9話
雷夫妻とは、神社で落ち合うことになっていた。
とはいえ、明確に何時と約束したわけではなかったので、昼頃、適当に行けばいいやと、真理は悠長に構えていた。
だから、昨晩、夜更かししたちびっこ共が揃って寝坊していても、大目に見てやるつもりでいたのだ。
ところが、空がゴロゴロゴロと鳴り出して、そうも言っていられなくなった。
雨雲ひとつない、透き通るような青空に鳴り響く不穏な音は、雷様のお出ましを告げるドラムロールのようなもの。
靴下のままベランダに飛び出して、真理は空を凝視した。
すると、空の一点から、巨体が二つ、猛烈な勢いでくるくる回転しながら落ちてくるのがはっきりと見えた。
道行く人の中で、何人がそれに気づいたろう。
数秒後にドッシーンと、雷の落ちる音が響き渡っても、軽く首をかしげる人がいる程度。
そんな呑気な人たちは放っておくことにして、真理は猛然と動き始めた。
落ちたのはズバリ神社周辺。
雷様はもう既に、待ち合わせ場所に到着してしまったことになる。
待ち合わせ時間を決めていたわけではないので、真理が遅刻したことにはならないだろうが、雷様を待たせるのは気が引ける。
ぐずる、わらしとベイビーちゃんを叩き起こし、トーストのみで軽く食事を済ませ、真理は神社への道を急ぐことにした。
しかし、わらしとベイビーちゃんを連れての外出は、想像以上に大変だった。
街路樹によじ登ろうとする、わらしを「こらこら」と叱っていると、ベイビーちゃんはふらふらとゲームセンターに吸い込まれそうになっている。
慌てて首根っこを捕まえても、今度はわらしが落ち葉をキャッチしようと車道に飛び出そうとしている、といった具合だ。
鳥居をくぐるまでに、真理は既にくたくただった。
しかし、厄介事はここからが本番なのだ。
「うおおおっ、ベイビーちゃん!」
ドスドスドスと地響きを立てながら、雷夫妻が参道をかけてくる。
今までこれほど長く親子が離れていたことはなかったから、夫妻はもう一秒でも待ってはいられなかった。
駆け寄って、今すぐ我が子を抱きしめたい。
しかし、そんな親心は大きく空振りしてしまう。
父親のハグをひらりとかわし、ベイビーちゃんは真理の背後にその身を隠してしまったのだ。
「ベ、ベイビーちゃん……?」
空を切った腕の所在を持て余し、雷様は呆然と立ち尽くしている。
この親子には、仲介人が必要だろう。
真理はポリポリと頭を掻いた。
「えーとですね……、物の弾みとは言え、ベイビーちゃんを投げてしまったわけじゃないですか」
雷様に物を申すのは、一介の人間にはとても勇気のいることだ。
けれど、今日は絶対にベイビーちゃんの味方でいようと決めていた。
そのためには、少々生意気なことも言わねばならない。
「だからですね、そのことをまずは謝るのが先だと思うんですよ」
怒鳴られるだろうか、と真理は身構えるが、雷夫妻はハッと息をのんで、正に雷に打たれたかのような顔になった。
実際にベイビーちゃんを放り投げてしまった雷夫人は、殊更に責任を痛感したようだった。
「本当にその通りね。カッとなって、見境がなくなって……。全部私が悪いのよ。私の可愛いベイビーちゃん、本当に本当にごめんなさいね」
夫人が泣き崩れると、「いんや、悪いのは全部わしだ。ベイビーちゃん、すまなかった!」と、雷様も深く首を垂れる。
大きな体は、驚くほど小さくなってしまった。
お仕置きは、これでもう充分だろう。
「ほらな、ベイビーちゃん。お父さんもお母さんも反省してるってさ」
真理は、まとめにかかっていた。
雷夫妻が謝れば、一件落着と考えていたのだ。
ところが、謝罪を聞いてもベイビーちゃんは「アタシ、帰んないから」の一点張り。
