9話
午前中の成果といえば、折鶴が絵日記を仕上げたことくらいのもので、他の年長の生徒たちが手にしたペンは、宙を彷徨ったり、兄妹同士、誰かをつついたりすることはあっても、ノートの上で文字を刻むことは殆どなかった。
真理が朱鷺也のために用意してきたカリキュラムも、結局、殆ど進まないまま。
階下から「お昼よ~!」声がかかって、タイムアウト。
さっきまでダラダラしていた子供たちだが、こんなときばかりは迅速で、ノートとペンを放りだすと、あっという間に部屋を飛び出していってしまった。
子供部屋に一人、取り残された格好の真理は呆気にとられるばかりだ。
しかし、武田の母はお客様にも容赦ない。
「先生も早く下りて来なさ~い!」
思いっきり怒鳴られて、真理は、あわあわと子供たちの後を追いかけなければならなかった。
一階では、昼食の準備が着々と進められていた。
ちゃぶ台を二つ、つなげ、そこに皿が次々と並べられていく。
「コップも人数分出してちょうだい」
「はーい」
甲斐甲斐しく母のお手伝いをしているのは、折鶴とひたきの二人だった。
つぐみは朱鷺也と一緒に既に座についていて、行儀悪く、箸で皿をチンチン鳴らしている。
「ちょっと、お母さん! 何これ? 冷やし中華なのにキュウリばっかりじゃん!」
冷やし中華と言えば、彩り鮮やかな具が放射状に盛られた、目にも美味しい一品の筈。
しかし、今、目の前にあるのは、麺を覆い隠すほどの細切りキュウリの山だった。
「ねえ、ねえ、チャーシューはぁ? 玉子はぁ?」
皿を円グラフに置き換えると、キュウリが九十パーセント。
残り十パーセントのスペースに、チャーシューや錦糸卵といった具が申し訳程度にのっているといった具合。
これでは、つぐみでなくとも文句の一つも言いたくなるだろう。
といっても、母には必殺のひと言、『嫌なら、食べなくて結構』があるので、つぐみに勝ち目はないのだが。
それでも、つぐみはしぶとく「動物性タンパク質がないと、成長できないよ~」と、小声で文句を言い続けていた。
――すまん、つぐみちゃん。俺のせいだ。
昼飯がこんなことになったのは、真理が大量にキュウリを持って来たからだとしか思えない。
真理は心の中で、ひっそりとつぐみに詫びを入れたのだった。
「先生。先生は、ここに座ってください」
戸口に突っ立たままだった真理は、折鶴に手を引かれ、朱鷺也の隣に着席させられた。
「いつもは鷹にぃの席だけど、今日は鷹にぃ、いないから」
そんなことを言われたら、五人兄妹のお兄ちゃんになったような気になってしまうではないか。
――『お兄ちゃん』か……。
一人っ子の真理にとって、それはとても甘い響きだ。
しかし、パチンと手を合わせて、一斉に「いただきます」と食べ始めると、バカな妄想をしている暇などなくなってしまう。
この家の人間は、とにかく、食べるのが早いのだ。
一人暮らしはどうだ、とか、実家には帰っているのか、だとか、矢継ぎ早の質問攻めにあって、それに馬鹿丁寧に答えていたせいもあるが、気づけば、麺がまだ皿に半分以上残っているのは真理だけとなっていた。
小学生の頃、昼休みになっても一人、教室に居残りで給食を食べさせられている子がいたが、正に、今、そのような状況に追い込まれようとしている。
真理は、大慌てて麺を啜った。
丁度そのタイミングで、誰かのスマホが軽快なメロディーを鳴り響かせてメッセージの受信を知らせたものだから、真理は思いきりむせてしまった。
ゲホゲホと咳きこみながら、「すみません」と無作法を詫びるが、あんなに騒がしかった食卓が、今はしんと静まり返っている。
――あれ? 何、この空気?
