10話
家庭教師のアルバイト初日をなんとかそつなくこなした真理は、その夜、夢も見ないほどの深い深い眠りに落ちた。
生徒は友人の弟だし、家の人は皆、気のいい人たちだったが、それでも、気は遣っていたようで、家で夕飯を食べたら、そのままベッドに倒れこみ、その後の記憶は一切ない。
翌朝、男わらしに無理矢理起されでもしなければ、夜まで眠っていたに違いない。
それ程、深く寝入っていた。
「まったく! いつまで寝てるんだ! だらしのない奴め! 夏休みだからって、ぐうたらするな!」
偉そうに腕組みをして、寝起きの真理に説教を垂れる男わらしの鼻の先で、真理はぴしゃりと窓を閉めた。
「わっ! 待て待て! 待ってくれよ!」
ドン、ドンと窓を叩かれて、真理は嫌々ながら再び窓を開けた。
そもそも冷気が逃げるから、窓は極力開けたくないのだ。
しかし、真理の通う大学の講師・菅原惣一の家を棲家と決めた男わらしは、もう決して他の家には入らない。
ベランダから先、入って来れない男わらしのために、真理はエアコンの設定温度を二度下げてまで、窓を開け放ってやっているというのに、それがわざわざ嫌味を聞かされるためだなんて、理不尽過ぎるではないか。
「な、なんだよ、本当のことを言っただけで、そんなに怒るとは器の小さい男だな。少しはうちの惣一を見習ったらどうだ。それに、惣一は夏休みだからと言って、生活態度は何ら変わらないぞ。あんたは本当にだらしなさ過ぎる」
座敷わらしといっても男子中学生くらいに成長してしまっている彼は、紺地の着物も寸足らずで、裾から脛がのぞいてしまっている。
そのシルエットは大きな子供のようで愛らしかったりもするのだが、口を開けばやはり小憎らしい。
もう一度窓を閉めてやろうかと思ったが、それより先に反撃に出たのは、背後からひょっこり顔を出した、小さなおかっぱ頭だった。
「むうっ、真理はぐうたらじゃないもん!」
真理が悪しざまに言われて、黙っていられなかったらしい。
座敷わらしはプンスカ怒っていた。
しかし、男わらしに「昼まで寝ているのをぐうたらと言わずに何と言うんだ」と言われてしまうと、二の句が継げない、わらしだった。
それというのも、男わらしに叩き起こされたのは真理だけでなく、わらしも同じだったからだ。
昨夜、真理が早々に寝てしまったため、夜遅くまでお人形遊びをしていても、わらしを叱る者がいなかった。
それで、調子に乗って随分と夜更かししてしまい、ついさっきまでぐっすり眠ってしまっていたのだ。
「むうっっ……!」
でも、なんとか言い返してやりたかったのだろう。
「真理はぐうたらだけど、惣一みたいにもじゃもじゃ頭じゃないもん!」
考えに考えた末に、わらしが捻り出したのは、小学一年生レベルのただの悪口だった。
いや、わらしは見た目でも精神年齢でも、小学一年生程度なのだから、これは妥当な結果だろう。
それに対して、わらしの子供っぽい挑発にまんまと乗ってしまう男わらしこそ、中学生くらいの見た目に反して、中身はまだまだ子供だと証明してしまったようなものだ。
「なっ……、もじゃもじゃだと!?」
現在世話になっている家の主を馬鹿にされて、男わらしは気色ばんだ。
「真理なんて……、真理なんてなあ……、ただひょろっと背が高いだけの、ウドの大木じゃないか!」
「むうっ! 真理はウドの大木だけど、鳥の巣頭じゃないからいいんだもん!」
――おい! ウドの大木ってところも反論しろよ!
