26話
「私ニ、ツカマリナサイ」
オオガラス様の言葉は雲の切れ間から差す光に似て、天から降ってくるようだった。
重々しく、威厳があり、真理はその場に平伏したくなるような衝動に駆られた。
実際、真理の足下では、二羽のカラスが地面にめり込まんばかりにひれ伏している。
だから、真理の頭上、手を伸ばせば届くような距離にオオガラス様の鉤爪が浮かんでいても、そこに飛びつくなど、おいそれとはできなかった。
わらしと一緒に暮らし始めて、カッパと知り合いになり、カラスのカア吉の言葉がわかるようになったりと、不思議な体験を重ねてきた真理だったが、神話の世界の住人であるオオガラス様はそれらとは別格だ。
真理はピクリとも動けずに、ただただ見上げることしかできなかった。
それに焦れたのか、二度目の「ツカマリナサイ」は少々早口になり、それでも真理が動かないでいると、優雅に宙に浮いていたオオガラス様は突然、重力を思い出したかのようにドシンと地面に降り立った。
「カーッ! じれったい! つかまれと言うておるのだから、早う、つかまればよかろう!」
いつまで経っても棒立ちのままの真理に苛立ちを隠せなくなったのか、まくし立てる声は早口で、甲高い。
さっきまでの声はよそ行きで、どうやらこちらが本来の姿のようだ。
「川に流された座敷わらしとカッパを助けたいのであろう?」
羽を腰に当て、真理の目を覗き込む、その姿は、カア吉たち、普通のカラスと変わらない。
……というか、ただ彼らを巨大にしただけだのようにも見える。
鎖となって真理の体をがんじがらめにしていた畏怖の念が薄れていき、それと同時に、真理はようやく唇を動かすことができるようになった。
「……はい、その通りです。わらしと河原さんを助けたい……です」
「ならば、ほれ」
羽の先がクイクイと、真理を呼ぶ。
真理とカラスたちのやり取りを社の奥から見ていたのだろうか。
それで、業を煮やして飛び出してきてくれたのだろうか。
「でも、なんで……?」
自分なんかの前に、オオガラス様は姿を現したのだろう。
どうして、助けてくれようと言うのだろう。
真理は、つい疑問を口にしてしまう。
すると、オオガラス様は胸の辺りにくちばしを突っ込み、何かキラキラ光るものを取り出した。
それを羽の上にポトリと落とし、真理の目の前にかざして見せた。
「えっと……、百円玉……ですよね?」
「うむ。先程、そちが投げ入れた貨幣だ」
そうなのだろうか。
金に名前は書かれてないので、それがさっきの賽銭なのかどうかは、真理にはわからないことだった。
しかし、オオガラス様がそういうのならば、そうなのだろう。
誰が磨いたのか、時々、妙にピカピカの硬貨が釣銭に紛れ込むことがあるが、この百円が、正にそれだったのだろう。
手持ちの小銭の中から何の気なしに一枚選んだつもりでいたが、ピカピカのこの一枚が目にとまり、自然と手を伸ばしたのかもしれない。
「これほど美しい貨幣は見たことがない」
ラララと鼻歌でも歌いそうな程ご機嫌な様子で、オオガラス様は百円玉を陽にかざし、キラキラをたっぷり堪能してから、再びそれを大事そうに胸の中にしまいこんだ。
「まあ、だからと言うわけではないがな。普段から、カラスたちも世話になっておるようだし、そちの頼みのひとつくらい、叶えてやらんこともない、と思うたわけよ」
「……オオガラス様……っ!」
何の気なしに投げ入れたお賽銭に、まさかこんなご利益があるとは。
真理は感動で体を震わせた。
「羽が濡れるようなことは嫌だが、そちを連れて行ってやるくらいのことは造作ない。ほれ、座敷わらしとカッパを助けたいのであろう? 早うしないと川底深くに沈んでしまうぞ」
「はい、オオガラス様! では、失礼します」
もう畏れ多いとためらったりしない。
真理はようやくオオガラス様の背中に飛び乗る決心をした。
したのだが……、肝心のオオガラス様にひらりと身をかわされて、「おっとっとっと」とたたらを踏んでしまう。
「オオガラス様……?」
連れて飛んでくれるのではなかったのか。
首を傾げる真理に、オオガラス様はプイと横を向いた。
「背中に乗れとは言うてない」
なかなかどうして気難しい。
それでも、真理を運んでくれる気はあるようで、「足につかまるのなら、良い」と言って、オオガラス様は再びふわりと宙に浮かび上がった。
足掻くように羽ばたきをするでもなく、突風を巻き起こすわけでもない。
ただふわりと空中に浮かぶ姿は、やはりどこか神秘的だった。
しかし、真理はもはや臆したりしない。
「オオガラス様、俺を運んでください。わらしたちのもとへ!」
「ふむ、造作ない」
二本の足に真理が飛びつくと、オオガラス様は一度だけ大きく羽ばたいた。
やはり全くの無風状態のままでふわ~りと上空高く、飛び上がる。
「うわ、わ、わああ」
雲に届きそうなほど高く舞い上がり、そのままゆっくりと降下していく。
下を見る余裕ができた頃、真理は激流の中で翻弄される河原を発見した。
どこかで桂が取れてしまったのか、頭頂部の皿が剥き出しだ。
それだけで、流れの激しさがわかるというものだ。
それでも、左腕はしっかりとわらしを抱えている。
――わらしも……無事かっ!
