17話
自宅から菅原の家までの往路とは違い、寄り道もせず早足で歩く帰りの道は、あっという間だ。
角を曲がれば、真理とわらしが暮らす、ワンルームマンションが見えてくる、というところまで、二人は帰って来ていた。
――ああ、体が重い。早く家に帰りたい。
地球の重力が一身にかかっているのかと思うほど、真理の体は重かった。
今日一日の疲れが、一気に押し寄せてきたのだろう。
それが、真理を自然と早足にさせていた。
しかし、角を曲がった先に待っていたのは、真理をより一層、疲れさせる光景だった。
「なんだ……、あれは……」
真理は、パチパチと目をしばたいた。
真理の部屋のベランダ辺り。
そこが、何やら騒がしい。
蠢く黒い影……、あれは……カラスだ。
真っ黒なカラスが一羽……二羽……三羽。
つつき合ったり、羽で打ち合ったり。
ギャアギャア、バッサバッサと大騒ぎしている。
といっても、ケンカをしているようではない。
じゃれながら、バカ騒ぎをしているよう。
とにもかくにも、ひどい近所迷惑だということに変わりはない。
思わずこめかみを押さえた真理の横で、しかし、わらしは満足顔だ。
「わあ、頼んだ通り、ちゃんと留守番してくれてる!」
――そういや、そんなことを言ってたな。
わらしが散歩に出たくなかった理由。
それは、留守の家に自分以外の何かが入り込んでしまうのではないかと心配だったからだ。
だから、家を空けたがらなかったのだ。
「そうか、木の上にいた三羽に留守番を頼んだから、おまえは心置きなく散歩を楽しむことができたんだな」
カラスも案外、お人好しだ。
わらしの願いを聞き入れてしまったばっかりに、狭いベランダで、わらしの帰りをじっと待たなければならなかったのだから。
それで、次第に退屈してきたのだろう。
その結果がこの騒ぎ、というわけだ。
事情がわかってしまうと、無下に追い払うこともできない。
とはいえ、これ以上放置すれば、近所からクレームが殺到するのは目に見えている。
「とにかくさ、俺たちは帰ってきたんだ。もう留守番は必要ないだろ? あいつらに言って、帰ってもらってくれ」
真理は押さえた、こめかみを揉みほぐしながら、わらしを促した。
「おーい、カラス―! 留守番、ありがとー。もう帰っていーよー」
ぶんぶんと腕を振り回して、わらしが叫ぶと、留守番に飽き飽きしていたカラスたちは我先とばかりに手摺りから飛び立っていった。
「ふぅ~、やれやれ」
安堵の息を吐いた真理の耳元で、誰かが一緒に「やれやれ」とため息を吐いた。
「やれやれ。たった三羽でこの家を守るとか……。いくらなんでも無謀過ぎだ。あの窓一枚分しか、守れていなかったじゃないか」
――は? 何を言ってるんだ?
普通に返事しようとして、真理は次の瞬間、ぎょっとした。
――何か……、いる……?
恐る恐る首を巡らせてみれば、そこにあったのは生意気そうな顔のどアップで……。
しかも、それは、「よう」と、のん気に手をあげている。
真理の背中に、男わらしがおぶさっていたのだ。
「おぅわっ!! おまっ、おまっ……、いつの間にっ!?」
驚き過ぎて、危うく腰を抜かしそうになった真理に、男わらしがぎゅっとしがみつく。
「あっぶないなあ。落っこちるところだったぞ」
「ごめん、ごめん」
反射的に謝ってしまってから、真理は「違う違う」と首を振った。
「何が『落ちるじゃないか』だ。何が悲しくて、こんな大きな野郎をおんぶしなけりゃならないんだ。とっとと降りろ!」
「ふん、ケチな奴だな」
渋々ながらも、男わらしは真理の背中から、ひらりと降りた。
素足がペタリとアスファルトに着地した途端、真理の体はスーッと軽くなった。
「道理で、体が重いと思った。疲れてるからだと思ったけど、おまえのせいだったんだな」
首をコキコキ鳴らしていた真理は、そこでハッとして、わらしを見た。
「……っていうか、わらし! なんでおまえ、俺と一緒になって驚いてるんだよ。同族なんだから、察知しろよ!」
しかし、わらしは首をふるふると振るばかり。
代わりに答えたのは、男のわらしだ。
「チビ助が姿を消したところで、俺様には効かないが、俺様が本気で姿を隠したら、このチビ助にわかる筈もない。まあ、これが力の差ってことだな。ハッハッハー」
得意げな顔で、高笑いする男わらしとは対照的に、小さなわらしはすっかりパニック状態になっていた。
何しろ、わらしが最も恐れていた事態が、今、現実に起きているのだ。
自分よりも能力のある者が、真理の家を狙って、訪ねてきた。
