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 胸の前で自身の腕をギュッと抱き寄せ、カタカタと小さく震え続けるサイシャ。

 そんな彼女に申し訳ないといった表情で、傍に寄り添うソニア。

 そして、言葉を失ったガイザールとトニアスの目は、華奢な背中にくっきりと刻まれた爪痕から逸らされることはなかった。

 大きく鋭い爪が、白い肌に幾筋もの痕を残している。

 サイシャが傷を負った日から一か月以上経っているというのに、生々しいほどに鮮やかな爪痕だった。

 この重苦しい空気を最初に破ったのは、参謀長官のトニアス。

「これは……、まさしく聖痕せいこん……」

 常に穏やかな笑顔を湛えている彼が、声を震わせ、信じられないと言った口調で告げる。

 聞いたことのない言葉に、サイシャは目の前にある重厚な扉を見ながら首を傾げた。

「せい、こん……ですか?」

 彼女の問いかけに、幾分落ち着いたトニアスが静かに説明を始める。

「はい。『聖なる痕』と書いて、聖痕と申します。聖獣様の加護を受けた者のみに授かると伝えられている、特殊な力の一つです。本能で選び出した相手に、自分の伴侶だという証を己の爪で刻むのですよ。周囲に知らしめるため、本来であれば見える部分に少しばかりの聖痕を残すとされています。ですが、あの時のガイザール様は正常とは言いがたいものでしたから、そのように大きな痕を付けてしまわれたのでしょう」

 それまではどこかぼんやりとしていたサイシャだったが、『伴侶』という言葉を聞いて我に返った。

「で、でも、それって、要は傷ってことですよね? だけど、私、全然痛くないんですよ!? 動いたって、ぜんぜん平気なんです。だから、きっとこれはトニアス様がおっしゃるものじゃないです! だって、かさぶたどころか、なんにもないんです! この私に、聖痕なんてあるはずないんです!」

