その1
目の前に広がったのは、暗い暗い穴だった。
人間には作り出せない謎の異臭が、背を押されてかたむいた体を受け止める。
その穴を、私はよく知っていた。
今までで一度だけ、そこへ飛び込んだことがある。大変な思いをして、少し前に、ようやく戻ってきたところだった。
魔界へつながる穴は、めったなことでは自然発生しない。普通は誰かが特殊な魔法を使って開くのだ。
そして、その魔法を使えるのは魔族と、ほんの一握りの魔法使いだけ。
穴を開けたがる魔族はみんな倒した。もう力のないものと、人間に興味のないものしかいない。
だから、この穴を開けられるのは。
(どうして)
体をむりやりねじって、そう聞こうとした。手を伸ばした。
頬の筋肉がのびて表情もゆがんで、きっと間抜けな目をしていただろう。あの子は、それをどんな気持ちで見たんだろう。
地上の光が目を刺す。
あの子のいつもの黒いローブ。よく見ればかわいい刺繍が入っているのを、それが本当はいけないことなのを、仲間のなかで私だけが知っていた。
あの子の小さなやわらかい手。冒険のなかで生傷は絶えなかったけど、毎日きちんと手入れしているのを、私はいつも横で眺めていた。
あの子の栗色のくせっ毛。はにかみ屋なあの子によく似合っていて、髪の短い私は時々いじって遊ばせてもらった。
何もわからない。
光が邪魔して、何も見えない。
(どうして、マリス)
穴は一瞬で閉ざされる。
疑問を口に出せないまま、私は闇に飲まれた。
「それで、私の上に落ちてきたと」
ふかふかベッドの上で正座させられたまま、私は大きく首を振った。
「その通りです!たまたま!私もあなたも運が悪かった!だからもう足崩していいですか?!」
足が。足がしびれて。死ぬ。
「まだ駄目です」
無情に言い放った相手は、寝間着姿の人型の魔族。くそ、ちょっとイケメンだからって。
なんでこんなことになっているかは、まあ大体お察しのとおりである。
魔界への穴って、どこへつながるかは基本ランダムなのだ。
正確に言えば、目的の場所へ確実に開けるには、それなりに準備と魔力がいるらしい。魔法のことはわからないから、知らないけど。
なので、私もどこへ放り出されるかまったくわからなかった。落ちながら、いろいろ悪い想像をした。
深い森の中だったらどうしようとか、人間にいい感情を持ってない魔族の集まってる所だったら、とか。
なにしろ、街中をふらふらしてた時に落ちたものだから、丸腰の身一つである。防具どころか、完全にぺらぺらの普段着。ついでに言うと、さっきから頑張ってるんだけど、護身用の短刀を持っていたかどうかも思い出せない。
とっさに命の危険を考えるのは当然のことだと主張したい。
それがまさか、誰かの寝てるベッドの上なんて、落下中のほんの数秒で想像できるか!
…うん、すみません、悪かったとは思ってます。お腹直撃して変な声聞こえたし。でも不可抗力だから。にらまないでください。
思いっきりため息をつかれた。
「あなたは、まるで、状況を、わかって、ない」
そこまでしつこく言葉を区切らなくても。
いやでも、確かにこの状況はよくわからない。ここはどこで、あなたは誰だ。
室内だってことはわかるのだ。
ベッドはふかふか、脇によけられた毛布もふかふか。多分じゅうたんもふかふか。
壁紙もシャンデリアも上品で、全体のカラーリングは深い緑と金で統一されてる。木製の家具はつやつやの飴色。天井も高くて、物がきちんと片づけられてて、いかめしい本や酒瓶がさりげなく置かれてて、ある程度年齢や地位のある男性が反応しそうな雰囲気。
魔族にこの言葉がそのまま当てはまるかどうかは知らないけど、「いいとこのお屋敷」だってのいうのはひしひしと感じる。
でも、それが一番おかしい。
地上・魔界に限らず、城や公共施設は原則的に、外部からの魔法干渉を防ぐように何重にもプロテクトされている。貴族や富豪の屋敷も同じく。
だって、いきなり城の大広間とか、個人宅の一室に魔界につながる穴が開いたら困るし。というか、私が今まさに困ってる。
この部屋を見るかぎりでは、この建物は結構お金がかかってる。故郷の城にも、こんな贅沢な部屋はないんじゃないかってくらい。
こんな所、絶対プロテクトがかかってるのだ。それで、多分、だからこの魔族はこんな態度をとるのだ。
そう、それに、この魔族。
寝ている時も人型を取っているということは、確実に高位魔族だ。
こうして向かい合っているだけでも、その魔力の高さがプレッシャーとして伝わってくる。間違いなく貴族クラスの実力派。いきなり寝込みを襲った、しかも丸腰の人間の小娘なんか、本来なら指をついっと動かすだけで消滅させられるだろう。
なのに、なぜか頭を抱えている。
長髪の美形が寝間着姿で苦悩している様は、なかなか珍妙で見応えがあるけれど、それはさておき。
「あの、ここはどこでしょうか…」
訊きたくない。聞けば絶対後悔する。けれどこればかりは尋ねざるを得ない。あと、ほんと、もう足が限界。
魔族はあきれ返った目を向けてきた。
「まさか、本当にまるっきりわかっていないとは…。ここは魔王城ですよ。あなた、一度ここに来たことあるでしょう、勇者の相棒として。」
誰か嘘だと言ってくれ。