真理は思わずつっこみたくなったが、二人の座敷わらしの低レベルのケンカには口を挟む隙がなかった。
「鳥の巣頭だと!? 惣一はな、学校の先生なんだぞ! 真理は生徒じゃないか。先生と生徒なら、先生の方が偉いんだからな!」
「ふーんだ。真理だって、先生だもん」
「え……、そうなのか?」
「そうだよー。先生だよー。エライんだよー」
先生と言ったって、家庭教師のアルバイトなのだが、男わらしの反論をピタリと止める効果はあったようだ。
それに気を良くして、わらしが嵩にかかって攻撃する。
「それに、真理はわたちのこと、ちゃあんと見てくれるもん! ご飯だって、すごーくおいしいんだから!」
小さな子供は、自慢するのが大好きだ。
それで、誰かが傷つくとか、そういったことまで考えが及ばないのだ。
真理のように座敷わらしを見ることができる人間はごくごく稀で、それがわらしにとって自慢なのはよくわかる。
しかし、「遊ぼ」と言えば遊んでもらえ、「お腹すいた」と言えばご飯が出てくることを、自慢なんかしてはいけない。
寂しがりで、構ってちゃんで、本当はいつだってその家の人間と遊びたい座敷わらしにとって、真理のような存在と出会えたのは奇跡のようなものなのだから。
男わらしが、どれほどそれを渇望しているか……。
しかし、相手を思いやるには、わらしはまだまだ幼すぎる。
真理はやれやれと、ため息を吐いた。
――なんだって、俺がフォローしなきゃなんないんだ?
そう思いつつも、すっかりしょげてしまった男わらしを元気づけるのに、真理はついつい必死になってしまうのだ。
「でもさ、最近は菅原先生と夢の中で会えるんだろ? 夢の中でいっぱい遊んでもらってるんだろ?」
「毎晩、夢見るわけじゃないけどな」
すっかり拗ねてしまった男わらしに、面倒くさい奴だなあと思わないでもない。
でも、やっぱり放っておけなくて、真理は言葉を尽くして宥めようとしてしまうのだった。
「それでも、夢の中の会話を朝起きても憶えてるようになったんだから、大した進歩じゃないか!」
「そ、そうなんだよ! 惣一はすぐにお供えを忘れてしまうんだが、夢の中で文句を言えば、次の日、ちゃんとカップ麺をお供えしてくれるんだよ!」
「すごいじゃないか!」
「ああ、惣一が作ってくれるカップ麺は、この世で一番美味いからな!」
「えー! 真理だって時々カップ麺作ってくれるし、すごくおいし……」
折角男わらしの機嫌が上向いたところで、また引っ掻き回されたら堪らない。 真理は、慌ててわらしの口を手の平で塞いだ。
もがもがと暴れる、わらしは放っておくことにして、「で? 何か用事があったんじゃないのか?」と、真理は男わらしを促した。
真理が起き出してくるまで、しつこくベランダの窓をドンドンと叩いていたのには、それなりの理由があってのことだろうと思ったのだ。
「ああ、そうだった」
男わらしは、聞かれてようやく何しに来たのか思い出したようだった。
「実は、今日はカッパを見に来たんだ。いるんだろう? カッパが隣に」
どこでそんな話を聞いたのかと思ったら、庭に来たカラスに聞いたと言う。
カラスという奴は、つくづくお喋りな生き物だ。
「で、カーテンの隙間から隣の部屋の中を覗いたんだが、誰もいないみたいなんだ。なあ、カッパはどこに行ったんだ?」
そんなつまらない理由で自分は叩き起こされたのかと、わなわな震える真理の心も知らず、男わらしは「川にでも泳ぎに行ったかなあ。行き違いだったかなあ」と首を捻っている。
この辺りを流れる川なんて、とてもじゃないが泳げるような代物ではない。
護岸工事によって、コンクリートでがっちり両岸を固められ、流れる水は底が見えるほど少ない。
そんなところで、いい年をした大人の男がピチャピチャと水浴びなんかしていたら、変な人がいるとすぐに通報されてしまうだろう。
ひっそりと暮らしたがっているように見える河原が、そんなことをするわけがない。
「家にいないんなら、働きに行ったんじゃないか?」
