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WING

作者: 彼方
掲載日:2015/07/10

 僕は屋上の給水塔の壁に寄りかかりながら、ずっとイヤホンを耳に嵌めてロックを聴いていた。それはイーグルスの『ロング・ラン』というアルバムで、僕が何かに逃げ出した時、必ずといって掛けるミュージックだった。これを聴いていると、自分の流浪している荒んだ心を旋律がそっと癒してくれるような気がしたのだ。

 入学してからずっと授業も出ずにこうして屋上で過ごすことが多くなった。別に人間関係に悩んでいるとかそういうことではないのだけれど、学生生活が鬱々としていて嫌になってしまったのだ。

 ――まだ一か月しか経ってないのに、これじゃあ、卒業は無理かもな。

 そんなことを思いながらコーラを煽っていると、そこでふわりと風が吹きつけてきたような気がした。それは髪を浮き上がらせて額を撫でるような優しい感触で、心に染み渡る心地良い冷たさを含んでいた。

 僕はふと視界に誰かの小さな足が映った気がして、びっくりして顔を上げた。

「こんにちは、和人」

 ピンク色の帽子を被った、可愛らしい少女だった。真っ白な上着に、真っ白なスカートを穿いていて、ピンク色のスニーカーを履いていた。彼女は栗色の髪を風になびかせながらゆっくりと近づいてきて、屈託ない笑みを見せて歯を覗かせた。

「風は感じてる? 青い空は今でも変わらずに好き?」

 僕はぽかんと口を開けて彼女を見つめていたけれど、やがてコーラの空き缶を落として後ずさった。

「誰だよ、お前。なんで僕の名前を知ってるの?」

 僕がそうつぶやくと、彼女はきょとんとした顔をして首を傾げてみせた。

「だって、和人が私を呼んだんじゃない」

 ――僕が呼んだって? というか、一体どこからこの学校に入ったんだ?

「あのね、私は向こうの方から来たの。それより和人、教室に戻らなくていいの?」

 僕は彼女が近づいてきてそう涼しい顔で言うので、面喰っていたけれど、やがてむっとなって言った。

「なんでそんなこと知ってるんだよ。僕の問題なんだから、口挟むなよ」

「和人が呼んだんだから、私が何を挟もうが構わないでしょ?」

 他に何を挟むって言うんだよ。

「いいから、ほら、教室に戻って」

 彼女は無理矢理僕を立ち上がらせて、とんと背中を押した。

 その時、強い風が僕へと吹き付けてきて、僕を前へ一歩踏み出させた。

「嫌だよ、どうして教室なんかに」

「だって、いつまでも逃げてたって、同じだよ。さっさと観念して、目の前の問題に当たれば、道は拓けてくるよ」

「でも、そんな勇気、僕には……」

「私が勇気をあげるよ」

 彼女はそう言って、空へと手を翳した。するとその途端、小さな竜巻が僕を包み込んだ。そして、確かにその旋律が聞こえた。

 それはどこか懐かしいメロディで、心地良い哀愁をもたらしてくれた。僕が何百、何千回と聴いたメロディだった。

 ――ドゥーリン・ドルトン。

 僕は口を少しだけ開いて立ち尽くしていたけれど、ぐっと拳を握って前を向いた。

 そうだ、逃げていたって一緒だ。それだったら、前へと進んで問題にぶち当たって、白黒決めればいい。

 僕がそっと歩き出すと、彼女も一緒にその曲を囁くのが聞こえた。大好きなバンドのその曲を聴いているだけで、確かに僕は勇気をもらえたのだ。

 屋上の扉のわずかな隙間を足で蹴り開けて階段へと戻ると、ゆっくりと降りていく。

 そこでチャイムが響き、すぐに廊下から生徒達の賑やかな話し声が響いてくる。僕は一歩足を踏み出す度に心が揺れるのがわかったけれど、それでもその揺れは彼女の元気な声が心に残っていて、彼女の声にわずかに動かされているのかもしれなかった。

