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巫覡の月 巫女の聖  作者: 井上璃音
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巫覡は呪いをもって呪いを制す

 騎馬司の手によって神宮へと身柄を戻されてから一週間が経とうとしていた。

 元巫覡に呪いをかけられたという話はとっくに知れ渡っていて、当然のことながら誰もが沙穂を避ける。でも、それも無理からぬこと。神力に拒絶反応を示すなんて、ここでは致命的なのだから。

 潔斎所に行くと皆が怖がるので、禊ぎは神宮から少し離れたところにある川に行って執り行った。もちろん一人きりで。巫覡の召喚もなくなったから時間はたっぷりとある。毎日ここへ来て何時間もかけ幾度も禊ぎを繰り返し、明け方近くなると結界が張られた建物へ戻り、祈りを捧げながら眠りにつく。それでも何の変化も感じられなくて、巫女として神宮にいることが申し訳なく、いっそのこと族人として里で暮らすべきなのではないかと真剣に思うことが多くなった。

「でも今のあたしでは、たとえ族人になったとしても、騎馬司に近付くことはできないんだ――」

 この一週間、ずっとそんな調子で堂々巡りを続けていた。ふとした拍子に騎馬司のことを考えてしまう。想い続けていた相手が騎馬司だったことが判っても、騎馬司が今でも沙穂を愛していると言ってくれても、騎馬司は弟のために沙穂を諦めている。決して二人が結ばれることはない。

 一番の謎は、騎馬司に潜む神力だった。瞬時に沙穂が意識喪失することを考えても、並みの強さではない気がする。そこまでの能力者なのに、なぜ神官ではなく騎馬司として仕えているのだろう。

 悲鳴が上がった。咄嗟に立ち上がった沙穂は、巫女の館の方角をじっと見つめた。

 実際に声が聞こえたのではない。誰かの巫女霊力に乗った悲鳴が、沙穂の巫女霊力に流れて意が届いたのだ。それは数を増し、巫女たちの緊張が一気に高まって行く。

「何かあった!」

 沙穂は駈け出していた。騒ぎのあった場所には、すでに巫女たちが集まって来ている。

「涼菜、何があったの?」

 沙穂の声に気付いた巫女たちが避けるように動き、さっとその場に道ができたように見通せるようになった。その先に一人の巫女がうずくまっていて、姉巫女が必死に介抱している姿が飛び込んできた。

「沙穂巫女! これ以上は近付かないでちょうだい。真希巫女が穢れるわ」

 沙穂は足を留めた。倒れているのは身籠っている巫女だった。すでに意識がなく、ぐったりとした巫女の足下には血だまりができていて、それを目にして身がすくんだ。

「すぐに手当てをしなければ。誰か医務司を呼んできて。真希巫女を運ぶのを手伝ってちょうだい!」

 姉巫女が指示を出すと、すぐに巫女たちが反応して動きだした。その時だった。別のところでも悲鳴が上がり、気配が騒がしくなった。

「姉巫女さま! 由利巫女が……」

「由利巫女がどうしたの!?」

「血流れを起こして倒れてしまいました!」

 霊力を持つ巫女たちの間に、恐怖と緊張が連鎖するのは早かった。由利巫女も、真希巫女と同じく神の血脈を宿した巫女だったのだ。誰もの脳裏にこの共通点が浮かび、さらに次の悲鳴が上がったときには、三人目の身籠った巫女が真希巫女や由利巫女と同じような状況に陥った心象が稲妻のように閃いて視えた。

「なぜなの――」

 さすがの姉巫女も青ざめ、彼女の動揺がさらに幼い巫女たちを慌てさせた。やがて巫女たちの視線が一点に集まり出すと、沙穂は喉を詰まらせながら周囲を見渡した。

「あ、あたし? あたしのせいなの? あたしが、ここにいるから――?」

「姉巫女さま! 沙穂のせいかどうか問い詰める前に、倒れた巫女たちを助けるのが先です!」

 涼菜が勇気を振り絞ったように声を上げると、呪縛が解けたように巫女たちが同意を示して動きだした。

「沙穂」

「涼菜……」

 沙穂のせいじゃない、と言ってくれようとしているのは判ったが、そんな慰めにもありがとうとは言えずに、くるりと背を向けた。

「沙穂! どこに行くの?」

 ごめん、涼菜。心の中で謝って、沙穂は大鳥居へと向かった。できるだけ離れなければならない。この呪いが皆に届かなくなるほどに、遠くへ行かなければ。

「沙穂巫女どの」

 大鳥居から出ようとした矢先、立ち塞がったのは騎馬隊だった。

「ここから出ることは赦されておりません」

「あたしを監視しているの?」

「特命を受けております。お戻りを」

「きっとすぐに判ると思うけど、あたしはここにいてはいけないのよ。皆に迷惑を掛けてしまうの。あたしがここにいると……」

 さっきの光景が恐ろしくて、何が起きたかを言葉にはできなかった。自分の呪いのせいで、三人もの神血脈が失われたかもしれないのだ。

「――恐ろしいことが起きるわ」

「お戻りください」

 騎馬隊は頑固に繰り返した。戻る場所もないのに、そう言うことも赦されない雰囲気に負けて、すごすごと引き返した。できるだけ遠回りして、禊ぎの川に向かった。そこしか、もはや居られる場所がないように感じたから。

 膝を抱えて座り込むと、川面を見つめた。これからどうしたら良いのか、まったく判らなくて途方に暮れた。ここに居ると呪いが影響してしまう。なのに厳しい監視が付いていて出ることもできないなんて。いっそのこと……。おぞましい考えが浮かんで、急いで頭を振って追い出した。自決は許されない。大罪なのだ。神の意に反する、大きな掟破り。

「沙穂巫女」

 聞いたことのある声がし、振り返った。いつの間にか三人の巫覡がいた。華やかで艶やかで、いつもと変わりなく見えるのに、でもどこか違う気がして戸惑った。湟糺だけ、姿がない。不安がよぎって立ち上がると、一番近くにいる春麗に尋ねた。

「どうして巫覡さまたちが、ここに? 湟糺は、いえ、湟糺巫覡さまは一緒ではないのですか?」

「兄上がいないと不安ですか。しかしながら湟糺巫覡は同意なさらないでしょうからね。お話していないのです。わたしたちの決定を」

「決定――。何の決定ですか?」

「貴女の追放です」

 追放……。言葉通りの意味じゃないことはすぐに判った。それくらいは感知できる。違う。わざと感知させているのだ、巫覡たちは。生かしておくつもりはない、と。やはり、あの出来事は呪いが及ぼしたものだった。だから、巫覡たちは月族存続のために呪いの巫女を抹殺すると決めた。湟糺はこの決定には絶対に反対する。だから知らされなかったということ。

「一つだけ教えてください」

「何でしょうか」

「桜空御子さまも、了承されたのですか?」

「いいえ。神宮内の規律尊守に関しては、巫覡に最大限の権限が与えられています。貴女の呪いを解くことに力及ばなかったことは、お詫びしなければなりません」

「お覚悟をなさいませ。沙穂巫女。すべては月神さまの御為、一族としての務めを果たすために、貴女をこの世から追放しなければなりません」

 沙穂は下を向いた。そうでもしないと、死の覚悟なんてできそうになかった。巫覡たちは優しくて麗しくて、今から沙穂の命を奪おうとしているようには、とうてい見えなかったから。目を合わせていると、この世に未練が残ってしまいそうだった。

