16話
あのとき――
それは、一週間ほど前のことだった。
その日、真理はわらしを無理矢理連れ出しての散歩の途中だった。
最初はぐずっていても、外に出てしまえば、こっちのもの。
わらしは楽しげに散歩をしだす。
逆に、真理の方が暑さにバテてしまうほどだった。
「そろそろ帰ろう」
「まだやだ」
立場が逆転した二人が言い争いを始めた頃、偶然バッタリ河原と出会った。
「あっ、河原さん」
真理は思わず声をかけてしまったが、実はまだそれほど親しい間柄ではなかった。
部屋で倒れていた河原を介抱して、そのお礼に、とキュウリをもらいはしたが、そのキュウリは玄関前に置かれていただけで、手渡しされたものではない。
彼の姿を何度か見かけることもあったが、そそくさと隠れるように部屋に入ってしまうのも相変わらずだった。
なのに、どうして声をかけてしまったのか。
「あっ、どうも」
「いやいや、どうも」
おかげで、ぎこちなく会釈し合うハメになってしまった。
そんなギクシャクした空気をひと息で吹き飛ばしてくれたのは、少女特有の甲高い声だった。
「せーんせーい!」
真理には、すぐにそれが折鶴だとわかった。
スイミングの帰りだからか、いつもは軽やかに揺れるツインテールがしっとりと濡れている。
外で『先生』なんて呼ばれるのは照れ臭かったが、駆け寄ってきた折鶴に真理は小さく手を振って応えた。
しかし、全く同じタイミングで河原も手を振り返すのを見て、真理は思わずぎょっとした。
合わせ鏡のように、河原もぎょっとした顔でこちらを見ていた。
――『先生』って、俺のことだとばかり思ってたけど、まさか勘違いだったとか……? うわ、俺、恥ずかし……。
思えば、以前にも、人ごみの中で自分に手を振られたと思って手を振り返したら勘違いでした、なんてことがあった。
世の中に勘違いは数あれど、これほど恥ずかしい勘違いはない。
真理は誤魔化すように、挙げた手で頬を掻く振りをした。
しかし、勘違いだったというのなら、折鶴は河原に手を振ったということになってしまう。
「えっと……、折鶴ちゃんと知り合いなんですか?」
真理の問いに答えたのは河原ではなく、駆け寄ってきた折鶴だった。
「河原先生は私のスイミングのコーチです」
「ええっ!」
驚く真理を尻目に、折鶴は今度は河原に向き直る。
「柳田先生はうちの家庭教師なんですよ。先生たちはお友達だったんですか?」
真理と河原はお互い顔を見合わせた。
隣の部屋に住む者同士が、たまたま一人の少女の『先生』になるなんて、世間というのは思った以上に狭いらしい。
「友達っていうか……」
何と説明したらいいかわからないでいると、真理の袖をくいくいと引っ張る者がいる。
「この子が真理の言ってた、折鶴?」
わらしが目に星をいっぱい浮かべて立っていた。
期待に満ち満ちた顔を見て、真理は折鶴を紹介すると約束していたことを思いだした。
――そうだった!
だけど、それは折鶴がわらしを見ることができないかもしれないなんて、全く想定していなかったからで……。
「えーっと、折鶴ちゃん……」
真理は折鶴の目を覗き込んだ。
どうか、わらしの姿が映し出されていますように、と祈りを込めて。
真理の隣でわらしは、ありもしない石ころを二、三個蹴飛ばす素振りをしていた。
人間の女の子を前にして、いつになく、もじもじしているようだった。
「あの……、あのねっ、お人形遊びは好き? わたちとお人形遊び、する? もしも、人形持ってないんなら、貸してあげてもいーよ?」
ドキドキドキドキ。
わらしの鼓動が聞こえてきそうだ。
そう言う真理だって、ドキドキしている。
何故か河原も一緒になってドキドキしているようで、心臓の辺りを押えながら折鶴の返事を待っている。
しかし……。
「折鶴ちゃーん、バス出ちゃうよー!」
スイミングの仲間はほぼ全員、マイクロバスに乗り込んでしまったようだった。
「あっ、もう帰りのバスの時間だ!」
折鶴は弾かれたように踵を返した。
もちろん、礼儀正しい折鶴のこと、真理と河原にお辞儀をするのを忘れない。
「じゃあ、先生、私、帰ります」
その間、折鶴の視線がわらしの位置で止まることはなかった。
折鶴のレンズは、そこには何も映しださなかったのだろう。
イルカのイラストが描かれたマイクロバスに乗り込んだ後も、折鶴は窓から「さようなら~」と手を振ってくれたが、それはあくまで真理と河原に向けてのものだった。
