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巫覡の月 巫女の聖  作者: 井上璃音
2/5

聖巫女2

次の帰宅日が来ても、沙穂は潔斎所から一歩も出ようとはしなかった。

これまでにないほど真剣に禊ぎをしている。どうやら奇行の巫女も、ようやく反省の日々を過ごしているらしい。そう噂されているわよ、と潔斎所に来た巫女たちに告げられても、沙穂は動こうとはしなかった。


「沙穂。いつになったら禊ぎを終えるつもりなの?」

同室の涼菜巫女すずなのみこが隣りにきて座った。

「あと少しだけ、考えたいことがあるから」

桜空が死んだということで頭がいっぱいだった。最初は弔いの気持ちもあって、祈りの時を過ごしていた。でも少し落ちついた頃から、あることに気がついた。

未遠は桜空を追ってきたと言っていた。だから、もしかしたら本当は、桜空は生きているのかもしれないという希望が芽生えて、未遠に会いたくなっていた。会って桜空の話を聞きたかったけど、どうやったら会えるのかも判らなくて、途方にくれていたのだ。

「次の帰宅日には実家に戻る?」

「ん~。まだ判らない。どうして?」

問い返されて、涼菜が頬を赤らめた。

「こ、湟糺さまが心配されているみたいで、訊ねてくれるかって、さっきお願いされて」

「ふうん。さすがの巫覡も、ここまでは入って来られないってわけね」

「聞いたんだけどね」

涼菜が声を潜めて身を寄せた。

「湟糺さま、御子をされたらしいって」

「え? 月神さまの御子を生したの? 湟糺が?」

「巫覡さまの中でも、最速なんですって」

「最速って、それってどういう意味?」

「それだけ月神さまのご寵愛を受けていらっしゃるってことじゃないの。あれだけの美貌と霊力だもの。月神さまに見染められても、当たり前なのかもしれないけれど。さすがよね」

夢見心地に呟く涼菜を見て、沙穂も溜息をついた。

「また、お父さまが喜んじゃうな~。あたし、ますます実家に帰りづらい」

「あら、どうして? 沙穂は一緒に喜んであげないの? おめでたいことなのに」

「迷惑ばかり掛けてるから。あぁ、胃が痛い」

うずくまると、本当にお腹が痛くなってきた。

「素直に喜んであげないから、バチが当たったのよ」

「今はあたし、それどころじゃないんだってば。いろいろと考え事があるの」

額に汗が浮かんできた。本当に、お腹がじんじんする。

「ねぇ沙穂。大丈夫? 本当に痛そうだけど」

「本当に痛いの。どうしよう。何か妙なもの食べたっけ」

「医務司、呼んで来ようか?」

「お願い」

寝所で横になろうと立ち上がったとき、見ていた姉巫女が寄ってくると、いきなり裾をたくしあげた。

「な、なにをするんですか?」

ぎょっとしながらも姉巫女の視線を追って、足下に目をやった。つつ――っと、血らしきものが流れてきた。

「なに、これ、どうして?」

血の気が引いた。

「病気じゃないわ。ここからすぐに出なさい。あなたの行くべきところは、斎屋いわいやよ」

「斎屋……」

それは月のものを迎えた巫女たちが、ひと月に一度、籠もる建物だった。そこにいる巫女は月の喪の最中という証で、巫覡たちも召喚を控える。つまり。

「おめでとう。沙穂巫女。あなたは聖を迎えたのよ」

「やったじゃない! 沙穂!」

涼菜が嬉しそうに手を握った。

「聖。あたしが……」

とうとう来た。来てしまった。湟糺の喜ぶ顔が浮かんで、力が抜けて座り込んだ。



初めての月のものは、あっさりと終わった。でも沙穂は、次の帰宅日も戻らずに斎屋に籠もり続け、そのまた次も、潔斎所で帰宅日を過ごした。

「反省の念は月神さまにも届いたことでしょう。いい加減に実家へ顔を出しなさい」

斎院に叱られるように諭されて、ようやく実家に戻ったのは、一ヶ月ぶりのことだった。


「沙穂ちゃん、おめでとう」

巫女が聖を迎えたことは、瞬く間に広がっていく。実家に戻ると母が嬉しそうに出迎えて、いそいそと世話を焼いてくれたりした。

「この間は湟糺も戻らなかったからの。父は子たちに捨てられたのかと思って、かなり寂しい思いをしたのですぞ」

「大げさな」

「大げさではないのよ。沙穂ちゃん。お父さまったら、ずっと嘆きっぱなしで、それはもう見ていられないくらい。少しばかり情けないくらいだったのだもの。ねぇ、あなた」

「そうだったかな」

「そうですわ」

あはは、うふふ……と笑い合う二人を見ていると、世の中、平和だなーと思えてきて、この一ヶ月、桜空や騎馬司や未遠のことを真面目に考えていた自分が莫迦らしくなってくる。久々の自室でごろんと寝転んでいると、扉を軽くノックする音がした。

「なぁに?」

「姫」

「湟糺!」

どきっとして慌てて起き上がった。

「開けるよ」

「ど、どうぞ」

なんであたし、こんなに慌てふためいているんだろう。どきどきする胸を抑えて、平静を装った。

すっと扉が開いて、湟糺は以前にも増してゆったりとした仕草で中へ入ってくると、沙穂のまん前に腰を下ろした。心なしか、前よりも自信に満ちているような、落ち着きが備わってきているような気がする。それは神の御子を生したから、だろうか。