「覚悟はよろしいですか。沙穂巫女」

 確か、巫女テキストに禁断の章みたいなのがあった。こういう時、どうやって死の儀式を受けるべきかの決まり事があったような……。でも思い出せなくて、溜息をついた。

「ホントに最後までダメな巫女」

 でも、まさか抹殺されることになるなんて、思ってもみなかったのだから。仕方なく目を瞑った。これくらいしか、やれることが思いつかない。

 閉じた目に明るさを感じた。巫覡たちが霊的な何かを具現化したのだろう。巫女霊力が感応してビリビリとした感覚が伝わってくる。

 お父さまとお母さま、ガッカリするかな。きっと、お母さまは元巫女だから判ってくれる。お父さまはムリ。およよと嘆くに違いない。湟糺は、心配だった。怒って無茶しないといいけれど。水琴さまのときのように。

 結局、最後に会いたいと思うのは家族と――騎馬司だった。胸が詰まって、痛い。

 空気を何かが移動する音がして、さらにぎゅっと目を瞑った。

 当たる!

 ……当たった! 沙穂じゃない何かに。

 そっと目を開けると、目の前に視えない壁ができていて、巫覡たちの放った光は壁にぶつかって四方八方へ飛び散っていた。

「やはり、いらっしゃいましたね。湟糺巫覡」

 見慣れた背中が、沙穂の前に立っていた。

「湟糺」

「姫」

 半分だけ振り返って、いつものように艶やかに微笑んだ。

「大丈夫。僕が必ず守る」

「でも、あたし――」

 緊張感はなさそうなのに、最後まで聞いてくれなかった。

「沙穂巫女は追放させません。先程の出来事が、沙穂巫女に掛けられた呪いに起因するとハッキリするまでは生かします」

「時間稼ぎはおよしなさい。このまま影響が拡大すれば、月族は子孫を失うのですよ。わたしたちの子までもが死に絡めとられてしまったら、どうするのです? 原因と思われる芽は、すぐにでも除去していかなくてはなりません」

「その通りですよ。湟糺巫覡。妹を守りたいという気持ちは崇高です。そのような想いを持つ貴方を一緒に追放するのは忍びないのです。理解して頂けますね」

「いいえ。理解するつもりはありません」

「貴方は優秀な巫覡です。しかしながら少々理解に苦しみますね。沙穂巫女が貴女の愛しい妹でなかったとしたらどうです? 同じような行動に出るでしょうか」

「仮定の話は無意味ではありませんか、夕霧巫覡。沙穂巫女の呪いは、先程の出来事とは関係ありません」

「どうして断言できるのです? わたしたちの誰も、断言できる材料は持ち合わせていないというのに」

「だから、ではありませんか。沙穂巫女の呪いが起因していると明確になるまで、誰にも彼女の命を奪うことは赦されません」

「わたしたちが対立するのは良くありませんね。巫覡の意見が一致をみないというのは、神宮の統率が乱れますから」

 ピッと何かが沙穂の顔に当たった。拭った手に付いたのは――血!?

「湟糺!」

 急いで回り込んで見上げると、湟糺の頬が切れていた。よく見ると頬だけではない。全身のあちこちが、小さい刃物で斬られたように裂け、血が滲んでいた。

「仕方ないのですよ。一族を守るた……」

 夕霧の言葉が途絶え、振り返った沙穂は目を疑った。夕霧の顔が、見る間に老人のようになっていくのだ。

「なんてこと……。湟糺がやっているの?」

「姫。驚いている暇はないよ」

「どういうこと?」

「ほら。ぼんやりしないで」

 背中で光が爆発した。湟糺が瞬間的に霊楯を創ってくれていた。ヒュンッと音だけが耳の傍を通り、湟糺の装束が次々と切れて、さすがの湟糺も堪え切れずによろめいた。

「清雅さま、春麗さま、やめて下さい! 湟糺もやめて。ね?」

 湟糺一人で二人の巫覡から攻撃を受けるなんて、いつまでも持つわけがない。そう思ったとき、湟糺が膝をついた。地に手をついた瞬間、血を吐いた。

「湟糺!」

 大きく肩で息をしている。沙穂の目には視えない攻撃が、湟糺を追い詰めているのだ。

 治癒を施そうとして湟糺に触れかけて、手を止めた。触れてはいけない。霊力が強ければ、直接触れなくても治癒してあげられるのに、今の沙穂には、まだそれができなかった。

「ごめんね、湟糺。霊力弱くて」

「心配しないで。治癒なら、自分でできるから」

 こんなときまでも、苦しそうな表情までもが艶やかで美しく、死をも覚悟しているのかと思われて、沙穂は自分が情けなくて泣きたくなった。

 このままだと湟糺は殺される。あたしのせいで、優秀な巫覡を神宮は失ってしまう。

「お願いだからやめて。巫覡さま同士が争うなんて悲劇だわ。騎馬司! 止めて! 騎馬隊なら止められるはずよ! 今すぐに来て、止めて!」

 空に向かって大声で叫んだ。胸の前で手を組んで、祈りながら叫んだ。それでも何も起こらず、誰も来ず、清雅と春麗も攻撃を止める気配はない。

 湟糺を庇い精一杯両手を広げて、沙穂は半泣きになりながら二人の巫覡を見た。

「もう、やめて下さい。あたしは従います。だから湟糺を攻撃するのはやめて」

「そのお願いは聞けません。湟糺巫覡を止めないと、貴女には手を出せませんからね」

「彼がなぜ反撃をしてこないか、判りますか? 力を温存しているのですよ。貴女を、わたしたちの攻撃から守る瞬間のために」

 二人の巫覡は容赦なかった。多くの競争相手に勝ち続けてきた人たちは、こういう時にトコトン相手を叩きのめすことができるのだ、きっと。常に負けばかりの自分には、こういう強さが欠けているのだと思った。

 二人の巫覡がゆっくりと手を挙げた。次こそは最後になる。現れた細長い光を見て、そう思った。光が、二人の元を離れた。すごい速さで。

「そこまでっ」

 ドンッと大きな風圧がして、沙穂は尻もちをついて転がった。同時に光が消え、代わりに一人、姿を顕した。

「これ以上、沙穂巫女に手を出してはならぬ」

 声の主を見て、目を見開いた。筑紫宮さまと一緒にいた、礼装の騎馬司。

「桜空!? 来てくれたんだ……」

 嬉しかった。でも、すぐ不安に駆られた。

「神御子修行が延びたばかりなのに、あたしに近付いてはいけないんじゃない?」

「沙穂を殺させるわけにはいかないからね。 神御子として巫覡たちに命令するよ。沙穂を殺すなと」

 言いながら沙穂を抱き寄せようとした。

「だめよ。あたしに触れたら穢れがうつる」

「沙穂の穢れなら平気だ。修行が少しくらい延びたって構わない」

「それに、あたしは神力に触れると意識を――」

 逃れようとしたのに、強引に腕を掴まれ、抱きすくめられた。

「ずっと、こうしたかった。あのとき、沙穂に触れてから」

 言いながら肩に顔を埋めてきた。桜空が想ってくれているのは本気で、それが伝わってきたから動けなくなった。

 桜空の衣、とても良い香りがする……。

「あれ?」

 沙穂は、いつまでたっても意識を失わなかった。

「なんで、あたし、意識があるの?」

 この呟きにすかさず反応したのは、巫覡たちだった。四人がそれぞれに怪訝そうな表情を浮かべ、桜空と、桜空に抱き締められたまま不思議そうな顔をしている沙穂を見て僅かに首を傾げ、眉をひそめ、考えを巡らせている。

