27話
いつの間に意識をなくしたのか、頬をくすぐる羽毛の感触で真理は目が覚めた。
「……うぅ、ん? ここ……どこだ?」
何故、芝生敷きの公園で横たわっているのか。
すぐには理解できなくて、目を瞬かせた真理だったが、この辺りで芝生のあるところと言えば、神社の裏手の高台のほかにない。
遊具も何もない、真ん中にオベリスクのような時計があるだけ。
しかし、ひなたぼっこ派の地元住民には人気の公園だ。
といっても、ひなたぼっこをするには今日の芝はひどく濡れていた。
公園をぐるりと囲む大きな木の一本が、巨人に手折られたようにポキリと折れている。
それらは、つい先ほどまでの大雨の名残だった。
木が折れているのは、落雷の被害に遭ったからだろう。
神社で雨宿りをしていたときに、近くで雷が落ちるのを聞いたことを真理は思い出した。
――ああ、そうだ、大雨で増水して……。
わらしが川に落ちたこと、それをオオガラス様にぶら下がって追いかけて、溺れかけていた河原とわらしをこの手で掴んだことを真理はようやく思い出した。
オオガラス様は川からひとっとびで、ここまで運んでくれたのだろう。
しかし、お礼を言おうにも、肝心のオオガラス様の姿はもうなかった。
代わりに、つぶらな瞳を心配そうに揺らしているのは、ごくごく普通の大きさのカラスだ。
このカラスが、真理の頬を羽で叩いて起こしてくれたのだろう。
カラスは真理が目を覚ましたことに安堵したのか、「カア」と一声だけ鳴いた。
カア吉以外のカラスを、真理は見分けることができない。
しかし、このカラスは真理を一生懸命運んでくれようとした、あの二羽のカラスの片割れに違いない。
これは、真理の直感だった。
心配で、オオガラス様の後を必死について来たのだろう。
離れたところでもう一羽の方が、横たわっている河原の頬を羽でペチペチと叩いている。
やがて河原も目を覚ましたが、彼は真理よりも事態を飲みこむのに時間がかかっているようだった。
そして、もう一人……。
少し離れたところに、濡れ雑巾のような頼りない風情で小さな体が横たわっていた。
「わらしっ!」
真理が這うようにしてにじり寄るが、返事がない。
普段はバラ色のほっぺも今は真っ青で、まるで血が一滴も通ってないかのようだ。
――まさか……、まさか……、間に合わなかった……のか……?
「そんな……、そんなことってあるか!」
田舎の家が一軒丸々焼けてしまった、あの大火事の中からでも救出できたのだ。
今回だって、助けられると心のどこかで思っていた。
しかし、真理がオオガラス様と駆けつけたときには、わらしは既に河原の腕の中で既にぐったりとした状態だったではないか。
「嘘……だろ?」
ある日、突然、見えなくなってしまうのではないかという漠然とした不安はあったが、こんな形でわらしを失うなんて想像もしていなかった。
「わらしっ、わらしっ!」
縋りつくように肩を掴むが、いくら揺すぶっても力のない体はされるがままだ。
ガクガクガクと揺らせば、首がガクガクガクと揺れるだけ。
しかし、コテンと首が横向きに倒れると、その拍子に、口から「ケポッ」と水が零れた。
「え……、わらし?」
心なしか、帯の辺りが膨らんで見える。
試しにそこを軽く押してみれば、わらしはまた「ケポッ」と水を吐いた。
わらしの体をきちんと仰向けに戻し、今度はもう少し強めに押してみる。
すると、口からぴゅうと勢いよく水が噴き上がった。
押したら押した分だけ、ぴゅうと出てくる。
真理はひたすら押し続けた。
ぴゅーーと水を噴き上げているうちに、わらしの頬に赤みが差してくる。
そうして、「ケポッ」と最後の水が吐き出された。
見れば、わらしの腹はぺったんこになっていた。
「んぅ―……」
「わらし、わらしっ!」
わらしが意識を取り戻した。
その途端に、真理の体からどっと力が抜けていった。
張りつめていた気持ちが緩んだのか、変な笑いと一緒に涙がじわじわと溢れてくる。
「ハ、ハハ……、どんだけ水を飲んだんだよ……」
涙はまつ毛を伝って、わらしの頬を濡らした。
ぽたぽたと落ちてくる涙の粒の感触を嫌うように、わらしは「うー」と唸り声を上げ、それからパチリと目を開いた。
「真理、雨だよ」
まるで「おはよう」とでも言うように、目覚めた途端にわらしは言った。
真理はすぐさま小さな体を抱き寄せた。
「……ああ、そうだな」
めそめそと泣いていたことを誤魔化すために、もうとっくに雨は上がったのだとは言わずにおいた。
