呪いの巫女
暗い闇から浮かび上がるように、目を開けた。
まるで悪い夢を見たようだった。あのとき桜空は何を言いたかったのだろう。そもそも桜空は、いたのだろうか。桜空が生きていると判って、騎馬司を桜空だと思い込んでしまった可能性もある。それすらも記憶が曖昧で、現実感が伴わない出来事だった。未遠は、どうなっただろう。
ぼんやりとしたまま額に手を当てて起き上がると、身をこわばらせた。
「な、に? これ――?」
四方を注連縄で囲まれた空間。その真ん中に寝かされている。周囲を取り囲むように座る男性神官たちが目に入ると、息がとまるほどに驚いた。
春麗、清雅、水琴、夕霧、そして湟糺。いずれも負けず劣らず、それぞれに美しさと華やかさを纏う彼らは、月神に仕える巫覡たち。そんな彼らが一堂に介し、そして沙穂は巫女装束から真っ白い装束へと衣替えさせられ、普段なら祭祀が執り行われるために設けられる祭壇の結界内へ、閉じ込められるようにして横たえられていたのだ。
とうてい普通とはいえない状況。沙穂は一気に緊張した。
「沙穂巫女」
宮司とともに端で控えるように座っていた斎院が口を開き、ぎくっと身体を震わせた。
「は、はい。斎院さま」
「なぜ、あなたがそこにいるのか、判りますか?」
沙穂が、ここにいる理由。意識がはっきりしていたのは、未遠が呪いの言葉を放った瞬間までのこと。
「未遠が」
緊張のあまり声がかすれて、白装束の胸元をぎゅっと握り締めた。そして改めて気がついた。
自分は穢れの巫女として、ここにいる。だから周りの誰一人とも接触できないよう、結界に封じ込められているのだ、と。
「未遠があのとき、あたしに呪いの言葉を放ちました。呪いを帯びた未遠の霊力に掴まれて、そして――」
はっとした。
沙穂の中に霊力がない。やはり未遠は、沙穂の僅かな巫女霊力など、あっという間に封印してしまった。呪いという穢れに、失われた霊力。もう、ここにいる資格がなくなってしまった。巫女霊力がなければ、巫女とは認められない。
恐ろしい現実に気付き、身体が震え出すのを感じた。
「沙穂巫女」
巫覡の一人、春麗が言葉を発した。
「霊力封印のほうは、いかほどのこともありません。すぐにでも解放できるでしょう」
「本当ですか!? 春麗さま」
まるで心を読んだかのようなタイミング。それでも、すがるような思いが湧くのは止められなくて、思わず身を乗り出した。
「本当ですよ。沙穂巫女」
優雅ともゆとりとも映る仕草で、軽く頭を傾けるようにして、春麗は見つめ返してきた。
続いて清雅が扇を口元にあて、その陰からあまりにも清らかに見える眼差しを注ぎながら、こう言った。
「問題は、呪術からの解放ではないかと、お見受け致します。本当に、その名の者によるものであれば、なかなかに厳しいものであることは、確かでございますね」
大変といいながらも余裕を見せるこの巫覡には、それなりの自信があるのだろうか。ふわりと微笑んだ。
「あなたに掛けられた呪いは、神力に触れると意識を失うというものです」
斎院が改めて説明をした。
「この意味が判りますね? つまりは、月神さまに霊力を授かった巫覡さま方に触れられても、同じことがあなたの身に起こるということです」
「それではあたしは、もう、不要ということ――」
春麗の言葉に期待したのも束の間、やはり現実は変えられないのだと知った。冷たい手で心を思い切り掴まれたような気がして、一刻も早くこの場から立ち去りたくなった。
そそくさと一礼すると急いで立ち上がり、注連縄の下をくぐろうとして――見えない何かにぶつかった。結界が固く閉ざした見えざる壁を築き上げ、この場から出ることを阻止している!
四方ともに同じで、完全に身動きが取れないことを知ると立ち尽くした。
「慌てないで。沙穂巫女。あなたにはまだ、救いの手が残されています」
「どういうことですか?」
「ここにいらっしゃる巫覡さま方が、あなたに掛けられた呪いを解くべく、力を尽くして下さることになったのです。神御子さまの命によって」
「神御子さまって、桜空が――?」
「桜空御子さまと、わたしたちとの間に、約定が交わされたのですよ」
水琴が、沙穂から目を離すことなく、僅かに頭を傾けた。
「呪いを解いた者が、あなたを最初に求めることができる、と」
「うそ……」
息がとまりそうなほど驚いて、水琴を見つめた。幼い頃に交わした約束があるのに、いとも簡単に巫覡たちとこんな約定を交わしてしまうなんて。とても桜空のいったことだとは信じられない。
「本当に桜空なの? 桜空が、そう言ったの?」
「沙穂巫女。口の利き方には気を付けなさい。桜空御子さま、です」
「うそよ!」
水琴に近い結界層を、ドンっと叩いた。衝撃はあるのに音は出ない。
「桜空はそんなこと言わない! 絶対に言わないんだから!
言うとしたら、兄のほうの騎馬司よ。そうだわ。騎馬司は、あたしにいろいろと腹を立てていたから、きっと桜空に見せかけて、あなたたちを謀ったのよ。そうに違いないわ!」
水琴の隣で、夕霧が僅かに見える程度、首を振った。
「なるほど。これは噂に違わぬ奇行の巫女。気性の荒々しさは、どなた譲りでいらっしゃるのか」
言いながら、ちらりと湟糺を見やった。
「湟糺は関係ないわ! 親でも何でもないんだから」
慌てたように斎院が立ち上がった。
「沙穂巫女。落ちつきなさい。巫覡さま方の御前なのですよ。せめて、口の利き方には気を付けて。ね?」
なだめるように言う斎院に、春麗が言った。
「良いではありませんか。巫女が皆、揃いも揃って従順でありすぎるのも面白味がないというもの。たまには威勢の良い巫女を愛でるのも、また一興」
「確かに。突飛な行動には驚かされますが、それもまた珍しく楽しきかな。湟糺巫覡が沙穂巫女に強く思い入れなさるのも、理解できる気がいたします」
春麗に続く清雅の言葉に、水琴と夕霧は賛同しかねるというように眉をひそめた。
「些細なことでこのように暴れられては、いささか。やはり、わたしには落ちついている巫女のほうが性に合っているようです」
「まさしく。むしろ湟糺巫覡が、どのようにこの巫女を手なずけられるのか、その技などをお勉強させて頂きたいくらいで」
「話を逸らさないで!」
巫覡の中では一番年若い湟糺をからかうように見た水琴と夕霧に腹が立ってきて、沙穂は結界層を掌で叩いた。
「斎院さま。桜空御子さまに会わせてください。直接確かめたいんです。水琴さまがおっしゃったことが、本当に桜空御子さまのお言葉なのかどうかを」
「桜空御子さまは、神御子修行が延びたのです」
斎院の代わりに宮司が言った。
「呪いをかけられた巫女に触れられたものですから、さらなる潔斎期間を経なければならなくなりました。その間、婦女子にお会いすることは厳禁です」
「それなら、騎馬司を呼んで下さい。騎馬隊なら、呪いの巫女など関係ないはずです」
斎院が首を横に振った。
「騎馬司は神職ではないのですよ。ここへ入ることなど、もってのほかです」
「それなら、あたしが外へ出ます。ここから出して下さい。大鳥居の外で、騎馬司に会います」
「沙穂巫女。あなたをここから出すことができるのは、わたくしではありません。どうか、おとなしくして。これ以上わたくしを困らせないでちょうだい」
「でも、あたしは納得がいかないんです! そんな条件と交換に呪いを解いてもらうなんて、嬉しくもなんともない! それなら呪いなんて解かなくていい!」
「沙穂巫女。呪いを解くようお命じになられたのは桜空御子さまなのですよ。そののちには恐らく、あなたを神妻にとお望みになられるでしょう。とても名誉なことです」
「でも、その前にあたしは――」
言葉にはできなくて、激しく頭を横に振った。
「それのどこが名誉なんですか? あたしには判りません!」
巫覡の一人がすっと立ち上がった。
「斎院どの」
春麗が結界の際まで歩み寄ると、扇で斎院の肩に軽く触れた。
「沙穂巫女は、わたしが説得いたしましょう。斎院どのは、お引き取りを」
退出を促した。斎院は不安げに沙穂を見ると、くれぐれも、これ以上の問題行動は慎むように、という視線を送り、宮司とともに下がっていった。
「さて」
春麗の扇が結界層を通り抜け、すっと顎の下に当てられ、沙穂は目を見開いた。巫覡たちには、結界層など存在しないも同然らしい。
「その通りですよ」
沙穂はごくりと唾を飲んだ。春麗は明らかに心を読んでいる。いったい、どうやって繋がったんだろう。まさか、触れることなく霊道を創ることができるほどの力を持つの?