「どういうことでしょうか。誰かが、呪いを解いたとでも?」

 清雅の、誰に言うともない呟きに、巫覡たちは探るように、ゆっくりと互いを見やった。だが、誰も心当たりのある者はいない様子だった。

「では、沙穂巫女自身が解いた?」

 一斉に巫覡たちに目を向けられ、沙穂は気が咎めて桜空をそっと突き放した。

「あたし、何もしていません。自分でも、戸惑っているくらいなのに」

「そうですか」

「よいか。お前たち」

 桜空は背筋を伸ばすと、全員に向かって言った。

「これ以上、沙穂巫女に手を出すことはならぬ」

 納得がいかない表情のまま、それでも雅な姿勢を崩すことなく、四人の巫覡たちは頭を下げた。

「前にも命じた通り、沙穂巫女に掛けられた呪いを解くことに全力を注げ。私は神御子修行が明けたら、沙穂巫女を妻とする。それまでに必ず解いておくように」

「……かしこまりました」

「桜空は、平気なのよね。あたしが、どの巫覡さまにお呼ばれしても」

 前に信じられないと思ったことを、思わず口にしていた。

「決まりだから仕方ないさ。おれは神御子になるんだ。沙穂だって、神妻になれるのは嬉しいだろう?」

 当然のように言われても、すぐには答えられなかった。だって本当は、幼い頃に結婚の約束をした相手が、桜空ではなかったと知ってしまったのだから。

「おれはこの場にいる誰よりも強く、偉くなるよ。そのために修行を受けているんだ」

 そう言われると何も言えなくなってしまう。巫覡にも意見することは赦されないのに、さらに偉いのだと言われてしまえば、巫女としては従わなくてはならない。

「待っていてくれるね、沙穂。おれは幼い頃からずっと沙穂のことだけを想ってきた。沙穂に相応しくなるために、神御子修行を受けているんだから」

 そういってまた、抱き締められた。今度も意識を失う気配はない。どうしてなのか、疑問は募るばかりで、とうとう黙っていられなくなった。

「桜空」

「なに?」

「どうして、桜空に触れられても大丈夫なの?」

「大丈夫って、なにが?」

「知らないの? あたしに掛けられた呪い」

「詳細は聞いてないよ。どういうものなんだって?」

「あたしに掛けられた呪いは、神力に触れると意識を失うってものなのよ」

「そう、なんでかな……?」

「不思議なのよね。もう一人の騎馬司には、触れられた途端に意識を失ったわ」

 桜空が硬直したのが感じられた。沙穂はそっと身体を離すと、こわばった表情のままの桜空を見上げた。

「二人は兄弟だって聞いたわ。それと何か関係があるの?」

「関係なんてあるわけないだろう。霊力は、兄よりおれのほうが高い。だから、ここにいるんだ」

 もう行かなければならないから、と桜空は告げた。どことなくよそよそしさが感じられる。沙穂に背を向けた、その後ろ姿が突如、緊張を帯びた。

沙羅良宮さららのみやさま!」

 瞬間、巫覡たちまでもが息を飲み、桜空が見ている方向に向かい膝をついた。

 桜空の影になっていた沙穂は、そっと覗き込むように前を見て、思わず目を瞠った。

 たびたび巫女たちの間でも噂に上る沙羅良宮は、月神の長たる筑紫宮の御子で、父神に次ぐ美貌の持ち主と聞かされていた。噂は本当で、実物はそれ以上。射抜くように桜空を見るその左目は、父神ゆずりの濃紫で美しい色合いだった。

 神族としては珍しく、守り手一人だけを連れた沙羅良宮は、巫覡たちを一瞥すると、ゆっくりと桜空に目を戻し、それから沙穂に目を向けた。

 にこりともしない端正な顔立ちは、冷たい印象を与える。それなのに目が吸い寄せられたまま、離せなかった。

 沙羅良宮に見つめられていた沙穂は、ふと意識が遠のくのを感じた。

「沙穂!」

 桜空に支えられると、意識が戻った。

「なるほどな」

 沙羅良宮の呟きを聞いて、判った。神力を放ったのだ。触れられてもいないのに、意識が遠のいた。ますます桜空に対する疑問が強くなる。まだ修行中の身だからなの?