「ひと月ぶりだね」

「うん。そうかも」

「姫。綺麗になった」

相変わらず、赤面してしまうようなことを平気で言う。

「そ、そう? あたしは変わってない、と思うけど」

「ずいぶんと長いお籠もりだったね。調子、よくなかった?」

「あぁ、そうね。なかなか、回復しなくて」

やっぱり湟糺も知っている。それも当然かもしれない。おそらくは、真っ先に知らせを受けるのは巫覡なのだろうから。

「姫は繊細だからね。大事にしないと」

湟糺が優しく微笑んだ。次にくる言葉は判っている。

「それ以上は言わないで」

先制すると、湟糺が微かに笑った。

「さすが、姫。僕の言いたいこと、判っているんだね」

判らないわけがない。どうせ、一番居心地良くしてあげられるのは僕しかいない、とか何とかいうつもりなのだろうから。

明日のことを考えると、めまいがしてくる。だから戻るのをためらっていたのに、さっそく、この洗礼を浴びてしまうなんて。

「姫!? 大丈夫?」

めまいは本物だったらしく、コトンと横に倒れかけ、抱き留められた。湟糺の慌てたような声を聞きつけて、父母が顔を覗かせた。

「あらあら。沙穂ちゃん。貧血かしら」

「今宵は、しっかりと血の気の多いものを食べさせてやらないとな」

「そうですわね。湟糺くん。沙穂ちゃんのこと、お願いね。お母さまは、料理に腕を振るいますから」

「ええ。楽しみにしています」

「あら、いやだわ。楽しみにされちゃった」

なんでうちの家族は揃いも揃って、ノー天気なんだろう。あたしは、こんなに悩んでいるっていうのに。

額に手を当て、沙穂は溜息をついた。

「そういえば湟糺、神御子を生したって聞いたけど」

生すって、実際はどういうことをいうのか判らない。でも少しだけ、照れずにはいられなかった。

「ちゃんと聞いたんだね。ずっとお籠りだったのに」

「外の様子は、みんながいろいろ教えてくれるから」

「たとえば、どんなふうに聞いたの?」

「巫覡の中では最も早く御子を生した、とか。月神さまのご寵愛が深いから、とか」

それを聞いた直後に、聖が来たんだった。結構あれは、びっくりした。無意識のうちにお腹へ当てた手に、湟糺が手を重ねた。

「大丈夫?」

「うん。大丈夫」

こういうところ、湟糺は優しい。騎馬司は、まったく正反対だったけど。

騎馬司。あれ以来、気になってしまう。あの容赦ない剥き出しの感情が、どういうわけか懐かしくて、もう一度だけ、触れてみたくなるときがある。

「噂にしては本当のことを言っているんだね。綺麗だよ。僕の御子は。きっと神族になる。いつか姫にも見せてあげるよ。だから、早く体力を回復して元気にならないとね」

うん、と頷いてから首を傾げた。

「湟糺の御子を見ることと、あたしの体力、関係ある?」

「あるでしょ。僕のところに来ないと御子は見せてあげられない。僕の務めに付き合うことは、結構大変だからね。試してみる?」

急いで首を横に振った。

「いい」

「残念」

にこやかに笑っておきながら、ふいに身をかがめると口唇を重ねてきた。

「ちょっと!」

突き飛ばすように離れると、慌てて開けっぱなしの扉の向こうを見た。

「ほら。元気になった」

湟糺が微笑んだ。

「そうじゃなくて。お父さまたちに見られるじゃない」

「いけないの?」

「え、いいの?」

「姫」

すっと湟糺の顔が真面目になった。

「何か、あったね」

沙穂は、固まったように見つめた。

湟糺は、ただ単にキスがしたかっただけじゃない。沙穂の霊力に刻まれた記憶に触れ、読み取りたかったのだ。

他人の深層へ入り込む霊力の顕し方は、人それぞれ。湟糺にとっては、口で触れることで相手との繋がりをつけるのが容易なのだ。もちろんキスもしたいのだろうけど。

「ずるい。湟糺。あたしを求めるフリして、霊力を使うなんて」

「桜空じゃないね。その男は、誰かな」

「そんな言い方しないで。騎馬司は、あたしを助けてくれただけなんだから」

「騎馬司。助けたって、また、神宮から抜け出したの?」

探るような目つきが沙穂を見ている。

「お願い。やめて。霊力を使って、あたしを視たりしないで」

頭を抱えて部屋の隅にうずくまった。目を閉じると、湟糺の力が触れているのが判る。一度繋がった霊力の道は、どちらかが途切れさせるまで続く。

「じゃあ、遮断してごらん。僕に視られたくなかったら、姫自身の霊力で拒絶してごらんよ」

「なんでこんな意地悪するの? あたしの弱い霊力では、遮断しようとしたって、湟糺に阻止されちゃうじゃない。湟糺と霊力合戦なんて、したくない」

言いながら、はっとした。なんだか、湟糺は重要なことを口にした気がする。

「湟糺」

身を乗り出した。

「騎馬司が桜空じゃないって本当なの? さっき、そう言ったでしょ」

「言ったかな」

「言ったわ。桜空じゃない、その男は誰だって。それって桜空のことを知っているから言えるのよね」

「さぁ」

「桜空のこと、何か知っているの? だったら教えて。騎馬司は桜空がすでに――」

「姫」

「なに?」

湟糺の手がゆっくりと頬をなぞり、首筋へ、そして胸元へと下がっていった。思わず身を引くと、湟糺がじっと見つめた。その綺麗な瞳の様子が、いつもとは違う。

「僕は今、猛烈に怒っているから。今夜は、これ以上姫とは話せない。続きは明日」

「明日……」

ふいに現実がこみ上げた。これまでは漠然としていたこと。巫覡による、召喚。

「そう。明日、姫を僕のところへ召喚する」

「ど、どうしても?」

「いくら姫が厭がっても、沙穂巫女が聖巫女になったことは巫覡全員が知っている。僕が召喚しなかったら、他の巫覡が姫を求めるよ。それでもいいなら拒絶しなさい」

立ち上がると、そのまま家を出て行ってしまった。

沙穂は、身体が震えるのを感じて、しっかりと自分を抱くようにして丸くなった。

湟糺を怒らせてしまった。巫覡である湟糺を。巫女が、巫覡を拒むことなんてできないと知っているはずなのに、あんな言い方をさせてしまうほどに。こんなことは初めてで、どうしたらいいか判らなかった。

「湟糺くん、相当怒っていたわねー」

台所からのんびりとした声が聞こえてきて、母の傍に行った。

「ケンカはほどほどになさいね。二人とも、もう大人なんだから」

「どうしよう。あたし、どうしたらいい?」

「ごめんねって言えば、それで済むわ。湟糺くん、優しいもの。すぐに許してくれるわよ」

母がにこにこしながら玄関扉を開いた。

「いってらっしゃい。ご飯もうすぐできるから、早く戻って来てね」

きょとんとして母を見た。

「どこに行くの? あたし」

「あら、湟糺くんのこと、追いかけるでしょう? ちゃんと仲直りしてちょうだいね。兄妹なんだから」

結局、あとを追わなければならない形になって、ぽつんと一人呟いた。

「……そんな簡単にいくの、かな」

でも母のお陰で湟糺を怒らせたという緊張が解けた。仕方がない。どこか適当に探して戻ろう。

「湟糺~。どこ~?」

周囲に聞こえないくらいの小さい声で呼び掛けながら、歩き回った。途中、涼菜にばったり会い、とりあえず湟糺を見掛けなかったか訊いてみたけれど、返答は、お見かけしていない、だった。

「湟糺さま、どうかなさったの?」

「あ、なんか散歩に行くって出ていっちゃって。もうすぐご飯だから探しにね」

「そう。わたしも一緒に探すわ」

言いながら目はすでにお目当ての巫覡を探し求めている。

「いい、いい。涼菜もお家の人が待っているでしょうし、どうせお腹がすいたら戻ってくると思うから。ありがとうね」

「そうなの?」

残念そうな涼菜に手を振った。

「また明日ね」

もう少しだけ探すことにして、足を延ばした。わりと人が多い。

「神宮、かな」

滝に打たれにでも行ったのかもしれない。あれで結構厳しい修行を好むところがあったりする。思いのほか生真面目な性格なのだ。

「迎えに行ってみようかな」

湟糺は湟糺で優しいわけだし、一途に沙穂のことを想ってくれているのは間違いなくて、話したこともない巫覡に召喚されるよりは、大事にしてくれると判っている湟糺のほうがいいに決まってる。それなら初夜を迎える前に、仲直りくらいはしておいたほうがいい。

「初夜……」

自分で思っておきながら急に顔が火照ってきて、手で煽った。

神宮へ向かおうとしたとき、背後から馬のいななきが聞こえて振り返った。少し先に、大きな建物がある。そこにいる男たちは皆、礼装を施していた。

「あ。ここ、もしかして騎馬隊の詰め所ってところ?」

騎馬司、いるかな。と外側から覗いてみる。来るときは使いを寄こせと言われていたから、自然と遠慮がちになった。

沙穂に気付いた隊員たちは一瞬驚いたように互いに顔を見合わせた。だが緊急でもない限り、気軽に巫女に話しかけることはできない。誰もが目礼だけして、それぞれのやるべきことに戻っていた。

馬舎は裏手にあるようだった。何頭もの立派な馬が、毛並みもよく繋がれている。

「あたしも自分で乗れたらなー」

そうしたら明日、巫覡に召喚されることもないところへ行ける。少しだけ、自由になれそうな気がする。あの日見た、星の湖にだって行けるかもしれない。

馬をひと通り見てから、さらに奥にこぢんまりとした建物があるのが目についた。騎馬隊の敷地は、結構広いらしい。

人影が見えて、立ち止まった。体格からして男の人ではない。

「女の子。もしかして!」

急ぎ足で、それでもできるだけ足音を立てないよう気を付けながら寄って行った。

やっぱり間違いない。未遠だ。結局、あのあと掴まったんだ。

「未遠!」

呼び掛けに反応して、未遠が振り返った。前に会ったときとは別の格好をしている。結界外の服装ではなくて、ここの少女たちと同じ、巫女装束。拘束されている様子はなくて、建物の出入りも自由にできそうな雰囲気が感じられる。

「よかった。乱暴な扱いされていなくて。心配していたのよ」

未遠が何かを叫んで指差した。振り返る間もなく、何かが口元を塞いだ。

ヘンな臭い――。そして、気を失った。


**********


目を開けると、うっすらと明るくなりかけている空が目に入った。消えそうに瞬く星も。ぼんやりとする頭を抱えて起き上がると、そこは潔斎所の入口だった。

どうしてこんなところに。

「未遠を見つけたんだった。でも、そのあとの――記憶がなくなってる!」

いったい何があったんだろう。不安がこみ上げた。砂利を踏む足音がして、どきんとして顔を上げた。

背筋が真っ直ぐで背が高く、堂々としながらも風流な雰囲気で歩む人影。その見慣れた姿に、ほっとして声を上げた。

「湟糺!」

「姫?」

驚いたように近付いてくると、立ち上がろうとする沙穂に手を差し出した。

「湟糺~」

半泣きでしがみつくと、初めて自分が震えていることに気がついた。

「なんでこんなところにいるの」

濡れた髪の毛から、ぽたぽたと雫が降り掛かる。身体も冷たい。やはり、滝に打たれていたのだ。

「怒ってたから謝ろうと思ったの。だから探してたんだけど、途中で……」

何と説明していいのか判らずに、口ごもった。

「途中で、なに。誰かに何かされたの?」

湟糺の口調が厳しくなって、急いで首を横に振った。

「違う、と思う……」

「じゃあ、何でこんなに震えているの」

「怖かったから」

「何で、怖かったの?」

「未遠を見つけて、それで話し掛けようとしたら、後ろからヘンな臭いのするもの嗅がされて、それで気がついたら、ここにいたの。その間の、記憶が、なくて――」

湟糺の目が、これまた見たこともないほどに厳しい目つきに変わっていき、それに従い徐々に声が小さくなって、最後はしょぼんと下を向いた。

「姫。僕を見て」

「見られない……」

「いいから見て。気を失っている間、何があったか視てあげるから」

急に恐怖がこみ上げた。巫女にあるまじき行為といわれることが自分の身に降りかかっていたら、聖巫女として祝福される前に、巫女たる身分をはく奪されてしまう。そうなったら、本当にどうやってこの一族で生きていけばいいのか、判らない。それでなくても、巫女と巫覡の子でありながら弱い霊力しか持ち合わせていなくて、情けない自分なのに。