だとしたら、もしかして湟糺よりも上の霊力者――。
ふと春麗が微笑み、湟糺を見た。その春麗を、湟糺もゆっくりと見返した。巫覡たちの視線の遣り取りは、いちいち麗し過ぎて、敵対なのか友愛なのか、見ているこちらが混乱させられる。
沙穂は数歩下がると扇から逃れ、ぷいと横を向いて意思表示をした。
桜空に会うまでは、絶対に巫覡たちの言うことなんて聞くもんか。騙されないんだから。
くすくすと春麗が笑った。
何が可笑しいの。口唇を噛み締めると、きっと春麗を見上げた。
「可愛い方だ。想いがコロコロと変わり、まさに猫の目のようで楽しい気分にさせられる。気に入りました。ここから出して差し上げよう」
「え? ホントに?」
「ほら。また心が変わった」
「どうしたら、ここから出られるんですか?」
「霊力の解放をすれば、この結界層は抜けられる。ここを出て直ぐに」
春麗は扇を口元に当てた。
「わたしの元へ参られよ。そこで呪いも解いて差し上げる」
「そ、それって……」
明らかに巫覡による直接召喚。召喚石を介することのない、直接なるお呼ばれは、いったん同意すれば断ることはできない。例えそれが、月のものの最中であったとしても。
斎屋にいるとき、誰かがそう言っているのを聞いた。
「そう簡単に解けますか。春麗巫覡。この呪術は、あなたの霊力をもってしても容易ではないはず。それに呪いを帯びた巫女に触れることは、我々にとっても穢れ。なかなかどうして、勇気のいることではございませんか?」
清雅が言い、同意を求めるように湟糺を見やった。湟糺は何も言わずに、ただ悩ましげな眼差しを浮かべた。
「今宵は、沙穂巫女の霊力解放を行わないほうが良いのでは? 誰もが触れたがらないこの巫女は、目を離すとどこに飛び立ってしまうやら判りません。逃げ出されでもしたら、桜空御子さまに何とも言い訳のしようもございませんから」
水琴が、もはや自分は興味を喪失したとでも言うような表情で言った。
「確かに。無防備なこと、この上ない様子」
春麗が同意を示した。
「わたしの元へくる気もなさそうですし、清雅巫覡のおっしゃる通り、呪術を解くには、いくばくかの戦術とやらも必要でしょう。考えを巡らせるには、おのおの一人でいるほうが良いやもしれませんね」
沙穂を解放しないことでは、巫覡たちの意見は一致したようで、がっくりと肩を落とした。巫覡たちが一斉に立ち上がると、沙穂はずっと黙したままでいる湟糺を見た。
視線に気付いた湟糺は、ゆっくり歩み寄ると注連縄の下をくぐり、ふうわりと沙穂の目の前に腰を落とした。
「湟糺。あたしをここから出して。桜空に会って、確かめたいの。決して桜空には触れないと約束する。それが無理なら、騎馬司に――」
「姫」
いつものように頬に手を触れた。湟糺の背後で巫覡たちの気配がざわめくのを感じて、沙穂は自ら身を引いた。
「あたしに触れては駄目よ。穢れた巫女なんだから」
湟糺はくすりと笑い、沙穂が引いた以上に身を寄せた。
「僕の元へ、来る?」
思わず頷きかけ、思い留まった。誘うような色使いの瞳は、これまでになく真剣な光。真剣だったからこそ、ためらいが生じた。
桜空の存在が明らかになった今、直接召喚を受ければ、湟糺はきっと沙穂を抱いてしまう。呪いを解かないまま、触れ続けてしまうだろう。自分はともかくとしても、巫覡としては致命的。湟糺を、穢すわけにはいかなかった。
「――いかないわ」
やっとの思いで、そう口にした。
「そう」
寂しげに見える表情で、湟糺は僅かに目を伏せた。その様子を見て、ふと初めて助けられたときに騎馬司が怒りとともに発した言葉を思い出した。
桜空が死んだと言われて、自分も死のうとしたあの時。死んで桜空に逢いにいったからとて嫌われるのがオチだと言われて、桜空はそんなに冷たくないと反論したとき、騎馬司は言った。それは冷たいとは言わない、と。じゃあ、何なのと訊いても、答えは自分で見つけろと怒られた。その答え、今なら判る。冷たいからじゃない。
愛情、だったんだ……。
「あの、ごめんね」
覗き込むようにして、思わず謝っていた。
「なぜ謝るの。嬉しいのに」
「え? 嬉しいって」
拒否されて?
「心配してくれているんでしょ。僕のこと」
とろけるような微笑を浮かべると、口唇を重ねてきた。いつもより少しだけ、情熱的に。
慌てて結界層に背中がぶつかるほどの勢いで身を離した。
「なにするの! あたしに触れては駄目なのに!」
睨むように見ると、湟糺は麗しげな笑みを口元に湛えて立ち上がった。そんな湟糺を、巫覡たちは呆れたように見やっている。
「奇行の巫女を落とすには、自らも奇行を為すべし、ですか」
「何とも言い難し。捨て身の愛情にしても、相手は呪いを帯びた身。程度というものがあります」
「暫くは月神さまの召喚もなくなりますよ。湟糺巫覡」
「それもお覚悟の上、ということなのでしょう。何とも麗しき妹愛ではございませんか」
そんな言葉もどこ吹く風。湟糺がゆったりと結界層を抜けて視線を流すと、そのあまりの妖艶さゆえか、四人の巫覡たちは一斉に黙した。
「湟糺」
沙穂には抜けられない結界層に手をかけると、湟糺を見上げた。
「一つだけ教えて。水琴さまがおっしゃったことはホントなの? 桜空が、あたしの呪いを解いた者に召喚させるって話」
「ああ。本当だよ」
「そんな――」
「桜空御子さまを恨んではいけないよ。仕方のないことなのだからね」
「どういう意味?」
巫覡たちが、互いに視線を交わし合った。
「沙穂巫女。あとでテキストを届けさせるから。少しお勉強するといい。また明夜」
湟糺のこの言葉を合図に、巫覡たちはいなくなった。
一人取り残された沙穂は、少しだけ心細くて、結界層に背を預けて丸くなった。桜空が言ったということが気になって仕方がなくて、気持ちが落ち込んだ。
今ここから逃げ出すことができたら、どんなにいいだろう。
結界層を調べ、あちこち叩いてみても、びくともしない。霊力さえ回復できれば、抜けられると巫覡たちは言っていたけれど。
背筋を伸ばして祈りの姿勢を組み、自分の中を探ってみる。だが、どんなに探してみても、あるはずの巫女鈴は見つけられなかった。鈴がなければ、巫女霊力は発揮できない。
「未遠の呪いは完璧ってこと」
それほどまでに未遠は桜空を恨んでいたという証とも言える。桜空に復讐を遂げ、沙穂からも夢を奪った。いつか桜空のお嫁さんになるという、幼い頃からの夢。
沙穂は膝を抱えたまま、ころりと横に転がった。
未遠の与えた闇は、本当に怖い。何もなく、誰もいない、考えることも赦されそうにないほどの、深い闇。そんな場所へ落ちていた。きっと未遠も、ずっと同じような思いを抱えていた。だから、そんな闇を創り出すことができたのだ。
目を閉じた。唯一の救いは、桜空が愛していてくれたらしいと知ったこと。それなのになぜ、巫覡たちにあんな約束を?
