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河原編

 八月も終わり、家庭教師として真理が武田家へ行くこともなくなった。

 元々、武田家の二男坊・朱鷺也ときやの夏休みの間だけという約束だったのだから、任期満了というわけだ。

 とはいえ、真理の大学はまだまだ絶賛夏休み中。

 武田家に行く用がなくなった途端、暇を持て余すこととなってしまった。

 そこへいくと、友人の武田は恋にバイトに忙しそうだ。

 真理のスマホにひっきりなしに飛んでくるメッセージからも、それが窺える。

『今日も恵美ちゃんがかわい過ぎてツライ』

 バイトで恵美と一緒のシフトの日に送られてくるのは、大抵がこんな感じだ。

 そうでなければ、彼が溺愛している末の妹の折鶴の自慢話か、だ。

 この日、飛んできたのは『うちの折り鶴ちゃん、ずっと休んでるスイミングのコーチのことが心配なんだと。天使なのかな?』という兄バカ炸裂のメッセージだった。

 普段なら『はいはい』と適当にいなすところだが……。

 ――ん……? 折り鶴ちゃんのスイミングコーチって、確か河原さんだったよな……。

 真理の眉間に、自然と皺が寄る。

 言われてみれば、あの大雨の日から河原の姿を見ていない。

 わらしを助けてもらったお礼を言おうと、翌日、改めて伺ったのだが、インターホンを押しても応答がなかったのだ。

 あれから一週間以上経っている。

 もしや、あのあと熱でも出したかと、真理は今更になって顔を青くした。

 いつかのときのように、部屋で倒れているかもしれない。

 真理はたまらず廊下に飛び出して、隣の部屋のインターホンを連打した。

 ふと足元を見れば、ドアの下の方にメモ紙が挟まっている。

 これは先日、お礼に伺った際、留守のようだったので真理が挟んだものだ。

 あの日から、この扉が開け閉めされていないという証拠ではないか。

 インターホンではまどろっこしいと、真理は拳で扉を叩いた。

「河原さん、河原さん! 柳田です。大丈夫ですか」

 怒鳴っても、やはり返事はない。

 もはや悪い想像しか浮かばなかった。

「きゅ、救急車っ、いや、ベランダからそっちに行きますからっ!」

 窓ガラスを割ってでも中に入ろうという、決死の覚悟が伝わったのか、目の前の扉がゆっくりと開いた。

「救急車なんて、やめてください……」

 のっそりと顔を出した河原は、手拭いでほっかむりをしていた。

 その目は泣きはらしたように真っ赤っ赤だ。

「大丈夫ですか、具合、悪いんですか?」

 真理が訊いても、河原は「別にどこも悪くないです……」としか言わない。

「でも、仕事をずっと休んでるそうじゃないですか。もしかして、わらしを助けようとして川に入ったのが原因なんじゃないかと思って……」

 だから心配したのだと真理が言うと、河原は突然ボロボロっと大粒の涙を零した。

「川でっ……、川で溺れたんですよっ? こんな私に子供たちに泳ぎを教える資格なんて……、ありゃあしませんよ~!」

「河原さん……」

 川で溺れたことが、ここまで河原の自尊心を粉々に砕いていたとは、真理は思いもよらなかった。

「カッパの私が……、あろうことか、あのような無様な姿を晒して……! カッパの恥です。面汚しです。ご先祖様に顔向けできませんよおっ!」

 河原は、わっ、と手で顔を覆ってしまう。

「いや、でも、仕方ないですよ。あんな大雨、昔はなかったんですから。ご先祖様だって、あれは仕方ないって言ってますよ、きっと。っていうか、あれですよ、地球温暖化のせいですよ。全部異常気象が悪いんですよ」

