15話
バイト先の武田家から真理が暮らす学生街まで、駅にして、たったの二駅。
最初は渋っていた家庭教師のバイトを、引き受けることにした理由の一つは、この近さにあった。
しかし、実際バイトを始めてみると、『もう少し遠くても良かったのにな』と思うことがしばしばある。
今日のような猛暑日には、特に。
――もう降りなきゃなんないのか……。
電車が駅のホームに滑り込むと、真理の顔は自然とげんなりしてしまう。
折角乾いた汗が、自動扉が開いたら最後、またじわじわと滲んでくるに決まっている。
行きは午前中なのでまだマシだが、帰りの時刻は午後三時。
この時間帯の太陽は、まだまだ充分威勢が良い。
冷房の効いた車内から一歩踏み出すのに、多大な勇気が必要だった。
こんな日は、無駄に出歩かないに限る。
誰もがそう思うのか、駅前を歩く人もまばらだ。
だから、その二人組の姿が余計に目についたのかもしれない。
「わ、わらし!? それに、カッパ……じゃなくて、河原さんも!? ど、どうして、こんなところに!?」
かなり珍妙な取り合わせだった。
座敷わらしとカッパが、駅前の道をまるで親子のように仲良く歩いているではないか。
真理が目をしばたたかせていると、遅れて向こうも真理に気がついたようだった。
「あっ、真理だー!」
小さな手がぶんぶんと勢いよく振られる。
そのたびに、おかっぱ頭が合わせて揺れた。
「真理、おかえりー」
いつもは玄関先で聞く言葉を駅前で聞かされるのは、なんだか妙な気分だった。
「おかえりって……。まだ家に着いてないけどな」
子供みたいな屁理屈だと、言ったそばから後悔した。
しかも、自分が思っていたよりもずっとずっと不機嫌そうな声になってしまった。
「あれ? 真理、怒ってるー?」
不思議そうに小首を傾げられ、真理のイライラは、何故か、増幅された。
「怒ってないよ」
「えー、怒ってるよ。なんでー?」
自分では本当に怒っているつもりがなかったのだ。
だが、確かに、胸の辺りがスッキリしない。
胸の中の真っ白な部分を、誰かにボールペンでぐしゃぐしゃと塗りつぶされたような、そんな気分だ。
怒ってないのに怒っていると言われて、イライラしたのか。
それとも、この暑さがそうさせるのか。
自分のことなのに、よくわからない。
わからないまま、ふと目線を落とすと、わらしの靴が目に入った。
真っ赤な可愛いこの靴は、真理がプレゼントしたものだ。
二人で散歩に行く用にと、選んだものだ。
そんなことを考えていたら、次の瞬間、胸のモヤモヤがぐんと一回り大きくなった。
「だいたいなんだよ。俺が散歩に行こうって言っても、なかなか『うん』って言わないくせに。河原さんとならいいのかよ」
感情に任せて、口から言葉が勝手に出てくる。
言葉にしてみて、驚いた。
これが真理の本心だ。
要は、わらしが自分以外の誰かと楽しげに出歩いているのが気に食わないのだ。
「えー、散歩じゃないよ。お買い物だよー。カッパがお買い物に行くって言うから、一緒に来たんだよ」
しかし、真理の繊細な感情にわらしが気づくわけがない。
反論は微妙に的外れで、それが真理を余計に苛立たせた。
そんな空気を河原は敏感に察知して、わらしの擁護を買って出た。
「そ、そうなんですっ。このわらしっこは最近、私の仕事が休みの日に、よくうちのベランダに遊びに来るんです。あっ! あくまでベランダまでですよ~。決して中には入りませんから。このわらしっこは、その辺りは本当に律義でして……、あー、えーと、なんの話でしたっけ? ああ、そうそう、それで今日もうちのベランダで遊んでいたんですが、私は二時からスーパーマーケットのタイムセールにどうしても行かなければならなくて、ですね。というのも、今日はキュウリがですね、すごくすごく安かったんですよ~!」
どうもキュウリの話になると、河原はエキサイトしてしまうらしい。
「ほら、見てください」
話は見事に脱線し、ぎゅうぎゅうに詰め込まれたエコバッグを掲げて、キュウリ談義が始まってしまった。
その隣では、わらしも全く同じポーズで小さな箱を得意げに見せびらかしていた。
「スーパーマーケットでね、このチョコ、買ってもらたのー。おもちゃもついてるんだよ」
チョコのおまけのおもちゃの車は小さいのに非常に出来が良く、車輪がちゃんとくるくる回る。
多分、チョコの方がおまけなのだろうし、わらしもこの小さい車が目当てだったのだろう。
わらしは楽しげに空中で「ぶ~ん」と車を走らせている。
いつもなら、わらしがニコニコ顔でいれば、真理だってつられて笑顔になってしまうものなのだが、この日は『そうか、よかったなあ』と、一緒に喜んでやることはどうしてもできなかった。
代わりに出たのは、子供の頃、真理自身がよく母からもらったお小言だった。
「夕飯前にお菓子なんか食べちゃ、ダメじゃないか」
自分が大人になって、母と全く同じことを言うようになるなんて、真理は思ってもみなかった。
しかし、わらしは真理とは違う。
真理は叱られたら、しゅんとなって、ごめんなさいと言ったものだが、わらしはぷいと横向いて、反省する素振りも見せない。
逆に、しおしおと萎れてしまったのは河原の方だった。
「あわわわっ、申し訳ないです。その家にはその家のルールがあるというのに、私ときたら……。以後、気をつけます」
はしばみ色の瞳を伏せて、「では、私はこれで」と、河原は踵を返してしまう。
「あっ、そんなつもりじゃ……」
真理は言いかけて、じゃあ、どんなつもりだよ、と自分に問い返す。
嫉妬して、八つ当たりしたのは事実だ。
――ああ、俺、最悪……。
がっくりと垂れた頭を、いや、しかし、とぶんぶんぶんと勢いよく振って、「でも、あの人、この間までは誰とも関わり合いたくなさそうだったじゃないか。なのに、急に親切になっちゃってさ……」と往生際悪く、ぶつぶつ文句を
言ってしまう。
「そうだよー」
ぶ~んと、車を走らせながら、わらしがそれに同意する。
「前までは、ベランダから窓をトントンしても『忙しい』って言って、布をシャーって閉めちゃってたんだよ。
でも、この間らへんから急に一緒に遊んでくれるようになったんだよー」
わらしも河原の急激な変化を、不思議に思っているようだった。
――この間から?
この間、この間……と呪文のように唱えていた真理は、「ああ、あのときか」と思い当った。




