6話
友人の武田に言わせると、真理は最近、変わったのだそうだ。
「なんか、浮かれてるっていうかさー」
大学の構内を二人して歩いていたときに、そんなことを突然言われ、真理は面食らってしまう。
「浮かれてる? 俺が?」
脇に建つ二号館の窓ガラスに自分の姿を映してみるが、真理にはさっぱりわからなかった。わかりやすく、頭の周りに音符でも飛び交っていればいいのだけれど。
「最近、付き合いも悪いしさー」
そう言って、武田はハッとした顔になる。
「ま、まさか……、彼女ができたんじゃないだろうな?」
ぐい、と詰め寄られて、真理は思わず仰け反ってしまう。
「えぇ~、彼女!? ないないないない」
ここのところ、たて続けに誘いを断っているのは事実だった。だからと言って、どうしてそんな発想になるのか。
「どっちかが先に彼女ができたら、その友達を紹介するって誓い、忘れてないだろうな」
「いや、だから、彼女なんて、ないって」
これだけ言っても、武田はまだ疑いの眼差しだ。
「でも、今日だって、そそくさと帰ろうとしてるしさー」
「いや、だって、おまえ、今日はバイトだろ」
武田は最近、大学近くのドーナツ屋でバイトを始めたばかりだ。女の子の多い職場のようで、真理からしたら、武田の方が余程浮かれているように見える。
「……そうだけどさー」
「今度、ドーナツ買いに行くからさ。ほら、バイトの時間があるんだろ」
そうして、二人は門のところで別れた。
武田はまだ何か言いたげだったが、諦めたように手を上げて、バイト先へと歩いて行く。
真理とはいうと、もちろん、これからデート……なんてことがあるわけもなく……。
いそいそと向かった先は、スーパーマーケットなのだった。
実は、武田の勘は、それ程的外れなわけではなかった。
本人が自覚してないだけで、実際、真理の生活は大きく変わっていたのだ。
まず第一に、スーパーに行くようになったこと。
スーパーなんて、真理には無縁の場所だった。食事はコンビニか外食で、自炊なんてしたこともなかったのだから。
引っ越し荷物の中に母が無理矢理突っ込んだ、炊飯器だって、箱にしまったままだったのだ。
それが今では、ご飯を炊くどころか、スマホでレシピを検索して、簡単なおかずを作ったりしている。母が知ったら、さぞ驚くだろう。
「おっ、肉豆腐か。『レンジで簡単』ってところがいいねえ。今夜のおかずはこれするか」
献立が決まったら、後は早い。豆腐、玉ねぎと、次々とカゴに入れていく。
――さて、肉はどれにしようか。
フンフンフ~ン。
知らず知らずのうちに鼻歌がこぼれる。
そのとき、唐突に、無邪気な子供の声が肉売り場に響き渡った。
「ママ~、このお兄ちゃん、『ごきげん』だよ~」
右斜め下から、小さな男の子が真理を覗きこんでいる。子供の言う、「ごきげんなお兄ちゃん」とは、真理のことらしい。
「こら、翼!」
母親らしき女性が、慌ててやって来て、男の子の手を引っ張った。
「ごめんなさいね、この子、覚えた言葉をすぐ使いたがるんです~」
ペコペコ謝りながら去って行くが、その間の親子の会話が結構ひどい。
「だって、本当にごきげんさんだったんだもーん」
「本当のことでも言っちゃダメなの! 変な人に近づいちゃダメって、いつも言ってるでしょ!」
いたたまれない真理は、適当に肉のパックを選んで、そそくさとレジに向かうほかない。
しかし、恥ずかしさでいっぱいの真理は、気付いていなかった。こんな子供にさえ、浮かれていると見抜かれたのだということを。
自分の変化には、案外本人は無頓着だ。
もう一つ、真理の生活習慣で大きく変わったことがある。
それは、玄関を開けるとき……。
「ただいま」
と言うようになったこと。
そして、
「おかえりなさーい」
中から返事があることだ。
トテトテトテと、足音がして、小さな塊が真理の腹めがけて、ボフンと体当たりしてくる。真理はバンザイをして豆腐を守った。
「お腹、空いたろう。すぐ作るからな」
「わーい」
多少の嫌なことくらいなら、吹っ飛ばす、そのくらいのパワーが座敷わらしの「わーい」にはある。それが聞きたくて、真理は早く帰りもするし、ご飯も作るのだ。
――彼女……か。
彼女がいるんじゃないかと、しきりに疑っていた武田の顔を思い出す。
――そそくさと家に帰る理由が、こんなに小さな、しかも人には見えない座敷わらしのためだなんて、武田が知ったらどんな顔するかな。
そんなことを考えるが、武田に教えるつもりはない。
信じてもらえないだろうというのもあるが、この小さな存在を自分の心の中だけに大事にしまっておきたいという気持ちが強かった。
田舎から帰った、あの日からずっと、真理の部屋に住みついてしまった座敷わらし。
最初こそ「奥の間が無い」などと、ぶーぶー文句を言っていたが、ロフトを勝手に自分のスペースにして、今では結構快適に過ごしているようだ。
真理が自炊を始めたのも、座敷わらしのためだった。
何より炊き立てご飯が大好きな座敷わらしのため、ご飯を炊いたのが始まりだった。
基本的に、一日一食、ご飯さえあれば満足なようだったが、真理と一緒に食卓を囲むので、座敷わらしも三度三度、おかずも残さず食べている。
食事の支度が苦にならないのは、「美味しい、美味しい」と言って食べてくれる相手がいるからだろう。
「いーたーだーきます」
「めしあがれ」
「ごちそーさま」
「おそまつさま」
こんなやりとりが、いちいち楽しい。
この生活にただ一つ、難点があるとすれば……。
「さあ、松子ちゃん、おねんねのお時間ですよ」
洗い物をする真理の後ろで、この日も座敷わらしはお人形遊びをしている。
「真理におやすみなさいの挨拶をしましょうね」
「わー、いいから、いいから。早く寝かせてあげなさい」
真理は泡だらけの手を振って、しっしっと追いやった。
どうにもこの市松人形だけは苦手なのだ。
座敷わらしが、唯一、田舎から持って来たものだった。
おもちゃの山を全部持って来れなかったから、と座敷わらしは言うが、真理からしてみれば、よりによってそれか、という気持ちだ。
こんな不気味な人形、できれば部屋に置いておきたくはない。
しかし、松子は座敷わらしの一番のお気に入りなのだ。家に置くなとは言えなかった。
それでも「まさか髪の毛が伸びたりしないよな?」と念を押さずにはいられない真理だったが……。
座敷わらしには「真理は怪談話を信じるの?」と、ぷぷぷと笑われてしまったのだった。
そもそもおまえの存在だって、一般人は信じてないぞと言いたかったが、それをぐっと飲み込んで、真理は妥協案を出した。
夜は必ず松子に布をかけておくこと。
夜中に、松子と目が合って、悲鳴を上げないという自信はない。
だから、松子ちゃんが可哀想と、初めは渋っていた座敷わらしを、真理は「人形だって夜は寝かせてあげなくちゃ」と、必死になって言いくるめたのだ。
こうして、真理は夜中の平穏を確保した。
しかし、夜中にトイレに行きたくなったときに限って、松子の布がファサッと落ち、その度に真理は「ひぃっ!」と悲鳴を上げるのだった。