(1)
広大な大地を誇るエンゾルト国。
国内西部にある山々には珍しい鉱物が掘りつくせないほど眠っており、この国の重要な輸出商品となっている。
また、肥沃な大地は緑に溢れ、農作物が存分に収穫できた。大きな川や海に面している地域では、多種多様の魚介類によって収益を得ている。
おかげで国は富み、民たちは不安に胸を痛めることもなく、健やかに暮らしていた。
このような国は豊富な資源を狙う周辺諸国から戦を仕掛けられがちなのだが、温厚なエンゾルト国王は自国の富を独り占めすることはなく、多少の利益を乗せるだけに留めて、周辺諸国に輸出していた。
このエンゾルトの属国として存在しているのが、北にあるビアンク。国土はエンゾルトに次いで広く、国民数もそれなりに多い。
だが、大半の土地は痩せているために、国民の腹を十分に満たすほどの農作物は取れない。
国土の四分の一を占めている切り立つ山々は、獣たちが暮らすには厳しい環境となっており、一日駆け回ったところでまともに獲物を得ることができないことが多かった。
さらには大河も海もないビアンクでは、魚介類などが食卓に上ることは少ない。
それでも民は丈夫な体をもって生まれ来るので、魔獣狩りのために他国に乞われて出兵することが多かった。山賊から身を守るための傭兵として、商隊に雇われる民も多い。
武芸に秀でない者も、ごく一部ではあるが存在する。そんな彼らは総じて手先が器用で、高度な技術を用いて様々なものを作り出すのだ。ビアンク国産の宝飾品や工芸品は、それなりの高値で取り引きされているようである。
だが、それだけでは国庫や民の懐が潤うには不十分であった。
そこで、かつてのエンゾルト国王は、ビアンク国にとある提案を持ち掛けた。職人たちによる技術提供の見返りに、食料を分け与えようという話である。
その提案が平和的に締結され、二国は持ちつ持たれつの関係となり、良好な間柄を続けてきた。
友好関係は長きに亘って変わらなかったのだが、一人の魔術師の存在が歪みを生じさせることになる。
この魔術師は地図にさえ記されない秘境に住んでおり、ひっそりと魔術の研鑚に励んでいた。
しかし、長い寿命を送る中で己の魔力の高さに慢心し、いつしか狂気へと染まってしまったのだ。
人々が苦しむ様が見たい。嘆き悲しむ声が聞きたい。自分以外の者が絶望に染まる様は、どれほど心躍るものだろうか、と。
魔力を使って人々の命を屠るのは簡単だが、それでは面白くない。
心の奥底では人殺しなどしたくないと思っている者が、魔力に操られて他者の命を奪う時に見せる魂の歪みこそ、実に興味深い見世物だ。
生ある者があげる悲鳴、呻き。操られる者の魂が見せる絶望、嘆き。どちらも甘美な蜜である。
そして、自分にはそれを成すだけの魔力があるとなれば、なにを迷うことがあるだろうか。
悪しき心に染まった魔術師はビアンク国内にある不踏の森にねぐらを移し、夜な夜な、王族、民たちへと夢を介して囁きかける。
もっと、国土を広げたくはないか?
もっと、富を手に入れたくはないか?
もっと、その力を周囲に知らしめたくはないか?
もっと、もっと、欲のままに生きてみたくはないか?
力を貸してやろう。
それゆえ、この世を鮮やかな血で染めておくれ。断末魔を響かせておくれ。
なれば、我はいくらでも力を貸してやろうぞ。
繰り返し囁かれる魔力を含んだ甘言に、誰もが抗えない。
数日も経たないうちにビアンク国中の誰もが欲に目を曇らせ、やがて戦が始まった。
あまりに不自然な開戦に、エンゾルド国側は訝しんだ。
戦を仕掛けた割に、強引に攻め込んでこないのはなぜか?
わざと戦を長引かせようとしているのは、どういった魂胆なのか?
