25話
「くそっ……!」
もっと速く、もっと速くと思うのに、足が思うに任せない。
もつれて絡んで、真理はアスファルトに体を強く打ちつけてしまう。
今、こうしている間にも、わらしと河原は川底深くに沈み込んでいるかもしれないというのに……。
「くそ、くそ、くそ! こんなところで寝転がってる場合じゃないだろ!」
這いつくばってでも、追いかけなければ。
真理は歯を食いしばって、顔を上げた。
頭上の空は、いつもの青さを取り戻そうとしている。
わらしと河原を攫っておいて、素知らぬ顔で世界は日常に戻ろうとしているのだ。
打ちつける雨粒から身を隠していた動物や昆虫も、空を窺うように顔を覗かせ始めたに違いない。
こんなとき、真っ先に空に飛びだしていくのは、好奇心旺盛な者たち――真理にもお馴染みの、あの連中だ。
「カア、カア、カア」
じっと身を竦めていることに、飽き飽きしていたのだろう。
濡れた黒い翼を乾かすように広げ、カラスが二羽、じゃれ合いながら飛んでいく。
真理は空を見上げて、目をしばたいた。
「カア吉か……!?」
いや、違う。
顔の見分けが全くつかない。
けれど、この辺りのカラスなら、一度は真理のベランダに遊びに来たことがある筈だ。
真理は天の助けとばかりに、あらん限りの声で叫んだ。
「カラス! そこのカラス、待ってくれ! 頼む、助けてくれ!」
カラスたちは一瞬、驚いたようだったが、すぐさま真理のもとへと急降下してきてくれた。
「わらしと河原さんが川に流された! 頼む、俺を下流まで運んでくれ!」
川の水との速さ比べで、人間の足が勝てるわけがない。
あの流れに追いつくには、空を飛ぶしかないではないか。
そう考えたときに真理の脳裏に甦ったのは、カラスにぶら下がり、河原のベランダへと初めて降り立った、あの日のイメージだった。
あの日のようにもう一度、空へと連れて行ってほしい。
真理は必死に訴えた。
二羽のカラスは目をパチクリさせていたが、事態を飲みこんだら早かった。
二羽は「カア」と二つ返事で、真理の後ろに回り込んだ。
「さあ、頼む」
真理が両腕を広げると、二羽のカラスがその二の腕をがっしりと掴む。
そのまま空中高く舞い上がる……筈だったのだが……。
「イデデデデ、ちょ、ちょっとタイム、タイム」
それは、想定外の痛さだった。
爪が肉に食い込んで、腕が引きちぎられそうだ。
痛いだのなんだのと言っている場合ではないとわかってはいるが、このまま自分の全体重が食い込んだ爪にかかるのだと思うと、とてもじゃないが耐えられなかった。
それならば、と一羽のカラスが真理のTシャツの後ろ襟を咥えた。
そのまま飛び立とうとするが、今度は首が締まってしまう。
「うぐぐぐぐ、ぐるじい、ぐるじい」
真理が手で大きなバッテンを作って、カラスはようやくくちばしを放した。
ブチブチと縫い目がほつれてしまったTシャツを、名残惜しげに見つめる、その顔は『いいアイデアだと思ったのに』とでも言いたげだ。
真理はゼエゼエ言いながら、イメージ通りにいかない理由を考えた。
「そうか、あのときは、ロープにぶら下がってたのか」
ロープに代わるものはないかと、辺りを見回すが、目についたのは街路樹の折れた細い枝と、どこからか転がって来た発泡スチロールの箱くらい。
どちらも真理の体重を支えられるような代物ではない。
あの日、真理をぶら下げた洗濯ロープは登山用で、だから真理の重さにも耐えられたのだ。
――部屋に戻って、ロープを取って来るか? いや、そんなことをしている時間はない。
どうする、どうする、どうする? と考えは巡るばかり。
ただ、こうして立ち止まってる時間が一番もったいないということだけは、はっきりわかる。
「そっちのきみ。俺の家を知ってるか? 知ってるなら、ベランダに結んである洗濯ロープを持って来てくれ。こっちのきみ、きみはこの発泡スチロールをくわえて、先に川を下ってくれ。それで、河原さんとわらしを見つけたら、投げてやってくれ。こんなものでも浮き輪の代わりにはなるだろう。少しでも時間稼ぎをしたい」
真理はきびきびと指示を出した。
もちろん、自分もここでじっとしているつもりはない。
少しでも先に進むため、走って追いかけるつもりだ。
「さあ、行ってくれ!」
真理がパンと手を叩く。
しかし、二羽のカラスはどうしたわけか、動かない。
「おい、どうした。時間が無いんだ」
真理が怒鳴っても、二羽は固まったまま。
そうこうしている間に、頭上に影が差してきて、真理は顔をこわばらせた。
――まさか、これからもうひと雨くるのか!?
ここでまた雨に降られたら、川は増水してしまうだろう。
今は必死で水面に顔を出しているわらしと河原も、濁流に飲み込まれてしまうだろう。
真理は絶望的な面持ちで、天を仰いだ。
が、そこにあったのは、黒い雨雲などではなく……。
「……え……?」
翼を広げた、黒い大きな鳥。
それが、地上に影差すものの正体だった。
しかし、翼をはばたかせるでもなく、そのままゆっくりと真理の頭上に降下してくる姿は、鳥というよりは巨大な飛行船に近い。
但し、飛行船と呼ぶには、その姿はあまりにも神々し過ぎた。
ピキーンと固まっていた二羽のカラスは、今は深く頭を垂れている。
「……オオガラス様……」
誰に教わらなくとも、真理にも自然とわかってしまった。
オオガラス様が降臨したのだ、と。