 慰めようとして、どんどん話がでかくなっていく。

 もう自分でも何を言っているのかわからない。

 ただ伝えたかったのは、「気にすることはない」、「大丈夫だ」ということだけだったのだが……。

「川暮らしを捨て、ぬるいプールに浸りきっていたからですよおお!」

 河原は一向に泣き止まない。

 ほとほと困り果てた頃、真理の脇を何かがぺたぺたぺたと駆け抜けた。

 そのまま一直線に河原に向かい、体当たりするように抱きついたのは、裸足で部屋を飛び出してきた、わらしだった。

「カッパ~! 助けてくれて、ありがと!」

「うぐっ……!」

 腹に食らった不意の一撃に、河原の涙も引っこんでしまう。

 しかし、「やっぱりカッパはスゴイね」とキラキラお目目を向けられると、河原はとび色の瞳を居心地悪そうに伏せてしまった。

「た、助けてなんていませんよう。い、一緒に溺れただけですから……」

「でも、ずっと離さないでいてくれたよ」

 わらしの言う通りだ。

「そうですよ」と、真理は力強く頷いた。

「オオガラス様だって、水に潜れるわけじゃなし。河原さんがわらしを抱えていてくれなかったら今頃は……」

 悪い想像を打ち消そうと、真理が、ぶるっと体を震わすと、それが伝わったかのようにわらしもまた河原に抱きつく手を強くする。

 その姿はまるでウエストポーチだ。

 河原はしばし困ったような顔で見つめていたが、やがて小さなおかっぱ頭をそろりそろりと撫で始めた。

 失った自信やら、プライドやらをかき集める仕草のようでもあった。

 真理が百の言葉を紡ぐより、わらしがひと言「ありがと」と言う方が余程、河原の心を揺さぶるのだろう。

 ――少しは元気が出てきたかな?