それは判らなかった。でも湟糺が言っていた。テキストを読みなさいと。そこにきっと、答えが書かれているはず。
「そのテキスト、この結界層を通り抜けられるのかな」
そんな他愛もない疑念を覚えたまま、テキストが届けられるのを待つことにした。本当に、少しは真面目にお勉強をしないと。
人の気配がして目を開けた。どのくらいの時が過ぎたのか、灯りはいつの間にか落とされている。慣れたこの暗闇は、未遠が与えたものとはまったくの別物で、常に何ものかの気配を帯び、息遣いも感じられる。
え? 息遣い?
起き上がり、外から漏れ入ってくる微かな明かりの中で目を凝らした。確かに人の息遣いが感じられる。それは、今ここでは不自然なこと。結界に囲まれた、この空間では。
恐怖を覚え、逃げ出そうとして結界層に阻まれた。
そうだった。霊力のない今は、この狭い結界域に閉じ込められたも同然の身。
振り返った途端に人影が目に入り、悲鳴をあげそうになった。しっと制する音がして、お静かにという声が掛けられる。
この声は、誰。ついさっき、聞いた声に似ている。巫覡の中の誰か。湟糺でないことは確か。春麗、清雅、水琴、夕霧と次々と思い出してみたが、混乱した頭ではすぐには判らない。
「わたしです。沙穂巫女」
声に耳を傾け、目を眇めて目の前の人物を見た。
「水琴さま?」
「驚かせて申し訳ありません」
言いながら、何かを差し出した。
「巫女テキスト?」
巫覡が持つからだろう。そのテキストはすっと結界層を抜けた。
「なぜ水琴さまご自身がこれをお届けくださるのですか? 見習いの巫女たちだって大勢いますのに」
巫覡相手となると、自然と口調が改まってしまう。やはり、湟糺とは違った。
「届けようとしている巫女を説き伏せたのですよ。どうしても、貴女にお会いしたくてね」
にこりと微笑んだ。さっきまでは、まったく沙穂への興味を失った素振りをみせていたのに、まるで別の人のよう。こんな時間帯に、付き人も侍らせず、たった一人でここへ来るなんて。
「もう、陽が昇っているお時間ですけど」
違和感を覚えて、そう言ってみた。
「奇行の巫女にそれを指摘されるとは、おかしなものですね」
「何か急なご用でも?」
「貴女を呪いから解放しに来たのです。考えを巡らせているうちに、思いついた方法があったもので」
「本当ですか!?」
「ええ」
身を乗り出すと、水琴が頷いた。
「目を閉じて耳を傾け、わたしの声に集中してください」
「はい」
呪いから解放されると知って、素直に言われた通りに目を瞑った。
これで上手くいけば、桜空にも迷惑がかからなくて済む。神御子修行から上がれば、今度こそはちゃんと逢うことが叶う。この前みたいに朦朧とした意識の中ではなく、礼装を解いた桜空に、対面することができるのだ。
「あっ!」
重要なことを忘れかけていた。水琴に呪いを解いてもらうということは、水琴に求められるということ。いくら湟糺が言ったとはいえ、桜空自身に確かめるまでは呪いを解いてもらうわけには、いかない。
「どうされました?」
「水琴さま。残念ですけど、呪いを解いて貰うことはできません」
「なぜです? 呪いを解かなければ、貴女は一生このままで過ごすことになるのですよ?」
「その前に確認したいことがありますので」
「確認。ああ、例の件ですか。あのことなら湟糺巫覡も断言されたはずですが。兄上の言葉すら信じられないと?」
「そういうわけではありませんけど」
「そうそう。湟糺巫覡が助言されていましたね。巫女テキストを読みなさいと。そこには何と書いてあります? 神妻の段には?」
テキストに目を落としたが、すでに灯りが落とされた部屋では、文字までは読み取れない。
「明るさが足りませんね。それでは代わりに教えて差し上げましょう。神妻は、必ず巫覡と夜伽をした巫女でなければなりません」
「な、なぜですか?」
「もちろん、神を穢さないようにですよ。初の夜に流される聖巫女の血によって、神が穢れるのを避けるためです」
「聖巫女の血――」
「しかしその血は巫覡を介すれば、神にとっては大いなる霊力の源となり得ます。ゆえに、聖巫女を抱いた巫覡は必ず召喚されるのです」
水琴の言葉が、吸い込まれるように沙穂の中へと浸透していった。
神御子に逢うためには、必ず巫覡による禊ぎを受けなければならない。それが決まり事。だから桜空は、巫覡たちに約束した。召喚石に左右されず、聖巫女を求められるよう特別な命を与えることで、呪いを解くことに全力を注がせるために。そして水琴は、他の巫覡たちより一歩先んじた。
「沙穂巫女」
呼び掛けられ、水琴を見た。
「目を閉じて、私の声に耳を傾けて。そのまま、じっとしていて下さい。今から解放します」
解放されたら、おしまい。水琴に奪われてしまう!
できるだけ離れるようにして、結界層にへばりついた。
「やめて。あたしは解放されたくない」
ふわりと温かい空気が包み込んだ。それが、やがて熱風に感じられるほどにまで温度が上がっていく。
「熱いっ」
身体の芯が焼け焦げてしまうのではないかと思った途端、水琴が結界内へ滑るように入り込んできた。
「沙穂巫女」
ためらいもなく背に手を回して優しく抱き寄せた。まだ、燃えるような熱さは続いている。鈴は見つからないし、何からも解放された気配はまったくない。それなのに水琴は求めるように、沙穂を見つめた。
「どうして? 水琴さま。あたしはまだ、何からも解放されていないのに。あんなにあたしを忌わしい巫女と見ていたのに、なぜ、あたしに触れられるのですか?」
水琴は耳に口を寄せて囁いた。
「貴女への愛ゆえです。沙穂巫女」
何かが、おかしい。沙穂は口づけてこようとする水琴から顔を逸らした。
「月神さまに神力を授かっていない巫覡は、巫女を求めてはいけないはずです」
湟糺に習ったことを言ってやった。
「そう。貴女はわたしに穢される。巫女としては追放されるでしょう。だが、わたしは貴女の聖の霊力を得ることができる」
「そんな……」
犠牲になるのは、沙穂だけ。
隙をついたかのように水琴が押し倒してきた。抵抗しようにも相手は巫覡。ためらいを覚えたほん僅かな一瞬に、白装束一枚の衣は、いとも簡単に素肌をさらけ出した。全身に触れる空気が感じられる。湟糺にさえ触れられたことのないところに口づけられて、思わず悲鳴を上げた。
「声を出さないで。貴女とて、姉巫女の手ほどきは受けているでしょう」
抵抗した。いくら相手が巫覡だからって、こんなの赦されるはずがない。しきたりは守ってこその、しきたり。それを破ってこんな行為に及ぶなんて、卑怯にもほどがある!
だが闇の中の水琴も必死だった。暴れる沙穂を抑え込み、自らの装束を脱ぎ捨てようとしているのが見て取れる。少し力が緩んだ隙に、水琴を思い切り突き飛ばした。逃げようとしても、やっぱり結界層に阻まれる。振り返ると、水琴の何かを確信したような笑みにぶつかった。
「今わかったわ。あたしの霊力を解放させないよう進言したのは水琴さまだった。これが目的だったのね」
「抵抗しなければ、乱暴なことにはなりません。仮にも私は巫覡。おとなしく身を委ねて頂ければ、悦を与えることなど雑作もないこと。わたしからのささやかなお礼です。技を尽くし、最高の悦を捧げることをお約束します」
「悦だなんて、そんなのあたしは求めない! 仮にも巫覡だというのなら、巫覡らしいやり方で求めたらいいじゃない! なぜこんな卑怯なやり方をするの?」
途端に引き倒され、手で口を塞がれた。
「あなたが必要だからです。聖としての、あなたの霊力が!」
「それなら、ちゃんと、召喚すれば、いいじゃない!」
やっとのことで発すると、今度は完璧に口が開かなくなった。
「ご存じないとは言わせません。湟糺巫覡の霊力は絶大。特に貴女への想い入れは計り知れないほど。彼が望めば、わたしなど簡単に押しやられてしまう。それでは月神さまの召喚から、ますます遠ざかるばかり!
