聖巫女1
頬をなぞられ、沙穂は目を見開いた。柔らかそうな口唇が近付いてくる。紅をさした口唇に触れそうになったところで、両手を出して突き飛ばした。
「きゃっ」
仰向けに転がった姉巫女が怖い顔をして沙穂を見上げた。
「テキストを読まなかったの? キスのときは目を閉じなさいって、書いてなかった?」
「読んでないもん」
「なぜ? ここへ来る前に目を通しておかなければダメじゃないの」
「メンドーだったから」
本当は目を通していた。でも言うつもりなんてない。
「あなたはもう十二なのよ。いつ巫覡さまに望まれても失礼のないよう準備をしなければならない年頃なの。それは判るわね?」
「判らない。巫覡になんて抱かれたくない」
姉巫女がさっと顔を赤くした。怒らせたと知った沙穂は立ち上がって扉を開け、外へ向かって逃げ出した。
「そんなワガママ、ここでは通らないのよ。待ちなさい!」
待つもんか!と全速力で森の方へと駆けた。暗い森の中へ一人で追いかけてくる巫女はいない。誰もが恐れているのだ。巫覡以外の男子と接触したと疑われるのを。
森に飛び込んですぐのところにある大樹の陰に潜むと、顔を覗かせて誰も追いかけてこないことを確認した。
「ま、来るわけないけど」
息を整えて立ち上がると、奥へ向かってゆっくりと辺りを散策し始めた。
神に仕える男性神官・巫覡は、巫女の処女を喰らってその血を吸い、自らの霊力となし、神に仕える。そう、まことしやかに伝わる伝承を持つ春日族。古来より一般人の立ち入りを禁じてきた原始の森に結界を張り、外界との接触を一切絶った神域で、直接神々に奉仕するため純粋なる霊力を宿す血脈を守り通してきた。
彼らが崇めるのは月の神。生と死を司る月神こそが、この世からあの世に至るまでを統べる真の大御神。その神をお支えする重要な担い手の地位を古より尊守してきた、誇り高き一族である。
巫覡は月神に抱かれ男宮を生す。月神の神力を宿した巫覡が巫女を抱き、女宮を生す。いずれも必ず神の力を宿す子とは限らず、神力を帯びない者は族人として一族を形成する。神力を帯びる者は神の子として月族の一員となる。
一族にとり最も優先されるべきは月族を支え続けること。すべての女子は巫女になることを望まれ、すべての男子は巫覡になることを目指す。それが一族の誉れ。
女子は十歳になると家族と神官以外の異性と接することを禁止される。十二にもなれば巫覡に望まれる巫女になるべく修行を積む。すべては純潔を神に捧げるため。さきほどの姉巫女は、五人しかいない巫覡に幾度も望まれ経験を積んだ巫女だった。その巫女が実戦で妹巫女を指導し、巫覡の望むべき巫女へと育てる。
沙穂は巫女を母に持つ者だった。父は巫覡。神力を示していれば月族の女神ともなる血であるのに、その気配は一切顕れず、単に強い霊力を持つかもしれぬ巫女として一族にあった。
「沙穂! またお前は神官たちに迷惑をかけたとか。つくづく父は、情けなく思いますぞ」
週に一度の帰宅日、実家に戻ると父がおよおよと嘆いていた。
「だって……」
「だって、ではありません! 良き血脈を宿しておきながら、まったく巫女に関心がない娘を持つとは。これ以上の親不幸があろうか」
沙穂はふくれっつらをして自室に入って行った。お父さまは何も判っていないんだ。巫女道場で、あたしがいったい姉巫女に何をされそうになっていたのか。
「巫女なんて掃いて捨てるほどいるのよ。あたし一人くらい落ちこぼれたって、誰も何も思わないわ。嘆くのはお父さまくらい!」
扉越しに怒鳴ってみせる。
「これ、沙穂。何と嘆かわしいことを申すのか」
「あなた」
母がなだめる声がする。
「十二の巫女修行は、誰にとっても最初は衝撃を受けるものなのです。沙穂は人一倍感受性が強い子ですもの。ショックが大きかったとしても当然ですわ」
「しかしなぁ。沙穂が巫女修行を放り出すのは今日が初めてではないのですぞ?」
「感受性は巫女にとって大いに必要なもの。いずれは神妻になるかもしれません」
「いやいや」
何が、いやいや、よ。煩わしさを覚え、自室を飛び出し外へと抜け出した。
「これ、沙穂。まだ話は終わっておりませんぞ。もうすぐ湟糺も戻るゆえ――」
扉をバタンと締め、耳を塞いで顔をしかめた。
「ホントに、あたしのコトなんてどうでもいいんじゃない」
「父上はあれで、本気で沙穂のことを心配しているのだよ」
ふいに声がし、沙穂は飛び上がった。
「湟糺。早いのね。こんな時間に、ちゃんと帰ってくるなんて」
「どういう意味かな?」
「だから、その。湟糺、巫覡に選抜されたって巫女たちの間で噂になってるから。色々と……忙しいのかなって思って」
「色々と、ね」
「そう。いろいろと」
ちらりと兄を見上げる。兄、とはいっても直接血の繋がりはない。父と母は二年前に再婚、沙穂は母の、湟糺は父の連れ子。ゆえに義理の兄妹なのだ。
湟糺はまれにみる巫覡の素質を持っていて……つまりは霊力が高く、超がつくほどの美形。絶対に月神のお気に召すであろう男子ということで幼い頃から巫覡の修行を受け、本人も真面目に巫覡を目指してきた。それがついに先日、叶ったという噂を耳にしたのだ。
「姫」
そういって、優しく頬に手を触れた。記憶にある限りの幼い頃から、湟糺は沙穂のことをこう呼ぶ。
「湟糺、ホントに巫覡になったのね。なんか、今までとは違う」
艶っぽさを纏うようになった。そう感じた。二つしか違わないのに、ずいぶんと大人に思える。
「そうかな?」
「うん」
「喜んでくれるよね。姫のために、僕は巫覡の道を選んだ」
「どういう意味? あたしのためって」
頬に触れた指がそっと口元をなぞった。テキストにあった通りの仕草。姉巫女の実戦修行にもあった。でも、姉巫女のとは全然違って、思わず息をのまずにはいられない何かを感じさせるものが、湟糺にはある。
「姫が聖巫女になった暁には、僕は姫を望む」
聖巫女。それは少女が大人となったばかりの巫女のことをいう。初潮を迎え、神の子を宿すことができるようになったばかりの初々しさを湛えた巫女。誰の手にも委ねられたことのない聖巫女を、巫覡たちは最も好む。月が満ちたばかりの巫女を抱いて得られる力が、月神にもっとも強い霊力を捧げられる方法だから。
「湟糺、あたしの兄なのに」
「本当の兄妹なら、もっと良かった。筑紫宮さまに、強き霊力を捧げられたのに。でも、姫には充分強い霊力がある。それを、僕たちで捧げよう」
「あたしは無理。だって、あたしには桜空がいるから」
湟糺がふと笑った。
「また、桜空か。あの、幼き頃の思い出は幻だよ。約束なんて交わしてもいないのに」
「交わしたわ! 桜空は言ったもの。いずれ大きくなったら、結婚して下さいって」
「その桜空は、今どこに?」
「それは、判らないけど。巫覡道場には、桜空って子、いない?」
「いないよ。姫」
「じゃあ、巫覡見習いの中には?」
「残念ながら。桜空は、もしかしたら巫覡道場に入門を赦されるほどの霊力を持ち合わせていなかったのかもしれないね。そういうことは、よくある話だよ」
「でも、あたしは諦めない。桜空だって、約束を覚えていてくれるはずだもん」
「だから、巫女道場を逃げ出したりするの?」
「え?」
「こっちの道場でも姫の噂でもちきりだよ。奇行を繰り返す巫女がいるってね」
「奇行……」
「そんな噂を聞いたら、桜空だって近寄らない。きっと」
沙穂は泣きそうになった。確かに巫女は、おしとやかで見目麗しく従順で霊力が高いことが望ましい。それが巫覡に求められる基準なのだ。妙な噂のある巫女は、あまり求められることはない。
「十二の巫女修行は厭かい? 姫」
「厭に決まってるわ。巫覡に抱かれるための修行なんて、そんなの……」
いいかけて、はっとした。巫覡になった湟糺を前に、巫覡を拒絶するようなことを言うなんて、してはいけない行為。
「ごめんなさい。別に湟糺を悪くいうつもりはなくて、その、何と言うか、好きでもない人とあんなことするなんて、できないって思って。それで」
