シュークリーム殺人事件
※1.推理小説ではありません
※2.ガールズラブ成分はメインではありません
「ねぇ、麻実」
「なに? 佳乃ちゃん」
「……殺人事件、起きないかなぁ」
「……はい?」
斜陽に積まれた本の影が伸びる、夕暮れ時のミステリー研究会の狭い部室。目の前で机に上半身をもたれ、ボロボロの『このミステリがすごい! 1988』を眺める佳乃ちゃんが言った。
容姿端麗とはこのこと。そう思ってしまうほど整った顔立ちに、燃えるような赤いポニーテイルがふわりと揺れる。
「麻実、好きな食べ物は?」
「えっ? …………」
言葉を詰まらせて、右手に持っていた大好物のシュークリームを見つめる。
「よし、じゃあ凶器はシュークリームで」
「えええええっ!? ちょ、ちょっと待ってよ佳乃ちゃん!」
「被害者は麻実。死因は不明。仏さんは破顔一笑べたべた生クリーム」
「大好物なら死化粧しても……い、いやだよ! いいわけあるかぁあっ!!」
危うく流されるところだった。シュークリームに溺れて死ぬのならそれも一興などと脳裏を過ぎった言葉は墓場まで持っていくことにする。
「じゃあ死因はショック死。仏さんはムンクの“叫び”ばりべたべたカレールー」
「それ、誰かに謀れてるよね? 私、完全に殺害されてるよね?」
許されない行為だ。シュークリームの中身がカレーだったら――ショック死するに決まってる。下手などっきりなんかより十分性質が悪い。死ぬ。
「現場はここ。地上三階にあるミステリ研の部室六畳半。出入り口は東側に内開きのドアが一つ。真ん中に並べられた長机が二つ。両サイドの壁側には本棚と入りきらずに積まれた推理小説の山。西日の入る唯一の窓には内側から鍵。ポットの隣にぬるいモカ」
「――それってつまり、事件現場はまるっきりこの場所ってこと?」
「そう」
気づけば佳乃ちゃんのペースに飲まれていた。緻密な情景描写に現場が浮かぶ。うわぁ、なんて凄惨な死体。
「麻実は真ん中の机より窓側。部屋の奥に仰向きでムンクの“叫び”。服装は乱れのないウチの制服。左手には読みかけの文庫本で右手には食べかけのシュークリームfeat.カレールー。発見時刻は今とおんなじPM.5:49」
彼女の口から流れるように紡がれてゆく言葉。そのどこに伏線があるのか、一言も逃せない。
突如始まった推理ゲーム。
大のミステリ好きの佳乃ちゃんが、ただの読書家で甘党な私へ問題を投げかける。
この突発的な空想は、私たちの間ではお約束の遊戯。
「目下の容疑者は三人。売店でたまにシュークリームを値引きしてくれるおばちゃん。失恋呪いで景気づけにシュークリームを自棄食いしに来た今日ハピバの三十路到達顧問百合島先生。明らかに腹に一物持ってる含み笑いの第一発見者副部長赤崎佳乃」
じ、自分で含み笑いって言っちゃってる……。
「ちなみにアリバイ。おばちゃんは売店を閉めて既に帰宅、証言者は身内のみ。百合島先生はここを散らかしていった後、シュークリームの残りをあたしたちにくれて立ち入り禁止の屋上にて孤独に黄昏。あたしは頭が良すぎて逆に補習。証人は冴えない英語教師の端山丹六二十七歳独身ついでに辛党」
む……アリバイがあるのは佳乃ちゃんだけ……。
「はい、状況整理はここまで。質疑応答はあたしの気まぐれに一任、承諾。それではどーぞ、安楽椅子に座った座った」
「……中々難易度高くない?」
「上の下ね」
難易度は今までの問題との相対ではなく、佳乃ちゃんの今の気分による絶対評価なので、私には全くもって無意味な指標だ。
左手の文庫本にしおりを挟んで、一旦机の上に置く。