しかも、守りに使っていたカラスは、もう帰してしまった後だ。
真理がそっと手を置いた小さな肩は、微かに、小刻みに震えていた。
真理は「大丈夫」と言うように、手にギュッと力を込めた。
「はいはい、おまえの力はよくわかったよ。だから、もういいだろ? 帰ってくれよ。だってさ、力が大きい分、出て行かれたら、その家に降りかかる不幸も大きくなるんだろ? おまえがうちに来てしまったら、菅原先生はどうなっちゃうんだよ」
わらしが田舎に帰っている間、真理に降りかかった不幸といえば、足の小指を家具の角でぶつける程度の些細なものだった。
それもこれも、わらしに力がなかったからだ。
この男のわらしの場合は、そうはいかないだろう。
なにしろ、彼には強大な力がある。
その分、去って行った後の反動も大きくなるのだ。
しかし、男わらしはそんなこと百も承知なのだろう。
真理の心配を軽くあしらうように鼻で笑った。
「俺様があんたの家に住みたがってるなんて、あんた、本気で思ってるのか? 意外とうぬぼれ屋だな」
「ち、違うのか?」
「違うに決まってる。ただちょっと、あんたの家を見てみたくなっただけだよ。ちょっとした好奇心だ。このチビ助が自由に出歩いてるのを見て、よその家に入らなけりゃいいんだってことに気がついたんだ。それで、俺様もちょっと足を伸ばして、あんたの家を見てみようと思った、ってわけ。家の中に入りさえしなけりゃいいんだからな」
そう言って、男わらしはしげしげとマンションを眺めた。
「でも、まさかこんなに立派な屋敷に住んでいたとはな……」
「え……いや、そんな大したことは……」
「いやいや、大したもんだ。このチビ助に、こんなお屋敷を買わせる力なんて、ないだろう? ということは、元から財力があったということか。まあ、確かに、庭がないのは気にかかるが、これが現代風の東京の家というものなんだろうしな。それでも、これだけの部屋数があれば、言うことなしだ」
――ん? 部屋数?
感心しきりの男わらしが、何か誤解しているらしいと、この段になって真理もようやく気がついた。
「えっと……、何か勘違いしてるみたいだけどさ、俺の家はあそこの一角だけだぞ」
真理の指差す先を視線で辿って、男わらしは首を傾げた。
まだ理解できていないようだ。
「真理の家はね、あそこの窓、一枚分だよ。隣の窓も下の窓も、別の人が住むお部屋なの」
わらしの説明の方がわかりやすかったらしい。
男わらしは一瞬、驚愕の表情を浮かべたが、すぐに、いやいやまさかまさか、と首を振った。
「窓一枚分だと? うなぎの寝床のように、縦一列に部屋が配置されているのか。随分と使い勝手の悪い間取りだな」
「ううん。お部屋は一つだけだよ」
「はあ~!? 部屋が一つだけだと?」
ようやく事情を呑み込んで、男わらしは大仰に驚いてみせた。
「考えられない。たった一部屋で、どうやって生活できるというんだ……?」
失礼な男わらしは放っておくことにして、真理はわらしの手を引いた。
「ほら、わらし、あんな奴は放っておいて、部屋に帰るぞ」
「ああ、今日は一日、本当に疲れたな」
玄関で靴を脱ごうとした矢先、真理は視界の端でベランダで蠢く人影を捉えた。
すわ、空き巣か。
真理は靴を脱ぎ散らかし、その勢いのまま窓を開け放った。
しかし、そこにいたのは、ついさっきまで下にいた、男わらしだった。
男わらしが物珍しげな顔で、ベランダをウロウロしていたのだ。
「なんだ、おまえか。空き巣かと思ったじゃないか」
な~んだ、と安心しかけて、真理は「いやいや違う」と首を振った。
そんなことが言いたいのではない。
「どうやって、ここまで上がったんだよ! ……いやいや、これも違う。いや、違わないけど、それも気になるけど……」
真理は、ぶんぶんと首を振りながら再び言い直した。
「何で家に入ってんだよ! 入らないって言ってたじゃないか!」
真理は真剣だった。
これは真理にも、菅原にも関わる一大事だ。
しかし、男わらしはケロッとした顔だ。
「ここは物干しだろう? 庭や物干しは家の中とみなされないんだ」
「え……、そ、そうなのか?」
「ああ、そうだ。公共施設もそうだぞ。入ったところで、引っ越ししたことにはならないんだ」
へえ、と感心しかけて、真理は、いや待てよ、とあごに手をやった。
「田舎でわらしは集会所に入れないって言ってなかったか? あれだって、公共の建物と言えるんじゃないか?」
疑問に感じて、わらしを見やれば、わらしは「知らなかった……」という顔で突っ立っている。