「あんなことって?」
「あ、えっと。巫女に渡されるテキストがあって、そこに色々と書いてあるの」
「どういうことが書かれているの?」
「よく見てなくて……。だから判らないけど」
「ふうん」
湟糺にじっと見つめられ、ごまかしたことがバレないよう沙穂は小さく縮こまった。
「巫覡にはテキストなんてないんだよ。すべて実戦で教わるから」
「そうなの?」
「だから拒否すれば、何も習うことはできない」
「大変ね」
湟糺はふと笑った。
「特に大変ではないよ。巫女のテキストにはこういうこと、書いてあるんでしょ?」
言いながら顔を上げさせると口唇を寄せた。反射的に沙穂は目を閉じていた。
「姫。聖を迎えていない巫女に手をつけることは赦されていないんだ。ごめんよ」
目を開けると湟糺が微笑んでいた。この眩いばかりの笑顔に、若い巫女たちのほとんどが憧れている。聖巫女として最初に湟糺に抱かれたいと願う巫女たちは数知れない。その巫女たちが、巫覡としての湟糺にさらなる高い霊力を与える源となる。
「聖を迎えた暁には、必ず姫を僕のもとへ召喚するよ。それまでは我慢して」
「我慢って、何を?」
「キス。したいんでしょ?」
沙穂は頬が火照るのを感じて、そっぽを向いた。
「湟糺となんて、したくない。勘違いしないで」
「桜空となら、したいんだ?」
「やめて。そんな言い方。湟糺らしくない」
「僕らしい? やっぱりそこまで判っているのは姫しかいないよね」
「違う。あたしは――」
ふいに湟糺が身を寄せると口唇を重ねた。そっと触れるだけの柔らかな仕草から、愛撫するようなものへと変わり、やがて激しく求めるようなものへとなった。どうにも拒否できなくて、なぜだか力が抜けそうになって、思わず湟糺にしがみついていた。
「どう? 姫」
熱い吐息と共に湟糺がようやく身体を離すと、そういってからかうように問うた。
こんなところ、他の巫女たちに見られたら何を言われるか判ったものじゃない。湟糺が兄だからって身びいきされていると陰口を叩かれる。実戦修行をつけようとしている姉巫女だって快くは思わないだろう。
「あたしに手をつけることは赦されないんじゃなかった?」
睨むように言った沙穂を見て、再び湟糺は微笑した。
「手をつけるって意味、判ってないんだね」
「今のは違うっていうの?」
「今のは、今日道場を逃げ出して未習熟だった部分。巫女修行が厭なら拒否して構わないよ。すべて僕が教えてあげる。姫は、今のまま純粋でいてくれれば、それでいいんだ。判るね?」
「判らないから」
「姫は相変わらず意地っ張りだね。そういうところ、可愛いよ」
「な……」
もう一度、素早くキスすると湟糺は腰に手を回して抱き寄せた。
「僕の変化も判る? 巫女を求める時に巫覡の身体は、こうなるんだよ。姫」
固くなったものが下腹部に当てられると、沙穂は思わず身体を離した。
「いずれこれが姫を月神へと導くんだ。姫は僕を求めずにはいられなくなる。僕から離れられなくなるよ。これが、手を付ける、の意味」
言いながら湟糺は首筋に幾度か軽く口づけをした。くすぐったくて、それでも不思議と厭ではなくて、拒むことはしなかった。
「湟糺、変わった。前は、こんなことしなかったのに」
「ああ。僕は変わった。月神は僕を抱き、僕は巫女たちを抱く。それが務めになったんだ。姫は誰にも渡さない。姫だけは必ず僕の手元におくよ。姫。二人で月神を支えよう。僕たちなら、月神に強い霊力を捧げられる。僕は必ず男神を生し、姫に女神を授けるよ」
沙穂は首を横に振った。
「湟糺は嫌いじゃないし、キスも厭じゃなかった。でも、あたしには桜空がいる」
「桜空のことは忘れなさい。姫には高い霊力がある。それを僕に捧げて。いいね?」
急に大人びた口調で言うと、湟糺はドキッとするくらい真剣な視線を投げ、家に入って行った。
「桜空のことは忘れられないんだから!」
追いかけるように言ったが、湟糺は振り返らず何も言わなかった。巫覡になった湟糺はいつのまにやら威厳らしきものを身に付けていて、命じられるように言われると、本当に桜空のことを忘れなきゃいけない気がしてくる。グスンと鼻をすすった。
「沙穂ちゃん。ごはんよ」
のんびりした母の声とともに、中から炊きたてのお米の甘い香りがしてくる。哀しい気持ちが追いやられるほど、一気に空腹を感じ始めた。
「お腹すいたぁ」
甘えるように言い中へ入ろうとしたとき、ふと視線を感じて振り返った。五軒先の建物の陰に人影を見た気がしたが、誰の姿もない。
「気のせい、かな」
奇行の巫女だと噂され、おまけに湟糺にあんなことされたところを、もし桜空に見られでもしたら、ますます嫌われる。そう思うと少し気分が落ち込んだ。
「沙穂や。湟糺もめでたく巫覡となったのだ。明日からは、きちんと巫女修行に精を出すんですぞ。そうでなければ他の巫覡どのはおろか、湟糺にさえ呆れられますからな。そうなれば巫女としては致命的。お家断絶、一家離散となるかもしれん。おろおろ」
「おろおろってなぁに? いま流行ってる言葉か何か?」
ほおばりながらお肉を取ろうとした箸先から、さっとお皿が取り去られた。
「あー! お父さま、何するの。それ、楽しみに取っておいたのに!」
「巫女修行もせずに食べるばかりでは、太り過ぎて見目が悪くなりますからな。せめて、せーめーて、湟糺だけにでも気に入られる体形を維持しなされ」
「お父さまは、あたしが湟糺に……えっと、その、お呼ばれしてもいいと本気で思っているの?」
ちらと横目で湟糺を見ると、涼やかながらも艶のある視線を送ってきた。
「トーゼンです!一家から巫覡と巫女が出れば、二人が結ばれるのは最高の理想。これで神御子を生せば、我が家はさらに神宮へ近い土地が与えられ、格式も上がり、父も鼻が高い」
やっぱりそう来た。ここでは濃い血は何よりも貴ばれる。それを大人たち皆が望む。月神さまに対する最高の誉れとして。
沙穂はカタンと箸を置いた。
「な、なんですか。その反抗的な態度は」
「どう頑張っても、いま以上に、その鼻は高くならないから。お肉かえして!」
「湟糺は細身が好みなのですぞ」
「そんなの関係ない! あたしはお肉が食べたいの! 食べさせてくれないなら、巫女修行しないもんね」
「父を脅そうというのですか。脅しているのは父のほうなのに。ああ、恐ろしや」
「お父さま、大人げなさすぎ! 娘のおかずを取り上げるなんて、サイテー」
「父に向かって何という暴言。驚きましたぞ」
湟糺と母が、くすくす笑い出した。
「ちょっとお母さまも湟糺も、笑ってないで何とか言って」
甘えた声でぐずぐず言うと、湟糺が甘やかすような笑顔で応えた。
「父上。姫に巫女修行は不要です」
「え?」
何を言い出すのかと沙穂は動きをとめた。
「父上が心配なさらずとも、僕は姫を求めますから」
「ちょっと。そんなコト言って欲しいんじゃない。お肉を――」
「ほ、本当か? 湟糺」
「ええ、本当です。修行が厭なら、僕が一からすべてを教えます。ですから、姫にお肉をお返し下さい」
「うむ。ならば」
結果として、湟糺からこの言葉を引き出せたことに満足している父を見て、がくっと肩を落とした。そそくさと戻された皿のお肉が急にしぼんだように見える。もう、美味しそうじゃない。
「……ごちそうさまでした」
三人が一斉に沙穂を見た。
「沙穂ちゃん。もう食べないの? いつもはもっともりもり食べるのに」
「いらない」
「姫はもっと食べても大丈夫だよ。あまり痩せぎすなのは、僕の好みではないからね」
こんなときにまで色目を使う湟糺を無視して立ち上がった。
「どこへ行くの?」
「お散歩」
「僕も行こうか」
「いい。湟糺と歩いてたら、何言われるか判らないから」
「姫……」
湟糺が目を潤ませた。
「僕の立場を気遣ってくれているんだね。嬉しいよ。そんなに僕のことを愛してくれているなんて」
「まったくもって違うからね!」