ホッとしたものの、わらしの小さなおかっぱ頭はまるで人形のようにぐったりと力が無い。
「河原さん!」
上空から、真理はありったけの大声で叫んだ。
すると、河原が一瞬、上を見た。
が、そのせいで、辛うじて水面に出ていた頭が水中に沈みこんでしまう。
「河原さんっ!」
真理は肝を冷やしたが、すぐに河原はアップアップと顔を出した。
だが、もう一刻の猶予もないのは明白だ。
急いで救出しなければ。
「オオガラス様、俺をギリギリまで下ろしてください」
オオガラス様は「ふむ」と頷くと、複雑にうねる川の流れを正確に読み、河原が流れ着くであろう先で高度を下げた。
真理のスニーカーが濡れるか濡れないかのギリギリのところだ。
「河原さん、つかまって!」
河原は右に左にもみくちゃにされながら、それでも最後は真っ直ぐに真理へと体ごとぶつかってくる。
同時に、真理の足首に生白い腕が巻きついた。
「今だ、上げろー!」
こんなときに、敬語もへったくれもない。
オオガラス様とて、そんなことに頓着しない。
羽を大きく一度、羽ばたかせると、そのまま空高くに舞い上がった。
足先に河原とわらしをぶら下げている筈が……、真理の足先に重みはない。
二人は真理のスニーカーごと、川に再び落ちてしまっていた。
失敗だ。
「くそっ」
釣りをしていて、餌だけ食われたようなものだ。
「オオガラス様、もう一回!」
真理は歯噛みをしながら、オオガラス様に再チャレンジを要求した。
何度も失敗を続けたら、河原の体力は失われていくだろう。
なんとしても次で助けなければならない。
「今度はもっと高度を下げて!」
オオガラス様は「羽が濡れる……」と文句を言いながらも、要求通りに高度を下げてくれた。
今度は、足が水面に浸かっている状態だ。
水の流れは、想像以上に激しく、下半身だけが持って行かれそうになる。
真理はしがみつく手を強くした。
「さあ、来い。次で絶対掬い上げてやる!」
わらしを抱えた河原が激流に揉まれながら流されてくるのを、真理は再び待ち構えた。
今度こそ、という思いは河原も同じだった。
再び、体ごとぶつかると、今度は、真理のふくらはぎにしっかりと腕がまわされる。
「よし、今だ!」
真理の合図とともに、オオガラス様が上昇する。
それと同時に、河原の腕がふくらはぎからずるりと滑るのを感じた。
真理はとっさに片手を伸ばした。
指先に触れた浴衣の生地を手掛かりに、わらしの腕をしっかり掴んだ。
おかげで、両手で真理にしがみつけるようになった河原は、今度こそしっかりとぶら下がった。
しかし、その分、真理の負担は重い。
河原とわらし、二人分の重りをつけながら、オオガラス様の足に片手でぶら下がらなければならないのだ。
しかも、普段は軽いわらしが、水分をたっぷり含んでいるせいか、この日ばかりはやたらと重い。
「……くっ……!」
とてもじゃないが、長い時間は耐えられそうにない。
歯を食いしばる真理を連れて、オオガラス様はふわ~りと浮き上がり、真っ青な空に弧を描いた。
その軌跡が虹となるのを、ぶら下がるのに必死の真理が見ることはなかった。




