3話
「食べたな?」
今、少女の口に放り込んだのが、持ってきたバウムクーヘンの最後の一個だ。
コクンと頷いた少女に、真理は再び尋ねる。
「腹いっぱいになったな?」
もう一度、少女はコクンと頷いた。
「じゃあ、そこにちゃんと座って」
しかつめ顔の真理につられたのか、少女が神妙な面持ちで真理の前にちょこんと座る。赤いワンピースの裾が朝顔の花のように、畳の上でふわりと広がった。
「まずは……。えーと、きみは誰だ?」
「座敷わらしだよ」
「祖母ちゃんの言ってた、『わらし様』なのか?」
「そだよ。祖母ちゃんって、トキのことでしょ?」
真理は目を閉じて、一度ふぅっと大きく息を吐いた。
突拍子もない話なのに、子供の頃に聞いた祖母の話と照らし合わせたら、案外すんなりと受け入れることができてしまい、そんな自分に困惑していた。
しかし、どんな不思議な話もあり得ると思わせるものが、この奥の間にはあるのだ。
「……でもなあ、祖母ちゃんが様付けで崇めてたのが、まさかこんな子供だなんてな……。もっと神様っぽい、威厳のある見た目を想像してたわ、俺」
これには座敷わらしの少女もカチンときたらしい。
「わらしって、もともと子供って意味だよ。真理は、なーんにも知らないね」
そうか、それでおもちゃのお供えか、と納得しつつも、今度は真理がカチンとくる。
「そもそもその服だよ、服。普通過ぎるだろ。もっとそれらしい恰好があるだろ。これじゃあ、その辺の子供と同じじゃないか」
とうとう本格的に腹を立てたようで、座敷わらしが、すっくと立ち上がった。
「こーれーはー、トキが作ってお供えしてくれたのー! それまではずっと着物だったんだけど、赤くてすごーく可愛いから着てるのー!」
「あ……、そうなのか」
「そうなの! 青いズボンも一緒に置いてあったんだから!」
祖母はわらし様が男の子なのか女の子なのか、わからないと言っていた。それで、両方用意したのだろう。
「ズボンの方はね、大切に首に巻いてたの。なのにね、庭に出たとき、カラスが咥えて持って行っちゃったの。返せーって言ったのに、山に帰って行っちゃったの!」
それはヒナの寝床になったんだなと、真理は思ったけれど、口には出さなかった。そのときのことを思い出したのか、座敷わらしが地団太を踏んで悔しがっていたから。
その悔しがりようを見ていれば、どれほど大切にしてくれていたかがよくわかる。祖母の気持ちが一方通行でなかったことが、孫として嬉しかった。プンスカ怒っている座敷わらしを見つめる真理の目も、自然と温かいものになていた。
「カラスは本当に意地悪なの! 庭でキレイな石を見つけて宝物にしようとしてるとね、上から飛んできて咥えて行っちゃうの。あとね、わたちの顔を見ると、いっつも『バカー、バカー』って言うの」
本気で怒っているらしいところを申し訳ないが、座敷わらしとカラスの攻防は想像だけでも面白い。思わず、クスリと笑った真理に、座敷わらしはぷぅっと頬を膨らませた。
「真理はカラスの味方なの?」
「いや、味方も何も……」
もごもごと言い繕おうとする真理は、嫁と姑の間に立たされた夫にしか見えない。何か言い訳を考えねば、と頭をひねっていた真理は、ふとあることに疑問を抱いた。
「……ところで、カラスはきみのことが見えるのか?」
「うん、動物は見えるみたいだよ」
「そうなのか、じゃあ、俺は動物並みなのか」
祖母は見えないと言っていた。通常、人間には見えないのだろう。じゃあ、何故自分には見えるのか。それが不思議だった。
「真理は赤ちゃんのときから、わたちのことを見ていたよ」
当たり前のことだけれど、記憶になかった。
「だから、早く大きくなって一緒に遊びたいなあって思ってたの」
「……そうか、遊んでやれなくてごめんな」
「え? いっぱい遊んだよ。松の木に登ったり、お池の鯉を一緒に捕まえたりしたよ」
「へぇ……?」
そんな記憶は全くない。
真理は座敷わらしをまじまじと見つめた。
全く記憶にない筈なのに、何か引っかかる。その何かを突き止めたくて、記憶の底の方を手で探った。すると、ぼんやりと赤いシルエットが浮かび上がってきた。
肩までのおかっぱ頭。黒いまん丸の目がきょろきょろとよく動く、赤い服を着た女の子。
霧が少しずつ晴れてきて、輪郭が徐々にくっきりとしてくる。
――そうだ、自分のことを「オレ」と呼んでた女の子がいた。女の子なら「私」と呼ぶものだと俺が教えてやったんだ。その子は一生懸命「私」と言おうとして……、でも言えなくて……。ああ、そうだ、結局最後まで「わたち」としか言えなかった!