わたしがここで生き続けるためには、聖の力が必要なのです。それを、判って欲しい!」
判りたくない! 判らない! 必死で抵抗する沙穂は、やはり子どもだった。とてもじゃないけれど、大人の男性の力には敵わない。それでもかまわず、抵抗し続けた。
テキストなんて読まなくても、今の自分がどれくらいの危機にあるかくらい判る。ここで抵抗を諦めたら、一生後悔することくらい、理解できるんだから!
せめて、この結界域から抜け出せさえすれば! 巫女の鈴さえ、鳴らすことができれば、何とかなるかもしれないのに!
…未遠の莫迦! 桜空の莫迦! 返してよ! あたしの大切な巫女の鈴!
あたしがこんな危険な目に遭ってるのに、助けにも来ないで、神御子修行を続けてる桜空なんて、大嫌い! 絶対に、桜空になんて抱かれてやるもんか!
歯を食いしばると、音が聴こえた。
…いま、聴こえた気がするけど。
急に抵抗をやめると、つられたように水琴も動きをとめた。そんな水琴を見上げたとき、ついに捉えた。
…見つけた。あたしの中の、巫女の鈴!
目を閉じて意識を集中すると、鈴を奏でた。ひんやりとした空気が頬を撫でていく。結界域の、外の空気。
「まさか、ご自分で霊力の解放を為された!?」
「したわ、水琴巫覡」
驚いている隙をついて、素早く腕の中から逃れた。追うように立ち上がった水琴の足下に無造作に置かれている白装束に、ちらりと目をやる。あれがないと、ここからは出られない。助けを呼んでも、とんでもない格好で人目にさらされることになってしまう。
沙穂は口唇を引き締めた。
それでも仕方がないのかもしれない。このまま水琴に屈するよりは、マシだもの!
腹をくくって扉を見た。地下の通路へと繋がる扉。表へ出ることができない昼の今は、そこだけが唯一の出口。それは水琴の背後にある。
どうやって辿りついたら? 一気に駆け抜ける? その前に絶対捉えられてしまうだろう。何か方法を考えなくては。
「降参です。沙穂巫女」
ふいに水琴は足元の装束を手に取り、着せ掛けようとするように拡げた。
「それで、あたしを捕まえようというんでしょ。騙されないんだから!」
「交換条件、ではどうでしょう」
「なに、それ?」
「いま、わたしがしようとしたことを黙っていて下さるのなら、このままおとなしく身を引きます。わたしは何もしておらず、貴女も綺麗な聖巫女のまま、ここに残ることができる。いかがです?」
沙穂は黙り込んだ。こんなことをしようとして、あまりに勝手すぎるとは思うけれど、このまま外に出て助けを求めることは、正直なところ、さすがに恥ずかしい。
「わたしもつい、ムキになりました。反省しています」
水琴の背中側にある出口に目を向けた。どうやったって、捕まらずに辿り着くのは難しそうだった。
「それなら、別に構わないけど」
しぶしぶながらも同意した。
「よかった。さぁ、これを着てください」
警戒を緩めないまま水琴を見ながら、ゆっくりと袖を通した。
「仲直りをいたしましょう」
水琴は腰ひもをきちんと結んでくれてから、そっと後ろから抱き締めてきた。
「怖い思いをさせました。お許しを」
まるで、いつもの湟糺のような雰囲気。これって、巫覡特有のものなのだろうか。
「いえ、あの。あたしこそ、殴ったり蹴ったりして、すみませんでした」
そう答えつつも、なぜ急にこんなふうに諦めたのか判らない。
「あの、水琴さま――」
「水琴巫覡」
聞いたことのある声が部屋の隅から響いて、ぎょっとした。いつの間にか、騎馬隊の面々が部屋の中にいる。全部で三人。扉が開いた気配もなかったのに、どうして?
「どうやって入り込んだの? 騎馬司」
「特別権限の発令です。巫女どのの危機を、隊員の一人が感知しました。神力を帯びない巫覡どのに襲われる、沙穂巫女の悲鳴を」
はっとして水琴を見た。掟を破ろうとした者に対する騎馬隊の追及は厳しいと聞く。それが例え巫覡であろうと、神であろうと。水琴は騎馬隊の動きを察知して、急に態度を改めたの?
「騎馬司、といいましたか」
水琴は穏やかな口調で問うた。
「はい」
「今あなたの目でご覧になって、いかがです。わたしは、嫌がる沙穂巫女を襲っているのでしょうか」
騎馬司と目が合った。
「いえ」
騎馬司が僅かに目を逸らした。
「そうは見受けられません」
「騎馬司……!」
そうじゃない、本当は――。身体に回された水琴の力が強くなった。約束したでしょう、とでもいうように。
「確かに今、わたしは神力を帯びてはいません。ですが深い交わりを持たなければ、何ら問題ないはずだと認識していますが、違いますか?」
「その通りです。水琴巫覡」
「沙穂巫女と仲が良いのは、何も湟糺巫覡だけではないのですよ」
確かに、いったんは仲直りをした。しかも相手は巫覡。何も言い返せないけれど、判って欲しくて騎馬司を必死で見つめた。だが。
「失態は咎めません。お引き取りを」
水琴のひと言に、騎馬司を始め、隊員たちは一様に頭を下げた。
「失礼いたしました。どうぞお許しください」
騎馬司――。言葉を発する間もなく、騎馬隊は姿を消した。
「騎馬司と、知り合いなのですか」
沙穂はあいまいに頷いた。
「そうでしょうね。彼からは、あなたに対する愛情が感じられました」
「愛情? 騎馬司が、あたしに?」
なぜか胸がドキドキした。
「ええ。貴女には感じられないと?」
「感じられませんでした……」
「目を閉じて」
水琴が囁いた。
「騎馬司が、貴女にしたいと望んでいることが、視えますよ」
逞しい腕が、強く、でも優しく抱き締めてきた。あのときのように。崖から落ちて、自らの危険も痛みも顧みず、命がけで助けてくれたとき抱き締めてくれたと同じように。馬に乗ったときに見上げた、礼装の下の顔を見てみたかったけれど、それは叶わなかった。でも――。
騎馬司の顔が近付いてきた。そして、触れ合った。優しくて温かい。激する感情がときどき思い出されて、懐かしい気がして、恋しい気持ちになるときもある。
「騎馬司――」
「沙穂巫女」
感情が高ぶってきて、ついに腕を回すと、騎馬司が応えるように頬を寄せてきた。桜空じゃない騎馬司。それなのに、ちっとも厭じゃないなんて不思議――。
ふいに焦げるような熱さから解放された。急速に体温が元に戻っていく感覚がする。
水琴が弾かれたように身体を離して、沙穂は目を開けた。
「なんと。貴女が自らなされたのか。沙穂巫女?」
怯えたような水琴を見て、身体を起こした。今のは、騎馬司じゃない!?