そんなことは知らないわらしは、「でも、だいじょーぶだよ。わたち、傘持って来たから!」と、得意顔だ。
そうして、「ほらね」と、持って来た傘を見せようとする。
もちろん、両手は空っぽだ。
わらしは手をグーパーさせながら、「あれ、あれ?」と、きょろきょろしている。
「覚えてないのか? おまえ、川に落ちたんだぞ。そのときに落としたんだろう」
真理が鼻をぐずらせながら教えてやると、わらしは「じゃあ、探さなきゃ!」と言い出した。
「探すって、おまえ……。もう遠くに流されてるって。さもなければ、川底に沈んでるか……」
真理が無駄だと諭しても、わらしは「行く!」と言ってきかない。
「だって、だって、真理の大事な傘だもん!」
ついさっきまで真っ青な顔で倒れていたというのに、わらしは子リスのような機敏さで、真理の腕の中から抜け出してしまう。
「ちょ、おい、わらし!」
引き留めようと腕を伸ばすが、わらしはもう駆け出す体勢だ。
しかし、実際には走り出さなかった。
真理の言うことを聞いたからではない。
もっと大事なものがないことに、気づいたからだ。
「真理、真理! ない……下駄がないよ! あっ、巾着袋もない!」
そりゃあ、そうだ。
川に落ちたのだ。
下駄と巾着を失くすだけで済んだのだから、儲けものだ。
なのに、わらしはこの世の終わりのような顔だ
「どうちよ……」
どうしようと言われたところで、どうにかなるものでもない。
傘も下駄も巾着袋も、諦めるしかないのだ。
「そんなものどうだっていいよ」
わらしの命と比べたら、大抵のものは『そんなもの』だ。
だけど、わらしにとっては……。
「……だって、だって、真理がくれたんだもん。……たかだぼぼぼだんだぼ……」
途中から大粒の涙が零れはじめ、後半はもう何を言っているのかもわからなかった。
そして、とうとう「うえ~ん、うえ~ん」と泣き始めてしまう。
河原もカラスも、少し離れたところでおろおろしている。
真理は泣きじゃくる小さな体を、思いっきり抱きしめた。
このぬくもりを、真理はもう少しで失うところだったのだ。
想像するだけで怖ろしい。
抱きしめる腕を強くしたのは、今、腕の中にあると自分を安心させたかったからだ。
濡れたTシャツに顔を押しつけられながらも、わらしはまだ「たかだぼぼ……、たかだぼぼ」と泣いている。
今度は胸に直接振動が伝わって、鼓膜で聞くよりはっきりと聞こえた。
「ん? そうか、『たからもの』か」
真理があげたものは全部、わらしの宝物になってしまうのだ。
――バカ……、そんな大したもんじゃないだろ……。
そう言おうとして、言葉を呑み込むと、代わりに涙が出そうになってしまう。
すっかり涙もろくなった自分を笑いながら、真理はわらしのおかっぱ頭を優しく撫でた。
ずぶ濡れで、海苔のように頭にピタリとくっついてしまった黒髪を指で梳いてやると、わらしのうるんだ瞳が見上げてくる。
真理はその目に優しく語りかけた。
「俺もさ、同じだよ。川に落としてきちゃったよ」
真理はそう言って、「ほら」と足を伸ばして見せた。
片方の足にスニーカーはなく、薄汚れた靴下が剥き出しになっている。
河原を引き上げようとして失敗して、スニーカーが脱げてしまったのだ。
「真理も……、あの川に大事なもの、落としちゃったの?」
「……ああ。だからさ、一緒に買いに行こう。靴も、巾着も。傘だって、おまえ用の傘を買おう。雨の日も散歩に行けるように。俺の傘は大きかったろう? ちゃんとおまえに合った、小さくて、可愛いやつを買おう」
「あ、あ、赤がいい!」
わらしはとっさに叫んでいた。
真理の黒のこうもり傘も好きだったが、赤ければもっといいのにと思っていたのだ。
「そうだな、赤いのを買おう」
「わーい、赤いの!」
さっきまでグズグズと泣いていたことなどすっかり忘れて、わらしはぴょんぴょんと跳ね回っている。
河原のところまで行って、何やら自慢を始めたようだ。
「ねえ、ねえ、カッパとカラスは傘持ってる? わたちはねえ――」
川にはたくさんの物をくれてやった。
ワンタッチで開く、こうもり傘。
赤い鼻緒の小さな下駄。
花柄が可愛い、赤い巾着。
お気に入りのブランドのスニーカーの片方。
小さなわらしは失くしてしまったと大泣きしたが、真理はそんなもの、一つも惜しくない。
本当に大事なものさえ、この手に残っていればいいのだ。
それが何か、小さなわらしにはまだわからないかもしれないが、それでいいのだ。
真理がわかってさえいれば。




