9話
「大丈夫? 遅いから心配になっちゃった」
トイレの前の狭い廊下で、里奈は気遣わしげな顔で真理を待っていた。
――酔って、トイレでダウンしてるとでも思ったのかな。
可愛い女の子に心配されるのは悪い気がしない。
「大丈夫だよ、全然全然」
真理は、ぶんぶんと手を振って何でもないとアピールをする。
「そ? 良かった。『二次会はカラオケだー』って、皆、盛り上がってるよ」
「ああ、あいつら、カラオケ好きだからなあ」
「真理くんは、カラオケ嫌いなんだ?」
流行りの音楽に関心の無い真理は、友人が歌う曲の殆どを知らない。だから、カラオケに行っても、ついていけないことの方が多いのだ。
だから、つき合いで行く程度で、自ら好んで、ということはない。
それを今日会ったばかりの里奈に、いとも簡単に見抜かれるとは思わなかった。
「え、なんで、わかった?」
「だって、眉がこんな風になってるもん」
里奈はクスクス笑いながら、人差し指で八の字を作る。
彼女の仕草は、いちいち可愛い。真理が、ついつい、でれっとなるのも仕方がないだろう。
「えー、俺、今、そんなんなってる?」
「うん、なってる、なってる」
見つめ合って、クスクス笑い合う。すっかり二人の世界が出来上がっていた。
しかし、トイレの前だということを忘れてはいけない。
「あの~、すみません、トイレに行きたいんですけど~」
二人は完全に、他の客の迷惑になっていた。
「あ、すみません」
慌てて真理はどこうとするが、里奈は悪びれた様子もない。
「あら、ごめんなさい」
にっこり笑って、真理に身を寄せるだけだ。ほら、これで通れるでしょ、と言わんばかりに。
しかし、まるで抱きつかれたような格好に、真理の方はドギマギとしてしまう。腕をどこに持って行ったらいいのかも、わからないくらいに。
そんな真理の戸惑いをよそに、里奈は他の客がトイレに消えても尚、しなだれかかったままだ。
「里奈もね、カラオケ、キライなんだぁ」
「え、そ、そうなの?」
真理の耳に唇が寄せられる。
「そうなの。だからぁ」
内緒話をするように囁かれた。
「二人でこのまま抜けちゃわない?」
二人がカラオケに行かないと言った時の、武田の顔といったらなかった。池の鯉のように口をパクパクさせるばかりで、言葉が一つも出てこないといった様子だった。その表情から、「何故だ!」と言いたいのだけは伝わっってきたが。
しかし、真理ですら、何故自分なのかが、わかっていないのだから答えようがない。
しかも、彼女は別の店で飲み直すのではなく、真理の部屋に行きたいと言うのだ。
「里奈の家、千葉で、すっごく遠いの。真理くん、この近くで一人暮らししてるって言ってたでしょ?」
真理の家に泊まれば、明日、大学に行くのに便利だというのが彼女の言い分だった。
――そんな簡単な理由で「泊まる」なんて言っていいのか?
真理は頭の中でグルグル考える。
――けど、も、も、もしかして、これって、お持ち帰りってやつじゃないのか? 武田の言ってた、運が向いてきたっていうのはこのことなのか!?
とにかく落ち着かなくては、と、真理は大きく一つ、息を吐いた。
「そ、そ、そっか。じゃあ、うちにくる?」
精一杯平静を装ったが、真理の動揺は絡みつく腕を伝って、多分、きっとバレバレだ。
しかし、そんなことよりもっと大事なことがあるのだが、すっかり舞い上がっている真理は気付いていない。
真理がそれを思い出すのは、いざ玄関の鍵を開ける段になってからだった。
「あーっ!!」
「なに、突然どうしたの?」
開けかけたドアを再びバタンと閉じてしまった真理に、里奈が不審な顔を向ける。
――やばい! 座敷わらしがいるんだった!
どうして、こんな大事なことを忘れていたのか。
真理は頭を抱えたくなった。
どうせ里奈には見えないのだから、いいじゃないかという考え方もできるだろう。
しかし、真理は、小さな子供――年数でいえば、真理よりもずっと長く生きているのだが――のいる部屋に、女を連れて帰るなんて、とんでもないと思うのだ。
なのに、里奈をここまで連れて来てしまった。
――どうする、どうする、俺……。
座敷わらしが来てから、部屋に誰かを呼んだことは一度もない。どんなことが起きるのか、全く想像がつかなかった。
「あー、いやー、その……、散らかってるんだ。家の中がもうぐっちゃぐちゃでさ。だから、やっぱり今日は別のところで飲み直さない?」
とりあえず、里奈を連れて、この部屋から離れようと真理は考えたのだが……。
「そんなの気にしないから大丈夫だよ?」
里奈はそう言って、ドアノブに手をかけてくる。
こうなったら、酔い覚ましに水でも出して、適当なところで帰ってもらうよりほかにない。
「じゃあ、ちょっとだけ待ってて」
里奈の「えー、掃除なんてしなくていいよー」という声は無視して、真理は自分がぎりぎり通れる分だけを開け、するりと体を滑り込ませると、後ろ手にすぐドアを閉めた。
「真理、おかえりー」
いつもは癒される座敷わらしの出迎えも、この日は真理を焦らせ、慌てさせるだけだった。
トテトテと走ってきた小さな体をくるりと反転させ、背中を押すようにして部屋へと戻していく。
「なに、なにー? どしたのー、真理?」
座敷わらしは、新手の電車ごっこか何かと勘違いしているらしい。キャッキャと無邪気に、はしゃいでいる。
真理はその小さな体をおもむろに抱き上げると、そのままロフトに押し込んだ。
「今、友達が来てるんだ。だから、ここでいい子にしててくれ。わかったな?」
「……友達? 真理の? じゃあ、わたちも一緒に遊ぶ!」
「いや、それは無理だろ。だって、おまえは俺にしか見えないじゃないか」
座敷わらしから、笑顔がたちまち消えていく。
しまった、言い過ぎた、と気づいても、もう遅い。
「あ、いや、ちょっと話をするだけだから。すぐに帰ってもらうから」
必死に言い繕うが、座敷わらしはロフトの隅っこに引っ込んでしまった。しかも、その体が徐々に透明になっていくではないか。
座敷わらしが姿を消すことができるとは、知っていた。真理に見つからずに、東京行きの電車に乗ってついてきたのだから。
しかし、実際に消えていくさまを目の当たりにして、真理は肝の冷える思いだった。
なんだか、このまま真理の前から消えてしまいそうで……。急に怖ろしくなった。
「待て、待て。ほら、松子もクマゴロウもいるじゃないか。ちょっとの間、三人で遊んでてくれよ。な? 本当にちょっとの間だから」
「…………」
「あ、ほら、こいつらも、わらしと遊びたいってさ」
『遊びましょ』
『あそぼーよー』
真理は必死に取り成した。松子とクマゴロウを両手に、声色まで使って。
その気持ちが通じたのか、座敷わらしの体が徐々に色彩を取り戻してくる。
「……うん、わかった。松子ちゃんたちと遊んでる……」
「じゃあ、ここで遊んでるんだぞ。下に降りて来ちゃダメだぞ」
「……うん」
何とか宥めすかして、真理がホッと一息ついたのと、里奈が痺れを切らしたのは、ほぼ同時だった。
「なーんだ、全然散らかってないじゃない」
驚いて玄関先を振り返った真理の視線の先、里奈がちょうど靴を脱ごうとしているところだった。