両親を前にすれば軟化すると思っていたのだが、小さな雷娘は案外と強情だ。
「何言ってんだよ。折角お父さんとお母さんが迎えに来てくれたんじゃないか」
「そんなの、知らない。アタシはこのまま真理と一緒に暮らすの!」
ベイビーちゃんは両親の前で、高らかに宣言した。
「真理はアタシの生えかけの角を触ったんだから!」
「え……、何、それ?」
どういう意味かと問おうとするも、雷夫妻は揃って口を両手で覆い、ぎょろりとした目をますます大きく見開いているではないか。
――うわっ、なになになに、そのリアクション! なんか嫌な予感が……。
当たらなくてもいいときに限って、予感というものは的中する。
その場で膝から崩れ落ちた雷様とは対照的に、先程まで、よよよと泣き崩れていた夫人は途端にしゃっきりしだし、「まあ! それは責任を取ってもらわないと」などと言い出した。
「せ、責任ってなんですか?」
恐る恐る聞けば、「もちろん、結婚よ。角を触るということはそういうことよ」
きっぱりした答えが返ってきて、今度は、真理が膝から崩れ落ちる番だ。
しかし、立ち直れないくらいの衝撃を受けていたのは真理だけではない。
「うお~ん、ベイビーちゃんはまだほんの子供だぞー!」
父親というものは母親のようには割り切れない。
娘の結婚話なんて遠い未来のことであっても想像したくないというのに、可愛い盛りの今だなんて、とてもじゃないが耐えられない。
「いやだー! いーやーだー!」
足をじたばたさせて悪あがきする雷様に夫人は呆れ顔だが、真理にとっては神の助け。
真理の助かる唯一の道は、雷様を全力で応援することだ。
「そ、そうですよ! 結婚なんてまだ早いですよ! いくらなんでもこんな小さな子供を親から引き離すなんて、できませんよ」
真理の必死の訴えに、夫人は「それもそうねえ」と軟化を見せる。
「そうですよ! まだ親元で暮らす年頃よ!」
先のことは、その時、また考えればいいとばかりに、真理は力説した。
とにかく、今、目の前のピンチから逃れることが大事なのだから。
「そうねえ。ベイビーちゃん、やっぱりおうちに帰りましょ。結婚は大人になってからするものよ」
夫人の言葉に、真理は「そうだそうだ」と頷くが、ベイビーちゃんはやはり「やだ、帰んない」と
言って聞かない。
これでは、堂々巡りだ。
そこにわらしが「あのね、ベイビーちゃんはね、父ちゃんと母ちゃんのことが大っ嫌いなんだって。だから、帰りたくないんだよ」と余計な一言で参戦するものだから、話は再びややこしくなる。
「こら、わらし! そんなこと言っちゃダメじゃないか」
真理がわらしをたしなめたところで、もう遅い。
雷夫妻は、しっかり聞いてしまった。
「き、嫌い? わしらのベイビーちゃんがわしらのことを、き、嫌い……?」
すっかりショックを受けてしまった雷夫妻に、わらしは更に追い打ちをかける。
「だって、ほんとのことだもん。昨日の夜、ベイビーちゃんが言ってたんだもん」
ノックアウト寸前の雷夫妻に、真理が慌ててフォローに入る。
「そ、そんなことないですよ。『嫌い』なんて言葉の綾ですから」
しかし、わらしは「えー、本当に言ってたもん。『父ちゃんも母ちゃんも、もういらない』って」と、傷口に塩を塗り込むようなことを言う。
「あーもう、おまえはこれ以上喋るな」
口を塞ごうとする真理の手から、わらしはするりと身をかわすと、どういうわけか仁王立ちで、「だからね、わたちがもらうの!」と、高らかに宣言をした。
「雷様たちはね、これからはわたちの父ちゃんと母ちゃんになるの!」
その場にいた全員が呆気にとられる中、わらしは夫人の豊満な胸にめがけてジャンプして、満足げに「ぷはっ」と息継ぎをした。