私が口元を押さえて唸っていると、一通り喋り終わった佳乃ちゃんは満足そうに満面の笑みで素早く私の脇の箱からシュークリームを掻っ攫っていった。
「ああぁっ、それ最後のひとつ……」
「大丈夫だいじょーぶ、中身がカレールーじゃなかったら返してあげるから」
私が涙目で手を伸ばすと、毒見毒見、とからかうように笑って佳乃ちゃんは大きな口を開けた。
バクン。
「ふぁいふぉおふ、おくははいっへはひほ」
ウィンクを決めてどうやら安全を伝えているらしい。私はちょっとむくれて右手に残っていたシュークリームの残りを一口で押し込んだ。
私たちの事件はいつも現実に似通っている。
このシュークリームは顧問のゆりちゃんが持って来てくれたものに間違いなくて、それをバクバク食らいながらさっきまでここで喧嘩別れしたって大泣きしていたのも本当。佳乃ちゃんが居残りを命じられていたのを教室で私は聞いていて、頭は良いくせに前日に徹夜でトリックの練習をしていたせいで試験時間中遂には耐え切れなくなり爆睡して0点だったのも最終日の最後の科目で英語以外にはありえない。
だからこそ現実味のない、言ってしまえば悪ふざけみたいなことがいつだって死因になる。いくら私が甘党で、それに反比例する辛いもの嫌いだったとしても、不意打ちのカレーぐらいじゃ実際には死ねない。そこがこのゲームのお遊びっぽさを醸し出してくれている。
「あ、ちなみにカレーは福々亭提供の“インド人もおっかなびっくり激辛カレー”各種スパイス20倍ね」
前言撤回だ。これは一切の疑いの余地なく殺人事件である。
「……犯人はよっぽど私を恨んでいるということなのかなっ!?」
涙目で机をバーンしてしまった。嫌いなことほど想像してしまうもので、カレーの臭いが漂ってきたような錯覚を感じる。
「おおう、やる気もスパイス利いてきたかな? でも残念。いつも通りのくだらない偶然とすれ違いのコラボレーション。現実的な動機に関しては一切考慮しないで」
「で、でもどんな偶然とすれ違いでシュークリームにそんなほとんど猛毒みたいなものが混ざるっていうの?」
「それを推理するゲームでしょ。例えばだけど、あたしがターゲットの首に懸賞をかけたとか」
「それって、どんな?」
「んー、カフェ『Step』の裏メニュー“マウンテンパフェver.日本北アルプス”おごりでどうよ」
「そ、それって自殺もアリかなっ!?」
「10カラットオーバーのつぶら過ぎる瞳のところ悪いんだけど、死人にゃ口なしだぜ?」
「それでも、甘いものは別腹なんだよ」
きっとツッコミ待ちだった佳乃ちゃんは呆れて首をすくめた。でも私にとって甘いものはそれほどに譲れないものだから仕方がない。
実際に口にはしていないけれど、甘いものの恩恵か、少しずつ思考が鮮明になってきた。
動機に関しては考慮しない。
不可能なことは起こり得ない。それはこのゲームが“現実とは少しずれた”架空の事件であっても当然のルールだ。だとしたら問題は……。
「まず、時間について考えてみる」
「おっと、それはいい案だね」
うひひ、と変な笑い声と共に赤い尻尾が跳ねた。
手がかりは少ないように見えるけれど、実はそうでもない。例えば、
「シュークリームの箱に入っていた保冷材は全部で3つ。大きさを見ても、食べるまでに約1時間の予定だったはず」
今まで数多のスイーツを購入してきた私にはわかる。
「更に加えて、ゆりちゃんが来たのはもう30分近く前のこと。つまり、このシュークリームが購入されたのは約1時間半前の午後4時近く――売店でたまに値引きをしてくれるおばちゃんこと富貴恵さんのシフトは、3時までだよ」
