22話
「先生、これはどこに置いたらいいですか……って、先生? あれ? どこ行っちゃったんだ?」
真理がきょろきょろ見渡していると、向ヶ丘がやって来て、疲れ切った顔で首を振った。
「先生は隣の部屋です。もう掃除する気は失せてしまったみたいですよ。見てきてください。もう全然戦力になりませんから」
向ヶ丘はそう言うと、白い大きなマスクの下で、憤りと一緒にため息を吐き出した。
「ああ、もうっ、この神棚、埃まみれじゃないですか」
それから、まるで八つ当たりでもするように神棚の掃除に取り掛かった。
彼女が怒るのも当然だ。
菅原だけでなく、岡山田も丸岡も、もうとっくに脱落していた。
物置の暗がりで何か気配を感じると言い出した彼らは、掃除そっちのけで幽霊探検ごっこを始めてしまったのだ。
「どうして、皆、真面目に掃除しないんでしょう」
感情任せにバタバタとはたきを使うものだから、部屋中に埃が舞い上がる。
埃と一緒に怒りの火の粉まで降りかかってきそうで、真理はこの場から一旦退散することにした。
そうして、隣の部屋を覗いてみれば、散らかった部屋の真ん中に菅原は確かにいた。
整理整頓している途中で見つけたのだろう。古いアルバムに、すっかり見入ってしまっている。
マスクも手袋も外しているところを見ると、掃除のことなんて頭からすっぽり抜け落ちているに違いない。
「先生、何やってるんですか。片づけの最中に、アルバムを見返したり、本を読み返したりって、それ、絶対やっちゃダメなことですよ」
年上を怒るのは気が引けたが、真理は自分が言わなければ誰が言うと、菅原をキッパリとたしなめた。
しかし、菅原はというと、反省するどころか、戸口で仁王立ちしている真理を見て、ぷっと吹き出す始末。
「きみ、そうしていると、お母さんみたいだね」
確かに、割烹着のせいで、そんな風に見えなくもない。
が、中年の男に『お母さん』なんて呼ばれたくない。
「そう言う先生は小学生ですか」
真理がまなじりを吊り上げて言うと、菅原は「なかなか手厳しいなあ」と、テヘヘと笑った。
柳に風とはこのことで、菅原に、てへへと笑われると、怒りが削がれてしまうから不思議だ。
怒っているのが、なんだかバカらしくなってきてしまうのだ。
「でも、きみ、アルバムを一度めくると止まらなくならないかい? ほら、見てごらんよ。僕の写真もあるんだよ」
おいでおいでと手招きされて、真理は割烹着のポケットにマスクを突っ込み、菅原の横に腰を下ろした。
「ほら、この赤ん坊が僕。僕を抱いてるのが叔父だよ。若いなあ」
色褪せた写真の中で、赤ん坊が男の人の膝に抱かれていた。
赤ん坊が菅原だとは言われなければわからないが、一緒に写っている男性は優しげな目元の辺りが少し菅原に似ていた。
「先生……、この頃のことって、覚えてます?」
真理が尋ねると、菅原は「覚えているわけないよ」と笑った。
「そりゃあ、そうですよね」
赤ん坊の頃の記憶があったりしたら、その方が驚きだ。
それでも、菅原に尋ねたのは、記憶が残っていたらいいなあという願望からだ。
「ああ、こっちの写真は何歳ごろかなあ」
ページをめくると、すまし顔の少年が庭をバックに写真に納まっていた。
小学一、二年生ぐらいだろうか。
あちこちにはねたくせっ毛と、照れたような笑い顔に菅原の面影が見てとれた。
「これは多分、お正月の写真だよ。子供の頃は両親に連れられて、毎年、この家に年始のあいさつに来ていたんだ。何歳までだったかなあ。この家で正月を過ごしたのは……」
記憶を手繰り寄せようと、眉間に皺を寄せた菅原に、真理は心の中で囁いた。
――小学四年生までですよ……。
菅原が小学五年生のとき、祖父と祖母がたて続けに亡くなったから、その年の正月をこの家で祝うことはなかったのだ。
菅原は、まだうんうん唸っていた。
しかし、真理は知っている。
菅原が思い出せないこと全部。
先日、真理の部屋で、男わらしが問わず語りに思い出話を語ったから。
その思い出話は、『惣一が初めて家に来た日は、それはそれは賑やかだった』と言って、始まったのだった。
まるで真っ暗闇の中で、電球の灯りがともったようだと、男わらしは思った。
普段はひっそりと静まり返っている家の中が、その日はいつになく朝から活気に満ち溢れているのだ。
年老いた夫婦の弾けるような笑い声を聞いたのも、随分と久し振りのことだった。
「なんだ、なんだ」
居間を覗いた男わらしは、そこで光源を見つけた。
長男夫婦が赤ん坊を連れて、帰って来ていたのだ。
大の大人が五人、赤ん坊をぐるりと取り囲み、笑ったと言っては写真を撮り、泣いたと言っては、またシャッターを切っていた。
楽しげなその輪に、男わらしも参加してみたくなった。
「どれどれ」
覗きこんで見てみれば、赤ん坊は元気な男の子だった。
黒い、真ん丸な瞳と目が合った……気がした。
「ハハ……、そんなわけないか」
子供は座敷わらしを見ることができるとよく言うが、この土地の子供で、その瞳に男わらしを捉えた者は一人もいない。