沙穂ちゃん、照れているのよ。湟糺くんに求められて。ウキウキした母の、純粋に喜んでいるような響きに力が抜けて、外へと足を踏み出した。
みんな、ぜんぜん判ってない。あたしが桜空と約束を交わしていること、知っているくせに。なんで湟糺に身を捧げないといけないのよ。
「ああ、姫。明るくなる前に戻るんだよ。もうすぐ夜明けだからね」
「判ってる!」
顔を覗かせた湟糺に、ふくれっ面で答えてから、溜息をついた。
月神と共に生きる春日族は、日没とともに一日が始まり陽の出とともに眠りにつく。陽光は世界を惑わす強き光であり、月光はすべてを癒す優しい輝き。だが結界の外は違うと聞く。陽の出とともに一日が始まるというのは、どういう世界なのだろうと思うと、怖いながらも興味は失せない。月神は、ときに陽神が支配する世界へも降り立ち、人々の願いに耳を傾けるという。月神は、春日族ばかりのものではない。それは判っていても、月神さまをお支えしているのは春日族なのだという誇りはすべての族人が持っている。それは沙穂とて変わらない。
「桜空、どこにいるの? 早く現れてくれないと、あたしホントに困るのよ」
いまはまだ聖巫女になっていないから、湟糺も沙穂を求められない。だが初めてとはいえ今宵はキスまでしてきたとなれば、もはや聖巫女になればすぐにでも召喚されてしまうだろう。湟糺はやんわりとした物腰だが、神宮内での巫覡の権力は絶大だ。宮司すら従わせることができ、巫女が抗うことなど到底できやしない。
「もぉー、桜空! どこにいるのよー」
森の中、一人で空に向かって叫ぶ。ガサガサっと枯葉を踏みしだく音が聞こえて、目を凝らした。
「だれ?」
人影が見えた。一人、全速力で走っている。それを追うように続く、幾つもの足音。逃げている人影の、上がった息が聞こえるようになった。そう思ったとき。
「なんで、こっちに来るの!?」
人影は真っ直ぐ沙穂に向かって走ってくる。まるで突進してくるかのように。
「やだー」
慌てて樹の陰に身を寄せようとしたときには、人影は目の前に迫っていた。
「うわっ。あぶない!」
相手が気付いたときにはもう、二人はまともに正面からぶつかっていた。
悲鳴を上げた沙穂は、憐れなほど無抵抗なまま仰向けに突き飛ばされていて、かつ不運なことに、背後には沙穂お気に入りの数十センチほどの窪みがあり、そこへ二人で転げ落ちて行った。
「い、痛い……。頭、痛い。背中も、痛いよう」
下敷きになった沙穂が情けない声で呻くようにいうと、乗っかっていた人物が慌てて起き上がって肩に手を掛けた。
「大丈夫? ごめんね。暗くて見えなかったの」
女の子の声だった。
「大丈夫じゃない。ちゃんと前見て走ってよ」
起き上がろうとすると女の子が手を貸した。
「あなた、だれ?」
沙穂が問うと、一瞬警戒したような雰囲気になった。だが相手が自分より年下の少女だと知り安心したのか、小さい声で答えた。
「私は未遠」
「みおん? 聞いたことない名前ね。あたしは沙穂。知っている?」
「いいえ」
短く答えると未遠は辺りを警戒するように、そっと見回した。族人なら大抵の人は見知っているはずなのに、この女の子のことは見覚えがない。
「さっきの騎馬隊でしょ? 未遠、いったい何したの?」
騎馬隊は結界内を警備する任務を負う者たちだ。時に妖を退治し、時に神族が結界外へ務めを果たしに行く際に警護につき、時には結界外へ逃げ出した族人を抹殺にも行く。彼らは逃げ出した者を捉えるときなどに備え、容易に面割れしないよう、目元から顔半分を覆うように特殊な仮面を被っている。これを族人は騎馬の礼装と呼んでいた。
「別に何もしてないわ。ここへ入ってきたら、いきなり追いかけてきたの」
沙穂は驚いて目を見開いた。族人たちは「ここへ入ってきたら」という言いかたはしない。だって山の周囲には結界が張ってあり、出入りすることはままならないはずだから。ということは、この女の子は結界の外からきた人。そういえば服装も違う。
「未遠、ここへは何しに来たの?」
「桜空って子に会いに」
「桜空?」
突然出てきた名に、沙穂は戸惑った声で問い返した。
「そう。桜空って子がここにいるはずなの。後つけてきたら、ここに入ってきたから」
「桜空の顔、知っているの?」
「知っているわ」
「桜空に会いに来たのね?」
「そういってるでしょ。桜空がどこにいるか知ってる?」
「知らないわ。桜空に、何の用事?」
未遠にじっと見られ、沙穂は緊張した。そういえば、結界の外の人と話すのは、これが初めてだった。
「さっきから私ばかり質問されているけれど」
勢いに飲まれ、こくりと頷いた。
「桜空のこと何も知らないなら、用はないわ」
「待って!」
立ち上がった未遠の腕を掴んだ。そのとき巫女霊力が感知した。
この未遠って少女は、桜空に恨みを抱いている。復讐をしようとしている! でも、なぜ?
「あ、あたしも桜空のこと探してるの。ずっと。だから一緒に探したい。いいでしょ」
「あなたは何で桜空を探しているの?」
「あたしは、えっと……」
復讐をしようとしている未遠に、まさか結婚の約束をしているとは言えない。そんなことを言おうものなら何をされるか判らなかった。ここは、ごまかすしかない。
「ちょっとした仕返しをしたいなって、思ってて」
ふうんと疑わしそうな目で見られ、えへっと笑ってみせるが未遠は笑わず、目を細めた。その目元が見たこともないほど急激に、明るく変化した。後ろからの、ひかり。
振り返ると、突然に目を開けられなくなった。まるで刺されたように、目に痛みが生じている。目を閉じていても、妙な残像が映っている。恐怖に駆られ、沙穂は悲鳴を上げて座り込んだ。
「大きな声を出さないで。あの騎馬隊とかいうのに見つかるわ」
未遠が慌てたような声を出した。
「目が変なの。見えない。痛いの。何かに刺されたみたい。妖かも」
「しっ。静かにして。大丈夫。妖なんていない。誰も何もしてないから。落ちついて。ゆっくりと開けてみて」
「開けられない。痛いんだもの」
ふいに、うずくまる沙穂の上から何かが被せられた。同時に争うような足音が入り乱れる。だが突然の痛みに怯える沙穂には気にする余裕などなかった。被せられたものを払いのけようとすると、誰かが沙穂ごと抱えるように押さえ込んだ。
「やめて。放して。痛いったら!」
「落ち着いて下さい。巫女どの」
耳元で低く落ち着いた声がした。
「私は騎馬司です。暴れないように」
「騎馬司?」
騎馬隊の長。あたしたち一族を守る人。どうして、ここに。
「ええ。失礼を承知でこうしております。すでに夜が明けました。恐らく陽を直接見られたのでしょう。陽の光を見たことのない巫女どのの目は、この明るさには堪えられません。だから痛みを感じるのです。お判りですね?」
初めて知った、強烈な陽の光。怖かった。被せられたものをグッと握ると、騎馬司が許可を求めるように言った。
「貴女を潔斎所へお連れします」
巫女が神官でも家族でもない男に触れられた。これは立派な穢れだ。それを騎馬司自身も認識しているがゆえの言葉だった。
「お願いします……」
馬をここへ。そう命令する声がしたかと思うと、
「失礼」
抱き上げられ、馬に乗せられた。揺れると落ちそうな気がして、慌てて騎馬司にしがみついた。
「騎馬司は平気なの? 目、痛くない?」
「私たちは慣れているのです」
「結界の外の人たちと同じように?」
「騎馬隊は昼も夜と同じように警護に当たらねばなりませんから」
「じゃあ、あたしも慣れれば痛くなくなる?」
「ええ。ですが月神にお仕えする巫女どのに、陽の世界は不要と心得ます」
余裕を感じさせる話し方を聞いていると落ちついてくる。その声に、どこか聞き覚えのある気がしていた。
「騎馬司。名前はなんて言うの」
微かに笑いを含んだ声が答えることを拒否した。その笑い方にも覚えがある。そう思ってギクリとした。声こそ低いが、そっくりだ。桜空の笑い方に!