シュークリーム常連の私にとっては、数学の公式よりも先に頭に入れておかなければならない情報だ。
したがって。
「売店のおばちゃんは犯人じゃない」
「ピンポン」
私の言うことなんてお見通しだと言わんばかりの即答だ。
「でもどうする? シュークリームの製造販売元が犯人じゃないなら、誰がカレールーを混ぜたんだろうね?」
机の上に組んだ腕に顔を乗せて、ニヤリと目を細めた嗜虐的な笑み。佳乃ちゃんはこういう顔も様になるから困るのだ。
「確かに……って! さっきも言ったけど一体全体どんな偶然とすれ違いでシュークリームにカレールーが混入するっていうの!?」
「もー、しょーがない。甘々な麻実ちゃんにヒントをひとつ」
人差し指がピンと伸びる。
「麻実への嫌がらせ飯テロメール」
「え……? いっつもチゲ鍋とか坦々麺とか見た目だけで舌がヒリヒリしてくるひどい写真つきメールのこと?」
「そそ、昨日も送ったじゃん?」
「いや、最近それの所為で佳乃ちゃんからのメール全部無視してる」
「ええええええええええ!? うそぉおおお! ここにきて出題側へまさかのサプライズだよ!!」
ずいぶんご立腹な表情の佳乃ちゃんだけど、先月の月一至福のケーキタイム(税込み1000円以内)の一口目を頬張ったその瞬間に焦熱地獄のごとき麻婆豆腐が送られてきた時点で、私の堪忍袋は緒が切れるなんて通り越して炸裂、霧散しているのだ。
「はいはい、今確認するよ」
携帯を開いて昨日届いていた未開封のメールを選ぶ。そこに映し出されたのは、○福印のコップが写り込んだ灼熱色のカレーライス。
うん。
「逮捕」
真顔だった。甘いものに対する反逆を、私は許しはしない。これは明確なテロ行為だ。
「恐い。真顔は普通に恐いよ麻実。っていうかそんな感情的に結論出しちゃっていいのかい? ゲームの盛り上がりはまだまだこれからだぜ?」
「ん、ああ、ごめん佳乃ちゃん。ゲームとか忘れてた。本音だった」
「心の声!? ……ホント、甘いもの絡むと別人なんだから麻実は」
一旦冷静になろう。シュークリームの味を思い出すんだ。口内に広がるカスタードの甘みとふんわりとしたシュー。ああ、至福の味。きっとあの中には、この世の科学なんかじゃ解明できない幸せ成分がたんまり……。
「麻実さーん、精神が他界してますよー麻実さーん」
「……はっ、危ない。落ち着くつもりが飛び立っちゃうとこだったよ」
「ゲーム中は安楽椅子から降りないでくれたまえよ全く」
佳乃ちゃんが頬杖をついて息をはいた。
よし、なんとか思考力が戻ってきたような気がする。シュークリーム万歳。
「うん。でもやっぱり佳乃ちゃん逮捕だよね」
「なんで!?」
「だって、自供でしょ? 毒の入手先はこれで間違いないね?」
佳乃ちゃん自ら言ったのだ。カレールーは福々亭のカレーだと。写真にはその店特有のコップの柄が写っている。完璧だ。
「ありゃあ? いいのかいそれで。わかってるのは毒の入手が私の手によってなされたってことだけでしょ?」
「それで十分でしょう? 佳乃ちゃんが私の目を盗んでシュークリームにカレールーを仕込んで、私の絶命を見届けて通報した。第一発見者が犯人って言う使い古されたパターンだったってことだね」
少し自慢げに言った。佳乃ちゃんにしては中々ありきたりな真相だったと言える。前日からゲームの仕込みとは流石だけど、いつもはもっと偶然とすれ違いが入り組んでいる複雑怪奇なものばかりだから、拍子抜けな感じだ。
「いたいけな麻実ちゃんに10秒あげよう。私が犯人じゃない証拠が、二つも転がってるよ」
「えっ!?」
「9」
佳乃ちゃんじゃない? でも、それじゃあ一体毒は……!?
