5話
「ああ、これで家に帰れるわ」
帰りの新幹線に乗り込むやいなや、大きく伸びをした母は解放感に浸っているようだった。
祖父の介護から、食事の支度、掃除洗濯までこなして、さすがに疲れたのだろう。やがて、電車が発車すると、こくりこくりと船を漕ぎだしてしまった。
母と比べたら、真理は殆ど何もしなかったようなものだ。
それでも、真理だって、母と同様、疲れていた。
叔母と母との三人での気詰まりな夕食は精神的に疲れたし、その後、奥の間で座敷わらしと遊んで、またもやそのまま畳の上で眠ってしまったせいで、肉体的にもしんどかった。特に、首から肩にかけての痛みがひどい。どうやら寝違えてしまったようで、横を向くことさえままならない。
こんな状態だったが、真理は家に帰ることを母のようには喜べなかった。
昨日の昼までは、あんなに早く帰りたいと願っていたというのに、いざ帰れるとなったら、後ろ髪が引かれる思いなのだから、面白い。
しかし、真理は知っていた。大して長くもない後ろ髪をくいくいと引っ張る、小さな手の正体を。
真理が帰るのを躊躇う理由は、座敷わらしが原因だ。あの小さな女の子のことが、気がかりで仕方がないのだ。
叔母は祖母とは違い、座敷わらしを大事にする人ではない。
帰る間際にもう一度、さりげなくお供え物のことを頼んだが、うるさい奴だという顔をされただけだった。あの調子では、今晩のお供えさえ望めないだろう。
あの薄暗い四畳半で、座敷わらしはまた腹を空かせてうずくまることとなるのだ。
想像しただけで、真理はいてもたってもいられなくなる。
だからと言って、今から引き返すわけにもいかない。
真理にできることといったら、定期的に祖父の介護に行く母に、お供え物を忘れないよう頼むことくらいだ。
もちろん、真理自身も都合がつけば行くつもりだ。
絶対に、近いうちに、必ず、座敷わらしに会いに行く。真理は、そう心に決めていた。
新幹線が関東平野に入り、東北の地を遥か後方に置き去りにすると、前方に見えてくるのは忙しない日常だ。
時の流れ自体が、東京仕様にテンポを上げているようにも感じる。
東京が近づいてくるにつれ、明日の大学はどうしようとか、自主休講にしてしまおうか、といった、現実的な問題が真理の頭を占めるようになっていった。
でも、これが真理の日常なのだ。
田舎での一泊二日の出来事は、まるっきり非日常だったのだ。
座敷わらしと遊んだ、あのゆるゆるとした時間など、真理の普段の生活ではどこを探したってない。
今となっては、まるで夢の中の出来事のようだった。
そこで、ふと疑念が湧いた。
――あれは全部、奥の間が見せた夢だったんじゃないだろうか。
あの屋敷で真理がしたことと言えば、座敷わらしと遊んだ以外は殆ど眠っていただけだ。
どこからが夢で、どこからが現実だったのか。今となっては線引きができない。
真理は段々と確証が持てなくなっていった。
――そもそも座敷わらしなんて、本当にいるのか?
座敷わらしときちんと別れの挨拶ができていれば、こんな疑念を持たずに済んだのかもしれない。
しかし、朝、奥の間の畳の上で目覚めた真理のその横に、座敷わらしの姿はなかった。
朝食後、屋敷中を探したのだが、あの小さな少女を見つけることはできなかった。
気まぐれな座敷わらしのことだ、どこかに隠れているのだろう。そう自分を納得させて、屋敷を出たのだが……。
一度疑い始めると、何もかもが信じられなくなってくる。
――祖父ちゃんも、結局あれからひと言も喋らなかったしなあ……。
祖父に座敷わらしの世話を頼まれたこと自体、疑わしく思えてくる始末だ。
今、この時点で、もうこんなにも自分の記憶を信じられなくなっているのだ、明日にはそれがもっとひどくなっているだろう。
そうして日々の生活に追われるうちに、そのまま忘れてしまうのかもしれない。
それは怖ろしいことだった。
あの楽しかった時間を忘れたくなんかない。
しかし、寝違えた首と肩が重くて痛くて、真理にはこれ以上、深く考えることはできなかった。
母とは東京駅で別れ、真理は一人、自分の暮らすワンルームへと帰っていった。
実家も東京にあるのだが、真理のわがままで大学近くのアパートに一人暮らしをさせてもらっているのだ。
実家の真理の部屋は、高校時代に使った机もベッドもそのままに残されている。
しかし、自分の部屋と言えるのは、もう既に一人暮らしの、このワンルームの方だと真理は思っている。
物件探しから自分でしたので、愛着があるせいかもしれない。
大学の近くで、比較的新しく、二階の角部屋で陽当たりも良い。おまけに、小さなベランダまでついている。ひと目で気に入った部屋だった。
何よりこの部屋の一番のこだわりは、ロフトが付いていることだろう。
いざ住んでみると、案外使い勝手が悪く、殆ど物置と化してしまっているが、それでもこのお洒落な造りに、真理は満足していた。
――ああ、早く部屋でぐっすり寝たいよ。
首と肩は益々重くなり、今や体中がだるかった。
だから、部屋の前に辿り着いたときは、ようやく帰ってきたという気分だった。玄関を開けたらバタンと倒れこみ、その場で眠れる自信があった。
真理は急くような気持ちで鍵を開けた。
耳の横から声がしたのは、玄関ドアが開くと同時だった。
「へぇ~、ここが真理のおうちかぁ?」
ぎょっとする真理の右肩に、座敷わらしが顎を乗せているではないか。
「お、お、おまえ……、いつの間にっ?」
思わず大声を出してしまった真理に、隣の部屋の住人が、何事かとドアを薄く開ける。
真理は慌てて、声を落とした。
「いつから、俺におぶさってた!」
「えー、ずっとだよ。でも、ずっとおんぶじゃないよ。頭の上に乗ったり、肩車だったり、いろいろだよ」
「いや、そういう問題じゃない。……でも、ああっ、それで、頭と肩が重かったのかーっ! ……いや、待てよ。なんで今まで姿が見えなかったんだ?」
新幹線の中では、座敷わらしのことを心配し、本当は夢だったんじゃないかと悩んだりもした。その間中、頭の上に乗っていたとはどういうことだ。
真理がじろりと睨むと、座敷わらしは、てへへと舌を出した。
「だって、一緒に行くって言ったら、ダメって怒られるかもしれないでしょ」
だから、姿を隠していたのだと、座敷わらしは言う。
「うわー、なんか頭がくらくらしてきた」
頭を抱える真理をよそに、座敷わらしはカエルのような身のこなしで、ぴょんと玄関に飛び移ってしまう。
「へぇ~、へぇ~、へぇ~」
狭いワンルームの中を歩き回り、しきりに驚いたり、感心したり。
ひとしきり部屋をチェックし終えると、座敷わらしはくるりと真理の方を振り返り、満面の笑みを浮かべた。
「ここ、気に入ったよ。わたちも今日からここに住む!」
「はあ?」
「わたちの部屋は奥の間でいいよ。ねえ、奥の間はどこにあるの?」
しばらくポカンと玄関前で立ち尽くしていた真理だったが、次の瞬間、近所迷惑なことも忘れ、大きな声で怒鳴っていた。
「ワンルームに奥の間なんて、あるかーっ!」