27話
「おーい、やーなーだーくーん!」
キャンパスの向こうから手を振り振り、走って来る人がいる。
途中で何度も学生にぶつかっては、もじゃもじゃ頭をぺこりと下げて。
そうして、ようやく真理の前に辿り着いたとき、その人は軽く肩で息をしていた。
この光景は、もう御馴染みだ。
相変わらずの菅原だ。
「や、やあ、柳田くん、元気だったかい? 変わりはないかい?」
「変わりも何も……。つい三日前に、先生の家の庭を掃除したばかりじゃないですか」
わざわざ走ってきて何事かと思ったら、菅原が聞いてきたのは当たり障りのない近況で、真理は呆れたように肩をすくめた。
「たったの三日で、報告しなくちゃならないような近況なんて、あるわけが……」
そこまで言って、真理はグッと言葉に詰まった。
実は、あったのだ。
あの日以来、真理の身の回りでは大きな変化がひとつ、起きていた。
庭掃除をした翌朝、真理を無理矢理起こしたのは目覚まし時計ではなかった。
外があまりにもうるさくて、とてもじゃないが寝ていられなかったのだ。
何事かとカーテンを開け、その目に飛び込んできた光景に真理は思わず目を見張った。
ベランダを埋め尽くしていたのは、カラス、カラス、そしてカラス。
よく黒山の人だかり、と言ったりするけれど、カラスの群れでまさしく黒い山ができていた。
呆然と立ち尽くす真理に向かって、その一羽一羽が何かを必死に訴えかけてくる。
その様子で、何となく察してしまった。
真理にカラスの言葉を解する能力があると聞きつけたのだな、と。
「あのおしゃべりカラスめ……」
カア吉が吹聴して歩いたに違いない。
真理は小さく毒づいたが、もちろんそんな小声はカラスの鳴き声によってかき消された。
「うるさいぞ。静かにしてくれ!」
今度は大きな声を張り上げたが、騒ぎは一向に収まらない。
真理の脳裏には、『近所迷惑』の四文字がチカチカと点滅し始めていた。
そこへ、バッサバッサと飛んできたのがカア吉だった。
「旦那の迷惑になるじゃないですカア」
やっと話の通じる相手が現れた。
真理にはカア吉が救世主に見えた。
と言っても、ことの元凶はこのカア吉にあるのだが。
「おい、ちょっとこれ、どうにかしてくれ。話ができると思って、一斉に鳴いてくるんだろうけど、俺にはカアカアと鳴いてるようにしか聞こえないんだ」
こうして比べて見てはっきりしたのだが、顔の区別がつくのも、言葉がわかるのもカア吉だけだった。
他のカラスは、真理にとってはただのカラスだ。
それを聞いた、カア吉は「やはり私は特別な存在なのですね」と目をうるうるさせて、いたく感動している様子。
「そんなこと、どうでもいいから、早く何とかしてくれー!」
「はいはい、この場はこのカア吉が上手く収めてみせましょう」
カア吉は羽で胸を一つ叩くと、その場をテキパキと仕切り出した。
一日、五羽まで。
五回鳴いてみてダメだったら、諦めて帰ること。
言葉が通じるのか試したいとカラスたちが訴えたようで、それならば、とカア吉はルールを敷いた。
真理も当然、それにつき合うことが要求された。
面倒なことこの上ないが、毎日こんな騒動が続くよりは余程マシだと真理も納得し、それから、日に五羽、カア吉に連れられて、カラスがやって来るようになった。
五回鳴いてもらって、真理が「ごめん、わからないや」と謝る。
その繰り返しだ。
これが、真理の最近変わったことのひとつだ。
今日もカア吉は真理のエージェントのような顔で、五羽のカラスを連れてきているだろう。
――どうせ試してみたって、無駄なのにな。
真理にはカア吉以外は、ただのカラスにしか見えないのだから。
――それにしても……。
真理はあの日の騒動を思い出して、ついつい吹き出しそうになった。
ようやくカラスが帰って一段落した真理は、何かが足りないことに気づいた。
わらしだ。
こんな騒ぎには、必ず首を突っ込みたがる、わらしがいないのだ。
カラスが来ると、大抵一緒にベランダにいるのだが……、カラスの集団が帰ったベランダには、黒い羽根が散乱しているだけだった。
カラスとわらしはケンカもするが、仲よく遊んだりもする間柄だ。
しかし、興奮状態の集団が小さなわらしに気が回るだろうか。
押し合いへし合いしている間に、ベランダから突き落とされでもしていたら……。
真理はゾッとしながら、ベランダから身を乗り出してみたが、下の道路にわらしの姿はない。
わらし、わらしっ!