 口早にまくしたてたサイシャは左手で胸前の布地を押さえ、右手を背中に伸ばす。届く範囲に指を這わせるが、肉芽の盛り上がりを感じさせる僅かな引っ掛かりすらなかった。

「やっぱり、傷なんてないですよ!」

 必死に言い募る彼女に、トニアスはフッと苦笑を漏らす。

「サイシャ嬢、落ち着きなさい。痕といっても、傷として残るものではありません」

「……え?」

 慌ただしく背中を探っていた小さな手が、ピタリと動きを止めた。

 そのままのかっこうで固まっている少女に、トニアスは一歩ずつ近づいてくる。

「聖なる力によって信じがたい早さで治癒した後、染め抜いたように爪痕だけが残るのですよ」

 トニアスが、肉付きの薄い背中を見下ろして告げる。

「あなたの背中にあるものは、まぎれもなく聖痕です。ガイザール様の瞳と同じ紫紺色の爪痕が、なによりの証拠です」

 静かでありながらピシャリと放たれた声に、サイシャは真っ青になって声なき悲鳴を上げた。

 口元を覆う手が、ガクガクと震える。

 背中を見せて、自分には彼らが求める答えを持たないのだと示してしまえば、さっさと家に帰ることが出来ると考えたのに。

 これでは、ますます自分にとって不利な状況に自ら足を踏み入れてしまったたけではないか。

 サイシャは全身を震わせ、胸の辺りの布をきつく握り締める。

「そ、それで……、私はどうなるんですか? 家には帰してもらえますよね? お願いします、家に帰してください。今すぐに……」

 血色を失った唇で訴えるサイシャが、力なくその場にくずおれる。

 その時、これまで微動だにしなかったガイザールが目にもとまらぬ速さでサイシャに駆け寄り、彼女が床に膝を着く前に正面から強く抱き締めた。

 肩胛骨が薄く浮いた背中に逞しい腕が回り、小柄なサイシャはすっぽりと包まれる。

 この状況に驚いたサイシャは、それでも必死に腕の中から抜け出そうとした。

 ところが、なおいっそう強い力で広く逞しい胸に抱き込まれてしまう。

 自分よりも頭二つ以上背の低い少女のことをギュッと隙間なく抱き寄せたガイザールが、しみじみと感慨深く吐息を漏らした。

「……ああ、そうだ。あの晩、俺は確かに君を抱き締めた」

 感情が顔や態度に出やすいガイザールではあるが、感動に打ち震えるなど、これまでに一度もなかった。

 そんな彼が、ようやく出会えた少女を胸に抱き、声を震わせている。

「こんなにも細く小さな体なのに、どこまでも俺を包み込む優しさがあって、俺の体に蔓延はびこる呪いを解いてくれたんだな」

 サイシャはいっそう顔色を失わせ、懸命に首を振った。

「違います! それは私ではありません! この背中にある物も、なにかの間違いです!」

 自分がガイザールの伴侶であるなど、到底ありえることではないのと、サイシャは必死に訴える。

 もし、それを認めてしまえば、彼の呪いを解いた自分が白の一族だと認めてしまう事でもあるからだ。

 否定を続けるサイシャの髪に、ガイザールはソッと頬を寄せた。

「いや、違わない」

 きっぱりとした口調にサイシャはピクリと肩を震わせ、逃れようとしていた動きを止める。

 背中の傷があの月夜の晩に付けられたものだということは、もう、言い逃れができないようだ。

 だからといって、平民の生まれで、能力を隠しながら生きている自分が、ガイザールの伴侶であることは受け入れることができない。

 誰が見てもお似合いのガイザールとソニアなのだ。その間に、割って入るつもりはさらさらなかった。

 ガクリと力を抜きながらも、サイシャは聖痕を持つ者がガイザールの伴侶であるという事実を覆そうと言葉を重ねる。

「私が呪いをかけられていたガイザール様に会ったことがあるとしても、その時のガイザール様が正気であったと言えるのですか? 朦朧とした意識の中で残した聖痕は、間違えてつけてしまったのかもしれないじゃないですか?」

 お願いだから、間違いだと言ってほしい。

 長年、彼の傍にいた婚約者を退けてまでも、伴侶になりたくない。

 不器用だけど優しいソニアのことを、サイシャは傷つけたくなかったのだ。

「背中を見るまで、私のことが分からなかったではありませんか! つまり、あの時のことを、ガイザール様はほとんど覚えていないということでしょう!? でしたら、意識して伴侶の証として聖痕を残したとは言えないではありませんか! だから、間違いなんです!」

 感情が高ぶり、深緑色の瞳が涙でけぶる。

 ガイザールはサイシャの背中に回していた腕から少しだけ力を抜き、嗚咽を漏らす少女の顔を静かに覗きこんだ。

 ポロポロと大粒の涙を零すサイシャに、優しく微笑みかける。

「それこそ、ありえない。加護を受けた者の本能は絶対だ。呪いに冒された中で君に証を刻んだとしたのなら、正しく、本能が君を選んだということになる。俺の目や耳や五感ではなく、魂が、君を認めたんだよ。間違いなど、ありえないんだ」

 大きな声を上げることなく静かに泣き続けるサイシャを、ガイザールは愛しさを込め、改めて己の腕で包み込む。

「ようやく会えた……。ずっと、ずっと会いたかった……」

「で、でも、私は、ただの町娘で……。なにもできない人間です……」

 ガイザールの軍服の肩口に顔を埋めながら、サイシャはこの期に及んでたどたどしい口調で言い訳をする。

 そこに、トニアスが口を挟んできた。

「サイシャ嬢。我ら三柱を前にして、そのような言い逃れはできませんよ」

 ハッと息を呑んだサイシャは、なにかを堪えるように下唇をキュッと噛みしめる。

 そして、ややあってから、震える唇を開いた。

「い、言い逃れ、など……、そんな……」

 なんとか笑顔を浮かべようとしているサイシャの傍に、トニアスは片膝を着く。視線の高さを近づけると、フッと表情を緩めた。

「なにを心配なさっているのか、存じていますよ。……あなたは、白の一族なのでしょう? サイシャ・ブランノット・ホワイエ嬢」

 サイシャはトニアスを見つめたまま答えない。自分たち一族以外が知るはずのない真の名前を告げられても。

 だが、その沈黙こそが肯定の意となる。

 身じろぎ一つしないで息を詰めているサイシャ。

 そんなサイシャのつむじに小さな口付けを送ったガイザールが、トニアスをギリギリと睨み付けた。

「彼女を虐めるな」

 その言葉に苦笑するトニアス。

「失礼な、虐めてなどいませんよ。私はサイシャ嬢に安心していただきたいのです」

 ふたたびサイシャに視線を戻したトニアスは、凪いだ口調で告げる。

「大丈夫です、悲惨な歴史は二度と繰り返されません。ですから、どうか安心してください」

 穏やかな口調と表情に、サイシャは少しずつ落ち着きを取り戻す。

「あん、し、ん?」

 たどたどしく返された言葉に、トニアスは深く頷いた。





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