「ねぇ!」
顔を見ようと思わず頭に掛けられているものを払いのけて、また悲鳴を上げて目を瞑った。明るいことをすっかり忘れていた。
騎馬司は沙穂に布を掛け直して、さらに笑ったようだった。それが、しがみついている胸板を通して伝わってくる。
きっと騎馬司は知っているんだ。あたしが奇行の巫女だという噂を。もしこの人が桜空だとしたら絶対に呆れているはず。口にこそ出さないものの、巫女たる者が夜明けまで森の中で何をしていたんだって思って、呆れて笑っているに違いない。
「あたし、こんな時間まで外にいたこと、反省してる」
思わず、しおらしいことを口にしていた。
「そうして頂きたいものです」
騎馬司は真面目な口調で、そう答えた。
せめて、桜空じゃない人に助けて貰いたかった。しょんぼりと肩を落とした。
「未遠を、どうするつもり?」
「みおん?」
「あたしと一緒にいた子」
「一緒にいた子? 貴女は一人で、あの場にいらっしゃいましたが」
騎馬司の言葉に耳を疑った。
「いたわ。あたしの隣にいたでしょう?」
「いえ。誰もいませんでした。貴女が怯えてしゃがみこんでいるのを発見しただけです」
まさか、うずくまっていた、あの僅かな時間に逃げてしまった?
それも有り得ないことではない。何しろ結界外から来た子なのだから、どんな能力があるかも判らない。
「ホントに、誰もいなかった?」
「ええ」
騎馬司の返答にためらいはない。
「誰かがいたはずなのですか?」
うん、と沙穂は頷いた。
「未遠って女の子と話してたの。騎馬司。未遠に気をつけて。彼女は、桜空って子を探しているの。復讐したいからって」
「承知しました」
「桜空にも危険を教えてあげないと。桜空の居場所、判る?」
期待しながら訊いた。もしかしたら、自分だと言ってくれるかもしれない。それなら、この痛みを負ったのも我慢できる。だが騎馬司の言葉は、一瞬でその期待を打ち砕いた。
「いえ。そのような子は心当たりがありません」
どきんとした。桜空が、いない? この一族に? 騎馬司は桜空ではないというの?
「騎馬司は一族を守るから、皆を知っているのよね」
「大抵は存じ上げています」
「それなのに判らないの? 桜空って男の子。どこに住んでいるかも?」
「心当たりがありません」
「本当に?」
「はい」
ここに住んでいる者がいなくなることは滅多にない。あるのは、結界外に逃げたときくらい。それさえも騎馬隊は追い詰める。結界内に存在する春日族のことを外へ漏らさないために。月神の存在も、それを支える一族の務めのことも、すべてが護られるように。
きっと隠しているのだ。騎馬司自身が桜空であると言えないがゆえに、桜空という少年がいたことすらも消し去ろうとしている。
「騎馬司」
「何でしょうか」
「桜空は確かにいるわ。小さい頃、一緒に遊んだの。でも今は居場所が判らない。桜空を捜し出して。話したいことがあるの」
「相手は少年だと言いましたね。例え捜し出したとしても、話すことはおろか、会うことすら叶わないのではありませんか。巫女である貴女には」
確かに、騎馬司の言うことは正しい。素直に、あなたが桜空ではないのと訊ければ良いのに。だが騎馬隊は決して身分を明かさないという。この調子では上手くかわされるに違いない。
沙穂はしがみついている手に、少しだけ力を込めた。
「会わせてくれないなら、せめて桜空に伝えて。約束、忘れてないから。あたし、ずっと覚えてるから」
「約束」
「そう。あたしたち誓ったでしょ。大きくなったら――」
「巫女どの」
騎馬司が遮った。
「到着しました。下馬します」
騎馬司が馬を止め、沙穂はしがみついていた手を解いた。なぜか騎馬司は、桜空の話題に触れたがらない。それを感じ取った。
関係ないなら、途中で遮るようなことをしないで最後まで聞き届けるはず。それをさせないということは、何を意味するの。
「お手を」
言われて、馬上から手を伸ばした。巫女霊力を使ってさえ、軽々と降ろされる瞬間も、騎馬司の思いは汲み取ることができなかった。
「騎馬司」
「はい」
続ける言葉はなかった。騎馬司も、それ以上は何も言わない。歩き慣れた砂利を足の下に感じ、手を取られるようにしながら歩を進めた。途中、つまずきかけると、ちゃんと転ばないように支えてくれた。潔斎所までの、ほんの僅かな間には、桜空のことに再度触れる勇気が出てこなかった。
「宮司。さきほどご連絡を差し上げました、例の巫女です」
上着を取ります、と言われ頭から布が取り払われた。暗い部屋の中は、ほっとする。見ると、宮司が巫女たちを統括する斎院と呼ばれる女性とともに立っている。騎馬隊の誰かから先に連絡を受け、待ち構えていたようだった。
「沙穂巫女。また、あなたですか」
二人がほぼ同時に同じ言葉を口にした。ともにあきれ顔だ。
「直射で陽光をまともに受けました。目が慣れるまでは違和感を覚えるでしょうが、時が立てば落ちつきます。念のため、医務司にお見せになると良いでしょう。では」
「待って。騎馬司」
まだ目に違和感があってよく見えない。だがいつもの場所に落ちついて元気を取り戻した沙穂は、下がろうとした騎馬司の裾を掴んで引き留めた。
「沙穂巫女。騎馬司に触れてはなりません」
斎院が戒めた。
「判っています。でも助けてくれたのですから、お礼を言わせて下さい」
「では言葉だけで」
「はい」
沙穂は、両の目元を覆いながらも左目から右頬へとかけて流線を描く、殊更煌びやかで豪奢な礼装を施している騎馬司を改めて見上げた。背が高くがっちりとした体格をしているが、騎馬隊の長を務めるには若すぎるほどで、それだけに勢いがある。
「騎馬司」
「はい」
礼装の奥からしっかりと沙穂を見返している。さすがに騎馬司を務めるだけあって度胸は座っているようだ。一族から崇められる立場の神職者たちを前にしても、物怖じをしている気配は一切ない。むしろ、この場を仕切っているのは彼であるような雰囲気さえある。
「さっきのお願い、必ず聞き届けて」
一瞬、迷ったような雰囲気が流れた。
「我々は思いのほか多忙の身なのです。伝言は、桜空という少年に会うことができたら、ということでよろしいでしょうか」
「……うん」
「承知しました」
立ち去った扉を見つめたまま、しばらくの間、動くことが出来ないでいた。さっき訪れた沈黙の、その時に確信していた。この人が、桜空だと。
「なぜ、本当のことが言えないの――?」
あの約束をしたことを、後悔しているとでも……?
