4話
自分は相手を知らないのに、向こうは自分のことを知っている。これほど、気持ちの悪いことはない。
しかも、目の前の男は、学生というには少々とうが立ち過ぎに見える。
「何かの勧誘ですか?」
真理の声にも、自然と警戒感が滲む。
それを敏感に察知して、男は慌ててかぶりを振った。
「ああ、違う違う。……そりゃあ、うちのサークルに入ってくれたら、嬉しいが……」
そう言って、男はシャツの胸ポケットから名刺を取り出すと、テーブルの上で、ずい、と滑らせた。
「岡山田一郎……。オカルト研究会会長……?」
名刺はいかにも手作りといった感じで、アダムスキー型のクラシカルなUFOのイラストが描かれていた。
「へえ、うちの大学にオカ研なんてあったんだ」
真理が漏らした、素直な感想に、岡山田は渋面を作った。
「これでも歴史のあるサークルなんだがなあ……。今は会員が減ってしまって、存続すら危ういがね」
岡山田の嘆きに続いて、隣の小太りの銀縁男も名刺を差し出した。
「そうそう。僕が副会長なのも、他に人がいなかったからだしね」
名刺には、副会長・丸岡正夫と書いてある。
「柳田くんと同じ三年だよ。きみが浪人も留年もしてなければ、同い年だ。よろしく」
学部が違うからか、全く見覚えのない男だったが、人好きのする、えびす顔に、真理の警戒心も、ついつい緩む。気がつけば、真理はつられるように会釈を返していた。
「ちなみに、会長に年齢のことを聞くのはタブーだから気をつけてね。ここだけの話、何年ダブってるのか、僕も知らないんだ。その上、何年か浪人もしてたみたいだしね。まあ、老けてるから、なんとなく察してたとは思うけど」
「丸岡!」
岡山田にたしなめられるが、丸岡は堪えた様子もない。
「あー、はいはい。会長はオカ研の行く末を案じて、わざわざ留年してくれているんですよね。はいはい、わかってますよ。でも、今年は待望の新入生が入りましたからね。……まあ、たった一人ですけど」
ということは、右隣の赤縁の眼鏡の女の子が、オカ研の将来を担う新入生ということだ。
真理が彼女の方に向き直ると、彼女は申し訳なさそうに首を竦めた。
「すみません。入ったばっかりで、私……、名刺をまだ作ってなくて……」
すると、岡山田は「いいじゃないか」と彼女を宥めた。「きみたちは知り合いなんだから」と。
「えっ?」
――知り合い? 俺と彼女が?
「えーっと……、昨日、中庭で会った……よね?」
恐る恐る聞いてみるが、「いえ、もっと以前に会ってます」という目で見つめ返されてしまう。
昨日、中庭で会釈されたと思ったのは、真理の勘違いではなかったのだ。
でも、どこで会ったのか。真理には全く思い出せない。
――う~ん……。この黒ずくめのファッションなんて、すごいインパクトだし、一度見たら、忘れられないと思うんだけどなあ……。
現に、昨日、中庭でちらりと見かけただけなのに、強く印象に残っている。
「あれ、あれ? もしかして、忘れられちゃってるんじゃないの? うわあ、向ヶ丘さん、可哀想だなあ」
ぐるぐると考え込む真理の横から、口を出してきたのは丸岡だ。
この男の余計なひと言のせいで、彼女の顔がみるみる真っ赤になっていく。
――頼むから、黙っててくれ。
真理は丸岡をひと睨みするが、彼の無神経発言の中に、重大なヒントが紛れていたことに気づく。彼女の名前だ。
――向ヶ丘、向ヶ丘、向ヶ丘……。
この名前に覚えがないか、心の中で呪文のように唱えてみるが、やはり記憶になかった。
真理は素直に「ごめん」と、白旗を上げた。
申し訳ない気持ちでいっぱいだったのだが、それが却って相手を恐縮させてしまったようだった。
「いいえっ、影の薄い私がいけないんです!」
「えっ、いや、そんなことないよ。どう考えても、忘れてる、俺の方が悪いだろう」
ペコペコ謝り合う二人の間に、割って入ってきたのは、また丸岡だ。
「本当に覚えがない? 向ヶ丘澄子。高校の後輩なんだってさ。昨日、中庭で先輩と再会したって、すごく喜んでたんだよ?」
「……後輩? 高校の?」
真理が困惑顔でいると、向ヶ丘という女の子は「いいんです」と寂し気に笑った。
「よく考えたら、先輩が私のことを覚えていてくれてるなんて、思い上がりも甚だしいですよね。クラスメートからも忘れられてるくらいなのに……」
「え……、何もそこまで言わなくとも……」
「いいえ、本当のことですから。同窓会に呼ばれたこともないですし。それに、小学校のときの社会科見学で、トイレに行ってる間に自分のクラスのバスが出てしまって、他のクラスのバスで帰ったこともあるんです。知らないクラスメートに交じって、帰り道ずっと補助席で……」