真理にはそっちの方が当然のように思えるのだが、男わらしにはカッパが働くことの方が逆に驚きだったようだ。
「えっ!? 働いてるのか、カッパが!?」
「そりゃ、働くだろう。でなきゃ、どうやってここの家賃を払うんだよ」
「それもそうだが……。緑色の妖怪を雇ってくれるところがあるのか……?」
人間社会はそこまで寛容になったのかと、男わらしは口をあんぐり開けている。
真理は「いやいやいや」と、男わらしの誤解を一つずつ解いてやらなければならなかった。
「えっ!? 緑色じゃない? 甲羅が取り外し自由? 水かきは退化してるって? それに、皿を隠すためにカツラをつけてる……だと!?」
男わらしは口をパクパクさせてから、「それじゃあ、ただのおっさんじゃないか―っ!」と喚き散らした。
「そうだよ。見た目は普通の人間なんだよ」
「そ、そんなんで、カッパと言えるのか?」
「そんなことを言ったら、おまえだって、座敷わらしらしくない見た目じゃないか」
「何を言う! 俺様はどこからどう見ても座敷わらしだろうが!」
本人には自覚がないと見え、男わらしは、フンと胸を張った。
しかし、空気がしぼむように、すぐにしょんぼりと項垂れてしまう。
「そうか……。カッパは人間社会に馴染んでいるのか。人間はカッパを見ることができるからな……。ズルイな……」
河原をズルイと言った男わらしの気持ちは、真理にも理解できた。
しかし、普段の河原の姿を知っている真理には、それに同意することはできない。
誰とも目を合わせずに、いつも縮こまるようにして歩いている彼の姿を知っているから。
きっと彼はこれまでなるべく人と関わらずに、生きてきたに違いないのだ。
「そうは言ってもさ、あの人はあの人なりに苦労があるんじゃないのかなあ。人間社会で妖怪が生きていくのって、結構大変だと思うぞ」
真理が言うと、「そういうもんかな」と男わらしも納得したようだった。
「さてと」
真理はしんみりしてしまった空気を打ち払うように、パンパンと手を打った。
「それじゃあ、朝ご飯にするか……、って、もう昼だな。なあ、おまえも食べていくだろ?」
当然、男わらしも食べていくものと思っていた。
家でお供えされるようになったとはいえ、せいぜいカップ麺くらいのものだ。
男わらしが世話になっている家の主は、料理は一切できないし、やれないという人だ。
だから、せめて遊びに来たときくらいは美味しいものを食べさせてやりたいと、真理は常々思っていた。
しかし、男わらしは「いいや、今日は帰る」と言う。
遠慮しているのかと思ったが、そうではなかった。
「今日は惣一が、一日家にいるらしいんだ」
だから家に帰るのだ、と満面の笑みで言われたら、「そうか」としか言えないではないか。
しかし、この場面でも空気を読めない者が一人……。
「えー、帰っちゃうの? なんでー? 惣一がお家にいたって、遊んでもらえないよ?」
「コラ」
またもや無神経発言をする、わらしのおかっぱ頭を真理は軽く小突いて諫めるが、男わらしはあまり気にしていないようだった。
「それでも帰る。惣一には俺様が見えないから、きっと縁側で一日中本を読んでるだけだろう。でも、俺様はそんな惣一の横でけん玉をするのが好きなんだ」 一時期、頻繁に遊びに来ていた男わらしが、ここのところ顔を見せなくなっていた。
その理由が、夏休みに入って、菅原惣一が家にいることが多くなったからだと、真理は今更知ったのだった。
しかし、わらしはどうにも納得がいかないようだった。
「なんでー、なんでー? ご飯食べようよー! そんで、食べ終わったら、お人形さん遊びしようよー!」
――そうか、それが目的だったか。
久し振りにやって来た男わらしとお人形さん遊びがしたくて、わらしはさっきから駄々をこねていたのだ。
着物の裾にまとわりつく、わらしを無下に扱うこともできないのだろう。男わらしが困り顔で、真理を見つめてくる。
小さな体を引き離すのは忍びないが、それは真理の役目だった。
「お人形さん遊びはまた今度すればいいだろ?」