禊ぎをするようにという宮司と斎院の言葉に従い、裏手に流れる川を地下にあるこの潔斎所へ引きこんだ水に身を浸した。祓いの祈りを捧げるのも忘れて、ぼんやりと考えにふけった。
「騎馬司って、どういう人がなるんだろう。霊力が低くて、巫覡にはなれそうもない人なのかな。それとも自分からなりたくて志願しているのかな」
そこを訊いてみればよかった、と今さらながら思う。もっと話をすることができたはずなのに。目の痛みと、桜空に会えたのかもしれないという驚きに気を取られて、そこまで頭が回らなかった。
「どうしよう……」
出入口まで来てためらった。誰もが眠りについている時間帯。ここ潔斎所にも、禊ぎを行う巫女たちのための寝所がきちんと設けられていて、幾人かの巫女たちがいる。もちろん誰一人、沙穂のように外へ出ようとするものはいない。
「あたしって奇行の巫女、なのかな」
さっきの出来事で目が陽の光に慣れて大丈夫になったとしても、ここで騎馬司に会いに行けば、やっぱり奇妙な行動をとる巫女には変わりない。
「騎馬司が桜空だったら、嫌われたかな。あたし」
う~、と頭を抱えた。
「やっぱり確かめれば良かった。騎馬司が桜空かどうか、すごく気になる!」
もう一度、騎馬司に会いたかった。でも夜まで待ったとしても会えるとは限らない。それなら今のほうが、まだ近くにいる可能性もあるし、族人がいないほうが、騎馬隊の目にも止まりやすい。
「そうだ!」
川のほとりへ戻ると、身体を拭った綿布を手に取った。再び外への扉まで戻ると、それを騎馬司がしたように頭に被り、そして目を思い切り瞑って、扉をそっと開いた。
明るいのが判る。でもこれくらいなら、夜の灯りと同じくらい。このままなら大丈夫。怒られるたび潔斎所には何回も来ているし、どこに何があるのか、神宮の中なら様子は誰よりも知っている。
足下に砂利が触れた。石と石が擦れ合う聞き慣れた音に、緊張が少しだけ解けた。大鳥居へ向かって見当をつけて歩き出す。
「騎馬司!」
しんとした明るさの中で、沙穂は声を上げた。
「話したい事があるの! 大事なこと! あたしの声が聞こえるでしょ!」
怖いほどに自分の声が遠くまで響き渡っている。絶対に騎馬隊の誰かが聞いているはず、と確信できるほどの静けさ。
「騎馬司!」
何度叫んでも、どれほど待っても、誰も現れず足音一つ近付いて来ない。
「なんだか、暑い。陽の世界って、こんなに暑いんだ」
くたりと座り込んで、膝に顔をうずめた。こうしていれば、明るさは大して気にならない。
「騎馬司。何で来てくれないの。あたしの声、聞こえない?」
危険にならないと騎馬隊は誰も気付いてくれないんだろうか。ということは、今は何の危険もないってこと。陽の世界に身を置くことは、それほど危ないことではないのかもしれない。それなら、ここで待っていても大丈夫。
そんなことが頭をよぎって、沙穂はこのまま騎馬司を待つことにした。
「姫」
聞き慣れた声がして目を開けた。心配そうな顔が覗き込んでいる。
「湟糺。どうしたの?」
「それは僕が訊きたいよ。夜が明けても戻って来ないんだからね。神宮へ戻ってみれば、大鳥居の前で沙穂巫女が倒れているって大騒ぎになっているし」
そうだった。きっと、あのまま眠りこんでしまったに違いない。
「心配かけて、ごめんなさい」
起き上がってみれば、神宮で割り当てられている沙穂の部屋だった。まだ一人前と認められていない沙穂は、他に二人の巫女と同じ部屋で寝起きしている。そこへ巫覡が現れたとなって、同室の二人は興奮と緊張に顔を赤らめつつ湟糺をちらちら見ているし、廊下では沙穂の見舞いを口実に湟糺を一目見ようと、ちょっとした騒ぎが起きているようだった。
「湟糺。ここ、巫女の館なんだけど」
「知っているよ」
「男の人が入ってはいけないはずよ」
「そうなんだ。だから僕は、姫を僕の部屋へと要請したんだけどね。それが叶わなかった。だから僕がここへ来るしかなかったんだよ。残念ながら」
「何が残念なのか、さっぱり判らないけど。あたしには」
判るのは、それだけの権力が巫覡にはあるってこと。しかも湟糺には、いけないとされる規律をも曲げさせるだけの力が、ここではあるらしい。
「陽の世界では水分を取ることが重要らしいよ。姫は飲まず食わずで、陽の世界に日がな一日居続けた。誰にも気付かれずにね」
誰にも気付かれず。結局、騎馬司は来てくれなかったということ。
沙穂は落ち込んだ。それを湟糺は何と思ったのか、水を目の前に差し出した。
「元気が出ないのは、水分が不足しているからじゃないかな」
沙穂は首を横に振った。
「大丈夫。喉は乾いていないから」
「もっと飲んだほうがいい。飲めないなら、また僕が飲ませてあげる」
何か含みがありそうな気がして、湟糺を見上げた。
「また……?」
「医務司が休暇中で留守にしているらしいよ。沙穂巫女が意識を取り戻さない、気付けの神水も受けつけないって皆が慌てふためいてね。万が一のこともあるかもしれないと、僕に知らせが入った。だから僕が来て、飲ませてあげたんだよ」
部屋の隅にいる二人が目を輝かせ、いや、真っ赤になって顔を伏せた。
「それ以上言わなくていい。判った気がするから」
湟糺の手から水を受け取ると一気に飲み干した。
「ありがとう。もう大丈夫だから。湟糺もお務めがあるでしょ。月神さまが待っているんじゃない?」
「そうだね。お待たせするわけにはいかないから、僕はこれで失礼するよ」
湟糺が目礼すると、二人の巫女は嬉しそうに頭を下げた。
「姫。そこまで送って」
「うん」
立ち上がると湟糺のために扉を開いた。家ではともかく、ここでは巫覡に対する礼儀はきちんと守らなければならない。
湟糺の姿を見た巫女たちは、皆一様に姿勢を低くして見送った。そんな中をしずしずと進む湟糺の後ろ姿は麗しい。身に付けている装束が、月の光を受けてキラキラと反射して煌めいている。
「湟糺。綺麗な衣装ね。よく似合ってるわ」
湟糺は少しだけ振り返り、横顔だけで微笑んだ。
「ありがとう。姫に言われるのが一番嬉しいよ」
階段を下り、見送る巫女たちに声が届かないくらいのところで、湟糺は足を止めた。
「姫。大鳥居のところで、あんな時間帯にいったい何をしていたの?」
「あの、それは……」
どこまで本当のことを言っても大丈夫なのだろう。未遠に会ったこと、騎馬司に助けられたこと、その騎馬司が桜空かもしれないこと、だからもう一度会いたいと思って外へ出たこと。どれを話しても心配させるだけだし、叱られることばかり。
「ごめんなさい」
「謝って欲しいわけじゃないんだよ。理由が知りたいんだ。姫の行動には必ず訳があるはずだからね。そうでしょ?」
「そうなんだけど。でも話せば心配しちゃうだろうし、長くなるし」
「そんな、大人みたいな言い訳はやめなさい。姫はいつまでも子どもでいないと」
「この間は、早く聖巫女になれって言ったのに」
「それとこれとは話が別。僕に心配を掛けるとか掛けてはいけないとか、そんな気遣いはしなくていいんだ。真実を教えてくれれば、それでいい」
「でも、きっと怒るわ」
ゆっくりと湟糺が振り返った。
「また、桜空なんだね」
「やっぱり怒るんじゃない」
口を尖らせて横を向いた沙穂に手を伸ばしかけ、湟糺は思い留まったように装束の下へ手を戻した。
「姫はやっぱりまだ子どもだね。僕の中にある感情は怒りじゃない。嫉妬だよ」
「嫉妬?」
「そう。嫉妬。僕もいくら気が長いとはいえ、桜空桜空と言い続けて奇行を演じ続ける姫を見ていると、どうにもやりきれなくなりそうな時がある。それを少しは判ってくれると嬉しいんだけどね」
「演じている……」
湟糺は普段、キツイ物言いをしない。だから、たまにこんなふうに言われると心にズンときた。
「でも、あたしだって桜空に会いたいんだもん。仕方ないじゃない」
「だから」
とうとう湟糺は装束の下から手を伸ばして目元に触れた。
「だから言っているんだ。大人にならないでくれって。桜空に、恋心を抱いて欲しくないから」
「え?」
恋心――。
「でも、それは無理なんだろうな。姫、泣かせてごめんよ」
言われて初めて涙が出ていることに気が付いた。会いたいと願っても、騎馬司は来てくれなかった。そのことが、泣くほど哀しいとまでは思ってもいないはずなのに。
「あたしこそ、泣くつもりなんてぜんぜんなかったのに」
慌てて涙を拭った。
「変ね。あたし」
「ちっとも変じゃない。もう姫の中には桜空への恋が芽生えているんだ。本当は、とっくに判っていたのに。それを止めたかった僕が、無理を言っただけなんだ」
哀しそうに自分を見つめる湟糺を、初めて見た。真っ直ぐ見ていられずに、沙穂は俯いた。
「ああ、本当にもう行かないと。また、帰宅日に家でね」
「うん」
すっと手が離れた湟糺が立ち去る姿を見つめた。なんとなく、少しだけ遠くなりそうな気がして寂しかった。
「湟糺。ホントにごめんね」
湟糺の姿が見えなくなると、巫女たちも皆いなくなった。今夜の出来事で、また湟糺のところへ通いたいと願う巫女が増えることだろう。それには精進して巫覡に気に入られるために学ぶことが必須。ますます授業に熱が籠もるに違いない。
沙穂は部屋へは戻らずに潔斎所へと自ら向かった。禊ぎは終わっていなかった。その前にまた抜け出してしまったから。
「未遠は、騎馬司を見たかな。桜空かどうか、判ったのかな」
捕まらなかったという未遠のことを考えた。本当にあの場にいなかったのなら、かなり身軽で運動能力もあるということ。でも、どこからか騎馬隊のことは見たはず。絶対に振り返るくらいはするはずだもの。もしかして、騎馬司が桜空だと気付いてしまったかも。そうしたら復讐にくる。何をするのか想像もつかないけど、例え桜空だと判ってしまっても、騎馬司には敵わない。なにしろ騎馬隊の長なのだから。でも、隙をみて攻撃をしかけたら?