ここいらの子供は大人びているからかもしれないが、理由はよくわからない。
とにかく、赤ん坊がバブバブと笑いかけてきても、男わらしにはそれが自分に向けられたものとは思わなかったし、思えなかった。
ましてや、伸びてきた、ぷにぷにの腕にまさか自分が捕まるなんて、思ってもみないことだった。
「いてててて!」
髪の毛を引っ張られて、痛いのと驚いたのとで、男わらしは目を白黒させた。
「お、おい、赤ん坊、痛い。痛いって! 離せってば!」
しかし、赤ん坊は手をグーにしたまま離さない。
「うーうーうー」
「おい、バカっ、ハゲたらどうする!」
もちろん、大人たちには男わらしの姿は見えない。
「あら、惣一ちゃん、じゃんけんでちゅか?」
そう言ったのは、惣一には祖母に当たる、タエだった。
「おふくろ、まだ赤ん坊だぞ。じゃんけんなんてできるわけないだろ」
「これはじゃんけんしようって言ってるのよ。絶対よ。ねえ、惣一ちゃん。そうれ、じゃーんけーん、ぽい」
祖母はわざとチョキを出して負けてみせ、それがまた皆の笑いを誘った。
何がそんなに楽しいのか。
初めのうちはわからなかった男わらしも、皆の笑い声を聞いているうちに段々と楽しくなっていき、髪の毛を引き離そうと抵抗するのもやめてしまった。
そうして、男わらしは赤ん坊の隣に、ごろんと横になった。
なにしろこの子供は、この土地に越してきて初めて自分の存在を認識してくれた人間だ。
大きくなったら、一緒に遊ぶことだってできるだろう。
男同士なのも、気に入った。
おままごとやお手玉をしたいなんて、女みたいなことを言い出したりはしないだろう。
相撲を取って、木登りをして、それからそれから……。
やりたいことが、後から後から溢れてくる。
「早く大きくなれ、惣一」
男わらしは願いを込めて、赤ん坊の丸いほっぺを、ちょんと突いたのだった。
しかし、残念なことに、男わらしの想像通りには惣一は成長しなかった。
這い這いまでは一緒にできたが、喋れるようになり、歩けるようになった頃には、惣一は他の人間と変わらなくなっていた。
「あけましておめでとうございます」
もじゃもじゃ頭をぴょこんと下げた惣一は、見るからに賢そうな少年へと成長していた。
「あら、よく言えたわねえ。偉いわねえ。はい、お年玉」
「ありがとうございます」
お行儀よく座っている惣一の服を、男わらしがいくら引っ張ってもダメだった。
惣一の瞳が男わらしを映すことは、もうなかった。
「ふん、知ってたさ……」
男わらしのこれは、強がり半分、本心半分だ。
実際、よくある話なのだ。
赤ん坊の頃は見えていたのに、成長するにしたがって見えなくなってしまう。そんな人間は案外、多い。
ただ惣一に関しては、ちょっと期待してしまっていたから、がっかり感が大きいというだけだ。
毎年、正月になると、両親に連れられて惣一はやって来たが、結局、相撲することも、木登りすることも叶わなかった。
それでも、男わらしは惣一が来るのを楽しみにしていた。
孫が遊びに来ると、この家が華やぐからだ。
男わらしは庭の木の枝に腰掛けて、家の中から漏れてくる笑い声に耳を傾けるのが好きだった。
しかし、そんな穏やかな日々も長くは続かない。
老夫婦は次第に体調を崩すことが多くなっていた。
家の真上に絶えず、見えない黒い雲が垂れこめているかのように、家の中はどんより暗くなっていった。
「どんな願いも叶えてやれるが、人間の寿命ばかりはどうにもならん」
その頃になると、家の主は寝込むことが多くなり、男わらしと夢で語らう機会も増えていた。
夢の中で、項垂れる男わらしに、主は「いいえ、感謝しています」と首を振った。
「あなた様のおかげで子宝にも恵まれ、楽しく、充実した人生を送れました」
ひいては、このままこの家を、家族を、守ってほしいとを頭を垂れてくるのだ。
家を継ぐことになるのは、未婚の次男だ。
頼りないところのある次男のことが、余程心配なのだろう。
男わらしは主を安心させたくて、「ああ、任せとけ」と胸を叩いた。
主がこの世を去ったのは、それから、間もなくしてのことだった。
、その後を追うように、先に入院していた妻の方も息を引き取った。
最後まで仲の良かった老夫婦が立て続けに亡くなったことで、菅原家は悲しみに暮れる暇もなく、通夜に、葬式にと追われることになったのだった。
静かだった家は、人の出入りが激しくなり、それを嫌って、男わらしは庭の木の上に避難した。
そこでなら、静かに老夫婦を弔うことができると思ったからだ。
男わらしが目を閉じて祈りを奉げていると、下から誰かの声がした。
「何してるの?」
まさか自分に向けられた言葉とは思わなくて、男わらしが無視していると、もう一度、「ねえ、お兄ちゃん、ひとの家でなにしてるの?」と聞いてくる。
男わらしは、恐る恐る目を開けた。
すると、そこには、惣一が男わらしを見上げるように立っていた。




