21話
チン太くんの後を追おうとして、真理は、しかし、すぐに行く手を阻まれた。
庭に面した廊下は火の海で、玄関はというと、既に煙がもうもうと立ち込めていた。
これでは、とても中に入れない。
――くそっ……、どうしたら……!
そうこうしている間にも、炎と煙の勢いはいよいよ激しさを増してくる。古い木造建築は、火には滅法弱いのだ。
しかし、そのとき、真理はひらめいた。
――そうだ! 裏口だ!
次の瞬間、真理のずぶ濡れの足は屋敷の裏へと駆け出していた。
屋敷の裏手に土間があることを思い出したのだ。
土間には大きなかまどが三つもあり、昔はそこで煮炊きをしていたようだが、水回りをリフォームしてからは、台所としては全く機能していなかった。
ただ裏口としては、とても重宝していた。
駐車スペースが裏手にあるのも理由の一つだが、屋敷から見て裏側に、集落が形成されていたからだ。
そのため玄関から出入りするよりも、この裏口を使う頻度の方が高いくらいで、真理の記憶が確かなら、土間から部屋へと上がる引き戸は昼間は大抵開けっ放しの筈だった。
真理は、それに賭けたのだ。
――頼むっ、開いててくれっ!
願いが通じたのか、薄暗い土間から家の中へと通じる扉には、この日も鍵はかかっていなかった。
しかも、炎の勢いはこちら側にはまだ及んでいない様子。
これなら行ける、とばかりに真理は屋内へと足を踏み入れた。
今、正に燃え盛っている屋敷の中だ。怖くない筈がない。なのに、真理には一切の躊躇いもなかった。
だって、土間からまっすぐ伸びる北側の廊下の、その先に奥の間があるのだ。もうすぐそこに、座敷わらしがいるのだ。それで、どうして躊躇などしていられるだろうか。
薄暗い廊下を、真理は走った。
――そういや、庭の池に飛び込んだのは二度目だな。
こんなに差し迫った状況で……、いや、こんなときだからこそかもしれない。子供の頃の懐かしい記憶が思い起こされるのは。
――あのときは、わらしがずぶ濡れのまま家の中を歩き回って、そのせいで、俺がこっぴどく叱られたんだったな。
前回と違うのは、泥だらけの靴で廊下を汚しているのは、正真正銘、真理だということ。
しかし、今回、もし、祖父に見つかったとしても、決して叱られたりはしないだろう。
なんたって、祖父にとっても大事な、わらし様を助けに行くのだから。
真理は息を切らしながら、奥の間の扉を開け放った。
「わらしっ!!」
薄暗い四畳半。積み上げられた、おもちゃの山も黒いシルエットにしか見えない。
だが、かび臭い部屋の真ん中に、キラリと赤く光るものがある。
やがて、暗さに目が慣れてくると、それがおかっぱ頭を彩る、ハートの髪留めだと認識できた。
座敷わらしは、畳の上で倒れ伏していた。
「わらし、わらし! 大丈夫か?」
抱き起そうとする真理の腕の中で、座敷わらしは目を閉じたまま、首も腕も力無く、ぶら~んと垂れ下がるままだった。
「遅かった、なんて言うなよな。頼む、目を開けてくれっ!」
あらん限りの声で、真理は叫んだ。殆ど悲鳴に近かった。
すると、その声が届いたのか、座敷わらしの瞼がヒクと震えた。
「……ん……」
ゆっくりと、ゆっくりと、瞼が開く。
つぶらな黒い瞳に、真理の姿が映し出されていく様は、まるで奇跡を見ているようだった。
「……し……んり?」
「ああ、そうだ。俺だよ。迎えに来たんだ」
座敷わらしは、真理の言っていることがすぐには理解できないといった顔をしていた。
「……わたち、帰れるの?」
「ああ、帰ろう。俺たちの家に!」
真理が力強く宣言する。
そうだ、座敷わらしの住むべき場所はここではない。
あの、ちょっと狭い、ロフト付きのワンルーム。あそここそが、座敷わらしの家なのだ。
そんな気持ちを目いっぱい込めて、座敷わらしの手をぎゅっと握った。
すると、座敷わらしはとてもとても嬉しそうに、ふにゃりと笑った。が、すぐに力なく瞼が閉じていってしまう。