そんなときでも騎馬司は怪我をしないでいられるんだろうか。
「やっぱり、心配だよぉ。未遠だって女の子だけど、もしかしたら剣術とかの達人かもしれないし。結界外の子だもん。何をするか判らないし」
沙穂の警告を受けて騎馬隊は未遠を探しているだろう。未遠みたいな子が捕まったら、どこに連れて行かれるのか見当もつかない。幼い頃から巫女になるためだけに生きてきた沙穂にとっては、神宮内が世界のすべてだった。それで充分なのだから。そう思っていた。昨日までは。
「森の中!」
気がついた。騎馬隊は森の中を警戒して回っているにちがいない。だったら森の中にいればいい。きっと会える。
沙穂は走り出した。暗ければ怖くない。夜明けだけに気を付ければいい。でも、陽の時間帯にも騎馬隊は現れなかった。危険が及ばないと姿を見せないとしたら、ただ森の中にいるだけでは騎馬司には会えないかもしれない。
「これまでだって数えきれないほど森の中にはいたことがある。でも会ったのは昨日が初めてだったんだもの。同じことをしていても会うことはできないんだわ」
どうしたらいいのだろう。しばらく考えてから、暗い中で顔を上げた。
「そうだ。未遠はここへ入って来て騎馬隊に追われたのよね。だったら、あたしがここから出ようとすれば、騎馬隊は絶対に気がつくはずよ」
すごくいいことを思いついた気がしてウキウキした。東へ向かって進もう。陽も月も東から昇る。戻るとき東を背にするようにすれば、もしほんの少し夜が明けてしまっても、直接陽を見てしまうことは避けられるかもしれないから。
そう決めると目的の方向へ足を運んだ。森の中から結界へは、僅かな下りの傾斜が続くから、ラクだった。途中、馬が踏みならしたあとのような小道を見つけ、そこを進んだ。きっと騎馬隊のつけた跡に違いない。
「毎日ここを通って警戒しているのかな」
そうだとしたらほぼ確実に騎馬隊と出会える。だが、小道は途中で終わっていた。突然に。もしかしたら、この地点で折り返すのかもしれなかった。
「結界は、この近く――?」
森はまだまだ続くように見える。未遠の言っていた、山の終わりとやらの気配は見て取れない。あと少しだけ進んでみよう。
十歩ほど行ったところで変化が感じられた。全身に、ぴりりと痺れるような感覚が走る箇所が、ある。
「ここに、結界が張られている」
幾重にも張られているという結界。その一つを今超えてしまった。そう思うと少し緊張した。なのに、越えたからとって特に何の変化もない。
あまりにも簡単に出られたらしいことに、驚きを覚えた。後ろを振り返ってみても、騎馬隊が追ってくる気配はなさそうで、少しがっかりもした。
「何か拍子抜けしちゃう」
このまま進んだら、どうなるのだろう。興味が湧いてきて、行ってみることにした。
「うわぁ……」
木々を抜け、少しだけ登りになっているところを行くと、突然に足下の地面が切れた場所へ出た。その場所から遠くが臨める。深く暗い森の遥か先に、キラキラと輝く星の湖が見えた。結界の外を知らない沙穂には、街の灯りが、空に飛び出す前の星たちが休む場所に思えた。
「綺麗! 湟糺の衣装より、もっと輝いてる!」
近付くことができたら、きっと眩しくて目を開けていられないくらい輝いているに違いない。
「あそこに行ってみたいなぁ。桜空と」
でも、とても遠そうだ。夜が明ける前に戻ってくることができそうにないことくらい、沙穂にも予想できる。だからこそ、憧れの想いが募った。
「騎馬隊みたいに馬に乗れたら、ちゃんと戻って来られるかな」
馬は速いからできそうだ。きっと、できる。未遠は、あの場所を見知っているのだろうか。そうだとしたら、ちょっぴり羨ましい。おまけに桜空の顔も知っている。沙穂の知らないことを、たくさん知っている結界の外に住む女の子。無事でいるだろうか。
ぼんやりと星の湖を見ていると、背後に気配を感じた。
「やっと来た! 騎馬隊――」
誰の姿も見えなくて、目を凝らした。気配はある。それなのに姿がない。そんなこと、あるわけないのに。
急に不安が募った。胸がどきどきしている。どうしよう。騎馬隊も気付かないこんな場所で、姿の見えない何かに“見られている”。
神宮に戻らないと! とっさにそう思った。でも、戻る道に何かがいるのだ。背後は、足元の暗い崖。追い詰められるような場所にいたんだと、今になって気がついた。
「あたし、また莫迦なことしちゃってる」
泣きたくなった。でも誰も助けてくれる人はいない。
暗がりに光るものが二つ浮き上がった。危険を思わせる、赤い色。その数が、一気に増えた。絶対に戻ることはできない。
「月神さま。ごめんなさい! 無事に戻れたら、今度はちゃんと禊ぎします! おとなしく、巫女修行に励みます!」
沙穂は目を瞑った。そうすれば赤い光たちが消えてなくなるとでもいうように。
「だから助けて下さい!」
ざざっと気配がうごめいた。目を閉じたぶん、余計に気配の動きが感じ取れるようになっていた。沙穂の中に潜む巫女霊力が、かえって研ぎ澄まされるせいだった。
「やだ……」
目を開いて沙穂は呟いた。
「あたしを、食べるつもり、なの?」
相手は人間じゃない。人の霊力をむさぼって生き血を吸う、妖。たまにこうして、人の目の前に現れるとは聞いていた。でも、遭遇したのは初めてのこと。
「確か妖退散の術があったはずだけど。でも、えっと、どうやるんだっけ? やだ、やだよ~。思い出せないっ」
焦れば焦るほど混乱して、何も思い出せなかった。地を這うような低い音が耳に届いて、思わず数歩後ずさりした。深い闇の底が迫り、ごくりと唾を飲んだ。
「こ、こっちに来るな! 来たら、妖退散の術、使うんだからね!」
足下の草やら小石やらを掴み、手当たり次第に投げつけてやった。だが肉体を持たない妖たちには何の脅威でもない。すべては森の中へ無意味に吸い込まれていった。
それでも攻撃しているとは判るのだろう。赤い光が一層不気味に光を増した。それらが押し寄せるように近付いてくる。
「怒らないでよ。あたしは、あなたたちの敵じゃない。取って食おうとか、そんなふうには全然思ってないんだから。おとなしく引き下がってくれれば何もしない。術とかも使わないから。あたし、平和主義者なの。ね?」
攻撃は判るのに、言葉は理解しないようだった。沙穂に飛び掛かろうとする意が感じ取れて、固まった。どうしよう。このまま生き血を吸われるか、覚悟を決めて崖を飛び降りてみるか。選択肢は二つ。どっちかしか、ない。
「ちが~う!」
沙穂は思い切り叫んだ。もう一つあった。
「こんな時こそ騎馬隊の出番でしょ! ここで助けに来なかったら、お役目を果たしていないってことじゃない! 巫女の危機なんだから、誰か助けに来なさいよね!」
黒い塊に赤い光が目の前に迫った。もう手を伸ばせば、触れられてしまうほどに近い。
「騎馬司の、莫迦ぁっっ!」
叫びながら後ろ向きに、暗がりへと落ちていった。きっと痛い。絶対に痛い。地面にぶつかる前に、枝にぐさぐさと刺さって血だらけになる。それじゃあ妖に生き血を吸われるのと変わらないんじゃない?