「水琴さま。あたしに、いったい何を?」
水琴の背後に湟糺が見えて、目を見開いた。
「湟、糺――?」
その言葉を聞いて、水琴が慌てたように振り返った。
「湟糺巫覡。あなたも、呪いを解く方法を見つけられ……」
取り繕うように言う水琴の表情が強張った。月神の召喚を受けていたのだろう。息を切らし、装束が乱れきったまま駆けつけた湟糺の姿は、水琴を無言にさせた。そんな彼に、湟糺が恐ろしいくらいの優しい笑みを向けた。
「考えましたね。水琴巫覡。沙穂巫女自体に結界を纏わせ、自身に穢れが及ばないようにして聖の霊力を手に入れようとは」
沙穂は水琴を見た。では、あの強烈な熱さは水琴が創り出した個別結界。
「なるほど。騎馬隊に特別権限を付与したのは、あなただったのですね」
水琴は自嘲するような笑みを浮かべた。
「あれは妹君への愛情表現だとばかり思っていましたが、その実、このような事態を想定し、霊道を通していたとは。やはり抜け目のない方ですね」
あのキスが――。見上げた湟糺の表情が、見たこともないほどに怒りの感情に染まっているのを知ると、言葉が出なくなった。
「皆が真剣に沙穂巫女の呪いを解こうと思い悩んでいる中、まさかこのような狼藉に及ぼうとは。真に赦し難き行為」
湟糺に目を向けられ、自分の乱れた姿に気付くと、慌てて装束をかき合せてうずくまった。
「やめて、湟糺。今、あたしに触れないで」
水琴の見せた幻覚にはまり、彼を騎馬司だと思い込んですべてを赦そうとした。そんな自分は、本当に穢れている。純粋に想いを寄せてくれている湟糺に対する、これ以上ない裏切り行為を、働いたのだ。
「触れなくても判る。今の僕には」
その言葉が哀しみを帯びていて、泣きたくなった。
「赦さない」
冷たい言葉を聞いて、顔を上げた。怖い。湟糺は本気で怒っている。
でも視線は、沙穂に向けられていなかった。
「僕はあなたを赦しません。沙穂巫女を穢そうとした罰は受けて頂きます」
水琴が怯えきった瞳で湟糺を見つめていた。
「今宵、神の御前にて決着を」
それを聞いて慌てた。
「湟糺。それだけは、やめて」
「姫のお願いは何でもきいてあげたいけれどね。こればかりは、無理だから」
「あたしのために、ここまですることないじゃない。二人に命を賭けた決闘なんてされても、あたし困る」
「姫。巫覡同士の決闘については知っているんだね」
「聞いたことがあるの。お母さまが巫女のとき、一度だけ見たって」
「ふうん。そう。僕は聞いたことないな」
「ふうんって、そんなに簡単なことじゃない。巫覡同士の闘いは、それは壮絶なんだから。いったん始めたら、どちらかの霊力が枯れ果てるまで、終わらせることはできないのよ。知ってるの?」
「もちろん」
「霊力が枯れたら、巫覡ではいられなくなるわ」
「だからこそ、やる意味があるんだよ」
「やる意味なんてないっ。湟糺にもしものことがあったら……」
俯きかけると、湟糺が寄って来て身を寄せた。
「その先、聞きたいな。言ってみて」
はだけかけた胸元から覗く肌は、見事なまでに引き締まっている。こんなときなのに、今の湟糺は色気がありすぎて、目のやり場に困るほどだった。
「あたし……」
「うん。なに?」
「お父さまとお母さまに、顔向けできない!」
湟糺がため息をついた。
「もう少し、色気のあること言ってくれないとね」
「だって、本当だもん!
二人とも、湟糺にはものすごく期待しているし。それなのに、あたしなんかのために巫覡でいられなくなったら、あたしはもう、家に帰れない」
「勘違いしてはいけないよ。姫なんか、じゃない。姫だからこそ、命を賭ける価値があるのだからね」
「そんなふうに淡々と言わないで。水琴さまとの対決なんて、やめて。お願い」
「そうだね。姫が泣いてすがってくれたら、考えなくもないけれど」
「それでいいなら、いくらでも泣く。すがるわ。だから――」
はっとした。今のあたしは、呪いを帯びた巫女。湟糺にすがるどころか、少しだって触れることはできない。少しずつ後ずさると、湟糺が笑った。
「本当に素直で可愛いね」
ふいに振り返ると、水琴に顔を近づけた。
「受けて頂けますね。水琴巫覡」
目を閉じていた水琴は、ゆっくりと開いて湟糺を見据えた。
「ええ。受けましょう」
「水琴さま!」
祈るように、力いっぱい手を握った。
「二人とも、こんなことしないで。お願いだから」
だが、巫覡の決定は絶対だった
**********
巫覡同士の霊力合戦が行われるという噂は、風よりも早く一族を駆け抜けた。
沙穂巫女の奇行が二人の巫覡を狂わせた。中には、そんな妬みとも取れる発言をする者もいたし、賛同する人々も確かにいた。
特に、湟糺に憧れを抱く巫女たちの沙穂を見る視線は刺々しくて、斎院と宮司はともに沙穂を対決の場に立ち合わせることを禁じ、例の結界祭壇を造った建物内に留まっているよう命じた。
十数年振りだという霊力合戦は、神宮内の一番広い中央で行われるらしい。大勢の気配が集中するのを感じながら、沙穂は今からでも何かが起こって対決が中止されればいいと祈り続けていた。
「月神さま。あなたをお慕いする巫覡同士が対決するんです。どうか、止めて下さい。どちらかが必ず神宮から追い出されるなんて、そんなの厭です」
ざわめきが大きくなった。湟糺と水琴が姿を現したのだろう。
「どうか二人をやめさせて。桜空。あなただって神御子修行を受けているんでしょう。あたしの気持ち、届かないの?」
届くわけない。そんな投げやりなことを思った。
これまでだって、ずっと桜空に会いたいと願ってきたのに、一度だって応えてくれたことはなかった。曖昧な意識の中ですれ違うように会った人物だって、本当は騎馬司のことを桜空だと勘違いしただけなのかもしれない。湟糺と水琴、二人のうちどちらかが神宮からいなくなるのは自分のせいなのに、当人がここにいていいのだろうか。
「あたしが、ここから出て行くから。だから湟糺、水琴さまとの霊力合戦なんてやめて!」
祈るように叫ぶと、建物を抜け出した。きっと湟糺には聞こえている。だって、まだ霊道がつながっているんだから。こっちから霊道を遮断することができればいいのに。もっと自分の霊力が高ければ、それができるはずなのに。
禊ぎの河へとつながる道を小走りで抜けている最中、気配が突然変わった。
大勢いるのに、誰もいないかのような静寂。耳も心も身体も何もかもが透明な刃物に触れているようで、五感のすべてが痛いような感覚。自分の呼吸が耳触りで、息を止めずにはいられない。
苦しくなって樹に手を当てて立ち止まったとき、静寂が大きなどよめきになった。
「湟糺――」
もう決着がついたのだろうか。そうだとしたら、あまりに早過ぎる。泣きたい気持ちがこみあげて、駈け出した。
湟糺は強い。見目が良くて霊力が高いだけでなく、体力もあって武道だって誰にも負けないくらい頑張っているのも知っている。本当に完璧なのだ、湟糺は。それでも巫覡は皆、選ばれ抜いた人ばかり。湟糺が一番だなんて、言い切れない。
ようやく聞き慣れたせせらぎが近付いてくると足をとめ、川べりに立つと目の前を滔々と流れる水を見つめた。
ここを出て、いったいどうしようというのだろう。巫女じゃなくなったら、何ができるのか。巫女になることだけが当たり前の世界で生きてきたのに。
「結界の外に行けたら……」
