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武田家編

「あーあ、もう夏休みも終わりか……」

 武田のこのセリフを、今朝から真理は何度聞いただろう。

 直接顔を合わせるのは久し振りという、夏休み明けの初日の第一声がまずこれだった。

 それから学食に移動して、溶けたアイスクリームのようにテーブルに突っ伏すまでの間、武田は最低十回はこのセリフを口にしたのではないだろうか。

 顔も、まくり上げたシャツから伸びた腕もきれいに日焼けしていて、その上、つむじまでほんのり赤くして、もう充分夏を堪能したように見えるのに、この男はまだまだ休み足らないらしい。

 武田の貪欲さと比べると、真理は少々淡泊過ぎるきらいがある。

 この夏も、結局、夏らしいイベントの一つもないまま、終わってしまった。

 顔や腕の生白さが、それを如実に物語っている。

 武田にまで「そういうお前の夏は、うちの弟たちの家庭教師だけで終わっちゃったのか?」と、憐みの目を向けられてしまうほど。

 自分でも、華やかな夏休みだったとは言えないとわかっている。

 ただ、自覚がある分、他人に指摘されるとカチンとくるわけで……。

「別にいいだろ。家庭教師だって、立派な夏の思い出じゃないか。それに、お前の家、ワイワイガヤガヤ、楽しかったしさ。俺は去年よりも充実した夏休みだったと思ってるよ」

 ムキになって反論してしまったが、言ったことに嘘はない。

 負け惜しみでもなんでもなく、実際、本当に楽しかったのだ。

 プライバシーのない、ぎゅうぎゅう詰めの部屋。

 ぎゃあぎゃあ喧嘩をしながら食べるご飯。

 一人っ子の真理にとって、武田家は何もかもが新鮮だった。

 武田にはどれも当たり前のことで、こんな真理の気持ちはきっとわからないだろう。

 そう思っていたのだが、意外にも、武田はバカにするでも、からかうでもなく、ただただ優しい顔で真理を見ていた。

「そうか、そうか、そいつは良かった」

 さっきまで「夏休みがあと一ヵ月あったらなあ」などと、バカなことを言っていたくせに。

 これでは、普段の『バカをやる武田と呆れる真理』という構図が逆さまだ。

 真理はそれが、なんとなく面白くなかった。

 でも、武田に「うちの連中も楽しかったみたいだよ。おまえ、うちの弟たちと随分打ち解けたんだな。

柳田先生をまた連れてきてくれーって、あいつら、うるさいのなんの」などと言われたら、そんなことはどうでもよくなった。

「へ、へえ、あの子たちがそんなことを……」

 ――俺、まだあの子たちの先生なんだな……。

 本当の『先生』ではない、ただの学生アルバイトを、子供たちはいまだに『先生』と呼んでくれている。

 それがなんともくすぐったいが、先生気分というのは案外心地いいものだった。

「朱鷺也くん、つぐみちゃん、ひたきくん、折鶴ちゃん。皆、元気かなあ」

 すっかり先生気取りの真理は、武田の前で折鶴の名を出すのは厳禁だということをうっかり忘れていた。

 しまった、と思ったときには遅く、武田の末の妹自慢が始まってしまった。

「ああ。うちの折鶴ちゃんは相変わらず天使だぞ~」

 スイミングのコーチの夏風邪が治ったことを、心優しい折鶴が、いかに喜んだか。

 武田は喜々として喋り続けている。

 普段なら、右から左に聞き流すところだが、武田の言う、スイミングコーチとは河原のこと。

 ――そっか。河原さん、病欠扱いだったのか。

 真理は、心の中でホッと安堵の息を吐いた。

 しかし、折鶴のことだけでなく、他の子供たちの様子も知りたい。

「折鶴ちゃんが天使なのはわかったから、他の子たちがどうしてるかも教えてくれよ」

「あぁ? あいつらは、まあ、通常通りだな。朱鷺也は生意気だし、ひたきはおとなしいし、つぐみは相変わらずうるさいし……」