「ああ、あたし、また間違った……」
飛び降りたことを、かなり深く後悔した。その懺悔は、いつまでも続いた。
「なんで、こんなに長く後悔できるの?」
崖は、思っていたより深いらしい。夜空がどんどん遠ざかっていく。その目に、漆黒の影が一つ、映った。その人影は沙穂を追うように近付いてきて、ついに目の前にまで辿り着いた。手が伸び、すごい力で引き寄せられた。
「衝撃が走ります。振り落とされないよう、しっかりと掴まって下さい」
この声。
「騎馬司!?」
「早く! 底へ辿りついてしまいます」
言われるがままに首へとしがみついた。何をしたのか、急に落下が止まった。瞬間、ものすごい衝撃が襲った。手が緩み、すべり落ちて騎馬司から身体が離れた。
「巫女どの」
悲鳴を上げた沙穂の腕を、かろうじて騎馬司が掴んだ。騎馬司は左手一本だけで綱を掴み、自分と沙穂の二人を支えてぶらさがっている。
「騎馬司! お願いだから、離さないで!」
「もちろんです。絶対に離しません」
まだ見えない崖の底に吸い込まれそうで、沙穂は掴んでいる騎馬司の手を握ろうと必死にもう片方の手を伸ばした。その手に力が入らなくて滑る。焦るほどに力が急速に抜けてしまう。見えない底に吸い込まれてしまう!
「落ちついて下さい。下を見ないで」
「でも、あたし、もう力が入らない……」
「貴女になくても私にはあります。いいですか。今から引き上げます。一度だけ、頑張って下さい。タイミングの計り方は、貴女が私の意を感じ取って下さい。いいですね」
「判ったわ」
沙穂を掴む腕に力が籠もった。一気に騎馬司の顔が近付くまでに引き上げられる。一瞬だけ腕が離れ、騎馬司の意が届いて沙穂は再び首に手を回してしがみついた。しっかりと腰に手が回されると固定されたような安定感がある。それでもまた落ちてしまうのではないかと思うと怖くて、出来る限りの力を込めてしがみついていた。
「いいぞ。引き上げろ」
低く命ずるように呟くと、二人の身体が引っ張り上げられていく。恐らく耳聡い隊員がいるのだ。よほど訓練され統率されているのか、ひとときも止まることなくスルスルと上がっていた。
「騎馬司」
「はい」
沙穂はぎゅっと握っている拳に、さらに力を込めた。
「来るのが遅いのよ! あと少しで死んじゃうところだったじゃない!」
「申し訳ありません」
謝りながらも身体が笑っている。
「何が可笑しいの?」
「いえ」
「怖かったんだから! もうちょっとで、妖に食べられちゃうと思って、地面に激突したら痛いと思って、怖かったんだからね……」
もう大丈夫と思ったら気が緩んで、わんわん声を上げて泣いていた。騎馬司はそれ以上笑うことなく何も言わずに、ただしっかりと抱き締めてくれていた。
「莫迦ぁ……」
「それはもう聞きました」
「罰として、名前教えて」
「私の名を?」
「やっぱりいい。訊かなくても判る。桜空でしょ。騎馬司、桜空なんでしょ。なんで、あたしのこと迎えに来ないの? あの約束忘れたの?
大きくなったら結婚しようって、約束したのに。あたしのこと、嫌いになったの? それとも他に好きな人ができた?」
「私はすでに結婚しています」
「うそっ。なんで?」
僅かに顔を上げて騎馬司を見た。ショックで胸がどきどきした。
「理由は簡単です。愛する者ができ、そして私は桜空という者ではないからです」
「うそよ! だって、だって桜空とこんなに声も笑い方も似ているのに」
「他人の空似でしょう」
「そんな……」
少しの間、騎馬司を見てから、再び肩に顔をもたせかけた。そして目を閉じた。
「騎馬司。あなたは嘘をついているわ」
「え――」
「あたしには判る。こうして触れているから、余計にあなたの意が伝わるの」
微かに溜息らしきものが首筋にかかった。それが心地良く感じられて、さらに腕に力を込めた。
「そこまでお判りになるなら、なぜ私が嘘を申し上げているのかの意も、お判りになるはずです」
「それは……判らない」
「そのようなはずはありません」
「本当だもの。迷っているというか悩んでいるというか、それは判るわ。でも、なぜなのかまでは、判らない。他の巫女なら判るのかな。あたしが未熟だからかも。だから教えて。なんで嘘を言わなければならないの?」
「そうですね。貴女がもうすこし大人になれば理解できることかもしれません」
「兄にもよく言われる。あたしは子どもだって。あたしの兄が誰なのかも知っている?」
「ええ」
「兄は――湟糺は、あたしが聖巫女になるのを待ち望んでいる。あたしが大人になったら、湟糺は巫覡として聖巫女のあたしを召喚すると宣言しているの。巫女のあたしは、巫覡の湟糺を拒否できない。だから、その前に桜空に逢いたかった」
「逢って、どうしたかったのです? 巫覡に巫女が抱かれるのは定め。この一族に身を置く限りは、避けられない宿命ではありませんか」
この一族に身を置く限り……。では一族から抜け出れば、それは宿命ではなくなるということ。
「騎馬司って、怖いこと言うのね」
「何のことです?」
「まるで、あたしに一族から逃げ出せって言ってるみたい」
「まさか」
「そうして」
自然と、そう口にしていた。
「はい?」
「あたしを、ここから連れ出して。このまま、結界の外へ連れて逃げてよ」
「それはできません」
「どうして? あたしが湟糺に抱かれてもいいの? それを黙って受け入れるの?」
「申し上げたはずです。貴女は巫女。そして私は桜空という者ではないと」
「それも嘘よ。騎馬司は桜空だわ」
「違います」
「そうじゃなければ、桜空を知っているのね。知らないと嘘をついてるんだわ」
「……」
「どうなの?」
巫女に触れている限り嘘はつけないと観念したのか、しばらくの沈黙ののち、ようやく騎馬司が口を開いた。
「確かに知っています。桜空は――」
「桜空は、なに? 言って。騎馬司!」
「桜空は、私の弟です」
「おとうと?」
桜空に兄がいた、という記憶がない。思い出せないだけ? それともまさか別の桜空?
でもそれなら似ている理由がない。やはり自分が桜空であることを隠して、兄などと偽っている――?