不安がすごく大きい。けれど本当に行けたら、何か希望があるかもしれない。でも騎馬隊が赦さない。結局は連れ戻される。連れ戻されたあとは、どうなるのか想像もつかない。巫女じゃなく普通の族人として、誰かと夫婦になって、なんて生活を送ることが赦されるのかどうかさえ、判らなかった。
禊ぎの河を超えて、さらに歩き出した。しばらく進んで二つ目の川へ近付いたところで、背後から馬の蹄が山道を駆けてくる音が聞こえてきた。
やっぱり来た。
「あたしを捉えに来たの?」
騎馬司の姿はなくて、隊員たちが沙穂を取り囲むように位置を変えた。
「お戻りください。すでに三つの結界を抜けています。残りはあと二つです」
「三つも――?」
まったく気がつかなかった。ぼんやりし過ぎていたのか、それともまだ完全に巫女霊力を取り戻しきっていないのか。そう思った沙穂は、可笑しくなって下を向いて笑った。
「どうされました?」
「別に何でもないわ。あたし、そんなに霊力高くないのにって思っただけ」
「そう思っているのは、あなただけです。あなたは、そう思いこむことで自分の霊力を封じ込めようとしているのです。無意識のうちに」
思ってもみなかったことを言われて、沙穂はむっとした。
「どうしてあたしがそんなことをしなきゃいけないの? 血筋だけは良いのに巫女霊力が低くて情けないって、ずっと思ってきたのに。それなのにそんな言われ方、したくない!」
「血筋が良過ぎて、霊力を顕すことができないくらいに霊力自体をコントロールできる力を持ち合わせている。それほど霊力が高い。そういうことだろう?」
沙穂はきょとんとして、突然現れた騎馬司を見た。
「騎馬司」
「はい」
「今の、難しくてよく判らなかった。もう一度言って?」
「はぁ……」
騎馬司のそんな物言いを聞いたことがなかったのか、隊員たちが思わずといったように笑い出した。
「なによ。皆で莫迦にして」
思いもかけず和やかになってしまったことが不満で、沙穂はぷいと川のほうを向いてすねた。その目が水面の下にあるものを見た瞬間、ソレが触手を伸ばすようにして水中から沙穂の装束を掴むと、一気に流れへ引きずりこんだ。
「きゃっ」
声を上げた途端に水が喉まで入り込んで、悲鳴ごと飲み込んだ。禊ぎで河に入ることはあっても、泳ぐことはできない。
口と鼻から水が流れ込んで激しい頭痛に見舞われた。騎馬隊の声が入り乱れているような気もしたが、泡立つ水音で、怒声なのか馬の足音なのかも判別できないほどに混乱していた。そんな中、ある光景が視えてきた。
…幼い少年。今の自分と同じように溺れかけている。妖に足を引っ張られて。それを男の人が助けようとして妖に引き込まれて溺れた。少年は男の人を助けたいと強く願って手を伸ばし、妖を殴りつけ、男の人は少年を守りたい一心で妖に立ち向かい、少年を傍へ引き寄せようと手を伸ばしたーー
やがて深さが一気に増すと、妖の姿が見て取れた。何本も触手を持つソレは装束の隙間から沙穂に直接触れ、清冽なる力を吸い取ろうとしている。
そんなことしたって無駄なのに。あたしには、あなたが望むような霊力なんて持ってないんだから。そう思ったとき、光る槍が幾本も水中に落ちてきた。
取り囲むように突き刺さった光の槍に引っ掛かって、ソレと沙穂の動きは止まった。
攻撃されたと知ったソレは、触手を水中から出して反撃に向かった。けれど数十秒と持たないうちに騎馬隊に調伏されて姿を消した。
「しっかりしろ」
騎馬司の声とともに水から引き上げられた瞬間、沙穂の意識が遠のいた。
胸から大きな塊が抜け出たような感触がすると、激しく咳込んだ。
「気がついたか」
騎馬司の声に、沙穂は目を開けかけて顔をしかめた。
「大丈夫か?」
「頭が痛い。鼻の奥も、喉も。それに、寒い」
「注文の多い巫女どのだな。まったく」
それでもホッとしたような雰囲気で、隊員の一人が差し出した上掛けを受け取ると、それで沙穂の身体を包み込んだ。
「どうして貴女はいつもそうなんだ。神宮を抜け出しては危険な目に遭うような真似をする?」
「神宮へは戻りたく、ない……」
また意識が遠のいた。
「沙穂巫女!」
騎馬司の声が遠くから聞こえる。あたしを神宮へ連れ戻さないで。そう言いたかったのに、力が抜けて口が開かなくなった。
**********
「――ここは?」
次に気がついたのは見知らぬ部屋だった。
びしょ濡れだった装束は着替えさせられ、布団に寝かされており、部屋には暖が取ってあって、その温かさにほっとした。
「騎馬隊が所有している建物だ。心配するな。装束は隊員の妻に替えさせた」
「当たり前じゃない」
「まぁ、そうだな」
「でも、ありがとう」
「これも仕事だ。礼には及ばない」
「あたしのこと、神宮へ戻さなかったのね。なぜ?」
お湯に手を伸ばしかけていた騎馬司が、真面目な顔で肩をすくめた。
「うわごとのように言っていた。神宮へは戻さないで。戻りたくない、とな」
「そう」
「そこに危険があるのなら、戻すわけにもいかないからな。なぜ、そうまでして逃げ出したいんだ?」
「あたしには居る資格がないから。話してもきっと、あなたには理解してもらえないでしょうけど。あたしの気持ちなんて」
「そうだろうな。余計なことを訊いた」
あっさり引き下がられると逆に話を聞いて貰いたくなって、布団から顔を出してじっと騎馬司を見つめた。
「なんだ。話したいなら聞いてやってもいいが」
むすっとすると、騎馬司が小馬鹿にしたように笑った。
「その前にこれを飲むといい。身体が温まる」
起き上がろうとすると、騎馬司が手を貸してくれた。
「おい!」
驚いたような騎馬司の顔がぼんやりとして、布団に倒れ込んだ。
「沙穂巫女!」
覗き込む騎馬司を見上げながら、沙穂は少しだけ戸惑った。
「あたし、どうしちゃったんだろ」
騎馬司が額に手を触れると、意識が遠のきかけた。
「熱はないようだが」
騎馬司が触れるのをやめると、途端に意識がはっきりと戻る。そんな気がして、沙穂は自分から騎馬司に手を伸ばした。
「巫女どの?」
騎馬司の頬に手を触れると、意識が遠くなった。意識が遠のいて、手が騎馬司から離れると、すぐにぼんやりとした状態から回復する。
これって、もしかして、未遠の呪い? どうして騎馬司に反応するの? まさか騎馬司に神力が?
そんなはずない。もしそこまでの霊力が備わっているのなら、騎馬隊にはいない。絶対に巫覡か、神族になるべく御子修行を受けるはずだから。
目を閉じると巫女の鈴を探り当て、自分で体力を回復した。
「もう大丈夫。だから、あたしに触れないで」
起き上がるとき手を貸そうとした騎馬司に、そう言った。騎馬司はそれを巫女ゆえの言葉と受け取ったようだった。
「目まいは? 大丈夫なのか?」
こくんと頷くと、騎馬司に触れないようにして、湯呑みを受け取った。
やっぱり何も起きない。くず湯を数口飲むと身体が温かくなってきた。そんな沙穂を見てようやく安心したのか、騎馬司は傍に胡坐をかいて座ると、もっと飲むか?と尋ねた。
うんと頷いて湯呑みを返すとき、試しにわざと手が触れるようにしてみた。すると、ふっと意識が遠のきかけた。
「あ、おい!」
慌てたような表情の騎馬司を、下から見つめていると確信できた。
この人は、神力を帯びている。だから、あたしは意識を失う。未遠の呪いが反応するんだ。でも、どうして騎馬司に神力が――?