「いや」

慌てて湟糺から離れた。

「いやだ。視ないで!」

「姫。落ちついて」

「落ちつけるわけない!」

立ち上がって逃げ出そうとすると、腕を掴まれた。振りほどこうとしても、振りほどけない。

「僕の話を聞いて」

「だってあたし、何かされていたら、どうすればいいの? 視るなら、それを教えてくれてからにしてよ」

「姫は面白い子だね」

「何で笑うの。大切なことでしょ!」

「巫女修行、ちゃんと受けていないね。お籠りするのもいいけれど、テキストくらいはきちんと読まないと、ダメだろう?」

言いながら、背中に手を回して強く引き寄せた。

「姫。何を想像してた?」

「な、なにって……」

「姫が誰にも抱かれていないことくらい、透かし視しなくても判るんだよ」

頬が熱くなった。巫覡ともなれば、それくらいお見通しなんだ。でも、よかった。あたし、無事だった。

ほっとして湟糺の胸に顔を埋めた。

「気を失わせる薬草を嗅がせたのが誰か、視てあげると言ったんだ。誰がどうやって、ここへ連れて来たのかも。知りたいんでしょ?」

「知りたいわ」

「そ。なら、僕を見てくれるね?」

「うん」

素直に見上げると、湟糺の髪から滴り落ちる雫がポタリと顔にかかった。

「ねぇ湟糺」

「なに?」

「キス、しないとダメなの?」

「したくないの?」

「そういうわけじゃないけど」

湟糺を拒否することは、巫覡を拒否することで、巫女としては有り得ない。

「だけど、ここでっていうのは、ちょっと」

「姫は照れ屋さんだからね」

頬にかかった雫を、湟糺が拭った。そのまま手で顔を覆うようにした。自然と閉じた沙穂の目に、湟糺の口唇が触れた。

「あったかい……」

湟糺の霊力が流れ込むのが感じられる。しびれるような、心地良さだった。沙穂の巫女霊力を探り当てると、包み込むように触れ、そして中へと入り込んできた。


目の前に、風景が広がった。ここは、騎馬隊の敷地。沙穂が未遠を見つけ、話しかけながら近付くと、未遠が叫んだ。「沙穂、後ろ!」

背後から口を封じられた沙穂は、すぐにぐったりと力が抜けてしまった。それを見下ろしているのは、騎馬隊の面々。彼らに指示を出しているのは……騎馬司!

「あの場にいたの?」

動きかけた沙穂の手を、押さえるように湟糺が握った。

騎馬司は、倒れた沙穂を担ぎ上げると、未遠を別の場所へ移動するように指示して、森の中へと足を踏み入れた。騎馬隊は森の中を隅々まで良く知っている。誰にも見られない道を抜け、沙穂を潔斎所の入口へ降ろすと立ち去って行った。しばらくの間、沙穂には誰も近付かず、目も覚めなかった。


口唇が離れると、沙穂は目を開けた。なんとなく予想はしていたけれど、ショックだった。騎馬司は何かを隠している。桜空に関係すること、絶対に何か知っている。

「あの未遠って子」

湟糺が考え込むように呟いた。

「未遠が、どうかした?」

「可愛いね」

「は――?」

「結構、好み。ああいう子」

「湟糺。やっぱり巫覡に向いているのね。こんなときにまで、そんなこと考えるなんて」

「でもあの子には、手を出せそうにないね」

「巫女じゃないから?」

「そうじゃない」

湟糺が意味ありげな目で沙穂を見やった。

「神のお手がついているからだよ」

「か、神の!?」

仰天して発した声が、しんとした神宮内に響き渡る。

「驚き過ぎだよ。姫」

「だって、だってだって!未遠は結界外の子なのよ。霊力だってなさそうだし、何より巫女じゃないし。神は見境なくも、誰でも気に入った子には、お手を、お付けになるの?」

「それはねぇ」

明るい気配が漂い始めた空を見上げ、湟糺は帰ろうと促した。

「僕にも判らないよ。神のみぞ知る、だろうね。それに未遠には事情がありそうだしね」

「どういう事情?」

「騎馬隊に匿われているなんてね。いったい何を意味しているのやら」

「匿われている? 捕らわれている、の間違いじゃない?」

「なんで、そう思うの? さっき透かし視た限りでは、匿われているって思うほうが自然でしょ。縄をかけられていたわけでもなし、幽閉されていたわけでもない」

「それは、そうかもしれないけど」

そこは不思議に思っていた。もっと閉鎖的なところに繋がれていると、想像していたから。

「なんだか興味が湧いてきたから、ちょっと調べてみようかな。僕も」

「ホント? 何か判ったら、あたしにも教えて。ね?」

何も知らないあたしより、湟糺はずっと上手く調べられる。ウキウキして見上げると、どうしよっかなーと湟糺は呟いた。

「意地悪しないで教えてよ」

「考えておくよ。姫のほうも、僕に言っていない秘密がたくさんありそうだし」

「それと引き換えってわけ?」

ふふっと湟糺が笑った。

「やっぱり、あるんだね。隠しごと」

「あ……」

引っ掛かってしまった。

「どうするか、眠っている間に考えるといい。明日、僕の部屋で、ゆっくり話そう」

玄関扉を開くと、どうぞと促した。複雑そうな沙穂を見て、これまた悔しいほど麗しげに微笑みかけた。



神のお手がついた結界外の少女未遠は、桜空に復讐するため結界内に入り込み、騎馬隊の手元に置かれている。そして桜空を弟だという騎馬司は、桜空は死んだと言い張り、沙穂を危機から救いながらも未遠の存在を隠そうとしている。

「桜空、いったい未遠に何をしたんだろ。女の子に恨まれるようなこと、するなんて」

もしかして、神のお手がついた未遠を横取りしたとか。それで穢されたと思った未遠が復讐しようとしていて、弟を守ろうとする騎馬司は桜空を死んだことにして未遠が近付かないよう騎馬隊の下に置き、情報が外へ漏れないよう見張っている。なんて。

結局のところ、睡眠を削って辿り着いた考えが、これだった。明るい間はまったく眠れずに、夜の訪れがきた頃から眠くなって、寝坊した。

「湟糺くん、とっくにお務め行ったわよ」

のんびりとお茶を飲む母を横目に、急いで支度をして飛び出して来た。

「湟糺ったら、起こしてくれたっていいじゃない」

湟糺のことだから、今日は一緒に行こうとか言って色目使いながら誘ってくると思っていたのに、置き去りにされるとは意外だった。


「沙穂巫女。あなたのお部屋は、今日からこちらですよ」

いつもの部屋へ向かおうとすると、斎院が待ち構えていたように案内をしてくれた。

「こちらです」

言われて入ると、一人部屋だった。沙穂の持ち物はすでに運び込まれている。

「斎院さま。あたしにはまだ早いのではありませんか? 聖を迎えたとはいっても、まだ一人前と認められたわけではないのですし」

「ここをご覧なさい」

部屋の一角に、五つの石が置かれた神棚のような空間が設けられている。それぞれに綺麗な色をしていて、そのうちの一つ、一番右の石が輝きを放ち光っている。

「これらは巫覡さまが聖を迎えた巫女に与えてくださる巫覡石です。別名、召喚石とも言います。巫覡さまは、その日に召喚を希望される巫女に与えた石に霊力を送り、このように輝かせてお知らせになります。今、光っているこれが、湟糺さまの石ですよ。さきほどまでは五つ、すべてが光っていました」

「すべて?」

「聖を迎えたばかりの巫女は、必ず全員の巫覡さまから求められます。その中で、召喚石が巫女霊力を感じ取り、識別するのです。今宵、どの巫覡さまの元へ通うことが、月神さまの意に適うのかどうかを」

「それでは、この巫覡石が、あたしを湟糺の元へ通うよう判断したということですか?」

「そうです。ただし強制ではありませんよ。巫女にはお籠りの時期もありますし、体調やら何やら諸々ありますからね。わたくしのところにも同じ石があり、最終判断とお返事は、わたくしがすることになっています。巫覡の湟糺さまは、ずっと以前から、お目を掛けられていたのですよ。あなたのことを」

「うっ……」

「いいですか。いくらお兄さまとはいえ、巫覡さまなのですから、絶対に失礼があってはなりません。決して、怒らせるようなことを言ったり、したり、何かをむやみに聞いたり問い詰めたり、突然逃げ出したりしてはなりませんよ。お部屋へ向かう前は、入念に禊ぎをするように。巫覡さまが穢れてはなりませんからね。お呼ばれの時刻は、巫覡さまお付きの者が告げに来ます。その案内に従うように。いいですか」

「はい……」

「ああ、わたくしは心配です。きちんと巫女修行を受けさせていないあなたを、巫覡さまの元へ送り出さなければならないなんて。失礼があったら、本当に困るのです」

「だったら、お召しを断ってはいかがですか。わたし、未熟者ですし。巫覡さまのお相手なんて、とてもとても、務まる気がしませんもの」

「そう申し上げたのですよ。知識も不十分で、準備が整っておりませんから、他の巫女になさいませ、と。でも湟糺さまは、それでもよいとおっしゃって。粗相があっても咎めぬから、と」