「お、おいっ! どうした、帰るんだろう? 二人でまた楽しく暮らすんだろう? わらし、わらしっ!」
小さな体を揺さぶると、微かな呻き声。
苦しいのか、どこか痛いのか。
胸に耳を当ててみて、ようやく座敷わらしの声が聞き取れた。
「うー……おにゃか、すいたぁ……」
「……は?」
「おにゃかがすいて……、目がまわる~」
すぐそこまで炎が迫っているというのに、なんという緊迫感の無さだ。
思わず苦笑してしまった真理だったが、思い起こせば初めて会った時も、座敷わらしは畳の上で腹を空かせて倒れていたのだった。
初めからやり直しだ、と真理は思った。
あのときは、座敷わらしが勝手についてきたのだけれど、今度は真理が自らの意志で連れ出すのだ。狭くて、暗くて、誰も座敷わらしを気にかけてくれない、この屋敷から。
その覚悟が、今の真理にはできている。
「じゃあ、ほら。俺の背中に乗れ」
そう言って、小さな体を半ば強引に背負ってみて、真理は思わずぎょっとした。
実体がないのでは、と思うほど座敷わらしの体は軽かった。
まるで真綿を背負っているかのようだった。
ご飯を食べてないという理由だけで、ここまで軽くなるわけがない。
誰にも顧みられない生活が、徐々に徐々に、座敷わらしの質量を削いでいったと考えるべきだろう。
可哀想なことをした。
真理は胸が張り裂けそうになった。
本来ならば座敷わらしは、自由に住まいを変えることができるのだ。
お供えをしてくれない家になんて、いてやる義務などないのだから。
自分を大事にしてくれる場所を、探しに出かける権利があるのだから。
だけど、真理が頼んでしまったのだ。
この家にいてくれ、と。
燃え盛る家から自力で逃げる力もなくなるほど、座敷わらしを衰弱させたのは、他ならぬ真理自身だ。
真理はグッと腹に力を入れて、立ち上がった。
「ここから出たら、腹いっぱい飯を食わせてやるからな」
ぐうきゅるるる。
返事の代わりに、座敷わらしの腹が鳴る。
「よし、よし。すぐにここから出て、ご飯食べような」
腹の虫に応えて、奥の間を飛び出そうとした真理を、何故か、座敷わらしは「待って」と、小さく引き止めた。
「……真理、待って……、クマゴロウも……」
「あ、ああ。そうだな、クマゴロウを忘れちゃだめだよな」
――松子のいない生活で、チン太くんと共に座敷わらしの慰めになってくれていたであろう、クマゴロウを置いて行くわけにはいかないよな。
不細工な熊のぬいぐるみを、真理は労うように抱き上げた。
そして、今度こそ奥の間を飛び出したのだった。
座敷わらしを背中に、クマゴロウを胸に抱え、真理はもと来た廊下を辿った。
どこかの部屋から、バキバキと不穏な音が聞こえてくる。
びっくりして、竦みそうになる足を、真理は叱咤し続けた。
土間にさえ辿り着けば助かる、その一心だった。
なぜなら、火が移るにしても、土間は最後だろうと思うからだ。
そして、その土間まで、あと数歩。これで安心、と思った矢先だった。
横手のふすまから廊下を塞ぐように、炎がゴウと吹き出したのだ。
「うわっ!!」
危なかった。もう少しで、炎に焼かれるところだった。
しかし、出口を塞がれた今の状態が、ピンチであることに変わりはない。
――どうすりゃいいんだ……。
戻るにしても、奥の間には窓というものはなく、しかも袋小路だから、炎がじわじわと近づいてくるのをただ待つだけということになってしまう。
廊下の横にはたくさんの部屋が並んでいるが、ふすまを開けなくともわかる、きっともう火の海だ。
昔ながらの日本家屋は、殆どの部屋が壁ではなく、ふすまや障子で仕切られていて、それが延焼を速めているに違いなかった。
廊下を這いつくばったら、強行突破できるだろうか。
切羽詰まった真理が、そんなことを考え始めたとき、背後から再びチン太くんの鳴き声が聞こえてきた。
チン太くんは「こっち、こっち」とでも言うように、「ワンワンワン」と盛んに吠えている。
――奥の間に戻れって言うのか!?