 そう言ってから、武田は「あっ」と口を抑えた。

「いや、つぐみはちょっと変化があったかな」

 武田の顔が急に険しくなったので、真理はごくりと息をのんだ。

 考えてみれば、もう二学期が始まったのだ。

 ということは、失恋相手とも顔を合わせたということだ。

 祭りの日には吹っ切れたような顔をしていたつぐみだが、相手の顔を見て、失恋の傷がぶり返したのかもしれない。

「もしかして、つぐみちゃん、落ち込んでたりするのか?」

 自然と前のめりになる真理を見つめて、武田はひとしきり「う~ん……」と唸ってから、やがて重々しく口を開いた。

「あいつ……、どうもお前に惚れたみたいなんだよなあ」

「はあっ?」

 思わず素っ頓狂な声が出てしまった。

 更に「だからって、手を出すなよ?」と牽制までされて、真理の「はあっ?」は、もうワントーン高くなる。

「手を出すって……。つぐみちゃんはまだ中学生だぞ!」

 そんなこと、考えたことも……。

 ない、とは確かに言い切れなかった。

 男の子みたいに活発で、少女というよりもまだ子供なつぐみだが、それでも時折、ドキリとさせる瞬間がある。

 ――いやいやいや、でも、それはないだろ。

 真理はぷるぷると首を揺らして、邪念を振り払った。、

「ないないないない。絶対ないって!」

 真理は必死に否定するが、兄の苦悩は深かった。

「色気なんて、これっぽっちもない山猿だったのが、あいつ、最近妙に乙女になっちゃってさ……」

 兄として心配なのだ、と武田が言う。

「好きな相手ができたんだとしたも、クラスの男子に、だろ?」

 真理がいくらそう言っても、武田は「うんにゃ」と首を振るばかり。

「この間、珍しくまじめに宿題やってるなと思ったら、ノート一面、少女マンガみたいな落書きだらけでさ。その絵がどう見ても、超美化したお前、なんだよ」

「超美化した俺、って何だよ」

「髪型とか服装がお前なの。お前がよく着てるTシャツだったりするの! そんで、その周りにハートがブンブン飛び交ってんの! だから、つぐみに『お前には真理がこう見えてんの?』って、からかったらさ、あいつ、顔を真っ赤にして『違うもん、これは柳田先生じゃなくて、カラス男だもん』とか言って……。そんなの嘘だってバレバレじゃん?」

 それだけではないと、武田は続ける。

「普段はおとなしい、ひたきがやたらと『柳田先生、また来てくれないかな』って言うんだよ。だから、今度、連れてくるって約束してやったんだけどさ、そしたら、『連れてくるって。よかったね、つぐみちゃん』とか言うんだよ。で、つぐみはつぐみで、顔真っ赤にして『バカ、ひたき!』とか言ってんの。もうね、何なの、このやり取り、って思うだろ?」

 武田は兄の顔で、はあ、とため息をつくが、真理は話の途中からずっと本筋ではない部分が気になってしまって仕方がなかった。

「……あのさ、カラス男って何?」

 知らないから聞いたのに、武田は「はあ? そこに食いつく?」と呆れ顔だ。

「最近、出回ってる都市伝説だよ。ゲリラ豪雨と共に現れるんだと」

 真理としてはもっと詳しく聞きたいところだったが、武田は「そんなことより」と声を荒らげられた。

「お前とつぐみがつき合い始めるなんて言語道断だけど、つぐみがまた振られるっていうのもさ、それはそれで可哀想でさ……」

 口では折鶴だけが可愛いかのように言う武田だが、その実、家族全員をとても大事にしている。

 それは、真理とて同じこと。

 知り合ってからまだ日にちは浅くとも、真理にとって武田家の人々は既に大切な存在だった。

「う~ん……。つぐみちゃんは失恋したばっかりだからなあ……。今はその傷を癒してるところなんじゃないか? 自分で言うのもなんだけど、俺、優しいし。つぐみちゃんにとっては、兄貴の友人なわけだし。安心感があるのかもなあ。まあ、そのうち傷が癒えたら、自然とクラスの男子に目が行くようになるだろ」