遠ざかっていくマイクロバスを、わらしはただ黙って見送っていた。
「あ、あのさ、わらし……」
真理が肩に手を置くと、わらしは振り返って「えへ」と笑った。
「お人形遊びはできないね。だって、わたちのこと、見えないみたいだもん」
そう言って、わらしがまた「えへへ」と笑うから、真理は何も言えなくなってしまう。
「わたちのこと、見えない人間の方が多いんだよ。真理、知ってた?」
「あ、ああ……。知ってた」
でも、折鶴のような素直ないい子だったら、見えるのではないかと勝手に期待してしまったのだ。
だからと言って、わらしにまで期待を持たせてしまったのは失敗だった。
「あーあ、カッパはいいなあ。人間に見てもらえるもんね」
冗談めかして言ってはいるが、これがわらしの本音だろう。
言われた河原は、少し困った顔で皿のある辺りをポリポリと掻いた。
水かきが退化してしまった手は、さほど人間と変わらない。
カツラの下にお皿があるなんてことも、一見わからない。
カッパはとても上手く人間社会に溶け込んでいた。
それに比べて、座敷わらしは昔のままだ。
人間の方が変わってしまって、今では座敷わらしを見ることができる者はほとんどいなくなってしまった。
そのうち誰も見れなくなってしまったら、座敷わらしはどうなってしまうのだろう。
以前、田舎の家でお供えもされず、忘れ去られ、紙のように軽くなってしまっていたことがあった。
あのままいれば、わらしの存在そのものがなくなってしまったのかもしれない。
真理は自分の想像の恐ろしさに、身震いをした。
しかし、これは、カラスたち動物にも同じことが言えるだろう。
人間が繁栄するにしたがって追いやられていく動物もいれば、カラスのようにちゃっかり人間の生活圏で生き抜く動物もいる。
座敷わらしにはカラスのような逞しさもなければ、カッパのようなしたたかさもない。
淘汰される側の種族なのかもしれない。
河原はわらしに同情心を抱いたようだった。
そうでなければ、こんなことを言い出さなかっただろう。
「えーと……、それじゃあ、今度、私にお人形を貸してください。私とお人形遊びをしましょう」
神経質そうな中年男が、至って真剣な顔でそう言ったのだった。
――ああ、そうだ。あの日からだ。
多分、あの日から、真理の知らないところで河原はわらしの相手をしてくれていたのだ。
およそ人形遊びとは無縁そうな男が、わらしの相手をするのは大変だっただろうに。
「河原さん!」
真理は大声で呼び止めた。
びっくりしたのか、河原の痩せた背中がビクンと震えた。
しかも、真理が駆け寄ってきて九十度のお辞儀なんかをしたものだから、河原はそこでまたびっくりして、すっかり固まってしまった。
「な、なんですか、どうしたんですか」
何が何だかわからないという顔の河原に、真理は九十度のお辞儀の姿勢のまま、「あのっ、今日は一日、わらしの相手をしていただき、ありがとうございました!」とお礼を言った。
「べ、別にたいしたことしてませんから~」
「いいえ。俺は家にいないことも多いんで、本当に助かります。できればこれからも、わらしと仲良くしてやってください!」
「わかりました。わかりましたから」
いつまでも頭を下げられていると、心苦しいのだろう。
逆に、半泣き状態で「どうか頭を上げてくれ」と懇願されてしまう。
真理からしたら、先程お門違いの嫉妬から失礼な態度を取ってしまったことをもっともっと詫びたかったのだが、仕方がない。
真理は顔を上げると、「よかったな、わらし。俺がいないときは河原さんが遊んでくれるってさ」と、
わらしのおかっぱ頭をわしゃわしゃと撫でた。
「もー、なにすんのー」
ぶーぶー文句を言う、わらしに真理は「それじゃあ、今から俺と買い物だ!」と言って白い歯を見せた。
「買い物? スーパーマーケット?」
「食料品じゃないよ。浴衣を買いに行くんだ」
「浴衣!?」
「ああ、浴衣だ。夏祭り用のな」
「夏祭り!?」
「行きたくないか?」
真理が聞けば、「行きたい!」と即答される。
「よし、じゃあ行くぞ」
「わーい、わーい」
真理の周りをぴょこたんぴょこたん跳ねる、わらしを見て、河原はホッと安堵の表情を浮かべて踵を返した。
「どんな柄がいいかなあ」
「金魚! 金魚がいい!」
背後からは、いつまでも楽しげな会話が聞こえてくる。
いつもは俯きがちに歩く河原も、この日は自然と顎が上がり、足取りも軽く家に帰ったのだった。