エンゾルド軍は密偵を放ち、秘密裏に事情を探らせた。
すると、一人の魔術師の存在に気づく。この者が裏でビアンク国を操っているのだ。黒く染まった独りよがりな狂欲を満たすために。
事情を察したエンゾルド国の王は、戦線に三柱を差し向けた。
三柱とは、国軍を率いる総隊長のガイザール・シルヴォルフ、副隊長のソニア・クレメディス、参謀長官のトニアス・アーガインのことである。
この世界は、神が創生時に遣わしたとされる聖獣たちが存在する。
拠点となる国に降りた聖獣たちは様々で、エンゾルドには金と銀の毛並みを持つ聖狼が遣わされたとされている。
姿かたちは目に見えなくとも聖獣たちは常に国を見守り、時として、その力の一部を加護として与えることもあった。
二百年ぶりに聖なる狼の加護を受けて誕生したのが、ガイザールである。
彼は生まれ持った資質と努力と加護により、二十三という若さでエンゾルト国軍の総隊長を拝命した。
二メートルに届きそうな長身、全身を覆う引き締まった筋肉は、まさしく軍人の長に相応しい。
ズシリと重い大剣を軽々と振り回すおかげで荒くれ者の印象を与えがちだが、由緒正しき家の出であるため、戦闘時以外は、さほど粗野ではない。
凛々しい眉の下にある紫紺の瞳が放つ光は優しく、また、整った顔立ちであることも彼の印象を和らげる役目を買っていた。
そんな彼の左に立つことを許されているのが、自国の民からは戦女神と崇められ、他国からは死与の魔女とも呼ばれる女性、ガイザールと同い年のソニアである。彼女は弓を得意とし、矢に魔力を乗せ、暴れ狂う魔獣や反逆者たちに向けて放つのだ。
その二人より一歩引いたところで付き従うのは、軍の頭脳である男性、トニアス。彼はガイザールとソニアより五つほど年長で、常に穏やかな微笑みを湛えている。ちなみに、彼はあらゆる魔術に熟達していた。
この三人の手にかかれば、どのような戦も勝利を掴み取るとさえ言われているのである。
国王より事情を知らされ、三柱に率いられたエンゾルト軍は、一気に相手国に攻め込んだ。
敵はビアンク国ではなく、悪しき魔術師。可能な限り直接戦を避け、兵士やビアンク国民を傷つけずに軍を進めてゆく。
やがて、うっそりとした森の奥で、とうとう魔術師を追いつめた。
「観念するんだな」
聖なる光を放つ大剣の先を魔術師の喉元に突き付け、ガイザールが低い声を出す。
たった一人の魔術師のせいで、罪のない人が多く傷つき、血を流してきたのだ。根が優しい彼にとって、例え隣国の民の命であっても、自国の民の命の重さと差異なく感じていた。
そのため、己の意志に反して踊らされたビアンク国民を思うと、自然と怒りがこみ上げてしまうのはしかたがないことだった。
そんな鬼神に等しいガイザールを前にしても魔術師の態度は変わらず、口元を歪めて薄気味悪く笑うばかり。
「ひーひっひっひ……。さすがに、この状況をひっくり返すのは、この私とて無理そうじゃて……」
口調が見た目にそぐわないせいで、よけいに気味が悪い。
頭にかぶったローブから覗く顔は、二十代の青年のようだ。サラリと流れる白銀の長髪、染み一つない白磁の肌、深紅の宝玉を思わせる瞳、どれもが人間離れした美しさ。
しかし、魔術師の外見に騙されてはいけない。こう見えても、おそらく彼の歳は三百を優に超えているだろう。
ソニアの放った銀矢が魔術師のローブを地に縫い付け、さらにはトニアスが拘束の術を施している。
そこにガイザールが剣先を突きつけてくるのだから、確かに、魔術師は観念するしかなかった。
「お前がいたずらに引き起こしたこの戦、その命で贖え!」
聖なる大剣が、自身の放つ光によって煌めく。
その瞬間、魔術師の瞳が不気味に揺らめいた。
「ひっひっひっ、私は寂しがりでのう。……じゃから、お前を道ずれにしてやろうぞっ!」
カッと大きく開かれた魔術師の口から漆黒の塊が飛び出し、前に立つガイザールへと一直線に向う。
