高校デビュー、失敗しました。
進学校で高校デビューをねらうこうたくん。しかし、そこにはある程度予測できたような困難が待ち受けていたのでした。
部活帰りの夜道、めったに見ることができないようなきれいな月のもと、付き合って1ヶ月の彼女と公園でふたりきり。三人掛けくらいの小さなベンチに、ぴったりとくっついて座り、もたれかかられながら
「こうたくん…」
なんてささやかれたら、いやがうえにもロマンチックな展開を予期するだろう。いや、だれだってするはずだ。そう、たとえば、こう、カップルじゃなきゃできないような…
まちがっても、2秒後に彼女の口から発せられるようなことばなど、ぼくの頭では予測されるはずもなかった。
「こうたくんって、漱石とか読む?」
・・・・・
偏差値、進学率ともに県で1、2を争うような、つまり自分の身の丈に合わない高校に受かってしまってからはや2ヶ月。正直ぼくは同級生のことをみくびっていた。ぼくが受かるくらいだから、もしかすると恐れていたよりふつうの人達の集まりかもしれない、と。まあ、賢いからといったってしょせんは高校生なのだ、校則違反をするような、いわゆるお調子者のひとりやふたりはいるはずだろう、と。
ぼくはそういう奴と友達になって高校デビューをしたかった。高校デビューしてぼくを仲間外れにした中学の同級生の前に颯爽と現れ、いやあやっぱり高校はちがうなははは、くらいのことを言いたかった。向こうがグウの音も出ないほどに勝ち組になって見返してやるつもりだった。そしてなにより、人生初の彼女をつくりたかった。そのために会話術やコミュニケーションに関する知識はいやというほど集めてきたのだ。これでぼくの高校3年間は安泰だ。そう思っていた。
しかし、である。
やつらは高校生ではあっても、人間ではなかった。
校則違反者なんてひとりもいなかった。どころか、そもそも破るべき校則もなかった。学校一の不良が「耳ピアス(シンプルな一点付け)」であったが、ピアスですら校則違反にはならなかった。なんと生徒への信頼のあつい学校であることか。
そして、ぼくは密かに偏見を持っていた…勉強人間にスポーツができるはずがないと。中学生のとき、野球部で唯一2年生からレギュラーだったぼくにとって、これはやつらをだしぬくチャンスだ、しめしめ、てなもんであった。
ところがどっこい、やつらは「文武両道」の名のもとに、本当になんでもこなすのだ。いや、もちろんなかには運動の苦手な生徒もいた。しかしそんな人達ですら、持ち前のガリ勉魂をもってして次々とステージアップしていくのだ。もはやぼくは彼らをロボットか、さもなくばICチップを埋め込まれた改造人間だとしか思えなかった。こんなやつらについていけるわけがない。「デキる」度合いと友達保有率がほぼ比例するこの学校で、まばゆいばかりに輝くはずだったぼくの高校生活はちりとなって消え去ったのだ。このときぼくは初めて挫折というものを体感した。
しかし、ひとつだけうれしい誤算があった。彼女ができたのである。
高校に入って迷わず野球部に入部したぼくはそこにいた唯一の女子マネージャー、美咲に一瞬で恋をした。ぼくはなんとしても彼女と付き合いたかった。そしてぼくはあらゆる方法でアタックした。頭では同級生に勝てないことはわかっていたので、部活では一生懸命格好付け、高校入学前に必死で身につけた会話術をフル活用した。そのかいあってか、知り合って1ヶ月後の告白で、見事彼氏の座を勝ち取ったのである。
で、今。
それから1ヶ月して、ぼくらはいつもと同じように、部活帰りに高校の最寄駅まで一緒に歩いて帰っている途中だった。急に美咲が寄り道をしようといいだしたので、近くにあった公園のベンチに腰を降ろした次第である。
部活帰りの夜道、めったに見ることができないようなきれいな月のもと、付き合って1ヶ月の彼女と公園でふたりきり。三人掛けくらいの小さなベンチに、ぴったりとくっついて座り、もたれかかられながら
「こうたくん…」
なんてささやかれたら、いやがうえにもロマンチックな展開を予期するだろう。いや、だれだってするはずだ。そう、たとえば、こう、カップルじゃなきゃできないような…
まちがっても、2秒後に彼女の口から発せられるようなことばなど、ぼくの頭では予測されるはずもなかった。
「こうたくんって、漱石とか読む?」
「え、漱石?…いや、あんまり読まないかな。お、俺理系寄りだし」
うそである。ぼくに文系も理系もない。この学校ではぼくはどの教科もほぼ底辺なのだから。
「そっか…ハマるとおもしろいんだけどなあ…」
ごめん、美咲。まったくその感覚わかる気がしないし、漱石にハマるの意味がそもそもわからない。やっぱりこの子も高性能なメカニックだ。
「じゃあさ、“月がきれいですね”なんていってもわからないよね?」
「え、あ、そのままの意味じゃないんだ?」
もうわけがわからない。だれか正しい答えを教えて下さいいろんな意味で。
「あのね、昔漱石が英語教師をやってた頃の話なんだけどね、英語の教科書に“I love you”って載ってたんだよ。で、生徒のひとりが“我、汝を愛す”って訳したんだってそしたら漱石が『そんな訳は面白くない』っていって…いや、恥ずかしいからいいやっ」
いやもうそこまで言われたら月がきれいですねの謎は解けた。ようは夏目漱石がI love youを月がきれいですねと訳した、ということなんだろう。にしてもなんて可愛いんだ。いきなり漱石の話を振られてがっかりした数分前の自分を殴りたい。
「ご、ごめんね突然こんな話して…あんまりにもきれいな月だったから…こうたくん漱石好きじゃないのに…あ、もうこんな時間、わたし帰らなきゃばいば」
「待って美咲」
「え…?」
「…月がきれいですね」
「…うん。月が…月がきれいですね。…じゃあ、また明日ねこうたくん!」
小走りで駅へと消えていく美咲を見えなくなるまで目でおいかけ、美咲への想いがつよくなっていくのを感じながら、一方で自己陶酔にふけっていた
…いまの俺すげーいけめんだった。我ながらそう思う。そして、なんだか初めてこの高校の在学生に人間味を感じた。やっぱり、しょせんは人間であり、高校生なのだ。1割のがっかりと、9割の喜びをかかえて、電車に乗ることも忘れ、いつまでも月をながめていた。
かなり遅くに帰宅して母にどやされたことはまた別のお話、というやつである。