは違う、勢いのある雰囲気を纏っている。
「沙穂姫巫女」
懐かしい呼び名を、懐かしい声で聞かされた途端、泣きたい気持ちにさせられた。
「良かった……。また、会えて」
「死んだとでも思ったか?」
「思ったに決まってるわ。だって、沙羅良宮さまの裁きが下るって立ち去ったきりで、噂も何も聞こえてこなかったんだもの」
「確かに神々は人の感情を超えた厳しさを発揮される。だが、落命させるばかりが裁きというわけではないのだな。沙羅良宮さまは、わたしに巫覡として神宮に仕え、自ら生じさせた乱れを整えよと使命をお与えになった」
「そんな裁き、想像もしてなかったわ」
「わたしもだ。まさか、貴女を正式に求められる日が来るとはな」
どきんとした。
「騎馬司……」
「もう、そう呼ぶのはやめろ」
「はい」
そう答えると、絢斗と湟糺が笑った。
「ホントに姫は素直で可愛いね」
やれやれというように絢斗が頭に手をやった。
「湟糺の、姫巫女想いは相変わらずだな」
「ええ。あなたには諦めて頂かないと」
「冗談いうな」
絢斗が笑った。
「私は二度と、姫巫女を諦めはしない」
大鳥居の外に、騎馬隊の姿が見えた。すでに新しい騎馬司がいて、沙穂たちを見守っている。同じように彼らを見ている絢斗は、少し寂し気にも見えた。
「絢斗巫覡」
沙穂は背伸びをすると、絢斗の眉に残る傷痕に触れた。
「傷があるのも素敵だけど。元騎馬司の巫覡っていうだけで、巫女たちの心を掴むのは充分じゃない?」
巫女鈴が鳴ると、絢斗が笑って手を握った。礼装がない素顔で、こんなにも近くで見つめ合うのは初めてで、嬉しいけれど恥ずかしかった。
「これで二度目だな。貴女に癒して貰ったのは」
「助けて貰ったのも二度だから、これでおあいこ」
「ああ」
絢斗の笑顔を見て判った。桜空も生きている。族人の一人として、桜空は自分の幸せを見つけるだろう。この里のどこかで。
ふいに絢斗は沙穂を抱き上げると、大人が子どもにするように、高い高いをした。
「やだ、絢斗。何するの?」
「貴女と初めて会ったとき、こうしてあげたんだ。まだ、生まれて間もなかった」
「あたし、もう赤ちゃんじゃないわ」
下ろしてよ、と暴れると、絢斗は笑ってクルクル回った。案外楽しくて、いやだと言いながらも、思わず声を上げて笑っていた。
「ほら、姫。そろそろ帰るよ」
横から湟糺が促した。
「そうだ。お前は昔からそうやって、邪魔したよな。家へ帰ろうと言って」
絢斗は沙穂を下ろすと、苦笑しながらいった。湟糺は笑って、沙穂の手を取った。
「久しぶりの帰宅日ですから。絢斗も、途中まで一緒に帰りましょう」
沙穂は、空いているほうの手を絢斗に差し出した。
「みんなで仲良く帰ろ。久しぶりに、いいでしょ?」
「貴女の屈託なさには誰も逆らえないな」
絢斗は湟糺を見てニヤリと笑い、湟糺も絢斗を見てニコッと笑い返した。
「なに? その笑い――」
沙穂の手を握るや否や、絢斗と湟糺は同時に駆け出して、沙穂に悲鳴を上げさせた。
「転ぶなよ、沙穂姫巫女」
「姫は本当にトロいからね」
転ぶはずがなかった。だって巫覡たちは、ちゃんと沙穂を守ってくれているのだから。
二つの霊力が少しでも多く自分を守ろうと牽制し合っているのを感じ、沙穂は声を上げて笑った。
一族の伝承には続きがある。
春日の巫女には毒がある。無邪気という名の毒が。
美貌の巫覡は華を以て、自ら毒に侵される。