これには誰も反応できず、ガイザールの全身に黒い波動が貼りついた。紫紺の瞳が闇に覆われ、徐々にどす黒くなってゆく。
それでも聖狼の加護をその身に受けているおかげで、意識が乗っ取ら得る前に剣を振り下ろし、魔術師の首を刎ねた。
いくら三百年の時を過ごした魔術師といえど、胴体から首が離れてしまえば生きていられない。ゴロリと転がった首の横に、ローブに包まれた体がトサリと地に着いた。
同時に、ガイザールが頽れる。とっさに剣を突きたてたおかげで倒れ込みはしなかったが、ガクリと片膝を着いてしまう。
このような姿は、彼が軍人となって以来、見せたことはなかった。
「ガイザール様!」
ソニアとトニアスが駆け寄る。
その二人に向けて、ガイザールは声を振り絞る。
「お、俺に触るな……。この呪いは、まだ生きている……」
常に冷静な表情を失わないソニアが、それを聞いて蒼白となった。
「そんな馬鹿な! 術者が死ねば、呪いは解けるはずなのに!」
日頃より穏やかな笑みを失わないトニアスさえも、相当顔色が悪い。
「ですが、ガイザール様がおっしゃる通り、黒い波動は消えそうにありません。このままでは闇に飲み込まれてしまい、自我を失うやも……」
己の知識でも術でもどうにもならないと察した軍の頭脳は、苦々しく告げた。
「ガイザール様! ガイザール様!!」
手を伸ばすことすらできず、ソニアは彼の名を呼ぶしかできない。
そんな二人に、ガイザールが僅かに口角を上げた。
「心配するな……。俺を、誰だと、思っている……?」
額に脂汗を流しながらも、ガイザールがニヤリと笑った。
「流石にこのままではどうにもならないが、聖狼様の力を借りれば、おそらく大丈夫だ……」
剣を握る手に力を込め、今なお黒い波動に襲われている姿でフラリと立ち上がる。
「で、では、さっそく転移陣を!」
トニアスはガイザールが加護の力を存分に発揮できる自国に送り届けるため、長い指をひらめかせる。
ところが、すぐさま制止の声がかかった。
「その力は……、戦で傷ついた兵士たちのために使ってやれ……」
大剣を杖にしてようやく立っているガイザールの言葉に、トニアスは首を大きく横に振る。
「なにをおっしゃいますか! 聖狼様の力を放つためには、ご自身の屋敷に戻らなくてはならないのですよ! ここからガイザール様の屋敷まで、どれほどの距離があると思っているのですか!?」
上官であり、長い付き合いのある幼馴染みの言葉に逆らって術の展開を続けようとするトニアスに、ガイザールは鋭い視線で制止を促す。
「なに……、少しだけ力を解放すれば……、ひとっ走りだ……」
ダラダラと脂汗を流すガイザールに、ソニアが叫んだ。
「その体では無理です!」
戦女神の目に、薄く涙が浮かぶ。
聖獣たちの加護は強大。だが、その反動は己の身に返ってくる。正常な状態であれば反動は制御可能だが、今のガイザールにはだいぶ分が悪い。
いつだって彼の傍に付き従う副隊長と参謀長官は、当然のことながらその事実を知っていた。
それでも、この国の英雄である隊長は自身の言葉を翻さない。
「狼狽えるな……。こんな時こそ、心を強く保て……。お前たちは……、ここに残って……、成すべきことを成せ……」
ハァと深く息を吐き出し、ガイザールは硬く目を閉じる。そして、今は失われし古語で心の奥底に眠るに聖狼に呼びかけると、彼の体の輪郭がブワリと揺らぎ始めた。
ガイザールの銀灰色の髪が緩やかに伸びて金色が混じり、紫紺から濃紺に変わりつつあった瞳が金色の光を帯び始める。
さらには二回りほど体が大きくなり、指先に鋭いかぎ爪が生えはじめた。
エンゾルト国の守護聖獣、聖狼様によく似た風貌に変わってゆく。
やがて人の容姿三割、狼の容姿七割といった具合に姿を変えた聖獣人が、ソニアとトニアスを見つめる。
「俺が抜けた後のことは……、二人に任せる……。悪いが、一足先に国に帰らしてもらうぞ……」
不敵に笑ったガイザールの姿は、次の瞬間、吹き抜けた風と共に消え去ったのだった。