「騎馬司。どうしてあなた自ら、あたしの面倒を見てくれるの?」
騎馬司はそれを何と受け取ったのか、急に居住まいを正した。
「貴女を尋問するためだ」
「尋問? ここから抜け出そうとした、から?」
騎馬司の声色が怖い。起き上がると急に背筋が冷たくなって、ぶるっと身体を震わせた。
「まだ抜け出してもいないのに。失敗したのに尋問されるの?」
「今日、神宮で何が行われたか、貴女が一番良く知っているだろう? 巫覡対決の裏でどのような遣り取りが交わされたのかも」
「それを話せっていうの?」
「貴女を巡っての対決だと聞いている。このような日に結界を三つも通り抜け、外へ抜け出そうとした貴女の行為を咎めないわけにはいかない。というより、疑問を持たざるを得ないといったところか。もしそれが昼間の、あの出来事と関係しているのであれば、水琴どのの処遇もまた違ってくる」
「どういうこと?」
「どういうこと、だと? それを私の口から今ここで説明しろとは、呆れた巫女どのだ」
「だって……意味判らないんだもん」
とは言いつつも、昼間、どのような状況を騎馬司に見られたのかを思い出して、頬が熱くなって俯いた。
「……判らないのはこっちの方だ」
そう呟くと、騎馬司は少々乱暴に湯呑みを床にトンッと置いた。
「騎馬司は、何が判らないの?」
ためらいがちに目を上げると、騎馬司が怒ったように目を逸らした。
「何で怒ってるの?」
「尋問の意味、判るか」
「それくらい判る」
「いや。判ってない。尋問するのは私の方で、貴女じゃない。問うのは私で、貴女は答える側だ」
「じゃあ何が聞きたいの?」
「だから!」
騎馬司の袖が湯呑みに触れてカタンっと倒れ、咄嗟に手を伸ばした。同時にこぼれた中身を拭きとろうとして、二人の手が触れた。
「あっ」
小さく悲鳴をあげて身を引いたが僅かに遅かった。すっと意識が遠のきかけて床に倒れ込んだ。でもすぐに意識は戻った。
「巫女どの!?」
「触れないで。あたしに」
騎馬司が動きを止めた。
「あなたに触れられると、あたしは意識を失うの。だから、触れないで。騎馬司」
「なぜ――」
「あたしにかけられた呪い、どういうものか聞いてないの?」
「聞いていない。何なんだ? 未遠はどういう呪いを放った?」
本心から戸惑っているようだった。見つめていると、騎馬司が思っていた以上に若いことに気がついた。話しかたや隊員への口調、態度からは考えられないほどに年若い。桜空とほぼ変わらないくらいだろうか。ずいぶん歳の離れた弟みたいな口振りだったのに。
「聞いていないなら、あたしの口からは言えない。それが神宮の決定なんだろうから」
「その呪いのせいで、結界外へ抜け出そうとしたのか?」
「そんなに理由、聞きたいの?」
「それが仕事だ」
「変な仕事。理由を知ってどうするっていうの。聞いたら、あたしのこと助けてくれるの? 助けられるの?」
「私にできることならば」
「じゃあ巫覡の対決をやめさせて。湟糺と水琴さまの霊力合戦、止めてみせてよ」
「過ぎたことは変えられない。あの決着はすでについている。湟糺巫覡は水琴巫覡をいとも簡単にねじ伏せた」
予想がついていたとはいえ、湟糺の無事を知ってほっとした。でも同時に、他人の霊力を枯らすほどの激しい怒りを発揮する湟糺の一面を思い知らされて、少し怖い気もした。
「湟糺は、水琴さまの霊力を枯らしたのね」
「あっという間だった。ずいぶん力のある兄を持ったものだな」
「それ、あたしに誇りにしろって言っているの? あたしは厭だったのに。あたしのせいで二人が対決して、どちらかが必ず巫覡を追放されるなんて厭だったのに!」
「妹を穢されて相当お怒りだったのだろう」
沙穂はキッと騎馬司を睨んだ。
「あたし、水琴さまに穢されてなんてない。その前に湟糺が助けてくれたんだから」
「ならば貴女はまだ聖巫女ということだ」
「そうよ」
「なるほど」
騎馬司は僅かに顔を傾けると、誰かに向かって命じた。
「聞いての通りだ。このまま生かす」
「このまま生かすって、なに?」
「水琴どのだ。貴女を穢していれば生かしてはおけない」
沙穂は思わず口に手を当てた。
「もしあたしが穢されていたら、騎馬司は水琴さまを手にかけるつもりだったの?」
「それが掟だ」
「そうかもしれないけど、何もなかったのは事実なんだし。……でも良かった」
「なにが?」
「騎馬司、人を殺めなくて済んだから」
一瞬、言葉を詰まらせたように騎馬司が沙穂を見つめ、次の瞬間には礼装の奥の瞳に怒りの色が浮かんだ。
「貴女は恐ろしいほどに無垢な人だな。そのあまりの警戒心のなさは、いったいどうやったら持てるんだ。水琴どのは、神力を帯びないままに貴女を襲ったんだぞ。成功していれば今頃、神宮を追放されていたのは貴女だ。それを呑気に自分のせいで二人が対決するのが厭だなどと泣きごとを言っていられるなんて、どうかしているとしか思えない。もっと自分の身を大切にしろ。もっと水琴どのに対して怒りを持て。それが普通の感情だろう」
「あたしは、確かに知らないことが多い。お勉強不足なのは自覚しているわ。でも、騎馬司が人を殺めなくて済んで良かったって思うのは、いけないことなの?
これって普通の感情じゃないの?」
沙穂に見つめられて、騎馬司が黙り込んだ。沈黙が二人の間を支配し、いたたまれなくなって、沙穂は布団を頭から被って潜り込んだ。
「あたし、少し疲れたから寝る」
「ああ。そうしろ」
立ち上がる気配がし、出ていくのかと思いきや、部屋の出入口で座り込んだのが判って、沙穂は少しだけ顔を覗かせた。
「もしかして、ずっとそこにいるつもり?」
「見張りが必要だろう。ここは神宮じゃない。誰もが簡単に出入りできるんだ」
「帰宅日には家で寝てるわ。それと同じことじゃない」
「巫女や巫覡を輩出した家には、神宮が特別な結界を張り巡らせている。だからこそ、住む家を指定されるんだ。騎馬隊もその日は総動員で警戒に当たっている。不埒な考えを起こす者がいないとは限らないからな」
「そんな変な人、この一族にいるなんて思えないけど」
「貴女が想像しているような、男が女を襲うばかりが不埒だとは限らない。誰かが誰かを蹴落としたくて、命を奪うような妙なことを企む輩もいる。神に仕える一族だからって、綺麗事だけで生きているわけではないってことだ」
普段は激しく前向きに生きろみたいなことを言うくせに、急に恐ろしいくらい後ろ向きなことを口にする。沙穂は起き上がるときちんと正座をした。
「なんだ。私がいると眠れないか?」
「眠れるわけないわ。これでもあたし巫女なんだから。これまで一度も、男の人と同じ部屋で眠ったことなんてないんだもの。それに……騎馬司って、ときどき恐ろしいことを言うから」
「怖がらせたのなら、すまなかった」
「怖くはないの。ただ少し――驚くだけ。きっと、あたしが知らないこと、いっぱい知ってるんだろうなって思って」
「私の知っていることなど、貴女には不要のものばかりだ。疲れているんだろう? さっさと寝ろ」
「眠れない」
途端に騎馬司が礼装の下からじっと見つめた。きっとまた怒っているに違いない。そう思いながらも見つめ返していると、ふと水琴に見せられた幻覚を思い出し、胸がどきどきしてきて思わず目を逸らした。
「えっと。桜空とは、たまに会ってるの?」
「それを聞いてどうする」
「呪いの巫女に触れたせいで、神御子修行が延びたって聞いたから。つまり、あたしのせいなんだけど。弟さんに会えなくて寂しいかなって思ったの」
「それは貴女のほうじゃないのか?」
「あたし――?」
言われてふと不思議に思った。そういえば、桜空のこと思い出すのを忘れていた。前までは、いつも桜空のことばかり考えていたのに。
「あたしに掛けられた呪いを解くために、桜空が巫覡たちと約束を交わしたらしいの。未遠の呪いを解いた者に、あたしに宿る聖の力を与えるって」
さすがに抱く権利、とは言えなくて言葉を濁した。が、騎馬司は察したようだった。
「それを聞いてがっかりでもしたか。桜空が裏切ったと」
「巫覡たちに言わせれば、それは最もだって。なぜなら、神御子にお呼ばれする巫女は、必ず巫覡と夜伽をした者でなければならないからって。あたしが今のまま桜空と会うことは、絶対に有り得ないってことね。そんなことも知らなくて、子どもの頃の約束ばかり気にしてた」