 真理は頃合いを見計らい、「廊下で立ち話もなんですから」と切り出した。

「ちょうどお昼時だし、うちでご飯、食べませんか? どうせ買い物も碌にしてないんでしょう?」

 ここのところのひきこもり生活で、碌なものを食べていなかったのだろう。

 元々細い河原の体は、今や枯れ枝のようだ。

 それに、空腹でいて良いことなんて何もない。

「といっても、あり合わせの物で良ければ、ですけどね」

 真理のお誘いに河原は、それでもまだ「いえ、でも……」と、ためらっている。

 しかし、ご飯と聞いて、黙っていられないのがわらしだ。

「わーい、わーい、ごはんだ、ごはんだー!」

 河原の手を握って、ぴょんぴょん跳ねるものだから、河原までもがご飯を楽しみにしているみたいになってしまう。

「ねえ、知ってる? 真理の、ありわわわせものって、おいしいんだよ」

 踊るように部屋に入っていく、わらしには、引きずられるような格好の河原が「あ、いや、ちょっと待ってくださいよ~」と言っているのも耳に入っていないのだろう。

「わーい、わーい、ありわわわわせもの!」

 頑固な河原を簡単に従わせてしまう、その手腕に感心しつつ、「おーい、『わ』がどんどん増えてってるぞー」と、真理もそのあとに続いたのだった。



 部屋に上がって真理は、真っ先に冷蔵庫を漁った。

 探せば、どこの家の野菜室にもキュウリの二、三本は入っているものだ。

 とりあえず、それで酢の物を作ったが、本来は小鉢で出すような料理を張り切ってボウル一杯分も作ってしまったのは、さすがにやり過ぎだ。

 しかし、河原には好評だったようで、ボウルはあっという間に空っぽになった。

 好物のキュウリを食べたからというわけではないだろうが、食事が終わる頃には河原もすっかり元気になったように真理には見えた。

「この調子なら。明日にでも仕事復帰できそうですね」

 だから、仕事の話を振ったのだが、河原は再びどよ~んと暗い顔になってしまった。

「頭の皿をむき出しで、外なんて歩けませんよ~……。これじゃあ『私はカッパです』と言っているようなものです……」

 引きこもっていた理由は、溺れたショックだけが原因ではなかったのだ。

 ほっかむりをしているのは、川でカツラを失くしてしまったからなのだった。

「え……、でも、パッと見、河原さんって、カッパには見えませんよ? 今もただの頭頂部の薄い人っていうか……」

 傍から見れば、彼は普通の人間だ。

 ただ、正体がバレるのではないかと、いつもびくびくしていて、それが却って怪しく見えるということに本人は全く気づいてない。

 堂々としていれば、どうということもないのだと、真理がいくら言ったところで無駄だった。

 ――参ったな……。

 これ以上仕事を休んだら、クビになってしまうだろう。

 それもこれも、わらしを助けたせいなのだ。

 真理がひっそりと責任を感じていると、おもむろにベランダの窓が開けられた。

「おい、俺様が遊びに来てやったぞ」

 いつもと変わらぬ着流し姿。

 座敷わらしの仁義を守って、決して部屋の中に入ってこないのも相変わらず。

 ひょっこり顔を覗かせたのは、菅原先生の家の居候・男わらしだった。

「わあ、お兄ちゃん!」

 兄妹でも何でもないのに、わらしが彼を『お兄ちゃん』と呼ぶのももうお馴染みだが、彼の訪問は随分と久しぶりだった。

 最近、遊びに来なかったのは、夏休み中で菅原が家にいることが多いからだろうというのが、真理の見立てであり――

「わあい、何してあそぶー?」

 大喜びのわらしには悪いが、遊びに来るのはもう少し涼しくなってからにして欲しかった、というのが真理の本音だ。

「あああ、冷気が~、逃げていく~」

 男わらしが来ると、窓を開けっぱなしにしなくてはならないのが難点なのだ。

 真理が情けない声を出すと、男わらしは鼻をフンと鳴らした。

「なんだその態度は。俺様がせっかく面白い話を持ってきてやったというのに」

 やたらと偉そうなのも、相変わらず。

 まともに相手をしたら、増長する。

 男わらしとは、そういう奴なのだ。

 だから、真理は「別に聞きたくないけど?」という態度をいつも取るのだが、我慢できないわらしが話を聞きたくておねだりしてしまうのも、またいつものことだった。

「面白い話ー? えー、なになにー?」

 わらしの反応に気を良くした男わらしは、案の定、「じゃあ、特別に教えてやる」と、もったいぶって話し出した。

「カラスに聞いたんだけどな」

「うん、うん」

「そこの川でな」

「うん、うん、うん」

「この間、カッパが溺れたんだってさ!」

 真理は「あちゃー」と片手で顔を覆った。

 空気を読めない男わらしは、ぷくくくくと笑いを噛み殺しながら話を続ける。

「これが、ぷぷぷ、本当の、ぷぷぷ、河童の川流れ! ぷぷぷぷぷー」

 堪えきれなくなったのか、とうとう盛大に吹き出してしまう始末。

「お兄ちゃん、笑ったりしたらダメなんだよ」

 いつになく、わらしが良いことを言うが、「ふわっはっは、これが笑わずにいられるか」と、男わらしは膝を叩いて大爆笑だ。

 グスングスンと鼻をすする音も届かない。

「あ~あ、泣かせちゃった」

 わらしに指摘されて初めて、真理以外にもう一人、誰かがいることに気づいたくらいだ。

「いいえ、いいんですよ~、誰だって笑いますよ~。私だって、猿が木から落ちれば笑わずには……笑わずにはっ……いーらーれーまーせんからあああああ!」

 うわっと泣き出した河原に、男わらしの目は真ん丸になってしまう。

「えっとー……?」

 目顔で「誰?」と聞いてくるが、真理には最早それに答える気力がなかった。

 代わりに、わらしが答えてくれる。

「川で溺れたカッパだよ」

 しかし、わらしの紹介は、どストレート過ぎて、河原がまた一段と大きな声で泣き始めてしまう。

「あ~あ、お兄ちゃんのせいでカッパが泣いちゃったー」

 男わらしからしたら、まさか本人がこの場にいるなんて思いもしなかったのだ。

「なーかせた、なーかせた、お兄ちゃんがカッパをなーかせた」

 わらしに囃し立てられて、男わらしは慌てふためいた。

「いや、よく考えたらカッパが溺れてもおかしくもなんともないよな。弘法も筆を誤ると言うしだな。い、犬なんて、歩いただけで棒に当たるって話だ。それに、尾が西だか東だか向いて……。えーと、えーと」

 必死のフォローは必死過ぎて、最後の方は支離滅裂。

 それをわらしが「ほえ~、ふむふむ」と真面目に聞いていたりするものだから、真理は「こら、真剣に聞くんじゃない」と耳を塞いでやらなければならなかった。

 当の河原は、わんわん泣くばかり。

 耳を塞がずとも男わらしのフォローなんて、聞こえてないに違いない。

 折角元気になりかけていたのに、これでまたふり出しに戻ってしまった。

 なのに、男わらしときたら、「そうだった、俺様、大事な用事があるんだった」と、事態を収束せずに、逃亡する気満々だ。

「あっ、おい、待て! 逃げる気かっ!」

 追いすがる真理の手をひらりとかわし、男わらしは「じゃあ、またな」と屋根から屋根へと跳んで行ってしまう。

「えー、帰っちゃうの? じゃあ、お人形遊びは、いつするのー?」

 すっかり遊んでもらえると思い込んでいたらしい。

 当てが外れて、わらしはすっかりむくれてしまった。

 狭いワンルームに、いい年してわんわん泣く大人と、ほっぺをぷうっと膨らませてむくれる子供。

 ――ああ、なんか頭、痛くなってきた……。

 暇を持て余していた真理は一転、この日の午後いっぱいを河原をまた一から慰めることと、わらしとのお人形遊びに費やす羽目になったのだった。

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