「8」
いいや、まずはその二つの証拠を見つけることが先決だ!
「7」
話を思い出そう。佳乃ちゃんにだけ関係があるもの……それは……いや、それじゃだめ……。
「6」
何か、ひっかかってたんだ……えーっと……。
「5」
片手で指折りカウントする佳乃ちゃんと唸る私。
「4」
――それだけの静かな部室に、電子音が響いた。
ポットが奏でる電子音はメヌエット……お湯が、沸いたときの、音。
「3」
「モカだ」
「そゆこと」
済ました笑顔で残り3本だった指を折り、花が咲くように手を広げた。
「麻実はミルクも砂糖も2つは入れてとっくにカフェオレ。そんであたしゃ小細工なし素材重視のブラックコーヒー。つまりは、モカはあたしたちミステリ研の人間は普段飲まないお客様用の飲み物ってこと」
少なくとも、二人以外の人間がここにいた。
「それがまだぬるいままで、現場に残ってた……。犯人の、だね」
冷え切っていないモカから時間経過のことを考えるなら、モカを飲んだ、もしくは飲むべきだった人間が第一発見者であるべきだ。でも第一発見者は佳乃ちゃんで。この矛盾には、モカを飲んだ人間を犯人とすると全て辻褄が合う。
「ちなみに決め手にもうひとつの証拠を教えてあげよう。動機だよ、動機」
「え、動機って、あの“マウンテンパフェver.日本北アルプス”のこと?」
「そう、それをあたしがおごるってやつよ」
「……あ、そっか。自分で自分におごることになっちゃうのか」
「だしょ。半分冗談みたいな例だけど、でもあたしが実行犯じゃないことはここで密かに示してた」
「……つまり、実行犯じゃないだけで殺害を頼み凶器の用意をしたのは佳乃ちゃんだということは認めると」
「あっはっは。この流れだとそーだねぇ。でも言葉の綾のつもりだったんだ。ひとつ明言しよう」
佳乃ちゃんは頬杖をついてニヒルな笑みを浮かべた。
「犯人の行動にはちゃんとした動機があるよ」
「あの、さっきと言ってる事が正反対なんですけど」
「さっきのは、麻実を殺す動機についての話だったでしょ?」
「え…………、それって」
「はい、大ヒント終わり。ダメだね、シュークリームの食べすぎであたしも麻実みたいに甘々な性格がうつっちゃったかな」
つまりは、犯人の狙い≠私の殺害ということ。
そうだ、この推理ゲームにおいての架空事件ではよくあることだった。
結局のところ、すれ違い。
殺されるはずだったのは、私じゃない。
犯人が殺したかった相手は別にいて、その人間となんらかの理由で私が入れ替わった。
「くだらない偶然とすれ違いのコラボレーション……現実から少しだけ外れていて、何かの拍子に歯車が狂ってしまっていたのなら、実際に起こりえたかもしれない事件……」
「そう。私の作る架空事件はいつだってそうだよ。思い出してみ? 架空側の証拠だけじゃなくて、現実側のこの殺害現場のこと」
今日、このミステリ研の部室であったこと。
一人で本を読んでいて、
ゆりちゃんが泣きながら駆け込んできて、
手に持ってたシュークリームに目を奪われながら失恋の話を聞いて、
そこに佳乃ちゃんが補習から帰ってきて、
二人でシュークリームを頂きながらやけ食いするゆりちゃんを慰めて、
ゆりちゃんが屋上に行ったのと入れ替わりで端山先生が教室に忘れていた佳乃ちゃんの『このミステリがすごい! 1988』を届けに来て、
そして、ゲームが始まった。
「……犯人は、シュークリームにカレールーを混入させた人物でいいんだよね?」
「そうだよ。そいつが犯人」
「ゆりちゃんは、犯人じゃない」
「うん。正解」
