17話
「いやあ、助かりましたよ」
頭を掻き掻き、ハハハと笑う真理の前に、ずい、と湯飲みが差しだされた。
「あ、いただきます」
熱々のほうじ茶をずずずと啜ると、今度は漬物の小鉢が出てきた。
「どうぞおかまいなく」と言いつつ、真理はそれに箸をのばした。
田舎の祖母もよく漬物をお茶請けにしていたものだが、真理は子供だったので、その良さがいまいちわからなかった。
それが、結構ありだな、などと思えるようになったということは、それだけ大人になったということだろうか。
「このキュウリ、良い漬かり具合ですね」
ポリポリとキュウリの漬物を齧りながら真理が言うと、この部屋の主である河原は嬉しそうに目尻を下げた。
「そうですか、お口に合いますか~」
こうして誰かを家でもてなすなんてことは、河原にとって初めての経験だった。
自家製の漬物を誰かに食べさせるなんてことも、もちろん今まで一度もない。
「そうですか、そうですか~」
そう言って笑う河原は嬉しそうで、照れ臭そうで、会っても碌に挨拶もしなかった頃が嘘のようだ。
つい最近まで取っつきの悪い、陰気な隣人でしかなかったのに、それがどうだ。
今では、こんな風に家に上がって、お茶を飲む間柄にまでなっている。
第一印象の、なんと当てにならないことか。
そもそも河原が人づき合いを避けていたのは、カッパだとバレるのを恐れていたからで、彼の本質は世話好きのお人好し。
子供向けスイミングスクールのコーチを仕事に選んだのも、その表れだ。
本人は真理に仕事がバレたとき、『カッパが子供に泳ぎを教えるなんて笑えるでしょう?』と、非常にバツの悪そうな顔をしていたが、彼の人となりを知れば誰もそんなことは思わないだろう。
なのに、河原は『カッパと言えば、川で泳ぐ子供の足を引っ張って、溺れさせるものですからね、ええ、ええ、可笑しいでしょうとも』と言ってきかない。
真理は何度も『そんなことない』と、言ってやらなければならなかった。
河原が心を開いたのは、真理が決してバカにしないとわかったことも大きかった。
いつしか『教え子の中からオリンピック選手をだすことが夢なんです』と打ち明けてくるほどに、その距離は縮まっていたのだった。
「でも、本当に助かりましたよ。河原さんがいなかったら、どこかに時間潰しに行かなきゃならなかった」
真理は改めて礼を言った。
今日は祭り当日。
つぐみが恵美から浴衣を借りることになった、というところまでは真理も承知していたのだが、ついでに真理の部屋で着付けもしてもらうという話になっていると聞かされたのは、昨日のことだ。
なんでも、恵美がドーナツ屋のバイトの午後からのシフトに入ってしまったからだと言う。
当初は、恵美が武田家に出向くことになっていたのだが、急遽、恵美のバイト先にも祭りの会場にも近い、真理の部屋を使おうということになったようだ。
別に、部屋を使うのは構わないが、真理のところはワンルーム。
女の子の着替えの横で、お茶を飲んでいるわけにもいかない。
そんなわけで、真理はどこかで暇つぶしをしなければならなくなったのだ。
玄関を出た真理は、さて、どこに行こうかと頭を巡らせ、ふと、目に入った隣のインターホンを押してみたのだった。
仕事で不在ならそれでいい。
しかし、幸いにも河原はこの日、仕事が休みで、快く真理を部屋に上げてくれたのだった。
「それにしても、笑っちゃいますよね。ついこの間、『わらしを頼みます』なんて言っておいて、自分がお世話になっちゃってるんですから」
ハハハと笑う真理に、河原が尋ねる。
「で、そのわらしっこは、今、どうしてるんです?」
「ああ、わらしね。わらしは……」
もちろん、真理はわらしを連れて出るつもりだった。
しかし、本人が嫌がったのだ。
女の子が同時に二人も訪ねてくるなんてことは初めてで、その華やいだ雰囲気がわらしの好奇心を刺激したのだろう。
どうしても部屋に残ると言ってきかないので、真理は仕方なしにわらしを部屋に置いて来たのだった。
彼女たちの邪魔をするんじゃないぞと言いきかせたら、『しない、しない!』と頷いていたので、真理はそれを信じることにした……したのだが……。
――仮に邪魔をしようとしても、折鶴ちゃんでさえ見えなかったんだから、恵美ちゃんとつぐみちゃんに見えるわけないしなあ……。
「うん、まあ……、大丈夫だろう」
少し飲みごろになったお茶をまたひと口、ずずずと啜って、真理は自分に言い聞かせるように呟いた。
実際、わらしはとても良い子にしていた。
お行儀よく、ロフトの上から目だけを覗かせ、恵美とつぐみにまとわりつくようなこともしない。
いつもなら、浴衣を広げて歓声を上げる二人についてまわり、「ねえ、ねえ、それなに?」と、相手がわらしに気づこうが気づくまいがお構いなしに話しかけているところだろう。
それをしないのは、真理の言いつけを守っているから、というだけではなかった。
この間の折鶴とのことが、思いの外、わらしには堪えていたのだ。
期待し過ぎていたのかもしれない。
真理も男わらしもカラスも、人形遊びの相手としては物足りない。
そこへ、新しく人間の女の子の友達ができるかもしれないと聞かされた。
わらしは折鶴に会う前からワクワクしていた。
実際に会ってみて、胸がドキドキ高鳴った。
ドキドキのワクワクで胸は風船のように膨らんで……、しかし、それは呆気なく萎んでしまった。
折鶴はわらしのことが見えなかったのだ。
風船なんてものは大抵、空気が抜けると共にぴゅ~とどこかに飛んで行ってしまうものだが、この風船はどういうわけだか、わらしの胸の隅っこに萎れたままずっと引っかかっていた。
真理に浴衣を買ってもらって、いっぱい笑って、いっぱいはしゃいでも、萎れた風船は吹き飛んで行ってくれなかった。
人間だったら、この感情を『寂しい』と表現するのかもしれないが、わらしはそんな言葉を知らないから、代わりに『つまんない』と言う。
こんな風に、つまんないなあと感じる日は、実はこれまでにも何度かあった。
田舎の家にいた頃なんかは、特に。
柳田家に親戚一同が集まるとき、家の前を近所の子供たちがワイワイ通り過ぎるとき。
そんなとき、わらしは一人ぼっちで松の木の枝に座り、『つまんないの』と、足をぶらぶらさせるのだった。
しかし、寂しいのではなく、つまんないのだということにしておくのは、何かと便利でもあった。
寂しさを解消するのは大変だが、『つまんない』は子供たちの笑い声を聞いているうちに消えてなくなってくれるからだ。
だけど、今回の『つまんない』はなかなか頑固で、そう簡単に消し飛んでいってくれそうにない。
それでも、恵美とつぐみがキャッキャとはしゃぐ姿は、わらしの心を少しずつ軽やかにしてくれるのだった。




