1話
高校生の頃、真理はよく居眠りをしていた。
どうしてあんなに毎日、眠かったのか、自分でもよくわからない。
縦にぐんぐん伸びている真っ最中だったからだろうか。
寝る子は育つ、という言葉があるが、発育のために体が睡眠を欲するということもあるのかもしれない。
特に、昼飯を食べた後、五時間目の授業は、毎度、睡魔との戦いとなる。
それがたとえ体育の授業であっても、だ。
「おーい、パス、パス!」
この日、五時間目の体育はバスケで、体育館は男子高校生の歓声に包まれていた。
持久走の授業ではダラダラとやる気を見せない生徒でも、球技の、それも試合形式となると、俄然張り切り出すというのはよくある光景だ。
「行けっ、シュートだ!」
白熱の試合展開に、観戦組に回った生徒からも、盛んに声援が飛ぶ。
その横で、真理はまたしても、うとうとし始めていた。
体育座りの体勢ををキープするのもしんどくて、体がずるずると床に崩れ落ちていく。
――ああ、眠い……。
だけど、体育館を走り回る足音が真理の安眠を妨害する。
タタタタタッ、キュッキュッキュ。
体育の授業中なのだから、当たり前なのだが、特に、靴底が床を擦る際の、キュキュッという音が耳障りで仕方がない。
――ったく、うるさいな……。
こんなにも眠いのに寝かせてくれない、うるさい靴音に対して、ふつふつと怒りが込み上げてくる。
これが理不尽な怒りだとは重々承知している。
それでも、真理には我慢ならなかった。
静かにしてくれ。
たまった鬱憤を声にして吐き出した筈が、何故だか声にならなかった。
漏れるのはスカスカの空気ばかり。
それでも何度も何度も試みていると、それが突然、声になった。
「……ぅあーっ、もーっ、うるさーい!」
そこで、パチリと目が覚めた。
自分の声に驚いて、その拍子に覚醒したのだ。
「……なんだ、夢か……」
真理が寝ていたのは、高校の体育館の床の上……ではなく……。
いつもの枕、いつもの布団。天井がやや低いのは、上がロフトになっているからだ。
ここは真理の通う、大学近くのワンルームマンションの一室だ。
実家が都内にあるにもかかわらず、真理のわがままで一人暮らしをさせてもらっているのだ。
「……ああ、夢で良かった」
夢の中ではまだ高校生だった真理も、現実の世界ではちゃんと大学生に成長していた。
そのことに、真理はホッと安堵の息を吐く。
高校時代が苦痛だったというわけではない。
だだもう一度、受験を経験したくないだけだ。
それに何より、大学入学を機に始めた、このワンルームでの生活を真理は結構気に入っていた。
こちらの方こそが夢で、本当は、あなたはまだ高校生ですよ、なんて言われたら、多分立ち直れないだろう。
「けど、なんだって、高校時代の夢なんか……」
寝ぼけ眼を擦りながら、うーん、と伸びをした真理は、そこで初めてベッドの横の人影に気づいたのだった。
フローリングの床の上、小さな女の子がスキップの途中のような、妙ちくりんな格好でカチンと、固まっている。
黒い艶やかなおかっぱヘアー。その真っ直ぐに切り揃えられた前髪の下で、びっくりまなこが真理を凝視していた。
どうやら真理の突然の大声にびっくりして、それで、硬直してしまったらしい。
「ん? わらし? 何やってんだ、朝っぱらから」
この少女は、人のようで人ではない。
少女のような風貌で、百年以上生き続けている、座敷わらしなのだった。
座敷わらしと言えば、その家に富や名声をもたらす、福の神のような存在として知られているが、この座敷わらしにそのような力はない。
くじの末等を当てるくらいが、精々だ。
元々は父方の田舎の家を棲家としていたのだが、何故か、真理を気に入って、東京までついて来てしまったのだが、真理は大した恩恵を受けていない。
祖父母は家の守り神様と崇めていたが、真理にとってはただの居候だ。
しかも、この居候、やたらと手がかかるのだ。
朝は大抵、真理より早く起きていて、真理がのそのそと起き出すと、やれお腹が空いた、やれ一緒に遊ぼうと言ってくる。
忙しいから、と一人で遊ばせておけば、ベランダでカラスと口喧嘩を始める始末。
真理は振り回されっぱなしだ。
自由気ままで穏やかな一人暮らしは、もう遥か昔のこと。
座敷わらしと同居を始めてからは、毎日が賑やかで騒々しい。
その、いつもは騒々しい座敷わらしが、今朝は目を見開いたまま、一向に口を開かない。
真理は頭にハテナマークをいっぱい浮かべ、座敷わらしを凝視し返した。
時間が止まった世界の中で、彼女の赤いワンピースの裾だけが、金魚の尾びれのようにひらひらと揺れている。
何気なく視線を下におろした真理は、座敷わらしの足もとを見て、思わず「あっ」と声を上げた。
座敷わらしの足もとは冬用のモコモコ靴下から、ゴムの部分にレースのついた白い靴下に衣更え済みだ。
その靴下の白を際立たせるような、真っ赤な靴が真理の目に飛び込んできたのだ。
その赤い靴は、真理が去年のクリスマスにプレゼントしたものだった。
座敷わらしはこのプレゼントをとても喜んで、箱から出しては矯めつ眇めつしていたのを、真理は何度も見かけている。
こんなにも喜んでもらえるなんて、プレゼントのし甲斐があるというものだ。