なんだ、おまえ、知らなかったのか。
そう言おうとした真理の横から、男わらしが口を出す。
「なんだ、チビ助は力もなければ、知識もないんだな」
かさに懸かる男わらしを前に、わらしはしゅんとするばかり。
これ以上、ネチネチとわらしいびりをされたら堪らない。
真理はわらしを隠すように前に出た。
「おまえなあ……。もういいだろ? 俺の部屋を見に来たんだったら、もう気が済んだろ? 早く帰れよ」
真理が追い返そうとするが、男わらしは「なんだよ、ケチなこと言うな。もっとよく見せろ」と、なかなか帰ろうとしない。
部屋の中を覗き込んで、へえ、とか、ほお、とか言いながら、目を丸くしたりしている。
「あの扉が玄関か。本当に部屋が一つしかないんだな。食べるのも、寝るのもこの部屋なのか? 書斎もないのか? それで? チビ助はどこで寝起きしてるんだ?」
うるさいこと、この上ない。
しかし、男わらし本人は決して嫌味を言っているのでも、からかっているのでもない。
あくまで、疑問に思ったことを、素直に口にしているだけなのだ。
「わたちはね、あそこで寝てるの」
真理の背中からおかっぱ頭と人差し指だけを出して、わらしが答える。
その指の差す方向――ロフトを見て、男わらしは、この日一番のびっくり顔になった。
「まさかあの、天袋ほどの空間か!? あんな狭いところで、寝起きしているのか!? ……こ、これは、座敷わらしへの虐待だ!」
真理は、黒い、長い前髪ごと、男わらしのおでこを指でピンと弾いた。
「失礼なこと言うな。あそこは上下にスライドして、広くも狭くもできるんだ。結構快適なんだぞ」
男わらしはおでこを押さえながら、フン、と鼻を鳴らした。
「それでも、俺様だったら、こんなところで暮らすのはとても無理だね」
「一緒に暮らしてくださいなんて、頼んでないけどな」
「ああ、頼まれたって、お断りだね」
噛み合わない口喧嘩をひとしきりして、男わらしの好奇心は一応の満足を得たらしい。
「さあて、あんたの狭っくるしい家も見たことだし、俺様は帰るとするかな」
「ああ、帰れ、帰れ。きっと今頃、お供えが用意されてるぞ」
何の気なしに言った言葉だったのだが、さっきまで散々憎まれ口を叩いていた男わらしの顔が、それを聞いた途端、一瞬にして真っ赤になった。
真理が頭上にハテナマークを浮かべていると、男わらしはそっぽを向いた。
「べ、べつに、お供えが楽しみで、早く帰るわけじゃないんだからな」
どうして、こうも素直じゃないのか。
生意気で、意地っ張りで、だけど、そんなところが妙に可愛くて困る。
「はいはい、わかった、わかった。でも、きっと菅原先生はお供えを食べてもらうのを楽しみにしてると思うぞ」
男わらしは、プイっと背中を向けた。
「そ、それじゃあ、仕方ない。早く帰ってやらないとな」
「ああ、仕方ないよな。気をつけて帰れよ」
真理が気をつけろと言った矢先、男わらしはベランダの手摺りに足をかけ、ビヨ~ンと大きくジャンプした。
「え、ええっ!? そこから!?」
まさかそんなところから帰るとは。
男わらしは、そのままビヨ~ン、ビヨ~ンと電柱に飛び移り、民家の屋根を伝い、帰って行っていく。
途中、カラスと遭遇し、何やら口論になったらしい。
カラスを蹴散らしながら、またビヨ~ン、ビヨ~ンと跳んで行った。
「わらし……、まさか、おまえもあんなことができるのか……?」
呆然としたまま真理が訊けば、わらしもまた呆然とした顔で、ふるふるふると首を振る。
「夕飯にするか……?」
「うん……」
その日の夕飯は先に宣言した通り、カップ麺となった。
二人して黙々と麺を啜っていたのだが、ふと何か、思い出したようにわらしが顔を上げた。
「ねえ、真理」
「ん? なんだ?」
「まだ誰にもこの部屋を乗っ取られてないけど、引っ越し、する?」
「……へ?」
「それで、もっとお部屋がいっぱいある、おうちにする?」
最初、何を言っているのかわからなかったが、どうやら、男わらしに影響されて、こんなことを言い出したらしい。
真理は箸を容器の上に、そっと揃えた。
空いた右手で、ちょいちょいとわらしを手招きする。
「なに、なに?」と寄せてきた、わらしの顔を、真理はげんこつを作ってサンドイッチした。
「おまえって奴はぁ~! 部屋を追い出されたくないって泣いてたくせに! あの殊勝な態度はどこ行った~!」
「わあ、ごめんなさ~い、もう言わないよ~」
二人の夕餉は、この日も賑やかに過ぎていくのだった。、