「そういう知識を得るために巫女道場があるんだとばかり思っていたが、違ったのか」
「あたし、抜け出してばかりいたから」
「それなら納得だ」
「ねぇ騎馬司。族人はどうなの? ずっと一人の想い人とだけで添い遂げられる? それが赦されるの?」
「その答えが貴女に必要か?」
「知りたいの。教えて」
騎馬司が視線を逸らして横を向いた。
「必要ないだろう。巫女である貴女には」
「あたし、いつまで巫女でいられるか判らない。呪いを帯びているんだもの」
決心したように沙穂が目の前に座ると、驚いたようにさっと騎馬司が顔を戻した。
「だから知りたいの。巫女じゃない族人の生活とか、いろいろと知りたい。教えて。お願いします」
手をついて頭を下げた。
「沙穂巫女。そんなことをしたって私の考えは変わらない。貴女に巫女以外の知識など不要だ」
「騎馬司のいじわる。教えてくれたっていいじゃない」
「巫女を辞める心構えの下準備を手伝うような真似ができるわけないだろう」
「もういい。他の騎馬隊員に聞いてみるもん」
「出るな。今は昼間だ」
外へ出ようとすると騎馬司が腕を掴もうとし、避けようとして、上手くいかなかった。
「――申し訳ない。沙穂巫女。つい……」
目を開くと、騎馬司が布団の脇で頭を下げた。気を失わせてしまって、慌てて運んでくれたに違いない。
「申し訳ないと思うなら教えて。騎馬司が素直に教えてくれていたら、あたし気絶しなくて済んだんだから」
すねたように言うのは得意だった。甘えるなと一喝されるかと思ったが、驚いたことに騎馬司はため息をつき、やっかいなことになったと呟いた。
「約束してくれ。巫女を辞めるなんて言い出さないと」
「あたしが巫女をやめるかどうか、あなたに関係あるの?」
その問いには何も答えず、頭を抱えるようにこめかみに手を当てた。
「桜空のことがあるから?」
「神御子修行が明けたら桜空は貴女を妻にと望む。その前に貴女がいなくなったら、何のために神御子修行に出したのか判らない」
言い終わると同時に、しまったというように動きを止めた。
「騎馬司。今の、どういう意味? あなたが桜空を神御子修行に出したって?」
「いや。言いかたを間違えただけだ。何のために神御子修行を受けているのか判らない、と言いたかった」
騎馬司は嘘をついている。この言い間違いと騎馬司に帯びる神力には、きっと何か関係がある。
「うそ。あなたが言い間違えるなんて有り得ない。騎馬司。あなた本当は何者な――」
ふいに騎馬司が身を乗り出し、上から覗きこむようにして見つめた。触れられたら気を失うという意識が働いて、沙穂はとっさに床へ張り付くようにして騎馬司の礼装を見上げた。
「あたしを襲うの? 水琴さまみたいに」
「巫女どの。族人が一人の想い人とだけ添い遂げることができるかどうか、それを知りたいんだったな」
「そう、だけど」
「答えは、できる、だ」
「ホントに? それじゃあ、もしあたしが騎馬司とって願ったら、騎馬司とだけ生きていけるってこと?」
言ってしまってから慌てて口をつぐんだ。見つめ返す礼装の奥の瞳が僅かに煌めいて、ゆっくり近付いてくるような気がしていると、いつにも増して静かな声で騎馬司が答えた。
「そうだ。それを二人が共に望めば」
どきっとした。
「これで満足か。巫女どの」
ぎりぎり触れないところで囁くと、素早く身体を起こした。聞かれたくない質問を封じ込める作戦だとしたら、功を奏したと言えるかもしれない。あまりの不意打ちに、一気に頭の中が真っ白になった沙穂は、しばらく何も考えられなくなっていた。
「夜が更けたら、貴女を神宮へ送り届ける」
半身を起した沙穂から、騎馬司は興味なさげに視線を外した。
「巫覡合戦は終わった。他に逃げ出す理由はないんだろう? ならば貴女に危険は及ばないと判断する」
「あたしは戻りたくない」
「身の危険があるとでもいうのか?」
言えなかった。騎馬司との幻を見せられて、湟糺を裏切った気持ちになっているから、なんて。
「巫女には……」
「――?」
「巫女には、一人の想い人だけと添い遂げることは赦されないの?」
「私たち春日族にとって最も優先すべきは月神の存続だ。それには巫女や巫覡たちの存在は欠かせない。族人だってそうだ。貴女がた巫女よりは自由もあるだろう。だが彼らとて際限なき自由な恋愛があるわけではない」
「どうして。一人の想い人と添い遂げられる自由があるじゃない。それで充分だわ」
「そのたった一人の想い人が、巫女や巫覡だったらどうなんだ? それでも自由な恋愛があると言えるのか?」
「それは――。そんなふうには考えたことなかった」
「族人にとって、巫女や巫覡は手の届かない存在だ。いくら憧れても恋焦がれても、族人が貴女を手に入れることは叶わない」
礼装の奥の瞳と沙穂の瞳が、絡み合うように見つめ合った。
「騎馬司。まるであなたの想い人が、巫女みたいな言いかたに聞こえる――」
「沙穂姫巫女……」
騎馬司の言葉に、沙穂は目を見開いた。
今、騎馬司は何て? 姫巫女? それは将来を約束した桜空しか言わない呼び名だったはずなのに。
「もしかして、桜空じゃなかった……?」
沙穂の呟きに、騎馬司が僅かに硬直したような表情で見つめた。
「あたしに結婚しようと言ってくれたのは――」
沙穂の脳裏に記憶が蘇った。
桜空には確かに兄がいた。顔も名前も、今はまだ思い出せないけれど、沙穂のことを、ひめみこ、と呼んでいた少年が……。
「騎馬司。あなただった」
「いや違う。私ではない」
自分が姫巫女と言ってしまったことに気が付いていないのか、断固として騎馬司は否定した。そんな騎馬司を、沙穂は確信を持って見つめ返した。
「今、あなたに呼び掛けられて思い出したの。桜空という弟がいる少年が幼い頃、あたしを沙穂姫巫女と呼んでいたことを。それに対抗して、湟糺はあたしを、姫、と呼ぶようになったんだったわ」
そこで初めて騎馬司は、自分が口にした言葉に気がついたようだった。
「ある日、その少年はいなくなって、それからは弟の桜空が代わりに、あたしのことを沙穂姫巫女と呼ぶようになったのよ。だからあたし、ずっと勘違いしてた。桜空があたしに結婚しようと言ってくれたんだって。でも違ってた。本当は、あなただった」
「違う。それこそ勘違いだ」
「どうしてなの? どうして嘘を言うの? あたしのこと、そんなに嫌いになったってこと?」
「好きも嫌いも何もない。すべて貴女の勘違いに過ぎないのだから」
「夢だから? 族人と巫女が結ばれるのは夢見るのと同じだから? だから霊力のある弟を神御子修行に出して、あたしを求めさせようとしたの? 自分の代わりに!」
常に冷静沈着だった騎馬司が、ふいに激しい動揺を見せた。
「なんて恐ろしいことを……」
「もう、あたしのこと姫巫女なんて呼ばないでよ。本当のこと、ずっと隠し続けて、弟とはいえ、別の人にあたしを委ねようとするなんて!」
「違うんだ……。そうじゃない、沙穂姫巫女。勝手な想像で暴走しないでくれ」
「だから呼ばないでったら!」
思い切り枕を投げつけると、避けきれなかった騎馬司の顔を掠めて飛んでいった。
カタンと硬いものが床に落ちる音がして、はっと顔を上げると、騎馬司が袖で顔を隠すようにして反身を逸らし、さっと立ち上がると背を向けた。その足下にポタリと赤い雫が落ちるのを見て、目を見開いた。――礼装が壊れて、怪我をさせてしまった!
「ごめんなさい! あたし、何てことを――」
慌てて立ち上がると、騎馬司が身体を返し、いきなり抱き締めてきた。
「騎馬、司……」
わざとだとすぐに判った。顔を見られないように、わざと触れて意識を喪失させようとしている――。
「そんなにも、自分を隠すことが、大事、なの……?」
力が抜けていく沙穂と一緒になって、騎馬司も座り込んだ。そして言った。
「沙穂姫巫女。赦して欲しい。私は弟の願いを叶えてやることでしか、あいつに償うことができないほどの大罪を犯した。弟は本心から貴女と結ばれたいと願っている。だから私は、弟が貴女と結ばれることに全力を尽くすと誓った」
「あたしを、贖罪に使うの? あたしが、あなたを、好きだと知っても――?」
遠ざかる意識の最後で、確かに騎馬司はこう言った。
沙穂姫巫女。私も貴女を愛している。心の底から――。
じゃあ、どうしてあたしを桜空に譲ろうとするの? 騎馬司……