湟糺、ホントの本気なんだ。あ~と頭を抱えると、斎院も同じように座り込んだ。

「今日ばかりは、勝手に抜け出したりしないようにね。巫覡さまのお怒りを買えば、わたくしが真っ先にお叱りを受けるのです。責任者ですから、仕方がありませんけれどね。この歳になると、クビになったら行くところを探すのが大変なのです。ちゃんと、ちゃーんとしてくれますね。沙穂巫女」

「は、はい。ちゃんとします」

「では、禊ぎに参りましょう」

「え。あたし一人でできますから大丈夫です」

「心配なのです! 今日は、わたくしがすべて整えますから」

「斎院さま、自ら――?」

「ええ。わたくし自ら支度を手伝わなければ、どうにも心配ですからね。せめて、お部屋に入る前までくらいは、完璧にしておかないと、不安で、不安でたまらないのですよ」

あたし、そこまで信用ないんだ……。潔斎所へ行く道すがら、情けなさ極まり肩を落とした。

祓いの祈りを捧げ、身を刺すような冷たい清流で身を清め、たっぷりのお湯で入浴をして、真新しい装束を身に付け、長い髪を結い上げて、甘い香りのする神香水を降りかけられて、宮司の祝詞のりとを受けて、ようやく部屋で待機するようにと言われた。

準備の時間は忙しく慌ただしかったのに、待つ時間は長い。ふわっと欠伸をすると、傍で同じように待機している斎院に睨まれ、首をすくめた。


月が中天にさしかかった頃になり、一人の幼い少年が廊下をしずしずと渡ってきた。

「沙穂巫女さま。いらっしゃいますか」

「は、はい」

「湟糺巫覡さまがお待ちです。どうぞ」

き、来た!

「来た、ではありませんよ。承知しました、です」

斎院が小声で戒めた。緊張のあまり、声に出していたらしい。

「承知、しました」

大丈夫ですか。お部屋に入ったら、教えた通りにご挨拶するんですよ、と言われ、さらに緊張が増した。

「家ではこんなに緊張したこと、ないのに」

ぼやくと、先を行く少年が少しだけ振り返った。

「あ、何でもないから」

頷くと無言のまま進んでいった。いったん外へ降りて砂利道を通り、別棟になっている巫覡の館まで行くと、付き人少年がつと足を止めた。

「湟糺巫覡さま。沙穂巫女さまが、いらっしゃいました」

「入ってもらいなさい」

沙穂が正面に膝をつくと、少年がすっと扉を横に引いた。奥まったところに、湟糺がいた。正装を身に纏って座っている巫覡としての湟糺は、優雅で威厳を漂わせ、思わず見とれずにはいられないほどに美しい。

「沙穂巫女」

付き人の手前からか、そう呼び掛けると手にした扇で入るよう促した。

はっとして入室すると、すっと後ろで扉が閉じられる。付き人が立ち去る気配はない。まさか、そのままそこに、いるつもり?

「あの、月も美しい折、巫覡さまにはご機嫌麗しく」

ダメ。緊張のあまり、頭が働かない! 声がかすれる! 上手く話せない!

「今宵はお呼ばれを賜り、ありがたく存じます」

「沙穂巫女も、また一段とお美しい限り。見違えました。今宵の月もますますの輝きにて。まずは一緒にお月見など、いかが?」

「あ、はい」

「こちらへ」

湟糺は扇を口元に当て、手招きした。慌てて立ち上がろうとして裾を踏み、転びかけたところを何とか堪えて、正面まで進んだ。

「姫。大丈夫?」

「はい」

「そんなに緊張しなくても、いいんだよ」

「はい」

「お茶、飲む?」

「はい」

「僕の言葉、届いてないね」

「はい」

ダメだ、これは。湟糺はそう呟くと、立ち上がってお茶を入れ、目の前に差し出した。

「お抹茶。これ、飲んで」

「はい」

一口飲んで、むせかえった。

「にがい! 何これ。あまりにヒドイお点前じゃない?」

悲鳴を上げるように言うと、湟糺が笑いだした。

「気つけだよ。姫、あまりに緊張していて、意識を飛ばしそうだったからね」

にがい~、と嘆いていると、湟糺が水を差し出した。

「どう。少しは落ちついた?」

「うん。あ、いえ。はい」

「どうやら斎院に相当脅されてきたようだね」

「脅されたわけじゃないけど。巫覡さまのこと、相当恐れているみたいだったし、あたしが湟糺を、いえ、巫覡さまを怒らせたら、斎院さまにご迷惑が掛かるから、ちゃんとしないとって思って」

「何か拍子抜けするね。姫に、巫覡さま、なんて言われると」

「だって、ここで失礼があったらって斎院さまが心配しているから。まずは呼び名から、きちんとけじめをつけるようにって」

「ふうん」

優雅にも扇で口元を覆い、呟いた。

「抱く気が失せる」

「え!? あ、あの――」

絶句し、次に慌てた。どうしよう。また失敗してしまった。言ってはいけないことを言ってしまったのかも。斎院さまの心配通りになってしまったかもしれない。

「お月見、しようか」

湟糺は立ち上がると、付き人の少年がいない、庭に面した扉を開け放った。

手入れの行き届いた風情のある庭は、この部屋専用のもので、他の部屋との接点は一切ない。きちんと計算され尽くした贅沢な造りは、やはり巫覡の立場が高いことを実感させる。

「あの。お茶とか、いる?」

「姫、お茶なんて入れたことあるっけ?」

「一応あるけど」

十歳の巫女修行で、ひと通りの花嫁修業っぽいことは習い始める。ただ、真面目に受けたことはほとんどないだけで。

「怒ったの?」

恐る恐る、訊く。

「ん?」

「あたしのこと――、抱――ないって」

「聞こえないよ」

「だ、だから、あたしのこと、抱く気、ないって。怒ったって、こと?」

ニッコリした笑顔が返された。

「僕が姫を抱かないと、何か不都合でも?」

「不都合かどうかは判らないけど。斎院さまのこと、怒らないでいてくれる?」

しばらく無言でいた湟糺は、パチンと扇を閉じると沙穂の手を取った。

「こちらへ」

立ち上がると奥の部屋へと続く障子を開いた。

庭に面した扉はすでに開いていて、月明かりにふんわりと浮かび上がる真っ白い絹布で覆われたベッドが目に入ると、緊張が一気に高まって息が止まりそうになった。

「おいで」

抱きすくめられると、そのままそっと横たえられた。下から見上げる、月明かりに照らされた湟糺は、ドキドキするほど美しい。

「今夜の姫は、本当に綺麗だよ」

頬を撫でながら、囁くように言う。いつもと違う夜のせいか、心が痺れる気がする。確かに、他の巫女たちが憧れるのも無理からぬことかもしれない。

「聖を迎えた巫女は霊力が高まり、輝きを増すっていうのは真実なんだね。傍にいるだけで霊力が感じられる。僕の中に流れ込むよ。姫。僕に抱かれたいと望んで。心から望んでくれないと、僕は姫を抱けないから」

「あたしが、望まないと?」

「そう決めてあるんだ。姫に無理強いはしないと。僕に抱かれながら、桜空のことを想われるのはゴメンだからね」

「あたし、そんなこと……」

「僕は巫覡だ。姫に触れている間は、姫のすべてが流れ込む。特に、こうした時は」

繊細なほど優しく口唇を重ねた。あまりに優しくて、頭がぼうっとしてしまうほどに。

「心で想っていることさえ、感じ取れてしまうから」

それが、霊力を宿す者同士の定め、なの?

「そうだよ。姫」

はっと息を飲んだ。

沙穂には湟糺の心は読み取れない。でも湟糺は確かに今、沙穂の思ったことを読み取った。本当に高い霊力を持つって、こういうこと。怖くて、寂しい。とても、孤独。だから、あんなことを言ったんだ。僕の霊力を遮断してごらん。巫女能力で、巫覡の霊力を拒んでごらんと。他人の心を読み過ぎて、これ以上の孤独に触れなくて済むように。

「これが、僕たちの定めなんだ」

「知らなかった。湟糺、いつも色目使うことしか考えてないと思ってたから」

湟糺が声を上げて笑った。

「それ、本心だね。面白い子だよ」

「面白くなんてない。それにあたし、もう子どもじゃないし」

それを聞いた瞳が瞬時に真剣さを帯び、その潤いのある瞳に吸い込まれそうになった。

「……姫に口説かれるなんて、思いもよらなかった。あやうく、僕の方が理性を失いそうになる」

微かに笑うと、湟糺は身体を放した。

「残念だけど、今夜は姫を抱いてあげられないんだ。今宵、筑紫宮さまを始め月族の神々はご不在でね。期待させて、ごめんよ」

んん?っと湟糺を見つめると、何て顔するの、と笑われた。

「知っての通り、月神に召喚され、神力を受けなければ、巫覡は巫女を抱けないからね」

「どうして?」

「姫。もっとお勉強しないとね。姫を抱くのは僕じゃない。僕に神力を与えた月神が、僕を通して姫を抱く。だから姫は、神御子を授かることができる。今日、巫覡たちは誰も月神から力を授かってないからね。みんな揃って休暇ってわけだよ」