「んー、母ちゃんのにおい。いいにおい」
「わらしちゃん……」
雷夫人は困惑していた。
「わらしっこ……」
普段は厳めしい顔の雷様も、隣で眉毛を八の字にしている。
そんなことはお構いなしに、わらしは 夫人にギュっとして、雷様にもギュっとして、それから、それから……。
「わーい、わーい。わたちにも父ちゃんと母ちゃんができちゃっだ! うれしいなー。うれしいなー」
父ちゃんと母ちゃんができたら、やってみたいことがいっぱいあった。
いっぱいあり過ぎて、追いつかないくらいだ。
わらしがあんまりはしゃいでいるので、誰も何も言えない状態だった。
だけど、ここで真理は動くべきだったのだ。
父ちゃんと母ちゃんはもらったり、譲ったりできるようなものではないのだと教えてやれるのは真理しかいないのだから。
なのに、ためらってしまった。
だから、視界の端をヒュンと何かが駆け抜けても、真理は棒立ちのままだった。
それがわらし目がけて突進し、わらしの小さな体を軽々と弾き飛ばしても、何が起きたのかすぐには理解できなかった。
その場で硬直していた大人たちの目を覚ましたのは、ベイビーちゃんの悲鳴みたいな叫び声だった。
「絶対ダメ―! アタシのだもん! アタシの父ちゃんと母ちゃんだもん! わらしには絶対絶対あげない!」
わらしは尻餅をついたまま目をぱちくりさせていたが、すぐにほっぺをぷぅーっと膨らませた。
「昨日は、いらないって言った! 嫌いって言った! ベイビーちゃんのウソつき!」
わらしに詰られて、ベイビーちゃんは言葉を詰まらせた。
代わりに、涙が後から後から溢れてくる。
そんなベイビーちゃんの代わりに口を開いたのは、雷夫人だった。
「わらしちゃん、ごめんなさいね。ベイビーちゃんは悪くないのよ。私が全部悪いのよ」
我が子を抱きしめ、夫人が涙を流すと、雷様までもが「いやいや、悪いのは全部わしだもん」と、こちらも、うぉ~んうぉ~んと泣き始めてしまった。
抱き合い、庇い合う親子を、わらしは参道の真ん中で尻餅をついたまま眺めていた。
わらしが抱き着いたときには決して抱きしめ返されなかった腕が、しっかりとベイビーちゃんの背中にまわされている。
それを見たら、何故だか何も言い返せなくなってしまったのだ。
「わらしっ!」
このときになって、ようやく真理が動いた。
もっと早く動いていれば……。
ぼんやり傍観していた自分を、殴り飛ばしたい気分だった。
とにかく、今すぐわらしを抱きしめてやらなければ。
脚をもつれさせ、砂利に手をつき、四つん這いになりながら、真理はわらしに飛びついた。
抱きしめたかったのに、抱き着くような格好だった。
無様だったかもしれないが、雷夫妻に負けないくらいに、ぎゅっと強く力をこめた。
「わらし、わらしっ!」
ぎゅうぎゅう締めつけられても、わらしは文句を言ったりしなかった。
ただ「みんな、泣いちゃった」と独り言のように呟くだけだ。
「……ああ、そうだな。泣いちゃったな」
真理が頷くと、わらしは腕の囲いの中でまた呟いた。
「いらないんなら、もらってもいいんだって思ったの。けど、ダメなんだって」
「……ああ。ベイビーちゃんは本気で『いらない』って言ったわけじゃないんだよ」
「そなの?」
「ああ。ベイビーちゃんは、ちょっと愚痴を言いたかっただけなんだよ。親子っていうのは、本気で嫌いになったりできないものなんだ。時々喧嘩をしたりするけれど、それでも、絆は切れたりしないんだよ」
真理の言うことは、わらしには少し難し過ぎた。
なんとなくわかったのは、親子とはそういうもの、ということくらい。
「そっか。知らなかったなあ」
そう言って、えへへと笑った、わらしを、真理は一層強く抱きしめたのだった。