真理は次に、ロフトのはしごを駆け上がった。
すると、そこに、お腹を天井にして、くあー、くあーと寝息を立てている、わらしを見つけた。
わらしが作る大の字は、大と呼ぶにはあまりにも小さかった。
真理はへなへなと脱力しながら、その小さな大の字に布団をかけてやったのだった。
そのときの、わらしの幸せそうな寝顔を思い出すたび、真理は笑いが込み上げてくる。
――あの騒ぎの中で、爆睡だもんなあ。
また思い出し笑いをしそうになって、真理は唇をぎゅっと引き締めた。
目の前の菅原に、気安く「いやー、こんなことがあったんですよ」と話せるような内容ではないからだ。
その代わりに真理は「変わりなんてないですよ」と、素知らぬ顔で答えるのだった。
「そ、そうだね。ついこの間、会ったばかりなのに、近況を聞くなんておかしいよね」
そう言いつつも、「でもね、僕にはあったんだ」と、訴えてくる菅原は、どうやら自分の話を聞いてほしくて真理に話を振っただけのようだった。
真理の肘を掴んで、グイグイと引っ張っていった先の中庭で、菅原は唐突に切り出した。
夢を見たのだ、と。
「は? ……夢ですか?」
「そう、夢! いつだったか、きみに聞かれて、僕は夢を見たことがないって言っただろう? それが、この間、見たんだよ。しかも、はっきりと覚えてるんだ」
菅原は、すごいだろう、と少し得意げな顔だ。
何か重大な話があるのかと身構えていた真理には、「はあ」と曖昧な返事をすることしかできない。
「それがね、夢の中で僕は寝ているんだよ。面白いだろう?」
「……え、ああ……、面白いですね」
「それでね、どこかから、カツン、カツンと音が聞こえてきて――」
カツン、カツン――
どこからか聞こえてくる、その音で菅原は目を覚ました。
眠い目を擦って辺りを見回して、体が痛いのは昼間慣れない草むしりに励んだからだけでないことに気づいた。
ふかふかの布団の上ではなく、菅原が眠りこけていたのは居間の畳の上だったのだ。
「いつの間に寝てしまったんだろう」
開けっ放しのガラス戸から、青白い月の光が差し込んでいた。
昼間、真理たちに、「物騒だから戸締りはちゃんとしてくださいね」と注意されたばかりだというのに。
あの気のいい学生たちは、自分のことをまるで小さな子供か何かだと思っているのではないか、と菅原は常々危ぶんでいたのだが、これでは彼らが不用心だと怒るのももっともだ。
自嘲気味に小さく笑い、ガラス戸を閉めに立ち上がった菅原は、そうして、庭に少年を見つけた。
少し寸足らずの着物を着た少年は、一人、けん玉に興じていた。
カツン、カツン――
小気味良い音を立て、玉が上手い具合に皿におさまる。
「上手なもんだなあ」
何故、こんな夜遅くに少年が庭に入り込んでいるのかと疑問に思う前に、菅原は感嘆の声を上げていた。
少年はくるりと振り返ると、得意げな顔で胸を反らした。
「ウサギとカメを歌い終るまで、玉を落とさないでいられるぞ」
そう言うと、少年は「もしもしカメよ~」と歌い出し、宣言通り、一度も玉を落とさずに歌い切ってみせた。
「へえ、すごいなあ」
パチパチと拍手する菅原に、少年は「ん!」とけん玉を押しつけてくる。
菅原は、「いや、僕はいいよ」と首を振るが、少年は「順番こだから」と言ってきかない。
仕方がないから受け取った菅原は、けん玉を見て小さく息を飲んだ。
「これ……、昼間、神棚にあげたやつじゃないかい?」
それから、少年をしげしげと見つめ、「もしかして、きみ……いや、あなたはこの家の守り神ですか」と訊ねた。
「ふん、どう呼ぼうが人間の勝手だ。確かに、貞蔵や康男といった、この家の代々の当主はみんなそう呼んでたな。……『お兄ちゃん』と呼ぶ人間もいたけどな」
少年は、最後にチラッと菅原を窺うように見た。
『お兄ちゃん』と呼んでほしそうな素振りだ。
しかし、自分よりも遥かに若く見える彼を『お兄ちゃん』と呼ぶのは、菅原でもさすがに抵抗がある。
といっても、少年のような風貌は、守り神のイメージとも程遠いのだが。
「えっと、じゃあ、守り神様と呼ばせてもらいます」
気を悪くするだろうかと思ったが、少年はただ「ふん」とつまらなそうに鼻を鳴らしただけだった。
「そんなことはどうでもいいから、早くけん玉をやってみせろ」
守り神様に「やってみせろ」と言われたら、やらないわけにはいかない。
菅原は戸惑いながらも、「もしもしかめよ~」と歌い出した。
初めは歌の途中でつっかえたりもしたが、何度も交代でやるにつれ、段々と長く続くようになっていった。
しかし……