「じゃあ桜空は今どこにいるの?」
「今は行方が知れません。確かに弟は、貴女のことが大好きでした。ですが、貴女には巫女としての務めがあります。幼い弟にはそれが理解できていなかった。貴女にも。だから、うかつにも結婚の約束をしてしまったのです。お許しを」
「お許しをって、何を許せばいいの? 許せるわけないじゃない。約束したんだから、ちゃんとあたしと結婚してくれなきゃ。あたしだって、ずっと桜空のこと……」
「沙穂巫女」
低い声で、なぜか脅すような口調でいった。
「桜空のことはお忘れ下さい。彼はもう、この一族にはおりません」
「いやだ。忘れたくない。忘れられるわけない!」
「彼は死んだのです」
「嘘っ。騎馬司、また嘘ついてる! 桜空は死なない。死んだりしない!」
「彼に逢いたければ黄泉の国へ行くしかありません。穢れに満ちた、黄泉の国へ」
「それなら行くわ。黄泉の国へ」
「巫女どの!」
「黄泉の国へ行って確かめてくる! 本当に桜空が死んだのかどうか、この目で確かめてくるわ!」
「おやめ下さい! 暴れないで!」
「放してよ! このまま落ちれば、黄泉の国へ行ける! 桜空に逢えるんなら、あたしは喜んで地の底へ叩きつけられるわ!」
「莫迦なことを!」
「莫迦じゃない。ずっと想ってたのよ。桜空のこと! それなのに、いきなり死んだなんて言われても、信じられるわけないじゃない!」
暴れる身体が騎馬司の腕をすり抜けた。ふわっと浮くような感じがして、次の瞬間には再び腕を掴まれた。
「放して!」
「放せません!」
クソっと騎馬司が呻き、顔を歪めた。
「騎馬司どの!」
上から覗き込む隊員の声がした。すでに、かなり上まで戻って来ていたのだ。
「援護を寄こせ! これ以上は腕がもたない!」
「了解っ」
傍にもう一本、紐が落とされた。それを伝って一人の隊員が援護に降りて来た。
「巫女どのを保護しろ。死ぬ気で暴れている。気を付けろ」
「はっ」
沙穂は自分を掴もうとする隊員の手を必死で払いのけた。大きく身体が揺れると、騎馬司が罵り声を上げた。
「痛いんでしょ。騎馬司。あたしを放せばラクになるわ。空いたもう一方の腕で、自分を救える」
「侮るな」
騎馬司は大きく肩で息をつきながら、沙穂を見下ろした。礼装の奥から睨んでいるのが判る。
「この程度のことで、みすみす貴女を死なせられるわけがあるまい!」
突然両脚で沙穂の身体を挟むと、がっちり固定した。
「やだ! なにするの!」
思い切り叩いても引いても、びくともしない。騎馬司は沙穂を掴んでいた腕が自由になると綱を掴み、両腕を使って昇り始めた。
「ぼやぼやするな! 引き上げろ!」
騎馬司が怒鳴ると、速度が上がった。隣りに付き添う隊員も、万が一に備え沙穂の下で警戒しながら上がっている。もうダメだ。騎馬司の捕縛から逃れられても、今度は体力があり余っている隊員に掴まれてしまう。
残りはあっという間だった。隊員たちに引きずられるように地面に上がった騎馬司は、隊員たちに取り囲まれ、沙穂が絶対に飛び降りることができない状況になってから、ようやく解放した。
「なぜ、こんな無茶なことをするんだ!」
騎馬司が目の前の地面を力いっぱい叩いた。その勢いに、思わず沙穂は身を縮ませた。
「だって、桜空が死んだなんて言うから」
「だからって貴女まで死ぬことはないだろう! 貴女が死んで、桜空が喜ぶとでも思ったのか! 黄泉の国で相見えて、桜空が涙を流して喜ぶとでも!?」
「そんなの判らないじゃない。あなたには判るの? 桜空が絶対に喜ばないって」
「ああ、判る。桜空は絶対に喜ばない。あいつは、人の死を何より忌み嫌っているからな! そんなところで逢ったとて、嫌われるのがオチだ」
「ひどい。桜空は、そんなに冷たくない!」
「それは冷たいとは言わないんだ」
「じゃあ、なに?」
「判らないのか?」
「判らない!」
ふんっと騎馬司が鼻をならした。
「巫覡どのは確かに見抜いているらしい。貴女はまだ子どもだ。逢いに行くなら、もっと大人になってからにするんだな」
そういうと乱暴に沙穂を立ち上がらせた。
「痛いっ」
「生きているから痛いんだ。死ねば痛みもないぞ」
誰かから、こんなにも感情をむき出しにされたことなど一度もない。怖いはずなのに新鮮で、胸がドキドキした。
「答え、教えて」
強引に馬上へ引き上げられてから、沙穂は騎馬司を見上げた。
触れていると、本気で腹を立てているのが感じられる。誰かを目の前で死なせたくないという想いは本心で、優しい心根からの願いだった。
「答え?」
「そう。さっきの答え。桜空があたしを拒否するのは、冷たいんじゃなくて、何なのか。教えて」
「そんなもの、教えて貰うものじゃない。自分で見つけろ」
突き放すように言うと、騎馬司は隊員を見渡した。
「全員、持ち場に戻れ。警戒を怠るな」
「はっ」
予告もなしに、馬が走り出した。振り落とされそうになった沙穂を支えて、騎馬司が歯を食いしばった。その腕が、見たこともないほど大きく腫れ上がっている。二人分の体重を腕一本で支え続けた代償を目の当たりにして、沙穂は息が止まるほどに驚いた。
「腕、痛い?」
「いや」
怒りを抑えようと努力しているのか、だいぶ落ち着いてきたのか、さっきよりは穏やかな口調で返答があった。
「大丈夫だ」
巫女なのに他人に怪我を負わせてしまった。そんなつもりは、まったくなかったのに。
「あたしのせいで、ごめんなさい」
「桜空のことを大事に想うのなら、それと同じくらい貴女自身を大切にするんだ。命を粗末にするんじゃない」
やっぱり桜空は死んだのだ。だからこそ騎馬司の中には、誰も死なせたくないという思いが強いのかもしれない。
「判りました……」
もう、逢えない――。哀しみがこみ上げて、胸が痛くて、沙穂は深く俯いた。
「悪かった。怒鳴ったりして」
「いいの。あたしが、あんなことしたから。怒られて当たり前だもの」
「桜空のことも、あんな伝え方しかできずに申し訳ない」
首を横に振ってから、騎馬司の腫れた腕に手を触れた。
「巫女どの――?」
怪訝そうな騎馬司の声に、沙穂は少しだけ顔を上げて微笑んでみせた。
「あたしだって巫女の端くれだもの。信じられないかもしれないけど」
目を閉じて霊力を探り当てた。巫女の中には鈴がある。それを鳴らすことで、霊力を発揮する。鈴が奏でられると、騎馬司が息を飲むのが感じられた。
「痛み、消えた?」
「ああ」
「よかった」
騎馬司が腕を持ち上げ、手を開いたり閉じたりして確かめた。
「本当に痛みがない。驚いたな。貴女が本物の巫女だったとは」
「失礼ね。でも、こんな奇行の巫女なんて、桜空が生きていたとしても、呆れて近寄ってこなかったよね。きっと」
また涙が溢れそうになって、ぐすんと鼻をすすり上げた。すると驚いたことに、騎馬司が少しだけ自分の胸に沙穂の頭を抱き寄せて、泣かせてくれた。涙が、騎馬司の胸に滲んだ。
神宮が近付いてきたところで馬を止め、騎馬司が言った。
「あと十歩も進めば森を抜ける。一人で行けるな?」
こくりと沙穂は頷いた。これ以上、奇行の汚名を着せられないようにという心配りだと、すぐに理解できた。
「ありがとう。気を遣ってくれて」
「腕を癒してくれたお礼だ」
涙で濡らしてしまったところを、じっと見つめた。
「あたし、あなたに会いたくて結界の際まで行ったの」
「なんだって?」
「そうすれば騎馬隊が来ると思って。こんな大ごとになるなんて思ってもみなくて」
「呆れた巫女どのだ。私に用があるのなら、騎馬隊の詰め所に来れば良かったものを」
「詰め所って?」
「騎馬の隊員が常駐している建物がある。そこには必ず誰かがいる。私が不在でも、言づけをすれば、私のところへ誰かが伝えてくれる」
「そうなの? 知らなかった」
やれやれ、といいながら騎馬司は軽く溜息をついて沙穂を降ろした。
「次からは、誰か使いを出すといい。間違っても自分で行こうなどと考えるなよ。奇行の巫女どの」
「はい」
素直に頷くと騎馬司が笑った。
初めて聞いた、騎馬司の笑い声。生きていれば、桜空も同じように笑うんだろうなと思うと、嬉しいのに哀しかった。礼装の下は、どんな顔なんだろう。きっと桜空が大人になったときと似ているに違いない。
見てみたかった。大人になった、桜空を。
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