「あ……ああ、それはなかなか……」
楽しげなバスの真ん中に一人だけポツンと座らされている図を想像すると、それだけで居たたまれない。
「学校に到着しても、クラスの誰一人として、私がいないことに気づかなかったそうです。担任教師も、です」
「うっ……」
「中学のときもそうでした……」
向ヶ丘は、この痛々しい告白をまだまだ続ける気でいるらしい。とてもじゃないが、これ以上聞いていられない。
「わあっ、ストップ、ストップ! 確かに俺もきみのことを忘れてたけど、もう覚えたからっ! この先、絶対忘れないからっ! ね? それでいいね?」
少し強引に、話をまとめてしまった感は否めない。
しかし、向ヶ丘もコクコクコクと頷いてくれているのだから、まあ、いっか、と真理は自分を納得させることにした。
何故か、彼女が再び頬を赤らめているのが気にはなったが……。
そんな二人のやり取りを、真理の真正面で岡山田はうんうん、と頷きながら見守っていた。
「よかったじゃないか、向ヶ丘くん。いい先輩じゃないか」
隣の丸岡も、にこにこ顔でパチンと手を打った。
「本当に。これで頼みごとがしやすくなりましたね、会長?」
「は? 頼みごと?」
真理が訝しげな顔で尋ねると、丸岡は大きく頷いた。
「向ヶ丘さんがきみと知り合いだって言うから、口利きをしてもらうつもりでいたんだ。それなのに、きみは向ヶ丘さんをまるで知らないみたいで、どうしたものかと思ってたんだよ。そうですよね、会長?」
本題に入るのは、会長の役目ということらしい。
岡山田は、コホンと一つ、咳払いした。
「実は昨日、中庭できみたちの話を聞いてしまってね。なんでも、きみの部屋は幽霊が出るそうじゃないか」
なんだか嫌な予感がした。
「我々オカ研に、調査させてもらえないだろうか」
予感した通りの話の展開だったので、真理は間髪入れずに答えることができた。
「お断りします」
「えっ、即答? 考えてもくれないのか?」
「考えるまでもありませんよ。知らない人間を部屋にあげるのなんて嫌に決まってます」
知らない人間、と言ってしまったために、丸岡に「向ヶ丘さんはきみの後輩じゃないか」と揚げ足を取られてしまう。
一瞬、ウッと言葉に詰まった真理だったが、すぐに「でも、部屋の中を撮影する気でしょう?」と反論する。
「そりゃあ、その場では見えなかったとしても、映像なら後からチェックできるからね」
「自分の部屋を撮影されるのなんて、絶対に嫌です」
真理はきっぱり断るが、岡山田も簡単には引き下がらない。
ガバリと頭を下げて、「お願いだ! この通り!」と粘りを見せる。
「そんなことされても……困ります」
年上の人に頭を下げられるのは、とても居心地が悪い。
なのに、岡山田は一向に顔を上げようとしないのだ。
「我々は幽霊を見たことがないのだよ」
「は?」
「……こんなにオカルト好きなのに、オカルト的な体験をしたことがないのだよ!」
最初はぼそぼそと、しかし次第に興奮してきたのか、岡山田は最後は叫ぶように訴えかける。
「その辺の何の知識も持たない連中でさえ、オカルト体験談の一つや二つ、持ってるというのに、だ!」
「はあ? 知りませんよ、そんなの」
「そんな冷たいこと、言わないでくれ!」
しつこい。岡山田は相当しつこい。
イライラし始めた真理の口調は、どんどんとぞんざいになっていく。
「そんなに幽霊が見たけりゃ、心霊スポットにでも行けばいいじゃないですか。都内にだって、有名なところがあるでしょう」
真理が「心霊スポット」と言った途端、岡山田のトーンが一気に下がった。
「いや……、ああいうところは……その……」
言い淀む岡山田の代わりに、答えたのは丸岡だった。
「不良のたまり場になってたりするからね」
――不良って……。
「幽霊よりも不良の方が怖いとでも?」
皮肉を言ったつもりなのに、丸岡は「そりゃあ、そうだよ。幽霊はカツアゲなんてしないじゃないか」と、大真面目な顔だ。
岡山田まで、うんうんと大きく頷きながら「その点、君の部屋なら安全だ」などと言う。
どうやら彼らは心霊スポットで、人間から痛い目に遭ったことがあるらしい。
だからと言って、「じゃあ、うちにどうぞ」と言うつもりは毛頭ない。
高校の後輩だという向ヶ丘が、板挟みで終始困り顔でいるのが気にはなるが、それでもやはりダメなものはダメなのだ。
ざる蕎麦はまだ食べかけだったが、真理はトレイを手にして立ち上がった。
「とにかく、うちはダメです。諦めてください」
ちょっと待ってくれ、と喚く彼らを置き去りにして、真理は肩を怒らせ学食を後にした。