「――歩みののろい~、あーっ!」
あともうちょっとのところで、また玉を落としてしまい、菅原は子供のように地団太を踏んだ。
「もう一回、もう一回続けてやらせて」
顔の前で両手をパチンと合わせてお願いする菅原は、自分が敬語を使うのも忘れていることに気づいていなかった。
それが癇に障ったわけではないだろう。
守り神の少年は、静かに首を振った。
「ダメだ。もう時間だ。空が明るみ始めた。惣一はそろそろ起きる時間だろう」
「え……僕が、起きる?」
まるで今、眠っているかのような言い草だ。
そう思った瞬間、菅原は、ああ、これは夢の中なのだ、と悟ってしまった。
「もっと眠っていたいな」
楽しい夢なら覚めないでほしいと、思うのが人情だろう。
それを聞いて、守り神の少年の顔がパアッと明るくなった。
「またいつでも夢の中で会えるさ」
「本当かい?」
「ああ、本当だ。そんなことより、夢から覚める前に願い事をしておけ」
「願い事?」
「ああ、けん玉をくれただろう? まあ、元から俺様の物だったんだけどな。でも、神棚にお供えしてもらったからには、正式に何かお礼をしなければならないからな」
「突然、そんなことを言われても」
住む家も、仕事もある。
お願い事なんて、何も思いつかない。
強いて望むとすれば、現状維持か。
「はあ~、本当に惣一は欲がないな。こういうときに大金持ちになりたい、くらいのことを言えないもんか?」
もっと野心を持て、とガミガミ叱られて、菅原は苦笑いを浮かべるしかない。
「お金なんて、食べるに困らないくらいあればいいんだよ。ああ、でも、願いと言えば一つ、あるにはある……かな」
「な、なんだ、それは? 早く言えよ」
「家庭を持ちたい」
「家庭? 結婚したいということか? 好いた相手がいるのか?」
縁結びを頼まれたと思い込み、守り神の少年はウキウキ顔で尋ねてくる。
菅原は慌てて否定した。
「あっ、違う違う。相手がいるわけじゃあないんだ。今すぐどうこうってことではなくて、将来的に温かい家庭を持ちたいなあという、……まあ、いわば願望かな」
以前から結婚願望があったわけではない。
このまま一人で気楽に暮らしていくのもいいかなと、思っていたくらいだった。
しかし、そんな菅原に、今、心境の変化が起きていた。
「今、とっさに考えたんだ。僕が死んでしまったら、この家はどうなるんだろうって。こんなに可愛い守り神様がついている、この家を僕の代でなくしてしまうわけにはいかないなって」
「……こ、この俺様が可愛いだと?」
さすがに神様に対して『可愛い』は失礼だったかと、菅原は慌てて言葉を改めようとしたのだが、守り神様の顔をよく見れば、怒った口調とは裏腹に、口許には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
どうやら気を悪くしたわけではないらしい。
ホッとしたのも束の間、辺りに白いもやが立ち込めて、菅原と守り神はそれにすっぽり包まれてしまった。
ああ、目覚めのときがすぐそこに迫っている、と菅原は直感した。
「守り神様っ! 本当にまた会えますか?」
菅原は必死に呼びかけたが、返事はどこか遠くの方から微かに聞こえるだけで、何と言っているのかもわからなかった。
「――そうして、目が覚めたんだ。僕はちゃんと布団で寝ていたし、雨戸もちゃんと閉まっていたよ。だから、夢を見ていたんだと思うけど、こんなにはっきり覚えているなんて、なんだか不思議で、まるで現実だったんじゃないかと思えてくるんだ」
初めて夢を見たという菅原は、話している間中、とても楽しそうだった。
「でも、それから今日までまだ夢を見てないんだよ。もうあの夢は見れないのかな」
夢の中の、あの守り神様とは子供の頃にも遊んだ遊んだことがあるのだが、それは思い出せないようだった。
しかし、そんなことは大して問題ではないのかもしれない。
一緒に遊んだ夢を、今、菅原が楽しいと思っていること、そして、また夢で逢いたいと思っていることが大事なのだ。
「夢なら、そのうちまた見れますよ」
真理は、菅原家の方角に目を向けた。
あの小生意気な男の座敷わらしは、次に夢で逢うときのために、今頃けん玉を練習して、技に磨きをかけているに違いない。
だから、また夢を見てもらわなけりゃ困るのだ。
しかし、今はとりあえず、二人が夢の中で再会できたことを喜ぼうと真理は思った。
そして、今度、男わらしに会ったなら、言ってやらなくちゃ、と思うのだった。
良かったなあ。
大好きな菅原先生といっぱい遊べて、と。




