3話
「ただいま」
部屋に帰った真理に、座敷わらしの出迎えはなかった。
いつもはトテトテと走ってくる小さな物体が、今日はフローリングの上で大の字になってスヤスヤ寝息を立てている。
傍には市松人形の松子と、くまのぬいぐるみのクマゴロウが転がっていた。
「なんだ、遊び疲れて寝ちゃったのか」
いつも思うことだが、座敷わらしのなんと幸せそうに眠ることか。
「平和っていうのは、こういう光景のことを言うんだろうな」
この平穏な暮らしを守るために、真理は今日、つき慣れない嘘をついたのだ。
それもこれも、里奈を座敷わらしに近づけたくない一心でのこと。
真理の嘘で、彼女を怖がらせてしまったことについては、少々心苦しくもあるのだが……。
「でも……、まるっきりウソってわけじゃないよな。なあ、松子」
真理は市松人形を拾い上げて、真剣な顔で問いかける。
もちろん、人形である松子から返事はなく、傍から見たらただの独り言だ。
でも、絶対に言葉は通じている、と真理は思っていたりする。
田舎の家で座敷わらしが危機に瀕していたとき、それを真理に知らせたのは松子だった。
主人のためなら、松子はそれくらいのことをやってのけるのだ。
ならば、真理の部屋に里奈が来た夜の、松子の首がポトリと落ちてきた、あの出来事も松子がわざとやったのではないのか。
だって、あれは絶妙なタイミングだったではないか。
真理が里奈にかまけて、座敷わらしをなおざりにしていたために、松子が怒って、里奈を追い返そうとしたのではないか。
真理は、そう疑っている。
ということは、今日、ついた嘘もあながち嘘ではないということになる。
この部屋に、嫉妬深い幽霊なんてものは存在しない。が、代わりに、主人思いの、意志持つ人形が邪魔者を排除しようと企んでいるのだから。
「里奈ちゃんがまた来たら、追い返そうとするんだろう? なあ、そうだよな?」
そう言って、真理は松子の瞳の奥を探った。
しかし、松子は微笑を湛えるだけ。
その微笑はいつもと変わらない……筈だったが、真理はどこか違和感を覚えた。
「うん……?」
何がいつもと違うのだろう。
うんうんと唸って、真理が捻り出した答えは「髪の毛か?」というものだった。
肩に扇形に広がる、艶やかな黒髪をひと撫でしてみる。
ほんの数ミリ、伸びたような、伸びていないような……。
「まさか……おまえ、髪が伸びるのか?」
自ら首をぐるりと回したこともあった。喋ったこともあった。それが今更、髪が伸びたくらいで驚くこともないのだが……。
「いや、でも、まさかなあ」
以前はどれくらいの長さだったか、真理の記憶は定かではない。
座敷わらしに聞いたら、わかるだろうか。
しかし、『そんな不思議なこと、あるわけないよ、ぷぷぷぷ』と、笑われてお終いだろう。
自分こそが不思議な存在の最たるものであるというのに、座敷わらしは、人形やぬいぐるみが動いて喋ることを不思議なことだと思っているのだから面白い。
その座敷わらしが、真理の足もとでもぞもぞと動き出した。
「う……、し、んり?」
ようやくのお目覚めだ。
まだ眠そうに目を擦る、座敷わらしに、真理は改めて「ただいま」と声をかけた。
しかし、座敷わらしからは、「おかえり」の一言もない。
パチリと目を見開いたと思ったら、「あーっ!」と、寝起きとは思えないくらいのやかましい声を張り上げた。
「真理がお人形さん遊びしてる! 一人でズルい! わたちもやるー!」
真理にとっては誠に心外なことに、この年で人形遊びを好んですると思われていたようだ。
「いやいやいや、人形遊びなんてしてないって!」
真理が否定するのも聞かず、座敷わらしはクマゴロウを手繰り寄せようとしている。真理は慌てて制止した。
「ダメダメダメ! 人形遊びなんてやらないぞ。これから夕飯の支度をしなきゃいけないんだから」
「ええーっ!」
口を尖らせる座敷わらしに、「えー、じゃない」と、真理はぴしゃりとはねつける。
「そうか、そんなに遊びたいか。だったら、これから松子とクマゴロウを連れて、外でピクニックでもするか?」
「……ピクニック?」
「ああ、そうだよ。これなら、人形遊びと夕飯と、ついでに散歩も兼ねられる。どうだ? 楽しそうだろう?」
ピクニック、とぶつぶつ呟きながら、座敷わらしの瞳が大きく揺れる。
これは即ち、心の揺れだ。
しかし、結局、座敷わらしが出した答えは、いつもの通りだった。
「……今日はやめとく……」
念のため、もう一回、聞いてみる。
「じゃあ、明日、行くか?」
その答えもやっぱり……。
「……明日もやめとく……」だった。
――なんだって、あんなに頑なかなあ?
昨夜の座敷わらしの態度を思い返しては、真理は何度も首を捻っていた。
遊びに行こうと、どんなに誘っても、座敷わらしの答えはいつもノー。
遊んで、遊んで、と子犬のようにじゃれついてくるくせに、外出と聞くと、途端にトーンダウンしてしまうのだ。
とは言え、あのとき「明日なら行く」と返事されたら、それはそれで困ることになるのを、昨夜の時点で真理はすっかり忘れていた。
今日は絶対に授業をサボれない、忙しい一日だったのだ。
朝早くから活動して、昼食にありつけたのは昼を大きく回って、ようやくといった具合だ。
人もまばらな大食堂で、真理はざる蕎麦をすすっていた。
一人でサッと食べるには、これが丁度いいのだ。
蕎麦の山が崩れ、下のせいろが顔を覗かせた頃、左隣の席に見知らぬ男が腰を下ろした。
銀縁眼鏡の、ぽっちゃりとした男だ。
暑苦しいと感じるのは、彼のぽっちゃりした体格のせいだけではない。春だというのに、上下黒の服装だからだ。
昼時で満席状態ならいざ知らず、この男は何故、わざわざ真横に座るのか。
しかも、「空いてますか?」の一言も無しに。
――まあ、一人だからいいけどさ。
しかし、よくよく見れば、昼を食べるわけでもないらしい。手にしているのはコップひとつ。
――無料の水だけかっ!
この男はただ真理のパーソナルスペースを侵すためだけに、ここにいるのだ。
じわじわと不快感がこみ上げてくるが、だからと言って、席を移動するのもわざとらしくて気が引ける。
真理が一人で葛藤していると、今度は右隣の席が引かれた。
隣にちょこんと座った、その顔には見覚えがあった。
すっぴんにひっつめ髪という地味な出で立ちに、赤いフレームの眼鏡の女の子。
昨日、中庭で見かけた彼女だ。
黒っぽいシャツとロングスカートは、昨日と全く同じに見えるが、多分、同じような服を何枚も持っているのだろう。
彼女を見て、真理は思い出した。あのとき、彼女が中庭で挨拶していた男たちのことを。
すると、今度は真向いの席に男が座った。
黒っぽい服の、黒縁眼鏡の男だ。
真理は三方を囲まれた格好だ。
――囲碁のルールだったら、後ろにもう一人、眼鏡に座られた時点で、ここはもう眼鏡の陣地だな……。
一瞬、そんな馬鹿な考えが浮かんだ。
が、すぐに真理は表情を引き締めて、警戒心を呼び起こした。
「柳田真理さんですね」
黒縁眼鏡の男に名前を知られているとは、真理は思ってもいなかったのだ。