「この巫女は、こちらで預かろう」

「――!?」

 沙穂を筆頭に、全員がそれぞれの思惑と驚きをもって、沙羅良宮を見上げた。

「沙羅良宮さま。それは、どういう意味でしょうか。沙穂を、妻にお召しになるということでございますか!?」

 真っ先に抗議とも取れる問いを発したのは桜空だった。

 沙羅良宮は、何も言わずに沙穂を見た。

「ついて参れ」

 そう命じ、背を向けて歩き出した。

 逆らうことなどできないと判りきっているのに、どうしたものかと湟糺を見ると、行きなさい、というように湟糺が頷いた。その様子が弱々しくて、心配と不安が膨らんだ。

「でも――」

「僕のことは心配いらない」

 やはり行くしかない。そう思ったとき、桜空が声を上げた。

「お待ちください、沙羅良宮さま! 沙穂を、妻にすることだけはご容赦を! 沙穂には呪いが掛けられております。沙羅良宮さまの御身が心配なのです」

 沙羅良宮が足を止めた。

「心配無用。俺に呪いは及ばぬ」

「ですが、沙穂は神力に触れると意識を失うのです」

「知っている。さきほど試したゆえな」

「それを承知で、沙穂を求めるとおっしゃるのですか!?」

「然り。意識を失った巫女を抱くことに、ためらう必要があるとでも?」

 挑戦的な言い方とともに、鼻先であしらった。

「呪いを言い訳に、この巫女を留めておくことはできぬぞ。不服ならば、力づくで取り戻してみせよ」

 言葉を受け、桜空が立ち上がった。怒っている様子が、赤みを帯びた目つきで判る。その手が太刀に掛けられているのを見て、沙穂は目を疑った。

「何をする気なの? 本気じゃないわよね?」

「おれは本気だ。沙羅良宮さまを倒してでも、沙穂は渡さない」

「やめて、桜空。相手は月御子さまなのよ?」

 沙羅良宮が、ようやく振り返った。

「そなたは下がるがよい」

 沙穂は一気に緊張した。桜空はカッとなっているが、沙羅良宮は至って冷静だ。勝負など、初めから見えているようなもの。

「お願いです、沙羅良宮さま。桜空は本気じゃありません。今は少し、頭に血が上っているだけなのです」

「下がれと言っている。御影みかげ、その者を」

 御影と呼ばれた守り手が傍に寄ってくると、優しく手を取った。

「沙穂巫女。こちらへ」

「いやです。争いごとは見たくありません。 お願いですから、やめてください!」

 白く長い髪をなびかせた御影が、くすっと笑った。

「可愛いかたですね」

「え? あ、ちょっと、何をなさるのですか?」

 こんな時に何を言い出すのかと戸惑っていると、いきなり抱き上げられ、二人から引き離された。

 桜空はすでに抜刀している。あんなものを振り回すなんて、どうかしているとしか思えなかった。

「お覚悟を、沙羅良宮さま!」

 振り上げると一気に切りかかっていった。それを沙羅良宮は素手で受け流し、いともあっさりと蹴り飛ばした。

 勢いよく後ろへ飛ばされた桜空は、すぐに起き上がると太刀を構え、再度飛び掛かっていった。

 振り下ろされた太刀を、沙羅良宮は難なく交わし、桜空が振る太刀は幾度も空振りをした。次第に桜空の息が上がっていく。何十度目の空振りか判らなくなった頃、沙羅良宮は桜空の腕をつかむと、そのまま投げ飛ばした。派手に倒れこんだ桜空に近付くと、起き上がろうとしたその喉元に、すっと金色の太刀が当てられた。

 桜空が殺される! 悲鳴を上げそうになった沙穂の肩に、御影の手が置かれた。

「落ち着いてください」

「でも!」

「ここで貴女が声を上げられても、沙羅良さまを止めることはできません」

「だって、このままじゃ桜空が死んでしまいます。幼馴染みなのです。見ているだけなんて、できません」

 沙穂は思い切って飛び出して行った。

「沙羅良宮さま!」

「来るなと命じたはずだ」

「ここまでやらなければ駄目なのですか? どうして?」

 半ばまで来たところで、沙羅良宮の太刀がすっと沙穂に向けられた。

「姫! とまれ!」

「沙穂!」

 湟糺と桜空がほぼ同時に声を上げた。じっと沙羅良宮に見つめられた沙穂は、怖くて腰が抜けるように座り込んだ。

「忘れたか? それ以上近付くと意識を失うぞ」

 そうだった。やはり沙羅良宮は冷静だ。そう思ったとき、一筋の線が目に入り、沙羅良宮が半身を逸らして一歩引いた。

 不意打ちだった。沙羅良宮が沙穂に気を取られている隙に、桜空が斬りつけたのだ。

 再度振り下ろされた太刀を、沙羅良宮の金色の太刀が受け止めた。今度は桜空が、自分で斬った箇所を強く蹴り、沙羅良宮がよろめいて膝をついた。

「だめよ、桜空! 斬ってはだめ!」

 振り下ろした桜空の太刀が、何かにぶつかったような動きを見せて止まった。

 沙穂は目を見開いた。桜空の太刀を受け止めたのは、もう一人の騎馬司だった。

「これ以上はおやめください」

 そういう騎馬司は、ひどく哀しそうで辛そうだと沙穂は思った。

「どけ!」

「月御子さまを斬ることはなりません」

 制止にもかかわらず、桜空は構わず太刀を振り上げた。

「どかないと、お前ごと斬る!」

 騎馬司は動かなかった。桜空も、斬らなかった。いや、斬れなかったのだ。騎馬司に当たる寸前で、握っていた太刀が手から滑るように落ちた。太刀を拾い上げようと幾度も試みたが、桜空に掴むことは叶わなかった。

 沙穂は地に落ちたままの太刀と桜空を眺めるように見た。聞いたことがあった。神族の操る太刀は、神力がないと握ることさえできないのだと。

 騎馬司を見上げた桜空は泣きそうで、それでも憎らしいといった表情で睨んだ。

「なぜ出て来た!」

「決まっているだろう? 貴方に、神殺しをさせるわけにはいかないからだ」

 ふいに沙穂を叱ったときと同じ口調で、騎馬司は桜空に言った。

「そんなのは嘘だ。兄上は、おれに沙穂を取られるのが厭になっただけだろう!」

「それは違う!」

「お前が出てきたら、すべてが台無しじゃないか! 兄上はおれから両親を奪った。妖に襲われ、溺れかけた兄上を助けようとした父が死に、父を失った母は悲しみのあまり亡くなった。忘れたとは言わせないぞ。兄上は幼いおれから、すべてを奪ったんだ!」

 沙穂ははっとした。いつか見た、川で溺れかけた少年。あれは、幼い頃に騎馬司を襲った不幸な出来事だったのだ。まさにあの場所で、騎馬司は自分を守ろうとした、大事な父を失った。それを、騎馬司は自分の罪として弟への償いを己に課し、そして――。

「また兄上はおれから奪うつもりなんだな。今度は沙穂を取り上げるつもりなんだろう? そうやって、おれが大事だと想う人を片っ端から奪っていくんだよな。そんなにおれが憎らしいのか?」

「違うわ、桜空」

 沙穂は桜空を見上げた。自分でも驚くほどに落ち着いていた。ずっと不思議に思っていた疑問に隠されたカラクリが、たった今、理解できた気がしているのに。

「騎馬司は、桜空が憎くてやっているんじゃない。桜空のこと、大切だから止めたのよ」

「沙穂。おれの霊力が低いって知って、ガッカリしたんだろう。おれは、ずっとそれを恐れていたんだ。沙穂は良き血脈だから、強い霊力を持つ男じゃないと相応しくないもんな。判っていたんだ。でも諦めきれなかった。沙穂のこと、ずっと好きだったから!」

「だから――」

 沙穂は唇を引き締め、同時に何故という思いも噛み締めながら、桜空を真っ直ぐに見据えた。

「騎馬司から神力の供給を受けて自分が神御子修行を受けたの? 騎馬司の、罪の意識を利用して!」

 動揺するかと思いきや、桜空は平然と、むしろ間違いを糺すように首を振った。

「利用したわけじゃない。確かに兄はそれだけの罪を犯したんだ。おれからすべてを奪った。だから、おれが幸せになることが、兄の贖罪になるんだよ。沙穂」

「騎馬司は桜空から奪おうと思って両親を死なせたわけじゃない。騎馬司だってずっと苦しんでいるのよ。判らないの? あのとき、幼い騎馬司が妖に襲われて溺れかけたとき、騎馬司は強く願ったわ。自分にもっと力があればって。目の前の妖を倒し、自分を助けようとしている父を助けることができたらって、必死で祈ってたの!」

「だが、おれは両親を失った。兄のせいで。この事実は変えられない」

「騎馬司だって辛いのに、それを桜空は判ってあげようとはしないの?」

「おれは自分の落ち度じゃなく両親を失った。あまりに幼くて、兄が受けたほどの愛情は、受けられなかったんだよ」

「それをあたしに求めようとでもいうの? 騎馬司の悲痛に自分の悲劇を上乗せして、共に悲しみに寄り添うこともしないで?」

「兄がそうしたいと言ったんだ。それを受けることが、そんなに悪いのか?」

「桜空……」

 やりきれない思いと、強い怒りが同時に沸き起こった。

 自分を憐れむあまり、桜空はあのときから前へ進めていない。すべてを兄のせいにすることで、失ったものの代わりを手に入れようとし、無理をし過ぎて歪んだ感情を抱えてしまっていることにさえ、気付けずにいる。そんな不幸の悪循環に、兄弟二人ではまり込んでしまったなんて。