真理が目をパチクリさせていると、それまで福々しい笑顔を浮かべていたお母さんが、般若の形相になっていた。
「ご飯のときはスマホをやらない! その約束で買った筈でしょう! 誰? ルール違反はスマホ没収!」
あまりの剣幕に、思わず「俺じゃないよな?」と、真理は自分のジーンズのポケットを探らずにはいられなかった。
――そうだ。俺のスマホは部屋に置いてきたバッグの中だった。
自分ではないことを確認し、真理はホッと胸を撫で下ろした。
真理と同様に、ハーフパンツのポケットを確認してから、つぐみも「私じゃないよ」とかぶりを振る。
朱鷺也もまた、麺を啜りながら「俺じゃねえよ」と否定した。
「じゃあ、誰なの!」
再び母の雷が落ちる寸前、ひたきが「ごめんなさい」と名乗り出た。
「ポケットに入れっぱなしだったの、忘れてた」
「あら、ひたき、おまえだったの?」
普段、スマホをいじってばかりで叱られるのは大抵、朱鷺也か、つぐみだ。
ひたきは真面目な優等生だから、ダメと言われたことはしない。
しかし、ひたきがスマホで叱られないのは、それだけが理由ではなかった。
彼には連絡を取り合うような友達がいない。
ひたきのスマホは、もっぱら家族との連絡用なのだった。
「へえ、おまえ、友達いたのか……」
だから、兄の朱鷺也がこんな失礼な感想を持つのも当然のことだった。
「うん……。一学期の終わりに……できたんだ……」
恥ずかしそうに、だけど少し嬉しそうにひたきが頷く。
そんな息子の顔を見たら母だって、ルール違反を不問に付すしかない。
「今は電源を切って、返信するのは後にしなさい」
ひたきが「はい、ごめんなさい」と素直に応えたことで、この話はこれでおしまい、とばかりに母は台所へと立った。
真面目でおとなしい三男坊が、家のルールを破ったことが、母として少し嬉しくもあったのだ。
朱鷺也にしても、母と全く同じ気持ちだった。
ひたきは休みの日でも、いつでもつぐみと一緒。
つぐみが女友達と遊びに行くときなどは、一緒に交ぜてもらう始末。
兄として、弟の行く末を気にかけていたのだ。
唯一、眉間に皺を寄せていたのは、つぐみだけだった。
「誰から?」
つぐみは冷やし中華を平らげると真っ先に、ひたきのポケットからスマホを抜き取った。
「わっ、返してよ!」
ひたきがいくら腕をバタつかせてスマホを取り戻そうとしたところで、つぐみに敵うわけがない。
つぐみは当然という顔で、スマホの中身をチェックした。
「この『柴山くん』って……、あの柴山大我のこと? いつからあいつと仲良くなったの?」
「えっと……、二年になって同じクラスになってから」
「なんで? あいつ、サッカー部の有名人じゃん。あんな人気者とひたきに何の接点があるっていうの?」
「なんでかわかんないけど、僕が教室で一人でいると、何かと話しかけてくれるんだ。それで、夏休み中、遊びに行こうって誘ってくれて……」
まるで取り調べのようなやり取りが続く。
といっても、つぐみの詰問口調は、ひたきを心配しているからこそだ。
「まさかパシリにされてるんじゃないでしょうね?」
「ち、違うよっ! 柴山くんは良い人だよ!」
「ふん、どうだか。あんた、ボヤっとしてるから、いじめられてても気づかないんじゃないの? 柴山が今日、連絡を寄越したのだって、夏休みの宿題をやれとか、どうせそんなことでしょ」
私が目を離すと碌なことがない、とぼやく、つぐみに、ひたきはこのとき、生まれて初めて反抗した。
「そ、そんなんじゃないよ!」
ひたきにしては、大きな声だった。
驚いて固まってしまった、つぐみからは、非力なひたきでも難なくスマホを奪い返すことができた。
それをぎゅっと胸の前で握りしめるが、ひたきにとって大事なのはスマホ本体ではない。
その中の友人からのメッセージの方だ。
「柴山くんはそんな人じゃないよ。い、いくらつぐみちゃんでも、柴山くんの悪口言ったら許さないから!」