「もし、今の湟糺があたしを抱いたら、どうなるの?」

「僕自身が抱いたことになる。姫が子を宿したら、それは僕の子だ。神御子にはなり得ない。姫にとって神力を帯びない僕との交わりは穢れとなる。二度と姫は、神御子を授かることができなくなるんだよ」

湟糺自身が穢れになる……。そんなことも知らないなんて、あまりに勉強不足だった。

「落ち込まないで。姫。近いうち必ず、抱いてあげるから。ね?」

「別にそこで落ち込んでいるわけじゃないけど」

湟糺は腕で頭を支えると、添い寝をするようにして、ほら、と空を指差した。

「横になると、月見がしやすいでしょ」

「本当ね。綺麗な月」

「腕枕、してあげようか」

「いい」

「照れなくてもいいんだよ」

「照れてないっ。やっぱり湟糺、すぐ色目使うんじゃない」

「姫は不思議な子だね。他の巫女は、喜ぶのに」

「あたしは、他の巫女じゃないから」

起き上がると、それでもやっぱり孤独を感じずにはいられない湟糺が少しだけ可哀そうになって、そっと腕を回して抱き締めてあげた。

「どうした? その気になっちゃった?」

「違う。今だけは、こうしてあげたいだけ。なぜかは訊かないで。あたしの心も覗いたらダメ。透かし視しようとしたら、すぐに離れるから」

「僕には難しい注文だね」

言いながら、そっと目を閉じた。

「でも、ありがとう」

ひとときだけ、幼い頃に戻った感覚になったようで、湟糺もおとなしく抱かれていた。

父母が再婚したのは二年前だけれど、家が隣り同士だったこともあって、本当の兄妹みたいに、ほとんど一緒に過ごしていた。その頃から、湟糺は皆の人気者だった。

「巫覡になったこと、後悔してない?」

「姫は、わざわざ覗かなくても、僕の心を感じ取るのかな」

「これって、単なる勘よ。霊力なんかじゃないわ。本当に後悔、しているの?」

「勘っていうのは確かだね。僕は巫覡になったことを誇りに思っている。後悔はしていない。ただ――思っていたのとは少し違うという気持ちは、生じているかもしれない」

「違うって、どんなふうに?」

「今みたいな時だけが過ごせると――。そう思っていたんだ。ただ、単純にね」

沙穂は、頷いた。

求める側と求められる側。その思いが、必ずしも一致するとは限らない、その切なさ。

互いの霊力が絡み合いそうになって、沙穂は静かに湟糺から離れた。湟糺は素直に喜んでくれているのに、自分の中に桜空と騎馬司のことが渦巻いているのが申し訳なくて、それを悟られたくなかった。

「あたし、湟糺に抱かれてもいいと本心から思えるようになるには、もう少し時がかかると思うわ」

気配で落胆したのが感じられ、振り返って湟糺を見ることができなくなった。

「大丈夫だよ。姫」

起き上がる気配がすると、湟糺は後ろから手を回して耳元で囁いてきた。

「その時になったら、必ず心の底から僕を求めるようになれるから。姫の心を僕だけで満たす自信が、ある」

言いながら耳たぶを軽く噛んだ。びっくりして思わず振り返った。

「やだ。なにするの」

湟糺が微笑んでいた。

「逃げないで。少しだけ、巫女修行してあげる」

落ち込んでいるはずなのに、またこれだ。やはり巫覡は、こういうコトが好きなように育て上げられているに違いない。

「だって、今日はダメなんじゃ……」

「もしも僕が本気になったら、外にいる子が止めに入る。そのために、今夜は待機しているんだから」

「じゃ、じゃあ、すべて聞いているってコト? いやだー、そんなの」

いくら修行とはいえ、まったく知らない少年に聞き耳立てられているなんて、恥ずかしい。

「あの子にとっては、これが巫覡の修行でもあるんだからね」

「え、じゃあ湟糺も、ああいうことしたの? 覗き見趣味みたいな修行」

「いろいろと勉強になったよ」

うなじにかかる、湟糺の息が熱い。優しい口づけが下がっていき、手が前に回されたと思うと、するりと紐が解かれ肩が顕わになって、慌てて前を押さえた。この装束は、見た目はきちんとしているが、作りは単純にできているのだ。

「とても綺麗」

耳元で吐息交じりに囁かれるとぞくぞくして、滑るように肩から背中をなぞられると小さく息が漏れてしまい、口を押さえた。

「可愛いね。姫」

くすりと湟糺が笑った。

「あ、あの……」

半分パニックになったところへ軽く体重が掛けられて、倒れこんだ。

ああ、どうしよう。ここで拒んでいいものだろうか。

湟糺の口唇に肩から背中をなぞられ、声が出てしまわないようギュッと装束を掴んだ。

斎院さまにご迷惑がかからないようにするには、このまま受け入れるべき?

巫女修行をサボり続けていたのは確かで、いざ本番という時に粗相をしてしまうよりは、今身を委ねて指導を受けたほうがいいのかもしれない。でも今のままでは、湟糺を傷付けてしまう二人のことでいっぱいなのは事実で、それを急に頭から締めだすことも、できない。

「こ、湟糺!」

「キス、したい?」

「そうじゃなくて……」

仰向けにされて口唇が重ねられた。とろけそうに甘いキスだけれど、話すことを封じようともしているかのようだった。湟糺の身体を押しのけようとすると、今度は手が、手をなぞって胸元へと滑り、力が抜けた。

ここまでが限界だった。これ以上心を解放されたら、本当に湟糺を傷付けてしまう。

「湟糺! ホントに、もうダメ」

精一杯の力で逃れた。

「これ以上は――」

再びキスが始まる。湟糺は止まらなかった。お願いしても無理そうだと感じた。

もしかしたら、挑んでいるのかもしれなかった。自分が傷ついたとしても、どこまで沙穂を取り戻すことができるのか、と。

…あたし、湟糺の御子に会いたい。

とっさに霊力に乗せて言葉を送った。

…前に約束したでしょ? 会わせてくれるって。

…ああ、したね。

ようやく顔を上げると、沙穂を見つめた。

「会いたいの?」

「うん」

僅かに頬が紅潮した湟糺は妖しいまでの美しさを帯びていて、今は触れないほうがいいと判っていても、思わず額にかかっている髪に触れてしまっていた。

「じゃあ、今から行こうか」

「行く! 行く行く」

わざと無邪気に答えると、湟糺は沙穂の手を握るようにしながら離させると、大きく息を一つしてから身体を起こして、乱れた装束を整えた。

続いて起き上がると、沙穂も露わになりかけた胸元を閉じ、装束を引っ張ってしわを伸ばした。

「姫。後ろ向いて。髪、直してあげるから」

「湟糺。そんなこともできるの?」

「乱れた姿のまま、巫女を帰すわけにはいかないでしょ」

ふうん、すごい気配り、と感心した。

「家では、湟糺に結い髪なんてしてもらったことなかったのに」

「家では、姫を抱くことないからね」

もし湟糺に最後まで求められたとして、その後、家で顔を合わせるとき、いったいどんな顔して会えばいいんだろう。何だかその時を迎えるのが困る、気がする。

途中で拒否したのに、なぜなのかも恐らくは判っているはずなのに、あくまでも湟糺は優しかった。

「これでいい。可愛いよ」

そういうと手を取って立ち上がらせてくれた。極度の緊張から解放されたせいで、少し足元がふわふわしておぼつかない。

付き人少年のいる扉に向かうと、すっと静かに開いた。やっぱり、ずっと気配を探っていたのだ。そう察すると、気恥ずかしい感じがして、なるべく少年とは顔を合わせないようにしながら、湟糺のあとをついていった。


館の奥まったところにある庭のような場所へくると、結界で厳重に保護された“御子の生る桂の樹”が見えてきた。噂では耳にしたことのある樹には、淡く、それでいて眩い繭のような玉が三つ、ぶら下がっている。それぞれ色合いも輝きも違っていて、大きさもばらばら。なかでも一つだけ小さく可愛らしいのがあって、ひときわ月の光を思わせる静かで優しい輝きを纏う繭に目を魅かれた。

「とても綺麗ね」

溜息が出るほどに美しい。見ているだけで、ほんわかした気持ちになって、手を触れてしまいたくなる。

「さすがは姫。それが僕の御子」

「どうやって生すの?」

「秘儀だから。教えてあげられないんだ」

この繭の輝きは、命の輝きそのもの。きっと、この世に生れ出る前の命は、みんな、こんなふうに純粋で透き通っていて、何ものにも穢されていない、無垢なる輝きの結晶なんだ。見ていると、ふいに涙がこみ上げて来て、頬を伝ってぽたりと零れた。