訝しみながらも、後を追った真理は、すぐにチン太くんの意図を理解した。
「そうか! 風呂場か!」
タイル貼りの風呂場なら、まだきっと延焼していないだろう。
真理は一も二もなく、風呂場へと逃げ込んだ。
入った瞬間に、助かった! と思った。
胸の高さに、窓があったからだ。
窓は結構な大きさで、座敷わらしを背負ったままでも楽々抜けることができそうだった。
まずはクマゴロウを投げてから、真理は浴槽の縁に足をかけ、窓から体を滑らせるようにして、無事脱出することに成功した。
さあ、次はチン太くんの番だ。
腕を広げて、振り返るが、そこにはもうちんちくりんな犬のぬいぐるみはどこにもいない。風呂場の中はもとより、扉の向こうの廊下にも、だ。
「チン太くん!?」
その瞬間、ボンッと中で何かが爆発したような音がして、真理は誰かに乱暴に肩を引っ張られた。
「危ないから、離れなさい!」
尻餅をつくような格好で真理が見上げると、怒ったような顔で消防団の男が立っていた。
「君が真理くんか?」
その男が真理の名前を口にしたのは、健が伝えたからに違いない。
真理が炎の中に飛び込んでいった、と。
「君が最後か? 中にはもう誰もいないな?」
怒りと心配がない交ぜになって、彼の問いかけは殆ど怒鳴り声になっていた。
真理は、救いを求めるように彼を見上げた。
――チン太くんが……!
喉元まで出ていた言葉は、しかし、声にはならなかった。
犬のぬいぐるみを救出してきてくれなんて、とてもじゃないが言い出せない。
「……はい。俺が最後です……」
だから、真理はそう言うしかなかった。
「もう中に人はいないぞー!」
男が周囲にそのことを伝えると、現場に安堵の空気が流れた。
それでようやく、真理は大勢の人に囲まれていることに気が付いた。
消防団の人、近所の人。多くの人が心配そうに見守っている。
「なんだって、火の中に飛び込んだりなんかしたんだ。あと一歩遅かったら死んでたぞ」
消防団員に怒鳴られたが、それも無理からぬことだった。
消火訓練を積んできた者からしたら、真理の行動はあまりにも無謀で、腹の立つことだっただろう。
いかに無謀だったかを証明するかのように、屋根の一部が音を立てて壊れ始めた。その段になって、真理はようやく恐怖というものを実感した。
――ついさっきまで、俺はあの中にいたのか……。
助かって、良かった。
真理は、心からそう思った。
背中でくったりとしているが、座敷わらしも一緒だ。
それに、クマゴロウだけでも連れて来ることができたのだ。
こうして、命があることにひっそりと感謝する真理の姿は、しかし、消防団の男からしたら、ぬいぐるみを抱きしめているだけにしか見えない。
だから、釘を刺しておかなければならないと思ったのだろう。
「まさか、そんなぬいぐるみのために戻ったのか。脱出できたから良かったようなものの……。もう二度とこんな無謀なことはしないように」
彼はそう言って、真理を諌めた。
だけど、その言葉には頷きかねる。
もう一度、こんなことがあったら……。
「ええ、でも……すごく大切なものだから……、俺はやっぱり助けに行くと思います」
首に回された細い腕を握りしめ、真理はキッパリと言い切ったのだった。