「騎馬司も、莫迦じゃないの!?」

 立ち上がると騎馬司を、きっと睨んだ。

「こんなやり方が贖罪になるわけない! 桜空のこと、さらに不幸にしただけでしょ!」

「姫巫女……」

 騎馬司は唇を噛み締め、下を向いた。

「だから、姫巫女って呼ばないでって言ったじゃない!」

 ぷいと横を向き、無表情に自分を眺める沙羅良宮と目が合い、慌てて口を押さえた。

「あ、あの。申し訳ありません。言い過ぎました……」

 視線を落とし、斬られたはずの場所に、斬り傷がないことに気が付いて、何度もまばたきした。

「まさか――。わざと斬られたフリをしたのですか?」

 どうして? と見上げると、沙羅良宮は答えるつもりがない様子で、そっぽを向いた。

「わたしを呼び寄せるためです。恐らく霊力の供給者がわたしだと、お気付きになられていたのでしょう。ですが正攻法で桜空の口を割らせるには時が掛かります。ゆえに、わざと斬られる真似をされ、わたしが自ら姿を見せるよう仕向けられたのです」

 騎馬司が、悔やむように頭を垂れた。

「俺とて、すべてを見通していたわけではない。神宮全体の気が揺らぎ、乱れが生じていたから気になったのだ」

 沙羅良宮の言葉に、御影が傍らで同意を示して頷いた。

「来てみれば、神御子修行をしていると言いながら、帯びる神力が、あまりに不安定すぎる者がいた。どうやら神力自体が仮性のようだと疑念を抱いたものの、呪いを掛けられた巫女に触れたと宮司は報告した。修行中の身で呪術を受けた巫女に触れるとこうなるのか、それとは関係がないのかの判断はつかなかったのだ」

 そこで沙羅良宮は沙穂を見た。

「そこへ、この者が不思議なことを口にしていたのを耳にした。神力に触れられると意識を失うはずなのに、なぜ桜空に触れても平気なのかと。桜空が纏うのが仮性と確信できれば、あとは真性の神力を持つものを突き止めるまで。ゆえに試した」

 沙羅良宮に目を向けられた騎馬司は、さらに深く頭を下げた。

「大変なことを致しました。お詫びのしようもございません。いかなる罰も、受ける所存でございます」

「当然だな。そなたが起こした波紋は、すでに一部、この世の歪みとなって顕れている。巫覡たちはこうして争い、巫女たちの宿した子はすべて流れた。大きな過失だぞ。この神宮の揺らぎは、世界の揺らぎへと通じるのだ。それは充分に理解しているであろう。二人とも、責は負って貰わなくてはならぬ」

「はい」

 騎馬司は素直に受け入れたが、桜空は不満そうだった。

「お前が出て来なければ、すべてが上手くいったのに。現に、これまでは上手くやれていたではないか」

「いずれは見抜かれていた。この世の均衡を保つことが務めたる月族の御子さまに疑念を抱かれては、必ず真相に辿り着かれる。わたしたちの知恵など浅はか過ぎて、愚かなだけだったということだ」

「愚かなのは兄上だろう。なぜ揺らぎなど生じさせた? これまでは問題なかったのに。――そういえば、沙穂を助けたとか言っていたな。それが原因なのか?」

 沙穂は、黙ったままの騎馬司をちらと見た。

 すべてを知ってしまったあの日。騎馬司が秘めた感情を口にしたことで、この出来事を引き起こしたかもしれないなんて。この世の均衡が崩れるのは容易すぎる気がして恐ろしく、月族の務めの難しさを突き付けられた気がした。

「沙穂のことは諦めると誓ったのに。兄上も覚悟が甘いな」

 相変わらず兄を責めるばかりの桜空を見ているのが、次第に辛くなってきていた。

「自分がしたことはどうなのかな、桜空」

 湟糺は咎めるふうでもなく、でも少しだけ強い調子で言った。

「沙穂巫女が呪いを掛けられた原因は、もともと男である未遠を女にするという罰を下したことに端を発しているはずだけれどね。なぜ、そんな判断をしたの?」

「おれにしか出来ない決断を下したまでだ」

 桜空は見下すように顎を上げた。

「それがどうかしたか。元巫覡の呪い一つも解けない巫覡なんかに、いちいち指摘される覚えはない」

 湟糺は無言で口唇を引き締めた。思うところは同じなのだと、沙穂には感じられた。

「なんとも無様なことではないか」

 とうとう沙羅良宮が呆れたように言った。

「このような様では、俺が止めるまでもなく、いずれそなたは神御子修行を脱落していただろう」

 桜空が嫌悪も露わに顔をしかめた。

 記憶の中の桜空と現実があまりに違っていることで、気持ちが重くなっていた。騎馬司と間違えて、結婚の約束をした相手だと思い込み、ずっと憧れてきた人なのに。

 溝があまりに深すぎて、心が痛んだ。

「巫覡たちよ、如何とする? このまま言われっ放しで良いのか?」

 今この場で解術に挑むものはいないのか、という問いだった。

「私が解きましょう」

 名乗りを上げたのは春麗だった。

「どのように?」

「この桜空という者を、黄泉へ送ります」

「落命させると?」

「はい」

 桜空が春麗を睨みつけた。だが春麗は、艶やかな視線で桜空を見返した。

「術者は恨みを抱き、呪詛を行います。解術するには、恨みを晴らさせるほかないでしょう。ゆえに彼を落命させ、術者の元へと送るのです」

 沙穂は首を傾げた。そうではない気がする。だって。

「春麗さま。未遠の恨みは、それでは晴らせないと思います。未遠の願いは、愛する人と添い遂げることだったからです」

「ならば、その術者が愛するという者を黄泉へ……いえ、それはいけませんね」

 清雅が考え直して言った。

「逆に、術者を黄泉還りさせるのは如何でしょうか。愛する者と添い遂げられることが叶うと判れば、呪詛を解くことに同意するはずですから」

 沙羅良宮が僅かに目を細めた。

「それに、俺が同意するとでも?」

 月族は死をも司る一族。当然、黄泉の世界も担っている。黄泉還りの儀式は神宮で執り行うことができても、最終的に月族の承諾がなければ、還ることは叶わない。

「聞けば、術者は自ら身を投げ、命を絶ったというではないか。天命を放棄し、自ら絶った命に再びの生を与えることはできぬ。それが掟だ」

 清雅が同意を示し、再び考え込んだ。

 夕霧は変わらず老人のように皺が深く刻まれたまま。湟糺は俯き加減で、考えを巡らせていた。必死になって考えているのに、体中に刻まれた痛みで思考が中断されてしまうのが沙穂にも伝わってきて、湟糺の傷一つ癒してあげられない自分に、情けなさでいっぱいになった。