「ゆりちゃんは誰かに貰ったって言ってた。シュークリームを貰ったって。なら、それをあげた人が犯人。そしてモカを飲むはずだった誰か……今日ここに訪れた人の中に犯人がいる」
「うしし」
佳乃ちゃんが楽しそうに笑う。へんてこな笑い方はいつも機嫌がいいときで、ゲーム中においては総じて、私が真相に近づいているときだ。
結局これで、容疑者の三人は全員犯人ではないということになってしまったわけだけど、でも、真犯人も既に見つかった。
「ねぇ佳乃ちゃん。英語の時間、何してた?」
「そりゃあ辛党の丹六っちと昨日の晩食べてさらには店の余りをお持ち帰りまでした福々亭の激辛カレーについて煮えたぎるほど熱く議論したよ」
「辛党なのは知ってたけど、珍しいね。端山先生授業は真面目なのに」
「そりゃあしょーがないよねぇ、補習の必要ない私とマンツーマンだし……それになにせ、あんなことがあった直後だから」
「そっかあー、やっぱり、そういうことなのか」
「そうそう」
私はパイプ椅子から立ち上がった。
架空事件の中では私が死んで横たわっているであろう床をまたいで、西日の入る唯一の窓へと手を伸ばす。
鍵を下ろして、窓を開けた。
「……ひぐっ……ぅうう………………」
泣き声だ。
「うっひゃあ、ゆりちゃんまーだ泣いてら」
「よっぽどだったんだねぇ」
このすぐ上には屋上がある。どうやら窓に近い場所で、顧問の百合島先生が未だに失恋の痛みを噛みしめているようだった。確かに、三十路の誕生日に破局っていうのは色々クるものがありそう。
「ゆりちゃーん、大丈夫?」
だいじょばない!! と、子供みたいな言葉がかすれた涙声で返ってきた。
「うん……」
大きく、息を吸い込んだ。
「私はー! 可愛くて、仕事が出来て、気立てのいいゆりちゃんを振った相手がー! ばかだと思うよ!!」
少しだけ上を向いて、珍しく大きな声で言った。
直後、鼻をすする音が聞こえて、泣き声が止まる。
「……そーよね! そーに決まってるわよね!! バカよね! 挙句の果てにシュークリームなんかで懐柔しようとしてくるなんて、ありえないわよね!!」
「そーだよ! ばかだよ! いっそ叫んじゃえ、ばかーって!」
「うん! 叫ぶわ!!」
窓を半分だけ閉める。ちょっと声量が怖い。
「麻実、あんたもやるようになったね」
本当に嬉しそうな顔で、佳乃ちゃんが言った直後だった。
「丹六のばあああああああああああああぁぁあああああああかああっ!!!!!」
「えへへ、それはどーも」
後ろ手に頭をかきながら、窓を最後まで閉めた。
つまり、ゆりちゃんの失恋相手並びにカレールーをシュークリームに混入させて私を殺した真犯人は佳乃ちゃんの補習の担当英語教師の端山丹六二十七歳独身ついでに辛党だったというわけだ。
西日を背に、佳乃ちゃんへと振り返る。
「というわけで今回も、探偵相模麻実は見事に事件を解決してみせたのでした」
ちゃんちゃん、と佳乃ちゃんが手を二回叩いて物語を閉じるお約束の合図。
仕事を終えた私は椅子に座って脱力した。集中力と体力をごっそり持っていかれた気分で、息をつく。
ここまで必死にやらなくてもいいのかもしれないけれど、私が本気で推理をする理由が実は二つある。
「……実際のところ、いくら喧嘩別れしたって、シュークリームに激辛カレールーを混ぜて渡すほど端山先生の性根は腐ってないと思うよ、佳乃ちゃん」
少しだけ文句を言う。いつもちょっとだけ無理があるからこその架空事件だけれど、そんなのはいくらなんでも想像だに出来やしない。本気で取り組んだって、わからないことは今までに何度もあった。これがひとつ目。