しかし、いくら気に入ったものでも部屋の中で履いてはいけない。
「こらっ、わらしっ! 部屋の中で靴を履いちゃダメじゃないか!」
怒鳴られたことで硬直の魔法が解けたのか、座敷わらしはアワアワと靴を脱ぎだした。
一応、悪いことをしたという自覚はあるらしい。
しかし、脱いだ靴を素早い動作で後ろ手に隠し、「履いてないよ」と、うそぶく、その顔に反省の色は微塵もない。
「まったく……! ここは外国じゃないんだぞ。日本の家は土足厳禁! おまえ、そんな思いっきり和風な見た目で知らなかったとは言わせないぞ!」
一気にまくしたててから、真理は再び「あっ!」と声を上げた。
「そうか! 夢の中のキュッキュっていう、あの不快な靴音の犯人はおまえだったのかっ!」
真理は大きく息を吐いて、心を落ち着かせてから、人差し指を一本、突き出した。
「次にまたやったら、靴は没収」
「えーっ!?」
「えーじゃない。没収が嫌だったら、部屋の中で履かないこと! いいな?」
この脅しは効果てきめんだった。
「しない、しない、もう絶対しない!」
座敷わらしは、顔を青くして誓いを立てた。
靴を抱え込んだ手には、ぎゅっと力がこもっている。
少々脅しすぎたか? と心配になった真理がフォローを入れる隙もなく、座敷わらしはロフトに駆け上がってしまった。
田舎の家と違い、真理の部屋はワンルームで座敷わらしに割り当ててやれる部屋がない。
そのため、真理が物置として使っていた、ロフトを自由に使わせてやっているのだ。
そこは、市松人形の松子に、くまのぬいぐるみのクマゴロウ、真理があげた冬物のもこもこカーディガンに、同じく、冬物のもこもこ靴下といった、座敷わらしの宝物保管庫でもある。
この赤い靴も、晴れて宝物の仲間入りをしたというわけだ。
自分があげたものを大事にしてもらえるのは嬉しいことだが、できれば靴は玄関に置きたいというのが真理の本音だ。
玄関に置いて、誰かに見られでもしたら、それはそれで大変なので我慢しているだけなのだ。
そもそも座敷わらしは、真理以外の者には見えない。
彼女が身に着けていたり、手にしている物も人の目には映らないのだ。
しかし、座敷わらしの手から離れると、その効力は失われてしまう。
この小さな赤い靴も、座敷わらしが脱いだ時点で、人の目に触れるようになってしまうのだ。
男子大学生の一人暮らしの部屋に、小さな女の子向けの靴があったりしたら、誰だって怪しく思うだろう。
滅多やたらに訪問者はないのだが、大学の友人の武田という男がたまに遊びに来るので注意は必要なのだ。
真理はのそりとベッドから抜け出して、ロフトを見上げた。
座敷わらしは、買ったときに入っていた箱に靴をせっせとしまいこんでいる。
真理はその小さな背中に、声をかけた。
「おーい、ちゃんと床掃除しないと、朝メシ抜きだぞー」
バタバタとロフトから降りてくる足音を後頭部で聞きながら、真理は朝食の準備に取り掛かるのだった。
準備と言っても、朝は大抵パンなので、さしたる手間はない。
田舎の家にいた頃の座敷わらしの食事と言えば、お供えされる白米がほとんどで、真理と暮らし始めた当初はパン食に慣れない様子だったのだが、すぐにパンも洋食も座敷わらしの大好物となった。
最近は、丸のままの苺がゴロゴロ入ったジャムを厚切りトーストにたっぷりつけて食べるのが、座敷わらしのお気に入りだ。
少々お高いジャムなのだが、座敷わらしの喜ぶ顔見たさに、ついつい買い物カゴに入れてしまう真理なのだった。
――甘やかし過ぎかな……。
心の中で呟くと、それに答えるような絶妙なタイミングで、ポップアップ式のトースターがこんがり焼けたトーストをポン、と弾いた。
――そうだよな、なんだかんだ言って、俺、ベッタベタに甘やかしてるよな。
そう思うのだけれど……。
ジャムをたっぷりつけて「ほら」とトーストを差し出せば、すぐさまカプリとかぶりつき、「おいひいねぇ」と顔を綻ばす。こんな可愛い生き物を、誰が甘やかさずにいられるだろう。
「こーら、ちゃんと自分の手で持って食べなさい」
注意をすれば、座敷わらしはほっぺにジャムをつけたまま「はーい」と返事する。
真理は「まったく……!」と、怒っているような態度を取りつつも、その手は座敷わらしのためにもう一枚、食パンをトースターにセットしてしまう。
こういうところが、真理の甘さなのだろう。
悪いことは悪いと教えなくちゃな、と思っていても……。
「それにしても、なんだって朝から靴なんか履いてたんだ? 今から散歩にでも行くか? 外でなら思いっきり靴を履けるぞ?」
説教モードは長く続かず、こんな風に、いつの間にか甘やかしてしまうのだ。
しかし、座敷わらしはというと、「今は辞めとく」と気のない返事。
どうもあまり外に出たくないようなのだ。
真理が靴をプレゼントしたのは、座敷わらしに外の世界をたくさん見せてやりたかったからだ。
それなのに、座敷わらしが靴を履いて出かけたのは、祖父の葬儀のときの一度きりだ。
何故、こんなにも頑なに嫌がるのか、真理にはさっぱりわからない。
「真理、パン、もう一枚!」
「はいはい、わかった、わかった」
真理はせっせとパンにジャムを塗りながら、ひっそりとため息をつくのだった。