 武田はそれを聞くと、またへにゃへにゃとテーブルに突っ伏してしまった。

「……お前がガツガツした奴じゃなくて、安心した」

 何だ、それ、と笑う真理を、武田は上目使いで見ていた。

「……お前のそういうとこ、いいよな。俺にはない部分だからさ、羨ましいなあって思うよ」

 武田が突然、こんなことを言うなんて真理は思ってもみなかった。

 そもそも羨ましいという感情は、真理の一方的なものだと思っていたのだ。

 たとえば、兄弟が大勢いるところ。

 一人っ子の真理には、それが単純に羨ましかった。

 長男坊だからか、いつも自然とリーダーシップを取ってしまえるところも。

 大家族で揉まれて育ったからか、誰とでもすぐに仲良くなってしまえるところも。

 それに、こうしてテーブルに突っ伏して萎れていたかと思えば、恵美の姿を見かけた瞬間、ぴょんと起き上がり、「恵美ちゃーん、こっちこっちー!」と、大はしゃぎできるところなんかもそうだ。

 真理は好きな相手ができたとしても、こんなに臆面もなく、好き好きアピールするなんて、多分、いや絶対にできっこない。

「俺にはお前のそういうところが羨ましいよ」

 呆れた風を装ってはいるが、武田の裏表のない、真っ直ぐなところが真理は好きだった。

 それは恵美だって、同じ筈。、

「もうっ、大声出して! 恥ずかしいじゃない!」

 文句を言いながら歩いてくるが、その顔はどこか楽しげだ。

「真理くん、久し振り。元気?」

 真理にも笑顔を振りまいて、武田の隣に座った彼女だったが、いつもと雰囲気が違っていた。

 何が違うって、髪型が違う。

 トレードマークのお団子ヘアーを、彼女はこの日、おろしていた。

 それだけで、普段の元気でサバサバしたイメージから、しっとりとおしとやかな女性に変身してしまったみたいだ。

 いつもと違うと言えば、彼女がこちらの食堂を利用するのも滅多にないことだった。

「珍しいね、恵美ちゃんがこっちの食堂に来るなんて」

「うん、ちょっと話があったから」

 なるほど、武田と待ち合わせをしていたらしい。

 しかし、その話とやらをする前に、食堂の隅から「よお、久し振り」と声をかけられた武田は、いそいそとそちらへ行ってしまった。

 一応「ちょっと悪い」と断りを入れて席を立ったのだが、真理と恵美はその場に取り残された格好だ。 武田のバカ笑いを遠くに聞きながら、真理と笑みは思わず顔を見合わせた。