 触れないように注意しながら、見える傷口に手をかざした。少しだけでも治癒できたらと、深く祈りながら、巫女の鈴を探って鳴らした。

「やっぱり姫は優しいね。それに比べて僕は――」

 湟糺は目を閉じ、迷いを払うようにキッと口唇を引き締めて、沙羅良宮を見上げた。

「覚悟は決まったか。述べるがよい」

「はい。沙穂巫女に掛けられた呪詛を辿り、黄泉に参ります。術者に行きつきましたら、私が術者ごと呪います」

 何を言い出すの、と身を乗り出して湟糺を見た。

「呪いを、呪いで封じ込めようというか」

「はい」

「面白い。やってみるがよい」

 沙羅良宮はあっさりと承諾し、沙穂は慌てふためいた。

「ちょっと待って下さい。湟糺巫覡を黄泉に行かせるなんて、そんなことできません。湟糺も変なこと言い出すのは止めて。黄泉になんて行ったら、戻って来られるか判らないじゃない。そんな危険なことさせられない。湟糺にそんなことさせるくらいなら、あたしはこのままでいい。巫女を辞めて、里下がりするから。族人になれば、神力は関係なくなるんだから大丈夫よ。ね?」

「そなたは少し黙っているがよい」

「黙れません」

 沙羅良宮に睨まれても、今回ばかりは引き下がることはできなかった。何しろ湟糺の命が懸かっているのだから。

「湟糺巫覡は本当に優秀なんです。でも、あたしはまったく駄目で落ちこぼれなので、あたしが彼のために命を懸けることはあっても、その逆があってはいけません」

「やめなさい。僕たちの決定に、巫女が口を挟むことはできないのだから」

「だって湟糺――」

「巫女よ」

 凛とした声が上がり、沙穂は首をすくめて、恐る恐る沙羅良宮を見た。

「そなたは里下がりをすれば、神力に触れることはないゆえ関係がなくなると申したな」

「はい。その通りです」

「では問おう。里下がりをすれば、巫女としての能力が喪失するのか?」

「それは……、なくなりません」

「ならば、自然と感知してしまうこともあるはずだな。それに対しては、どのように対処するつもりだ?」

 対処。しようがない。そう気付いてうなだれた。

「あたしは、こんなにも力がないのに、族人にもなれないのですか……?」

「生まれ持った血脈は変えられぬ。各々適した場所に生きてこそ、力を発揮することが叶うのだ。力を発揮できる場所でこそ、幸せを感じることも多かろう」

 顔を上げられないでいる沙穂に、沙羅良宮が腰を落として目線を合わせた。

「そなたは、己が湟糺よりも劣っているがゆえに価値がないと考えているようだが、それは違うぞ。ここにいる者たち全員が、そなたを求め、助けたいと願っているではないか」

 言葉が、心にしみる。沙羅良宮の声は不思議な力を帯びているようだった。

「他者から求められるのは、そなたに価値があるゆえだ。力がないと申すのならば、せめて助けられることを受け入れよ。助けたいと願う湟糺の想いに全力で応えてやるのが、そなたの務めだ。判るな?」

 なんで神の子は、たかが一人の巫女のためにここまで親身になれるのだろう。

「それが、俺の務めだからだ」

 はっと顔を上げた。口に出していないのに。

「祈りは神に通じる。そう、教えられなかったか?」

 沙羅良宮は僅かに表情を緩め、立ち上がって命じた。

「御影。湟糺に治癒を」

「それは我々に」

 春麗が申し出た。

「我々巫覡が治癒を与えます。彼一人に、手柄を立てさせるわけには参りませんので」

 涼しげな表情でそう述べると、艶やかな視線を沙穂に送って寄こし、同じ視線を湟糺にも向けた。湟糺は僅かに目を伏せ、口元に得意の微笑を浮かべた。

 本当にいちいち、巫覡たちの行為は色気があり過ぎて、意味が理解しづらい。と、瞬時に湟糺の霊気が充実し、老人のようだった夕霧のほうも、劇的な回復をみせた。やはり巫覡たちの力は並大抵のものではない。

 湟糺は立ち上がると全員に礼を述べ、沙穂に向かって優雅に手を差し出した。

「立って」

 従うと、腰に手を回して引き寄せられた。全身で、湟糺を感じる。

「僕を見て」

 上を向かされたところで、沙穂は重大なことを思い出した。

 そうだった。湟糺が霊道を繋げるのに、最も得意で容易な方法がこれだということを、すっかり忘れていた。

「あの、えっと、湟糺。みんなの前で、しないといけないんだっけ?」

「そう。駄目なんだよ、姫」

 単なる儀式のはずなのに、湟糺は巫覡としての色気満開で、二人きりだったら気絶してしまうんじゃないかと思うくらい優雅な仕草で口唇に指を這わせた。そうしてゆっくりと視線を横に流してから、そこにいる誰かに向かい、痺れるような、でも挑戦的な微笑を浮かべた。

 その方向にいるのが桜空だと気が付いたときには、凄まじいほど激しい湟糺の霊力に捉えられ、意識が引きずられないよう、必死でしがみつくだけで精一杯になった。

 湟糺……!


 落ちるのはあっという間だった。いや、落ちるというよりも、吸い込まれるといったほうが正しいかもしれない。未遠が創り出した、真の闇。何も感じられず、何かを考えることすらできないほどの深淵。そこに、ぼんやりと二つの人影が立っている。

 湟糺、そして未遠。

 未遠は、もはや未遠ではなかった。自ら命を絶った罪を負い、償いの期間に入ったばかりで、まだ自分を取り囲むすべてのものを憎んでいた。目に入るものなど何もない。そこへ真っ直ぐに飛び込んでいった湟糺は、すぐ未遠の目に捉えられた。

 湟糺も同じだった。未遠の姿を見て取ると、すぐに呪詛を掛けようとした。

 未遠が、湟糺の意にすぐ気が付いた。ここは現体のない世界。幽体で構成されているがゆえに、他者との意思疎通を阻害するものが圧倒的に少ない。

 未遠が真黒でしかない頭上を見上げた。

 降ってきたのは、大量の黒い雨。それが勘違いだと、触れてみて気付かされた。ねっとりとした粒は、湟糺目がけて降り注ぎ、まとわりついた。と、ふいに周りが歪み、身体が沈み始めた。湟糺を中心に、更なる地の底へと引きずり込もうとするかのように。

 沙穂は駆け出した。もがきながら、何とか這い出そうとしている湟糺に向かって。ほんの二十歩程度の距離なのに、思うように近付くことができない。その間にも、どんどん湟糺は黒い泥に飲み込まれていく。泥は、見えない縁から這い出るように湧き出してきて、湟糺に向かって流れ込んでいる。

「湟糺! あたしの手に掴まって!」

 そこで初めて湟糺は、沙穂の存在に気が付いたようだった。

「姫!? どうして……。なぜ僕とともに、来てしまったの?」

「今はそんなこと、どうでもいい。早く!」

 ほとんど首まで浸透してしまった湟糺は、必死で沙穂に、来るなと手を振った。

「届かないわ、湟糺! 手をあたしのほうへ伸ばして!」

「ここは底無しだよ。それ以上近付いてはいけない。下がって!」

「下がれない!」

「この世界から抜けるんだ。早く! 戻れなくなる!」

「湟糺を置いては行けない!」

「置いて行くんだ! これは巫覡としての命令だよ、姫!」

「いや! 湟糺は巫覡の前に、兄だから! 絶対に置いては行かないんだからね!」

「これは単なる泥じゃない。怨なんだ。ここに堕ちたものたちの怨を、未遠は利用しているんだよ」

 黒い怨念の中についている手が、ぬるっとした感触とともに滑った。悲鳴を上げる間もなく、沙穂は頭から怨の中に落ちていた。

「姫!」

 湟糺が手を伸ばしてくる。二人の間を怨が波打って壁を作り、互いの姿すら見えなくなった。完全に沈んでしまわないよう、どうにか顔を出しながら、未遠の姿を探した。

 ……いた!