「まあまあ。そうでもしないと、この世の中はなかなかうまいこと平和に出来てるからね。歯車がひとつ足りないだけで、何事もなかったかのように日常は過ぎていくんだよ」
少し残念そうな表情を見せたけれど、すぐに佳乃ちゃんは立ち上がってそれを誤魔化した。
「さあ、今回は麻実の勝ちってことで! あたしからとびっきりのプレゼントを進呈しよう!」
ふたつ目はこれだ。ゲームの結果、もし私が負けていたら酷い無茶ぶりや罰ゲームが待っていたのだ。
あるときはゆりちゃんへのイタズラを手伝わされたり、校長先生のモノマネさせられたり。またあるときは中華の食べ放題に連れていかれたり、目の前でシュークリームを食べられたりと……あ、そういえばそれはさっきもやられた。
「いいよ、大丈夫。私としては罰ゲームじゃないだけで十分だから……」
遠い目で応えた。これだけ敗北の苦しみは深いのに、勝利の報酬は毎回微妙だから困る。
「いやいや、今日は特別だって! はい、目ぇつむって、ほら!」
「え? う、うん……」
佳乃ちゃんにしては引っ張る。もしかして今日は本当になにかちゃんと用意してくれて……もしかして甘いものとか……!?
目を閉じて、少しだけ頬を緩ませた瞬間だった。
佳乃ちゃんの両手に頬を包まれ、唇に柔らかい何かが触れて――――――
――――そして、スパイスの香りとピリッとした辛さが口の中に広がった。
ファーストキスを奪われた。しかもちょっとディープな……いや、ちょっと待って、そこも重要だけど、違う!
そうじゃないんだ。この臭い、辛さは紛れもなく現実。それならあのとき佳乃ちゃんにシュークリームを奪われた直後に感じたカレーの臭いの錯覚……は、本当は錯覚なんかじゃなくって……。
シュークリームの中に混入していたカレールーのせいで、私はショック死をした。
どこまでが本当? どこからが想像?
くだらない偶然とすれ違いのコラボレーション。現実から少しだけ外れていて、何かの拍子に歯車が狂ってしまっていたのなら、実際に起こりえたかもしれない事件……!
目を、見開く。
佳乃ちゃんがすごく意地悪そうで、それでいて、今日一番の笑顔を浮かべていた。
「さて――」
探偵が解決編を始める常套句、合言葉とも言えるあの言葉を口にしておきながら佳乃ちゃんは踵を返して、
「――今日の部活はこれで終わりってことで」
私を残して部室を後にしたのだった。
取り残された私は一人呆然として、指先でおもむろに唇に触れる。
カレー味のキスの感触が、まだ鮮明に残っていた。
立ち上がった拍子に、椅子が音を立てて跳ねる。
言ってやりたい文句と、説明してほしいことが山ほど頭に浮かんでいたけれど。
とりあえず私はドアを思いっきり開けて、力いっぱい大きく叫ぶのだった。
「こらあああああああああああ!! 待ちなさい佳乃ちゃああああああああああああああん!!」
そもそもは、女の子しか登場人物のいない小説を読んで、自分も随所に女の子の華々しさあふれるお話を書こうと思い立ったのが始まりでした。どうしてこうなったのでしょう。ただ、最後にああなったのは自分でも予定外だったのですが、結果的に女の子成分(?)を組み込めたのではないでしょうか。
また、架空事件は元は密室で起きたものであり、そのくだりまで書いていました。しかしいかんせんテンポが悪くなり、冗長なものとなったのでバッサリ斬り落としてすっきりとした短編になりました。
拙作を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。