ひたきはそう言うと、自分の食器を台所にさげた、その足で、二階へと駆け上がっていってしまった。
「何、あれ? ねえ、何、あれ?」
ひたきにこんな態度を取られたのは初めてで、つぐみは怒るべきか、困惑すべきか、自分でもよくわかってないようだった。
そんな妹を宥めようと、朱鷺也が「まあ、放っといてやれよ」と声をかけるが、それは火に油を注いだだけだった。
「は? 私が放っといたら、ひたきなんて、またいじめられるに決まってるじゃん!」
「おまえ、過保護過ぎるんだよ。そんなんじゃ、あいつ、いつまで経っても独り立ちできないだろ」
「ひたきが独り立ち? 私がいなきゃ、何にもできない、ひたきが?」
フンと鼻を鳴らした、つぐみに朱鷺也は「あいつもおまえがいなけりゃ、自分で何でもするようになるだろ。必要に迫られてな」と、キッパリ言い返す。
つぐみは、それに上手く反論できなかった。
言えたのは「ごちそうさま」の一言だけ。
立ち上がる際、ちゃぶ台を思いきり叩くようにして両手を突いたのも、皿とコップを片す際にガチャガチャと大きな音を立てたのも、全て単なる八つ当たりだ。
「友達のとこに行ってくる」
台所の母にぶっきらぼうに、そう告げると、つぐみは足音も荒く、家を出て行った。
それまで、ただ成り行きを見守っていた真理は、横に座る朱鷺也を肘でつついた。
「ちょっと言い過ぎじゃないか?」
しかし、「あのくらい言って、ちょうど良いんスよ」と、朱鷺也は少しも悪びれない。
「だって、あいつ、クラス替えの度に、なんでひたきと同じクラスじゃないのかって、職員室に乗り込むんスよ。学校側が双子を同じクラスにするわきゃないのに」
「へえ、それは……、勇ましいな……」
「でしょ? ひたきには自分がついてなきゃって、思い込んじゃってるんだよなあ、あいつ……。けど、片割れがいないとダメなのは、ひたきじゃなくて案外つぐみの方なんじゃないかって、俺は思ってたりするんですよね」
――へえ……、意外と……。
真理は隣の少年を横目で見た。
いかにも気弱そうな弟が、武田家の心配の種なのは理解できる。
しかし、朱鷺也は、活発で、一見、手のかからない妹のことも同じように気にかけているようだ。
真理よりも年下だが、彼もまた、しっかりと『お兄ちゃん』している。
真理が密かに感心していると、向かいの席で、それまで黙々と麺を啜っていた折鶴がパチンと手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
小さいのに折鶴も、ちゃんと自分の食器は自分で下げる。
この家の子供たちは、実によく躾されている。
「折鶴、今日は午後からスイミングだっけか?」
朱鷺也が訊けば、折鶴はコクンと頷いた。
ツインテールがゆらゆら揺れる。
「へえ、折鶴ちゃんは水泳を習ってるのか」
すごいね、と真理が褒めると、折鶴は「はい、鷹にぃの学校の近くのスイミングスクールです」と、ハキハキ答える。
「へえ、うちの大学の近くにスイミングスクールがあるなんて、知らなかったなあ。あ、でも、ってことは、折鶴ちゃん、電車で通ってるの?」
こんな小さな子供が……と驚く真理に、折鶴は「送迎バスが出てるんです」と笑って答えた。
だから、この辺の子供は皆、同じスイミングスクールに通っているのだという。
「じゃあ、行ってきまーす」
元気よく飛び出していくツインテールを、真理は手を振って見送った。
その横で「さ~て、それじゃあ、俺も遊びに行くかな」と、朱鷺也が立ち上がろうとするのを、真理はその首根っこを掴んで、すんでのところで制した。
「君は午後も勉強だろ」
危うく、「行ってらっしゃい」と送り出してしまうところだった。
朱鷺也はチェッと舌打ちしたが、下の子たちがいなくなった午後こそ、勉強がはかどるというものだ。
こうして、家庭教師としての真理の株は益々上がっていくのだった。