 気づけば、僕は自分のクラスの前へと来ていた。ゆっくりと扉を開く。

 するとそこで、一斉にクラスメイトの視線がこちらに向かってくるのを感じた。

 いや、そんなような気がしただけだ。数人が振り向いただけで、誰も気に留めず話を続けている。僕はゆっくりと自分の席へとつくと、机に突っ伏した。

 戻ってきたはいいものの、いつものことだ、誰とも話さないし、音楽を聴くだけだ。

 そうしていつものようにイヤホンを耳に嵌め直そうとしたけれど、そこで突然目の前にあの少女の顔がぬっと現れた。

 くりくりとした青い瞳に見つめられて、僕は呆気に取られて硬直していたけれど、なんで、とつぶやく。

「あのね、誰かに話しかけてみればいいじゃない」

「無理だよ、誰に話しかけるって言うんだよ」

「じゃあ、私が手伝ってあげる」

 彼女はにっと笑うと、突然その手を天井へと突き上げた。

 そして、その瞬間、窓からふわりと風が吹きつけ、僕の周りを突き抜けていった。

 僕は何が起こったのかわからず、ぽかんと教室を見渡していたけれど、そこで近くの席で駄弁っていた三人の女子生徒がこちらに振り向いた。

「何? どうしたの?」

 茶色に髪を染めた、少し非行に走っていそうな女子生徒が少し笑みを浮かべながら言った。

「えっと、その、風が吹いたなって思って」

 その三人はきょとんとした顔で硬直したけれど、すぐにぷっと噴き出し、笑いだした。

「そりゃ、風は吹くだろうさ、窓開いてるんだから」

 僕は引き攣った笑みを浮かべて、そうだよね、とわざとらしくうなずく。

「清水ってさ、よく授業ほったらかしてるみたいだけど、何してるの?」

「何って、ちょっと音楽聴いて時間を潰したりとか」

「音楽聴く為に授業すっぽかすって、それ大丈夫?」

「何聴いてるの?」

 僕は話の流れが面倒くさい方向に流れ始めたのを感じたけれど、仕方なく答えた。

「洋楽、とか」

 ふーん、CDたくさん持ってるの? え、じゃあ、今度私に貸してよ。うわ、新譜一杯持ってるじゃん、焼いてきてよ。

 僕は周囲の声に流されながら、いつの間にか教室の空気に馴染み始めていた。面倒くさいことが増えて疲れるのに、なんだかそれが暖かいような気がするのはどうしてだろう。

 まあ、とりあえず、少しずつ自分のできることをしよう。僕は窓へと視線を向けて風を感じながら、そう思った。


 *


 放課後、再び屋上を訪れると、そこにはいつものような静かな風の通り道が出来ていた。僕はその一番風が感じられる壁の前へと腰を下ろし、イヤホンを取り出した。

 少し朱を帯びた空がどこまでも頭上に広がっている。そこに薄く伸びている白い雲は僕の心に漂う気紛れな考えと同じように思えた。それはいつもふとした弾みに僕の心に舞い込み、ゆっくりと流れては消えていく。

 それは絶え間なく次々と去っていく。僕はこの屋上にいると、その落ち着いた心の流れを感じることがあった。

 ハードロックを掛けて肩を揺らせ始めた時、もしもし、と声が聞こえた。

 僕はふっと微笑み、視線を上げたけれど、少女が額の前で掌を傾けて振り、僕を覗き込んでいた。

「和人は本当に音楽が好きだね」

「好きだよ。でも、この屋上とセットじゃなくちゃ駄目だ」

 僕がそう言うと、彼女は腕を組んでうなずき始める。

「和人もようやく一歩前へと進めたね。私のおかげだね」

 彼女はそこまで語ると、突然すっと手を差し伸べてきて、僕の髪に触れた。そして、幼い子供にするようによしよしと撫でた。

「何やってるんだよ……」

「えらい子にはご褒美を。和人はきっとうまくいくよ」

 彼女は手を離し、にぱっと笑った。

「ねえ、君は一体誰なの? どうして僕の前に現れたの?」

「だから、和人が呼んだんじゃない」

 僕は彼女の栗色の髪をじっと見つめながら、僕が彼女を呼んだ過去のことを必死に思い出そうとしたけれど、どんなに記憶を辿っても覚えがなかった。

「だっていつも和人、この屋上で空を見上げて遠くにいる私に想いを運んでいたじゃない。僕の元に、いつか何かを変えてくれる兆しが訪れますようにって」

 僕は間近にある彼女の顔をじっと見つめて、小さくうなずいた。確かに僕は祈った。風に乗って、この想いがどこかに届くだろうか、どうか届いてほしい、と。

「だからね、私はあなたなの。いつも和人の側にいるからね」

「君は名前、何て言うの?」

 彼女は唇にそっと人差し指を当てて微笑み、内緒だよ、と言った。

「私の名前は――」

 彼女が確かにその言葉をつぶやいた時、ふわりと大きな風が吹いた。僕は額に手をかざして、髪を抑えつけながら目を開いたけれど、もうそこには誰もいなかった。

 でも、彼女がいた場所に一枚の葉っぱが落ちていて、それが浮き上がり、柵の向こうへと消えていったのが見えた。僕は立ち上がって柵へと駆け寄ると、ふっと微笑んだ。

 また会えたら、いいな。そう思いながら、僕は『ロング・ラン』を口ずさみ、遠いところにいる彼女へと向けて囁いた。

 Long Run。遠いところにいる、『ラン(Run)』へ。




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