4話
わあ、わあと喚いている間に、真理はふわりと着地させられていた。
着地と言っても、ベランダに着いたつま先から、そのままへにゃへにゃと座り込んでしまうという、なんとも無様な有り様だったが。
でも、本当に怖かったのだから仕方がない。
――カラスの奴ら……! 仕切り板を越えるだけでいいものを!
今はしれっとした顔で、手すりに並んでとまっている十羽のカラス。
彼らは実際、子犬のように怯える真理が面白くて、必要以上に高く舞い上がったのだった。
思いっきり文句を言ってやろうと、睨みつけた真理だったが、口から出たのは正反対の言葉。
「ありがとな」
ぶっきらぼうながらも礼を言ったのは、隣まで運んでくれたことに変わりはないからだ。
それに、今はカラスと揉めてる時間などない。
緊急事態の真っ只中なのだから。
「だ、大丈夫ですか?」
わらしとカア吉の言う通り、部屋の中では確かに隣人が倒れていた。
不法侵入になるのでは、と、ためらう気持ちはもうない。
真理は隣人に駆け寄って行く。
が、一歩部屋に足を踏み入れた瞬間、ムワッとした熱気に包まれて、真理は溜まらず低く呻いた。
「う……っ!」
暑くて湿った空気がまとわりつかれて、体が急に重くなったような気がした。
「な、なんだ、この部屋は……、蒸し風呂かっ!」
真理は、とっさに窓の上を見た。
つくりは真理の部屋と、ほぼ同じ。
見上げた位置には、クーラーがついている。
それが稼働していないのを確認して、真理は目を剥いた。
「ありえない……!」
わらしが開けるまで、窓は閉まっていたという。
この部屋は、もう何時間も閉めっきりだったに違いない。
外の気温は三十度。
部屋の中は、きっとそれ以上。
そりゃあ、誰だって具合悪くもなるだろう。
男に目立った外傷がないことから、熱中症の疑いが濃厚だ、と真理は思った
とはいえ、応急処置の仕方なんて、真理にわかる筈もなく、うつ伏せではあまりに苦しそうだからと、ひとまず男の体を仰向けにしてやることにした。
そうっと、そうっと。
男の体を抱え起こした真理は、そのあまりの軽さに、まず驚いた。
とても成人男性とは思えない。
いつだって俯き加減で、廊下でバッタリ会ってもそそくさと玄関に入ってしまう彼を、真理はこのとき初めてまじまじと見つめた。
若草色のTシャツから覗く腕も、カーキ色のハーフパンツから伸びる足も、まるで鶏ガラのようだ。
好んでチューリップハットをかぶっているなとは思っていたが、帽子の下が、耳の辺りまで刈り上げた、おかっぱヘアーだということも、今、初めて知ったことだった。
そのおかっぱヘアーが、汗で額に張りついている。
切り揃えられた前髪の下、瞼が薄く開いた。
「あっ! 意識がある! あのっ、あのっ、大丈夫ですか?」
真理の必死の呼びかけに、男は薄い唇を微かに動かした。
――何か言いたいのか?
けれど、男のか細い声は、カア吉の「あーっ!」という叫び声に掻き消されてしまう。
「こら! カア吉、うるさいぞ!」
「だって、旦那!」
「だって、じゃない! 野次馬するならとっとと帰れ!」
真理は、しっしっと追い払う仕草をして、ベランダのお喋りカラスを黙らせた。
男のかすれ声は、それでようやく聞き取れるくらいの小声だった。
「……え、なんですか? し、にがみ? ……死神がお迎えに来た?」
しばらく、なんのこっちゃと考えて、男が真理を死神と間違えているのだと気がついた。
まだ朦朧としているらしい男を、真理は「しっかりしてください!」と励ました。
「死神なんかじゃないですよ、隣の部屋の柳田ですよ! 決して怪しいじゃ……、いや、勝手に部屋に上がりこんじゃっちゃってますけど……。そ、そんなことより! 今すぐ救急車を呼びますから!」
そうは言ったものの、今、手許にスマホはない。
だけど、この部屋にだって電話くらいあるだろう。
立ち上がりかけたところ、真理は男に腕を引っ張られた。
倒れ伏していた彼の、どこにそんな力があったのかというくらいに強く。
ぎゅっとしがみつくような、その手を、真理はやんわり外そうとして、思わず「ひっ!」と変な声を出してしまった。
真理を掴む男の手が、まるでミイラのように干からびて見えたからだ。
しかし、瞬き一回で元通り。
ただの痩せ細った、血色の悪い男の手に戻っている。
力強く捕まれたと思ったのも気のせいだったのか、いかにも病人のように弱弱しく手が置かれているだけだった。
真理まで暑さにやられてしまったのかもしれない。
幻覚を見るようじゃ、真理だって危ない。
一刻も早く救急車を呼んで、この部屋を出なければ。
「きゅう……きゅうしゃ……、やだ……」
男はうわ言のように呟いた。
「……え? 救急車を呼んでほしくないってことですか?」
本人が望まないのなら、勝手に呼ぶわけにもいかない。
でも、それで本当にいいのだろうか。
真理が逡巡していると、また男がうわ言を言う。
「み……ず、みず……」
「あっ、ああ、水ですね」
真理は慌てて、台所から水を一杯汲んできた。
コップを持つ手が覚束ない男のために、真理が口元まで運んでやる。
男はそれを一気に飲み干した。
「もっとゆっくり飲まないと」
真理の忠告も聞かず、男は「もっと」とせがんでくる。
そこで、先程真理に黙れと言われ、おとなしく従っていたカア吉が、もう我慢できないとでも言うように口を挟んできた。
「旦那、コップ一杯の水なんかじゃ、埒があきませんよ。風呂に水を張って、ドボンと突き落としてやればいいんですよ」
熱中症だとしたら、確かに体を冷やした方がいいのかもしれない。
「けど、いきなり水風呂なんて、大丈夫かなあ。弱ってる人間に、ちょっと乱暴過ぎやしないか?」
まだはっきりと覚醒していなさそうなこの状態で、バスタブで溺れたりしたら大変だ。
そんな真理の懸念をカア吉は軽く一蹴した。
「はい、人間でしたらね、確かに水風呂は危険かもしれません。でも、旦那、この男はカッパですから。水に漬けてやればすぐ元通り、ですよ」
「え、え、えっ!?」
すぐにはカア吉の言葉を理解できなかった。
呑み込むのには、少々時間が必要で……。
真理は倒れている男をじっと見つめた。
それから、カア吉を見て、その隣のわらしに目をやって、それから、改めてもう一度男を見て、それでようやく声を発した。
「カッパ!? えぇーっ!!」