「姫?」

沙穂は急いで涙を拭って、言い訳をした。

「あまりに綺麗だから。純粋すぎて、あたしと、あまりに違うから」

「隠さないで。誰かを想って、涙しているね」

命の輝きを、失ったかもしれない人。

「そんなに、忘れられないの?」

沙穂は首を横に振った。

「話してごらん。聞いてあげるから」

湟糺の前で桜空の話をしないほうがいいことは判っている。でもきっと、そんな思いも通じてしまったに違いない。だからこそ強引に迫りながらも、急に身を引いたのだ。それなら、素直になるしかなかった。

「もう――もうね、桜空はいないんだって」

言葉にすると、考えていた以上に重みを感じた。

「だから、ホントは忘れないといけないの。でも、桜空はここにいるって教えてくれた子がいて。湟糺も視たでしょ。未遠って子。あの子は桜空を見たって。あとをつけてきたら、ここに入り込んだらしいの。誰の言うことが本当なのか、知りたいのに、あたし、知恵がないから知るすべが判らなくて」

「そう」

湟糺は柔らかく、それだけいった。怒っているわけではなく、ただ、そっとしておいてくれようとする気配りが感じ取れる。それ以上、霊力で心を視ようとすることもなくて、そんな湟糺の意思のお陰で、二人に通じていた霊力の道はいったん途切れた。

ありがとうの代わりに、沙穂は湟糺にもたれかかった。御子繭を見守る湟糺の眼差しは愛情に満ちていて、それは沙穂を見るときと同じだった。

「あたし、どうしたらいいのかな」

「それは、姫が自分で決めないとね。ただ、これだけは覚えておいて。僕は、いつだって姫のことを想っている。今までも、これからもずっと、それは変わらない」

「湟糺ってずるい」

「ん?」

「優しすぎるもん。今のあたしにとっては」

巫覡って誰にでもこうなんだろうか。そう思いながらも、穏やかなときが緩やかに流れていく。

「いつまで見ていても飽きないね。湟糺の御子」

「姫と見ていると、特にね」

言いながら、湟糺が西のほうに顔を向けた。空に、豆粒のような黒い点がいくつか見える。一つの光を守るようにして空を駆けながら見る間に近付いてくると、巫覡の館のかなり手前で止まった。五人の若者たち。いずれも礼装を施している。

「騎馬隊――?」

空を駆けてこられたのは、彼らが皆、天馬と呼ばれる馬を操っているからだ。その五人の先頭にいる人物を見て、沙穂はあっと声をあげた。

「騎馬司!?」

いつもと礼装は違うが、豪奢で煌びやかなのは変わらない。騎馬司だけをその場に残し、他の四人は里へと消えていった。

「姫。筑紫宮さまがお戻りになられた」

そう囁いて、湟糺はそっと沙穂の身体を押しやると、その場にすっと膝をついた。

沙穂も一歩下がって同じように膝をつくと、若者たちに守られていた光が現れ、次の瞬間には弾けるように輝きを放った。

「お帰りなさいませ。筑紫宮さま」

すっと光が落ちついて、一柱ひとはしらの神が具現した。筑紫宮といえば、月族と呼ばれる神々の中でも最たる美貌を誇るといわれる神。滅多にお会いすることはできないゆえに、好奇心に負けて、沙穂はちらりと顔をあげた。

目が合った。その瞳の色が濃紫であることにすぐ気付き、目を離すことができなくなった。

筑紫宮は、そんな沙穂を咎めるふうでもなく、ゆったりと微笑んだ。


完璧なる美貌と圧倒的な存在感。それを放ちながらの優雅な立ち振る舞いは、見るものすべてを虜にしてしまうほどの輝きがある。

こんな神に、湟糺たち巫覡は寵愛を受けているんだ。その巫覡たちに、あたしたち巫女は求められる。

沙穂は初めて、春日族の使命を目の当たりにした思いだった。

これがあたしたち一族の誇りとならなかったら、いったい何だと言うのだろう。一族が護ろうとしている想いと、自分に流れる血脈、月神のために妹を求める湟糺の深い覚悟と愛情が、一気に押し寄せるようだった。


「湟糺」

「はい」

「私のもとへ」

声まで完璧だった。ずっと聴いていたくなるほどに涼やかなる響き。

「承知いたしました」

緩やかに立ち上がると、湟糺は付き人の少年を見て頷き、沙穂に向かって「また明夜」と微笑した。湟糺を従え歩み去る筑紫宮に、騎馬司が頭を下げた。

湟糺が召喚された。沙穂もまた、召喚されるだろう。神の力を授かった、湟糺巫覡に。

見送った二人が視界から消えると、こちらを見ているらしい騎馬司に気がついた。


訊ねたいことがたくさんある。桜空のことはもちろん、未遠の行方、そして騎馬司自身についても。でも、あたしは巫女。一族の中でも誇り高い役目を与えられている巫女なんだから。おまけに今は、まだ誰の手もついていない、もっとも大切な時期。巫覡以外の誰とも、接点を持つことは赦されない。これ以上は。


騎馬司と話したい衝動を堪え、一瞥だけして、くるりと騎馬司に背を向けた。

先に立ち、沙穂がついてくるのを確認してから、付き人少年が案内をした。

追いかけるような視線を感じる。なんで騎馬司の視線をこんなにも感じ取れてしまうのか、不思議だった。

巫女の館まで来ると、付き人少年が丁寧に頭を下げて見送ってくれた。

新しく自室となった部屋の前の廊下へ座り込むと、手すりに額を寄せて目を閉じた。まなうらに筑紫宮の姿が浮かび、耳には玲瓏な声が残っている。

「筑紫宮さま、お美しかった……」


明夜こそは湟糺を拒むことはできないだろう。湟糺は、沙穂の気持ちが自分に向くまで待つと言ってくれたが、神力を帯びた巫覡は寄り代そのものと聞く。湟糺の個人的な思いで、受けた神力を巫女に与えることなく、いってみれば無駄にすることなんてできるのかは疑問だった。


もうすぐ夜明け。このまま、ここで眠ってしまってはいけない。部屋へ入らないと。

目を開けようとした時、声が聞こえた。切羽詰まったような、助けを求める、悲鳴。

「だれ!?」

立ち上がって、周囲を見渡した。背伸びをしてみても、助けを求めているような姿の人物は見当たらない。歩いている巫女たちが皆、夜明けが来る前に戻らなければと、それぞれの部屋へ向かっているだけ。

「気のせい、なのかな」

扉へ手を掛けたとき、また聞こえた。今度は、もっとはっきりと。

…沙穂! 助けて!

「未遠? 未遠なの!?」

…沙穂! 早く来て!

霊力が、未遠の危機を感じ取った。

…未遠! 今、どこ? 場所、教えて!

…西。違う、東かも。よく判らない! 歩いていたら、足元が崩れて、落ちそうになってるの!

…未遠、待ってて! 今、騎馬隊に知らせるから!

…ダメ! 騎馬隊から逃げてきたの! だから、知らせないで。

…でも、あたし一人じゃ助けられないわ。

…とにかく早く来て!

…判ったわ! そのまま意識を解放してて! いい? そうすれば、どうにか方角から辿りつけるかもしれないから。

沙穂は駈け出した。胸がどきどきする。未遠の危険が、沙穂の中の霊力の感度を押し上げている。

「どっち。未遠は、どっちなの?」

参道の真ん中で立ち止まり、探った。周囲を、グルリと。

「こっち。東!」

この方角なら、前にも行ったことがある。騎馬司に助けて貰ったとき。もしかして、あのときに落ちた、あの崖!?

そこに未遠も落ちかけているのかもしれない。そんな気がして、森の中へ飛び込んで草を踏み締めて急いだ。

あの辺には妙な妖がいる。未遠も同じように襲われかけたのかもしれない。気を付けないと、あの時と同じ目に遭ってしまう。

「やっぱり騎馬隊に知らせたほうがいい。妖が出たら、あたし一人じゃ対応できない」

足を止めかけたとき、再び未遠の悲鳴が届いた。

「未遠!」

今から騎馬隊を呼びに行っていたら、絶対に間に合わない。あの崖が恐ろしく深いものだったことを思い出して、駈け出した。息が上がって苦しかったけれど、そんなのは後でどうにでもなる。未遠の命は、今でないと助けられないのだから。

「騎馬隊! 未遠の悲鳴が聞こえるでしょ! 誰でもいいから、助けに行って! 今すぐに!」

一度だけ立ち止まり、叫んでみた。もしかしたら、あの耳聡い隊員が察知するかもしれない。

…未遠! 大丈夫?

今度は居場所を特定するために話しかけた。

…なんとか。まだ生きているわ。

声は弱々しい。でも、おおよその場所は判った。やはり、このあいだ落ちた付近。さらに焦る気持ちを無理やり押さえ込んで、走った。

「見えた! この間の崖!」

妖はいないらしい。木々を抜け、急いで少し空いた場所へと抜け出ると、未遠の姿を探した。

「未遠! どこ?」

落ちかけていると言っていたのに、それらしい姿はどこにもない。想像していたような、いわゆる崖っぷちに掴まっているはずの、未遠の手らしきものは見当たらなかった。

遅かった!?