 怨海の縁に立ち、沈み込む二人を眺めている。何をしている様子もない。本当に、ただ憎み、ただ眺めていた。助けを求めても赦しを乞うても、恐らく言葉も何も通じない。そんな、黒い瞳。

「未遠……」

 ただ全てのものを憎み続けるだけの時流は辛いだろう。そんな思いがよぎったとき、手に固いものが触れた。偶然にも、縁らしきものを掴んだ。もう片方の手も伸ばすと、慎重に、でも急いで怨海から這い出した。

「湟糺! 頑張って泳いで! ここまで来れば、助かるから!」

 ほとんど湟糺は沈みかけていた。顔も半分怨をかぶり、見えるのは右手と顔半分だけ。言葉を発することすら、できそうになかった。

「湟糺、諦めないで泳ぐの! あたしのこと、死なせてもいいの? あたし、湟糺がいないと、ここから出られないのよ!」

「ごめん、姫……」

 ぞっとした。何で謝るの?

「だめよ。諦めたらダメ! あたしのこと、愛してないの? あたしが、湟糺以外の巫覡に抱かれてもいいの?」

 かろうじて見えるほうの瞳から、一筋の雫が溢れた。湟糺の涙。見るのは初めてだった。

 沙穂は叫ぶのをやめた。

 この海が怨念だというのなら、少しくらいは祓いが利くはず。試してみる価値はある。

 目を閉じて、巫女の鈴を探し、鳴らす。沙穂の周りだけ、いっとき怨の海が少なくなった。きっと行ける。湟糺を、助けられる。

「湟糺、待ってて。今行くから」

 足を踏み出したとき、遮るように、いくつもの光の筋が勢いよく目の前に振ってきて、思わず目を瞑った。この光景、どこかで見たことがある。

 目を開くと、光の矢が沙穂と湟糺の間に、道を示すように刺さっている。遮られたと感じたのは勘違いだった。もしかして騎馬司?

 確認する間も惜しくて、沙穂は光の矢を掴むと、怨海に足を踏み入れた。一気に身体が沈む。けれど巫女鈴を鳴らし、怨念を少しずつ散らして、必死で光の矢を掴んで湟糺の方へと進んでいった。……あと少し!

「手を伸ばして、湟糺」

 最後の矢を掴むと、精一杯腕を伸ばした。指先が触れるところまで近付いた! あと一本あれば。男の人だったら、届くかもしれないのに。

「またもや、あたしって残念。でも――掴んだわ。あ!」

 ぬめりの付いた手では、互いを掴み合うことは難しかった。何度失敗しても、諦めることはできない。それなのに湟糺をラクにしてあげられるほどには、溢れ出る怨念を鎮めることもできなかった。

「あたしに湟糺を助けさせて。月神さま!」

 ふいに沙穂の手に、誰かの手が重なった。この感覚、前にも触れたことがある。

「騎馬司――」

 族人の危機には必ず駆けつけるという騎馬司の礼装が、隣にいた。

「遅くなってすまない」

 沙穂の手ごと、湟糺の手を掴むと、一気に引き上げた。不思議なことに、湟糺を引き上げると徐々に泥が収まり始めた。

 この世界には似つかわしくない気配を感じて見渡すと、春麗、清雅、夕霧の三人がそれぞれ縁に立ち、湧き出る怨を少しでも鎮めようと必死に祓いを施していた。

 信じられなかった。巫覡たちが、揃いも揃って来てくれるなんて。

 視線に気づいた春麗が微笑んだ。

「あなたを大切だと思うのは、わたしたちとて同じなのですよ。沙穂巫女」

「春麗さま……」

 嬉しくて、こんなときなのに温かい気持ちになって、ほっとした。

「湟糺巫覡。早く術式を」

 騎馬司を見て頷くと、湟糺は未遠の正面に立った。それを少しでも支えたくて、沙穂は祈った。

 湟糺に力を与えて欲しい。たとえ自分の巫女霊力が微弱でも、きっとできる。だって皆、こうして来てくれたのだから。こんなに深い、黄泉の奥まで。

 だが未遠は手強く、湟糺はなかなか怨術式を成就できなかった。

 なぜ? そう思って、気が付いた。

 未遠は瞳の使い手、湟糺は口の使い手だ。距離がある今のような条件下では、湟糺のような使い手はどうしても不利になってしまう。それでなくても強い霊力者である未遠に霊道を通すには、大変な力が必要であるのに。

「湟糺、あたしを使って。あたしが、湟糺の霊道を通す依代になるわ」

 できるかどうか判らないけれど、湟糺ならきっとやれる。そう信じた。

「姫を依代にするって、どうやって?」

「あたしの中には巫女の鈴がある。巫女の鈴は、巫覡たち霊力者に道筋を通すことができるんじゃない? だから治癒を与えたり、祓ったりできるんだと思うの」

 祈るような思いで、見上げた。

「できるわよね? 湟糺なら」

 湟糺が目を丸くしていて、そして微笑んだ。

「すでに姫との霊道は繋がっている。姫が僕の力を感じ取り、巫女鈴の音色を通して、未遠に向けてくれたら、たぶん、それでいい」

「判ったわ」

 必要あるかどうか判らなかったけれど、そうしたくて、ぎゅっと湟糺に抱きついた。こんなふうに自分から湟糺に抱きつくなんてこと、今までに何回あっただろうと思うと、急に愛おしさが湧いて、さらに力を込めた。

 湟糺の両手が応えるように背中へ回った。いつものように、巫女を惑わせる声で囁く。

「姫、僕を感じて……」

 それは突然に始まった。巫女鈴が鳴り響くと、激痛が全身を襲い、苦しくて悲鳴を上げた。何かが闘っている。沙穂の中で。

 ふと沙穂を抱く手が緩み、腕の中から湟糺がすり抜けた。慌てて抱き留めようとするのに、力が入らなかった。力が抜けているのは、沙穂自身も同じだった。

 まさか、術式を掛けるのに失敗した!?

 未遠を振り返る。もはや巫覡ではない未遠に対しては、巫女鈴での霊道確保はできないというの?