「あいつ、顔が広いよなあ」

 武田が話している相手は、真理の知らない顔だった。

「ほんとほんと。無駄に広いよね。どこで知り合うんだろうね」

 恵美が同意するからには、バイト仲間でもないのだろう。

 でも、武田と一緒にいると、こういうことはよくあることだった。

 いつでもどこでも誰とでも、すぐ友達になれるのは、武田の特技と言ってもいいだろう。

 キャンパスを歩いているだけで、誰かしらに武田は声をかけられるのだ。

 しかし、真理には慣れっこだとしても、約束をしていたらしい恵美を待たすのはいかがなものか。

 話が随分と盛り上がっているようで、ちょっとどころか、まだ当分戻ってきそうにない武田に真理はハラハラしてしまう。

 ところが、「もう本当にどうしようもないわね」と笑うだけで、恵美は少しも怒っていないようなのだ。

 武田に向けられた眼差しは、どこか慈愛に満ちていて……。

 ――あ……。

 彼女のこんな表情を、真理は以前も見たことがあったような気がした。

 ――そうだ……、わらしのことも、こんな優しい顔で見てたよなあ。

 残念ながら中止に終わった、夏祭りの日のことを、真理は思い出していた。

 実は、あの日から、恵美に聞きたいことがあったのだ。

 だけど、どう切り出したらいいのやら……。

「あ、あのさ、恵美ちゃん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「うん? 何?」

「えーっとさ、最近、何かいいことあった?」

 逡巡してみたものの、結局ストレートに聞いてしまった。

「ええっ? いいこと?」

 突然、こんなことを聞かれて、恵美が戸惑うのも無理もない。

「いや、いいことっていうか、ラッキーなことっていうか……」

 座敷わらしは、見た人間に幸福をもたらすと言われている。

 しかし、真理のところの居候わらしは、自分にはそんな力はないと言う。

 実際、真理が受けた恩恵も大したものではなく、くじの末等が当たったくらいのものだった。

 でも、他の人だったらどうなのだろうと、実はずっと疑問に思っていたのだが、真理以外にわらしを見た者はなく、それを確かめる術が今まではなかった。

 そんなときに現れたのが、恵美だった。

 夏祭りのあの日、恵美は普通にわらしを見つけて、普通に会話して、浴衣の着付けまでしてしまったのだ。

 といっても、恵美はわらしを人間の子供だと思っているようなので、その辺りはオブラートに包みながら、質問しなければならなかった。

「べ、別に……、いいことなんて、と、特にないよ」

 恵美は少しばかり挙動不審だったが、望んだ通りの答えに満足していた真理はそれに気づかなかった。

 ――やっぱりそうか。

 わらしは本人の申告通り、大した能力も持っていないのだ。

「本当に? 『百円拾った』程度のこともない?」

 言外に小さなラッキーくらいはあったのでは? と誘導すると、案の定「その程度のことなら……」と恵美は頷いた。

「本当に、本当に大したことじゃないよ?」

 そう念押しして、恵美は少し声を潜めた。

「あのね、私、鷹彦と付き合うことになったの」

「え?」

 すぐに言ったことを理解できなかったのは、恵美が普通に武田を名前呼びしたからなのか、それとも 全く予想外の答えだったからなのか。

「ええーっ!?」

 頭の中でそれが理解できた途端、真理は大声で叫んでしまった。

 恵美は赤面した顔を手でパタパタと扇ぎながら、「今日はそのことを真理くんに報告しようって、二人で決めてたんだよ」と、わざわざこちらの食堂に出向いてきた本当の理由を明かしたのだった。

 食堂の隅では「うわっ、マジで―?」と、武田がまだバカ騒ぎしている。

 本当は二人揃って報告しようと思っていたのに、いつまで経っても武田が戻ってこないから、恵美は痺れを切らしてフライング発表してしまったのだ。

「うわー、知らなかったよ。いつから、そういうことになったの?」

「ついこの間の日曜日に、家に遊びに行ったの。それがきっかけかなあ」

 長男が女の子を連れてきたのだ。

 武田家は、それはもう大騒ぎだったに違いない。

「結局、夕飯までごちそうになっちゃったんだけど、それでよくわかったの。武田鷹彦って人間がどういう風に出来上がったのか」

「あー、なんとなく、それ、わかるなあ」

「それでね、その日、送ってもらいながら自然に思えたんだ。この人、好きだなあ、って」

 言ってから、惚気ていることに気づいたのか、恵美は「キャー、私、何言ってるの?」と顔を伏せてしまった。

「はいはい、ごちそうさま。でも、恵美ちゃん、これ、百円拾った程度のハッピーなんてもんじゃないじゃん」

 恵美をからかいつつも、真理の頭を混乱していた。

 ――これって、どういうことなんだ? わらしが恵美ちゃんにどデカい幸せを持ってきたってことなのか? それとも、武田が自力で粘り勝ちしたってことなのか?

 判別をつけるのは、簡単ではない。

 たとえば、一口に運だといっても、運が良かったと喜ぶ人もいれば、自力でその運を引き寄せたのだと言う人だっている。

 恵美が夏の終わりにゲットした幸せは、わらしを見たおかげなのかどうか、断言するのは難しかった。

「あっ、お金を拾ったっていえば、次の日、本当に拾ったのよ。百円じゃなくて、五円玉だったけど。

鷹彦とはご縁があったのかなって思ったら、ちょっと嬉しくなっちゃった」

 いろいろ考えてみたが、恵美が最後に笑って教えてくれた、この小さな幸せの方がわらしの力としては相応しいような気がした。

 小さな体に見合った、小さな幸せ。

 わらしが運ぶのは、これくらいで丁度良い。

 それ以上大きな人間の欲を、あの小さな体に運ばせるのは酷というものだ。

「悪い、悪い。待たせちゃったな」

 そこへ、武田が呑気な顔をして、ようやく戻ってきた。

「もうっ! 遅いから、私が先に報告しちゃったよ」

「えー! 二人並んで、芸能人の結婚発表みたいにしようと思ってたのにー!」

 相変わらず、武田はバカなことばかり言っている。

 しかし、ずっと好きだった恵美を手に入れることができたのは、この男の努力の賜物に違いない、と真理は思うのだった。

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