慌てて縁に手を付いて、下を覗き込んだ。そこからの地表は見えないほどに遠い。落ちてしまっていたら、絶対に見つけることはできないくらい、深い谷底。

「みおーん!」

戻ってくるはずのない答えを僅かに期待しながら、呼ぶ。やはり答えは、ない。

「どうしよう。助けられなかった……」

怖かっただろうに。そう思うと、身体が震える気がした。あたしのこと、頼ってくれたのに。間に合わなかった。あの底に行くためには、どうしたらいいのだろう。歩きでは無理そうだ。やはり騎馬隊のように馬に乗らないと、かなり遠い道のりになるだろう。

覗かせていた顔を戻して、涙を拭った。

今回は騎馬隊も間に合わなかった。全力で走ったのに助けられなかった。そんな虚脱感を抱えながら立ち上がろうとして、動きをとめた。

「み、未遠?」

目の前に、未遠がいる。元気で、怪我一つしていない。

「よかった、未遠。自力で登れたのね! もう、落ちちゃったかと思って、びっくりしたんだから」

「優しいのね。一度しか話したことのない他人のために、泣けるなんて」

戸惑いを覚えた。なんだか前と雰囲気が違う。

「沙穂。聖を迎えたって?」

「うん」

「おめでとう」

「ありがと……」

未遠の笑顔に違和感を覚える。結界外の子も、聖に何かこだわりがあるのだろうか。そこはよく判らなかった。

「巫覡にはもう抱かれたの?」

「え、えっと……まだ、かな」

何でこんなこと、未遠が訊くんだろう。結界外には春日族のような使命はないと聞く。だから余計に、聖だの巫覡だのに興味を持つんだろうか。

「そう。まだ、なんだ」

未遠が微かに口元を緩めた。

「そうなら、神御子が、沙穂に目を付ける可能性も高いってわけね」

「神御子が」

まさか、と笑い飛ばしたかったけど、笑う雰囲気じゃない。未遠の目つきが、どことなく、怖かった。

「ねぇ未遠。もう戻らない? 未遠は平気かもしれないけど、あたし、陽の世界には出ていられないの」

「知っているわ。でも、もう今からじゃ間に合わないと思う」

未遠はそういって笑った。何だか、やっぱり変だ。

これまで未遠と話をしたいと願っていた気持ちが、すっと引いていくのを感じた。桜空に復讐をしようとしているような少女なんだから、これ以上関わってはいけない。そんな気がする。

「取りあえず戻れるだけ戻らないと。未遠が無事だって判ったし、もう戻るね」

傍を通り抜けようとしたとき、腕を掴まれる気配を感じて、逃げるように走り出した。来るときは下りだが、帰りは登りだ。この間は騎馬司が馬に乗せてくれたから判らなかったけれど、勾配は意外に急だった。

「途中で夜が明けるわ」

未遠が後ろから掴まえてきて、地面に突き倒された。

「どうせなら、私と一緒にいない? 陽の世界が怖いなら、守ってあげるから」

馬乗りになって押さえ込むように、上から覗きこまれた。

「あたし、帰りたい。外では過ごせないの。だから、どいて。本当に間に合わなくなっちゃう」

焦る沙穂をよそに、ふふっと未遠が笑った。

「放さない。あなたは、私と一緒にいるのよ。聖巫女」

ごくりと唾をのんだ。

「なんで、なの? あたしが聖だってことが、あなたに関係あるの?」

「理由は簡単。神御子候補が、もうすぐ神御子修行の時期を終える。そんな良いタイミングで、沙穂は聖巫女になった。だから必ず沙穂のところへ顕れる。桜空御子は」

思いもよらない言葉に、沙穂は大きく目を見開いた。

「桜空が、神御子!?」

未遠は目を眇めて見下ろした。

「まだあくまでも候補だけどね。そんなことも知らなかったの?」

「知らなかった――」

「やだ、なに。その素直さ」

「だって、ホントだから。桜空、生きてるの? 死んだって聞いたけど」

「死んだ? それって、つい最近の話? 私がここへ来たのは、あとを追ってきたからだけど。その後に死んだってこと?」

「う~ん」

首をひねった。未遠と出会って翌日に騎馬司から聞いた話だ。あの淡々とした話しかたは、弟が亡くなったばかりというよりも、だいぶ時が経ったかのようで、こみ上げるような哀しみかたは見て取れなかった。

沙穂は未遠を見上げた。

「桜空は未遠に何をしたの?」

「もしかして巫女霊力で感じたんだ? 仕方ないね。教えてあげる。あいつは、私の“男”を奪った」

「お、男!? 桜空が、未遠の?」

「そう。やり方が性悪なんだ。神御子候補のくせに」

神族ってやっぱり、巫覡を抱くだけある。他人の彼を奪うなんて。しかも、あの桜空が。そう思うと、力が抜けた。

「今思ったけど、復讐の方法、もう一つあるのよね」

未遠が笑った。

「沙穂を抱くこと」

「ん? それが、どうして復讐になるの?」

「桜空より先に、私が沙穂を抱く。これ以上の復讐って、ある?」

沙穂は首を傾げた。

巫女は皆、実戦修行で姉巫女に抱かれるようなもの。女の子の未遠に抱かれたからって、桜空に対する復讐になるとは思えない。そう思わないのは、やはり結界外の子だからだろう。でもそれで未遠の復讐が遂げられるのなら、桜空に被害は及ばない。それなら、あたしにだって覚悟はできる。桜空を、守ってあげられる。