「やだやだやだ! 今日じゃなきゃ、やだ!」
小学生並みと言ったことは、訂正しなければならなくなった。
わらしは今や、赤ちゃんに逆戻りだ。
――参ったな。
真理が人形遊びにつき合ってやれたらいいのだが、真理にはそれがどうも苦手だった。
そもそも人形遊びは女の子の遊びで、男の真理には何が面白いのかも、楽しみ方のコツも知らない。
――それを言えば、男わらしだって同じだよなあ。
結局、わらしは人形遊びを満足いくまで堪能したことがないのかもしれない。
そのとき、真理は大事なことを思い出した。
「ああ、そうだった。わらし、武田の家にな、わらしと同じくらいの年の女の子がいるんだよ。折鶴ちゃんっていうんだけどさ。その子なら、人形遊びしてくれるんじゃないかなあ」
「ホント?」
「ああ。優しい子でな、わらしと友達になってくれるってさ」
「ともだち……?」
ともだち、ともだち、とわらしは口の中で転がすように何度か呟いた。
それから、パタパタとロフトに駆け上がって行ったと思ったら、市松人形の松子を引っ張り出して、自分の胸の中におさめるように強く強く抱きしめた。
「松子ちゃん、どうしよー。ともだちがお人形を持ってなかったら、松子ちゃんを貸さないといけないよ? 松子ちゃん、ともだちに貸してあげてもいい?」
松子は口を利かないが、喋れたとしても嫌だとは決して言わないだろう。
窓辺に立つ真理からはロフトの奥は見えないが、はしゃぐわらしを見つめる松子の眼差しは、真理と同じくらいに慈しみに溢れているに違いないのだ。
しかし、このとき、男わらしだけは渋い顔をしていた。
真理の肘で二度、三度と小突いてきて、「いいのか。あんなこと言って」と、囁いてくる。
「ん?」
いけないなんてことが、あるのだろうか。
きょとんとする真理に、男わらしは苛立ちをを隠さなかった。
「あんた、子供なら誰でも座敷わらしが見えるなんて思ってないだろうな?」
ほとんどの人間は、座敷わらしを見ることができない。
子供の方が見えやすいのは、それだけ純粋だからだろうか。
しかし、子供でも見えない子がいることくらいは、真理だって知っている。
「わかっているなら、その折鶴って子が見えないかもしれないと、何故考えないんだ」
「え、だって、折鶴ちゃんは優しくて、すごくいい子なんだ。それに、純粋だし……」
言いながら、真理は段々と不安になってきた。
どうして、折鶴なら見えると思い込んでいたのか、今となってはわからないほどに。
折鶴は初対面の真理の目を、真っ直ぐ見つめてきた。
その瞳は澄み切った湖面のようで、わらしの姿もきっと映るに違いないと、何故か強く確信してしまっていた。
それに、こんな子がわらしの友達になってくれたら、という気持ちもあった。
しかし、男わらしは渋い顔のままだ。
「この土地の子供は、大人びているからなあ……」
――折鶴が『見える子』だと、確認してから言えばよかったか……。
真理は少し後悔し始めていた。
「……ん? じゃあ、俺は何で見えるんだ? 俺だって、この土地の子供だけど?」
ふと感じた疑問を真理はそのまま口にするが、男わらしは「知るか」とすげない。
それにもめげずに、「いやでも、不思議過ぎるだろう、俺」と、尚もしつこく言い募れば、男わらしは講釈を垂れる前準備として、コホンとひとつ咳払いをした。
「いいか? 人間の年の数え方には二通りある」
「ふむふむ」
「ひとつは実年齢。そして、もうひとつは精神年齢と言う」
途中まで真面目に聞いていた真理は、バカにされたことに気づいて、ムッと顔をしかめた。
しかし、真理は怒るに怒れなかった。
いつの間にか真理の足もとに戻ってきていた、わらしが「あとねー、ケッカン年齢とハダ年齢があるんだよー」などと能天気に言うものだから、すっかり毒気を抜かれてしまったのだ。
「おまえはまた……、どこでそんな言葉を覚えてくるんだ……。テレビか? テレビだな?」
真理はやれやれと、またため息を吐いたのだった。