その瞬間、記憶の中の少女と目の前の座敷わらしの女の子が、ぴたりと重なり合った。
「思い出したぞ! 松の木に一緒に登った、あの女の子か!」
松の木に登ろうよと言ったのは、その女の子の方だった。
東京育ちの真理は、実をいうと、木登りなんてやったことがなかったのだが、女の子の手前、尻込みするわけにはいかなかった。
えいやっと、幹にしがみついて、後は必死に手足を動かした。こぶに手をかけ、足をかけ、息を弾ませ顔を上げると、女の子はもう枝に腰かけていて、「こっちこっち」と手招きしている。
「ここに座ると、向こうのお山もよく見えるよ」
女の子の言うとおり、松の木からの眺めは格別だった。
しかし、爽快な気分でいられたのも一時だけだった……。
「こらーー! 何をしとる!」
庭先に、鬼の形相の祖父が仁王立ちしていたのだ。
「そんなに木の上がいいのなら、もう降りて来なくていい。ずっとそこにおれ」
降りることを禁じられてしまった。どうしよう、と隣をみれば、そこに少女の姿はなかった。
あの子は一人で逃げたのだ。真理ひとりを置き去りにして。
真理はたちまち心細くなって、涙がぽろりぽろりと零れ落ちるのを止めることができなかった。
あの頃は、勝手に庭に入り込んだ、近所の子供だと思っていた。
だから、何故自分だけが叱られるのか納得がいかなかった。
「だって、あの子が……」
言い訳は最後まで聞いてもらえず、その理不尽さに真理は泣いた。
「あのとき、源吾に叱られて、真理はわんわん泣いてたね」
源吾というのは祖父のことだ。どうやら少女は、叱られる真理を物陰からこっそり見ていたようだ。
しかし、ぷぷぷ、と笑う少女から悪気は全く感じられない。
真理はがっくりと脱力した。思い返せば、この少女に振り回されたのはこれだけではなかった。
「池の鯉を捕まえよう」
そんなことを言い出して、真理が目を丸くしたこともあった。
祖父が大事にしている鯉を捕まえるなんて、とんでもないことだ。
だけど、男の自分がビビってるなんて、思われたくなかった。
このときも、真理だけが祖父に見つかって、大目玉をくらったのだが、それだけでは終わらなかった。
その後、屋敷中をベタベタと濡れた足のまま歩き回った犯人にされ、雑巾がけの罰に処せられたのだ。
これだって、あの女の子の仕業だと、わかっていたのは真理だけだった。
「全部思い出したぞ! おまえか! おまえだったのか!」
「面白かったねー」
よくも散々振り回してくれたなと睨んでも、座敷わらしは堪えたふうもない。
「このいたずらっ子め! 俺は祖母ちゃんみたいに『様』なんて付けないぞ。おまえなんか呼び捨てだ。『わらし』で充分だ」
おとなげなく喚き散らす真理に、座敷わらしはにっこり笑った。
「うん、いーよ。だって、真理とわたちはお友達だもんね」
ストレートな物言いに、真理は虚を突かれた。
「友達……?」
誰にも見られることのない座敷わらしは、ずっと孤独だったのかもしれない。
わらし様と崇められて、おもちゃをたくさん供えられ、だけど、遊んでくれる人はいない。
そんな座敷わらしを見ることができる、唯一の人間が真理なのだ。
「あのね、次に真理が来たら、お人形遊びをしようって思ってたの」
そう言って、おもちゃの山から人形を漁る後姿を真理は黙って見つめた。その小さな背中に比べて、真理はなんと大きくなってしまったことか。
――『次に来たら』って……。そんなこと何年も何年も思ってたのかよ……。
胸が締め付けられる思いだった。
「守り神様の癖に、バカだな、おまえ……」
小さな呟きは、座敷わらしの耳に届かなかったらしい。山に頭を突っ込んだまま座敷わらしが聞き返す。
「んー? なんか言った?」
「なんでもない、さあ、やるぞ、お人形遊び」
真理は、よっこらしょと腰を上げた。人形探しを手伝うために。