「あたしが未遠に抱かれたら、桜空に直接、復讐はしないってこと?」

ふうんというように未遠が見た。

「あっさりと覚悟決めちゃったの?」

「それで桜空への復讐を終わらせてくれるなら」

「ずいぶんと一途ね。聖巫女は」

いうなり紐を解き始めた。

「え? ちょ、ちょっと!」

「しっ。大人しくして、早く終わらせないと夜が明けちゃうよ。いいの?」

「だって、こんなところでなんて。夜になってからじゃ、だめなの?」

「それじゃ遅いの」

「どうして? やだ! こんなの」

「いいね、それ。嫌がってくれないと、復讐にならないもんね」

嫌がると、楽しまれる。そう悟ると、おとなしくした。未遠は含み笑いをすると、胸元に手を差し入れてきた。すべてが乱暴で、厭な気がして、沙穂はぎゅっと目を瞑った。

「――お楽しみはそこまでだ。未遠」

はっと目を開けた。周囲を騎馬隊に取り囲まれている。と思いきや、そこは配慮がされているのか、見える場所にいるのは騎馬司一人だけだった。だが押し殺した気配はある。

「巫女から離れろ。ゆっくりと、だ。念のため言っておくが、霊矢がお前を狙っている」

沙穂は騎馬司をとめようと、上半身を起こした。

「騎馬司。邪魔はやめて。未遠は、あたしを抱けば桜空には直接復讐しないって誓ってくれたの。だからこのまま見逃して」

「貴女は何も判っていない」

「判ってるわ。桜空は未遠の男を奪ったんでしょ。だから恨みを買ってる」

「巫女どの。務めの邪魔をしないで下さい。すぐに夜明けがきます。説明している時間はありません」

「説明されなくても、自分が何をやっているかくらい、判ってるから」

「口を出さないで。未遠を捉えさせてください。それと、早く胸元を閉めて」

「え? あ……」

指摘され、慌てて装束を整えた。湟糺が直してくれた結い髪も、みっともないほどに解けている。まったく、と呟く騎馬司の声が届いて、頬が火照るのを感じた。

「未遠。今はダメだから。騎馬司の言う通りに帰ろ? ね?」

空が明るくなり始めた。また、みんなに迷惑を掛けてしまう。

騎馬司を睨んでいた未遠は、ぐっと沙穂の胸倉を掴むと、そのまま引きずるようにして、一気に崖付近まで駆けた。

「そっちは危ないから。未遠――」

崖を背に羽交い締めにされて、ようやく未遠が本気で復讐を開始しようとしていることに気がついた。

「騎馬司っ」

未遠が叫んだ。

「あんたじゃないほうの騎馬司を呼び出して貰おうか」

「騎馬司は私一人しかいない」

「呼び出さないなら、この巫女を連れてここから飛び降りるけど、いい?」

「またぁ?」

素っ頓狂な沙穂の声を聞いて、騎馬司が礼装の下から睨んだ。たぶん。

「大事なんでしょ、この聖巫女。聞けばずいぶんと良い血筋らしいから。神妻にはもってこいだよね」

「未遠、あなた本当は何者なの? ずいぶんとここのこと、詳しいみたいだけど」

「知りたい?」

「うん。知りたい」

「じゃあ、話してあげようか。桜空御子が到着するまでの間に」

「桜空御子などいない。いない者は来ないぞ。未遠」

「もうすぐ夜が明けるよ、騎馬司。この聖巫女は堪えられるのかな。ここで浴びる、直射日光に」

未遠が沙穂の顔を、崖側へと向けさせた。稜線がずいぶんと白く明るい。あと、どのくらいで陽が昇るのか判らないまま、沙穂はぎゅっと目を瞑った。

「沙穂巫女。目を閉じていて下さい」

「もう、閉じてる!」

「何があっても開けないように」

「判ってる! だから、早く助けてよね!」

未遠が半歩、足を崖へとずらした。下からあがってくる風が全身で感じられる。

「どうするの? この巫女、落とす? 桜空御子を呼ぶ?」

「お前のいう桜空御子などいない。たとえ、この巫女を落としたとしても、状況は変わらないぞ」

「本当に忠実なんだね。騎馬隊は。神御子候補が修行上がりをするまで、その存在を隠し通すという掟を、聖巫女を犠牲にしてでも守り抜こうとするなんて」

初めて聞く話に、沙穂は思わず振り返りかけた。

「動かないでよ、沙穂。崖、ぎりぎりに立ってるんだから。危ないよ」

「今の話、本当なの? 桜空は、神御子の修行中だから、その存在を隠されているの?」

「そうだよ。大抵は死んだことにされる。聖巫女なのに何も知らないんだね」

結界外の子にまで指摘されて、少しだけ落ち込んだ。

「もう一度だけ訊くよ、騎馬司。良き血筋の聖巫女を一人失うの? それとも神御子を呼んで、未来の神妻候補を助ける? どっちにする?」

本当に桜空かどうかは判らないが、規律の厳しい騎馬隊は神御子の存在を認めない。それならば答えは一つ。

「では、聖巫女を落として貰おうか」

「絶対にそう言うと思ったんだから! 騎馬司の莫迦!」

目を開けられたなら、落ち着き払った声で言う騎馬司を思いきり睨みたかった。また落ちるなんて、ごめんなのに。前に助けたからって、今回も同じようにできるとは限らないのに!

「そんなに桜空御子が大事? 私の人生を狂わせたのに」

「お前だって他人の人生を狂わせた。巫女を穢したではないか」

「違う! 私は彼女と幸せになりたかっただけだ。彼女も、それを望んでいた」

「彼女って? 未遠、女の子好きなの? だから、あたしのことも?」

小声で沙穂が訊いた。

「沙穂巫女。黙って」

騎馬司が制した。

「だって気になるじゃない! 殺されかけているのは騎馬司じゃないわ。あたしなのよ! せめて死ぬ前に、心残りがないよう聞いておいたって、いいじゃない!」

「貴女は死なない。沙穂巫女」

「どうして言いきれるの? もう一度同じことができるとは限らないでしょ!」

「私は必ず貴女を助ける」

そうだった。騎馬司は、目の前で誰かが命を落とすことを忌むべきこととしている。それは、桜空という弟を失ったから。でも未遠は、こんなにも桜空が生きていると言い張っている。心底からの、確信を持って。

「格好いいね。騎馬司。そんなあんたと瓜二つの桜空御子にも、同じ器量があればよかったんだけど。こんな仕打ちではなく、いっそのこと命を奪ってくれれば良かったんだ!」

騎馬司は何も言わなかった。沈黙が、桜空の存在を認めている気がした。

「桜空、やっぱり生きているの――?」

思わず首に回されている腕を握り締めて、はっとした。閉じているはずの目の前に、一人の巫覡と一人の巫女が、視えた。これは、未遠の記憶……。


巫覡は未遠。巫女に恋する未遠の想いは一途で、本物だった。巫女に会いたくて、毎日召喚を重ねた。やがて未遠は、巫覡の立場を辞してでも、巫女と添い遂げたいと思うようになった。

「二人で族人に戻り、一緒になろう」。未遠がそういうと、巫女は嬉しそうに頷いた。

でも巫女の本心は違っていた。彼女には、神妻になるという幼い頃からの希望があった。だから、自分に執着を見せる未遠のことが邪魔だったのだ。未遠が先に巫覡を辞めるよう促し、巫女自身は神宮に残り続けた。巫覡を辞めた未遠は、想いを寄せた巫女に会うこともままならなくなり、やがて騙されていたのではと疑うようになった。

彼女の夢を知っていた未遠は、高い霊力を利用して自分を神御子であると偽装し、巫女を結界外へと連れ出した。騙されたと知った巫女は、だが、どんなにじたばたしても二度と巫女には戻れないことを悟って、未遠を受け入れた。未遠は巫女と二人で幸せに暮らしていければ良いと、純粋に願っていた。

だが騎馬隊は、そんな彼らを赦さなかった。神御子と偽装したこと、巫女を騙して結界外へ連れ出したこと、それらを行うのに霊力を利用したこと。すべてが大罪だった。騎馬隊に見つかった未遠は、桜空と呼ばれる神御子に“男”を奪われた。未遠は、永遠に想い人の巫女と添い遂げることが、できなくなってしまったのだ。


未遠は元巫覡。男の未遠を、女に変えてしまった。桜空が。未遠が言った、私の“男”を奪ったって、こういう意味……。今は女性の姿でも元巫覡に抱かれたとなれば、巫女としての沙穂は穢されたとみなされる。だから騎馬隊が保護しに来たのだ。


「今、あなたの想い人はどうしているの?」

え? と未遠が呟いた。

「元巫女。彩音巫女よ。一緒にいるの?」

「沙穂巫女。私の記憶を覗いた――?」

「流れてきただけ。あなただって、あたしの心を視たはずよ。それだけ高い霊力を持っていた元巫覡なら」

「……」

「だから、あたしに固執したんでしょ。あたしが、幼い頃に桜空と遊んでいたことを知ったから」

「そう。あなたが桜空御子に望まれたことも、ね」

ふと、哀しみが流れ込んできた。この哀しみは、とても深い。まるで、この崖のように。

「彩音巫女、どうしたの?」

そこの部分は視えてこない。未遠の高い霊力が、沙穂の巫女霊力を遮っている。その隙間を縫うように、哀しさが滲み出てくる。

「ねぇ未遠」

「申し訳ない……。沙穂巫女」

「え?」

身体が傾いて、ふわりと浮いて風を感じた。未遠が、飛び降りた。沙穂と、一緒に。

「未遠――」

望みを果たせないと悟った未遠は、死を、選んだ。沙穂は本能のまま、哀しみに溢れる未遠を抱き締めた。

「私を見て。沙穂」

女の子そのものの声で、未遠が言った。

「沙穂巫女! 目を開けるな! 未遠を見るな!」

騎馬司の怒鳴り声が、聞こえる。やっぱり、追いかけてきた。でも、まだ、遠い。

「最期のお願い。あなたの目をちゃんと見て謝りたいの。死に、引きずり込むことを」

「未遠……」

「ここは暗いから、目を開けても大丈夫よ」

「駄目だ! 目を、開けるな!」

騎馬司に似ていながらも、違う声が届いたような気がして目を開いた。

その目に入ったのは、沙穂を見つめる未遠だった。未遠の瞳は星のように煌めいていて、とても綺麗だった。

「桜空御子に、あなたを抱かせない。私が、彩音を抱くことができなくなったように。同じ思いを、桜空御子にも味わわせる。私のすべてを懸けて!」

沙穂の瞳を見つめながら、未遠は呪いの言葉を放った。


湟糺が口で触れることで相手の霊力との道筋を瞬時につけるように、未遠は対象者と瞳を合わせることで霊力の道を繋げる、瞳の使い手。それを知ったときは、すでに未遠の呪われた霊力に掴まれていた。息が止まるほどに苦しくて、全身に悪寒が走る。巫女霊力が封印されてしまう。


割って入るように、影が飛び込んできて、二人を引き離した。

未遠の代わりに目に入ってきたのは、巫覡の館で筑紫宮に付き添って天馬で顕れた、騎馬司の礼装。ずっと視線を感じると思っていた、あの騎馬司。彼が、未遠の言っていた、もう一人の騎馬司。神御子候補?

「桜空、なの――?」

ふわりと落下がとまった。天馬が、二人を救っていた。

「沙穂」

沙穂は目を閉じた。――すごく似てる。騎馬司と声がそっくり。あたしが間違うのも無理はない。

「沙穂。目を開けろ。意識をしっかり持て」

「うん」

でも瞼が重たくて、開かなかった。

「見たのか、未遠を? 答えろ、沙穂!」

「見ちゃった」

「なぜ。見てはならなかったのに」

回された手に、力が籠もった。その手が、震えている。

「ごめんね、桜空。あたし、どうなるの?」

「巫覡の念は強い。未遠の掛けた呪いが解けるまで――沙穂を傍に置くことは赦されないだろう」

「いつ、解けるの?」

「判らない。百年か、二百年か。あるいは、それ以上か」

「そんなに、長く……。未遠が抱えていた、想い人と添い遂げられない哀しみって、こんなにも深いもの、だったのね――」


桜空が泣いていた。ようやくめぐり会ったばかりなのに、また、泣かせてしまった。幼い頃から、桜空は泣き虫だった。沙穂よりも、ずっと。


「沙穂。おれは……」


その先を聞き届ける前に、未遠の呪いが、沙穂の意識を深い場所へと引きずりこんだ。


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