 未遠の姿が斜めになった。そう思ったのは、沙穂自身が倒れこんでいるからだと、自分の名を呼ぶ騎馬司の声が遠くで聞こえて理解した。

 激しく鳴り響く鈴の音に、沙穂のとは違う音色が混じった。これって――。

 未遠が目を閉じた。頬を、涙らしきものが濡らしている。未遠が愛した彩音巫女の音色。記憶の底に刻まれた音色が、共鳴して聴こえているのかもしれない。

 未遠は自ら命を絶った。月族に仕えるものならば、誰もが知っている黄泉還りのない死を選んだ理由。それは、愛する人が辿った道、だったから。神御子を本気で呪い、黄泉還ることのない世界で愛する人の魂と出会い、共に在ることだけを願った。だが黄泉の世界で誰かと巡り合うことは叶わないという。未遠は、永遠に彩音を探す旅に身を投じたのだ。

 あまりに残酷すぎる結末を招く決断が、桜空によって下されていたことを知った。

 怨の海に沈みかけた沙穂の身体が、騎馬司によって引き上げられた。そのまま上昇していく。湟糺は、春麗によって担ぎ上げられて、先に上昇していた。

 あたしたちは離れられる。未遠と違って、抜けられる。この怨念渦巻く世界から。けれど未遠は。

 動けないままに、沙穂は小さくなっていく未遠を見ていた。次第に世界が閉じていく。最後の瞬間、これまでとは違うハッキリとした音色が一度だけ届いた。

 嘘でしょ。沙穂は無意識に呟いていた。

 微笑んだように見えた未遠の姿は、すぐに閉じられた世界に遮られた。


 清冽なる気に、不浄のものは引き寄せられるという。怨に満ちた世界へ巫覡や巫女の気が流れれば、多くの魂が吸い寄せられるように集結することだろう。その中に、彩音の魂がいることに期待したとでもいうのか。あまりに儚い賭けであるのに……。

 巫覡なら――湟糺なら、怨の世界にまで入り込んででもあたしを助けるだろうことを予想して、命を賭した怨術を施したというの?

 彩音巫女の魂と巡り合うために――。



 とくん、とくん、という音がして、顔を上げた。戻っていた。幽体の抜けた現体は、沙穂が上になって、二人重なるように倒れこんでいた。

「湟糺!」

 慌てて揺さぶってみても目を開けない。心臓は鼓動を響かせているのに、湟糺の現体は起き上がろうとはしなかった。

「どうして? どうして未遠ごと呪うなんてこと、思いついたの?」

 答えたのは、湟糺の心の声だった。

 …未遠のこと、調べてみるって言ったの、覚えてる?

「うん。あたしが、潔斎所の前で倒れていた日のことよね」

 …僕が調べていることを知って、未遠が接触してきたんだ。死んだ直後に。自分ごと呪い、封じ込めろ。そうすればこの呪いは解けると教えてくれた。例え自分がどの世界に落ちようとも、必ず自分の目の前に現れ、愛する者のために、自分を呪えと。未遠は、僕にならできると言った。

「あえて未遠の誘いに乗ったの? 未遠が引き寄せようとしたことに、湟糺が気付かないわけないのに――」

 …他に思いつかなかったから。どんなに考えても、僕には他の手段が思いつかなかった。ごめんよ、姫まで巻き込んでしまって。僕の力が至らなかったから、怖い思いをさせてしまったね。

 なんで? なんで、こんな時にまで優しいのだろう。自分が、目覚めることもできないくらい深く傷付いているのに。

「未遠は、なぜ湟糺にだけそんなことを言ったの? 巫覡さまなら、他にもいるのに」

 …僕が、未遠好みの男だったから、かな。

「誰かを呪うには、愛する以上に力が必要だからだ。未遠は、湟糺巫覡の真っ直ぐで強い想いを見抜いていた。恐らくは、自分と似ていると感じたのだろう。判っていたんだ。必ず挑戦を受けると」

 騎馬司が言い、沙穂は涙が出そうになって俯いた。

「騎馬司。あたしに触れて。呪いが解けたかどうか、知りたいの」

 無言が広がり、不安がこみ上げた。俯いたままの視界に入ってきたのは、沙羅良宮の装束だった。

「立つがよい。俺が試してやろう」

 顔を上げた。なぜ?

「この者は、黄泉から生きて戻ることと引き換えに、神力を手放した」

 どきっとして騎馬司を返り見た。

「どうして?」

 騎馬司は何も答えない。沙羅良宮が、代わりに説明してくれた。

「何かを手に入れるために、別のものを手放さなければならぬ時がある。死の世界から生きて戻るには、それなりの代償が必要だ」

「では巫覡さまたちは?」

「彼らとて代償は求められる。全員、長きに渡る潔斎が必要だ。しかも湟糺は異世界で呪術を行使した。早く祓いを与えねば、本当に黄泉へと送られるぞ」

 沙穂は弾かれたように立ち上がり、胸の前で手を組んで頭を垂れた。

 そっと肩に手が置かれた。……何も起こらない。本当に、呪いは封じられたのだ。

「沙穂巫女。早くなさい。この中で一番穢れの少ない者は貴女ですからね」

 春麗が、優しく促した。

「はい」

 沙穂は横たわったままの湟糺の頬を両手で挟み込んだ。幼い頃から、湟糺が沙穂にしていたと同じように。

「今度は、あたしが癒してあげるわ。湟糺、あたしを感じて」

 目を閉じて巫女鈴を探し当て、奏でた。湟糺の穢れはあまりに深く、時が必要だった。それでも誰も何も言わずに見守ってくれた。湟糺が、沙穂に手を伸ばすまで。

「湟糺巫覡。沙穂巫女を独占するのは、ここまでにして頂きましょうか」

 清雅が多少の呆れ声で言うと、湟糺が目を開いて微笑んだ。

「もう少し時を頂いてもよかったのではありませんか。初めてだったのですよ。沙穂巫女が、純粋に僕に抱かれたいと願ったのは」

「あたし、願ってないけど」

 口を尖らせると、皆が笑った。だが全員ではない。桜空の姿が、そこにはなかった。

「あの、桜空は――?」

 沙穂の問いに、少し離れたところで立っていた御影が微笑した。

「すでに沙羅良さまのご判断が下されました」

 思わず沙羅良宮の腰にある太刀に目が行った。その視線に気付いても、沙羅良宮は何も言わなかった。

「次はそなただ」

 沙羅良宮は太刀を抜き、騎馬司へと切っ先を突き付けた。

「沙羅良宮さま!」

 言いかけた沙穂の口を、湟糺が横から素早く塞いだ。

 僅かに太刀が動かされると、礼装が地面に落ち、全員が息を飲んだ。

「騎馬司の任を解く。沙汰を伝えるゆえ、宮司の元へ参るがよい」

 素顔が知れてしまっては騎馬隊には居られない。礼装を解かれた騎馬司は、観念したように一礼した。彼の眉には、治りかけの傷があった。沙穂が付けた、傷が。

「この場にいる全員が潔斎を全うするまで、月族からの召喚はない」

「承知いたしました。沙羅良宮さま」

 沙羅良宮は御影とともに姿を消し、騎馬司は半ば茫然とした様子で顔を上げた。

絢斗あやと……」

 湟糺が呟いたのは、沙穂が忘れていた、騎馬司の真名まな。記憶の奥底に眠っていた絢斗のことが、ふいに蘇ってきた。

 賢しげだった目元は変わらずだけれど、少しばかり目つきが鋭くなったかもしれない。騎馬隊として見てきたことは、決して綺麗事ばかりではなかったのだろうから。

 でも、それでも絢斗は魅力的だった。封印されていたものが解けるように、幼い頃に抱いていた想いがこみ上げてきて、絢斗をじっと見つめた。

 絢斗のほうも沙穂を見つめ、やがて何も言わずに、沙羅良宮の判断を受けるため宮司の元へと歩み去っていった。

 これが絢斗を見る最後の姿になるかもしれない。

 そう思うと感情を抑えきれなくて、沙穂は湟糺にしがみついて、顔を埋めた。


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