20話
ローカル線の小さな駅を、北風が、びゅうと吹きつける。
駅舎を出た真理は、慌ててダウンジャケットの前をかき合わせた。
朝早くに東京を出て、今の時刻は昼を少し過ぎたところ。太陽は真理の真上にあるが、地面を暖める気などさらさらないに違いない。
――二ヵ月前に来たときは、まだこんなに寒くなかったのにな。
真理は両の手の平に白い息を吐きかけながら、座敷わらしを田舎の家へと帰した、あの日のことを思い浮かべていた。
あれは、済みきった青空が広がる、秋晴れの日のこと。
しかし、清々しい天気とは裏腹に、心は曇天模様の冬の空のように暗かった。
それに比べて、今日はこんな寒空の下にいるというのに、心はほっこりと温かい。
迎えに行ったら、座敷わらしはどんな顔をするだろう。そんなことを考えるだけで、体の内側から自然とポカポカ暖かくなってくるのだ。
――さあ、急ごう!
早く座敷わらしの顔を見たくて、堪らない。
真理は心に急かされるままに、足取りを速めた。
といっても、柳田の家にはまだ遠い。
ここから先は、電車もバスも通ってないのだ。
だから、タクシーを利用するしかないのだが、駅前にタクシーだまりのようなものはない。まずは待合所にポツンと置いてある電話で、タクシーを呼ばなくてはならないのだ。
タクシーは程なくしてやって来るのだが、新幹線でさえ、遅いと感じた真理からしたら、少しの待ち時間でもじれったい。
しかも、乗り込んだタクシーの運転手がこれまたのんびりした人で、真理は道中をイライラと過ごす羽目になるのだった。
「お客さんも、座敷わらしの伝説目当てで?」
真理が「柳田邸まで」と行き先を告げると、運転手は好奇心いっぱいの目をバックミラー越しに向けてきた。
どうやら話好きのタクシーに当たってしまったらしい。
おしゃべりするよりも、もう少しスピードを上げてほしいところだったが、そんなことは言えないので、真理は適当に「ええ、まあ」と返事をするに留めた。
正直に親戚だと答えたら、それはそれで面倒臭いことになりそうな気がしたからだ。
「いやあ、昔はそういうお客さんが大勢いたんですけどね、最近はパッタリ来なくなってねえ。最近の人は座敷わらしなんて言っても、知らないんでしょうかねえ」
だから、柳田亭まで客を案内するのは久し振りなのだ、と運転手は言う。
「……はあ」
「お客さんは? やっぱり、あのでっかい自動車会社の社長さんみたいになりたくて?」
「……は?」
「あれ? 知らない? 他にも何て言ったか、なんとか電機の社長さんなんかも、あそこのお屋敷に泊まって、座敷わらしを見て、そこから運が上向いて、それでとんとん拍子で出世したって話ですよ」
「え、そうなんですか」
それまでうわの空で、窓の外をぼんやり眺めていた真理だったが、つい身を乗り出してしまった。
そんな真理の反応に気を良くしたのか、運転手のおしゃべりにも勢いが増す。
「おや、それも知らない? ほら、あの、なんとかっていう昔の総理大臣も、若い頃、泊まりに来たことがあるらしいって、これ、有名な話ですよ」
「……へぇ~」
真理が産まれる前の話なのだろう。どれも、初めて聞く話だった。
「羨ましいねえ。私もあやかりたいもんですよ」
そう言って、運転手はハハハと笑ったが、真理は愛想笑いさえも、返すことができなかった。
――やっぱり座敷わらしの御加護って、あるのかな……。
実際に成功者が出たという話を改めて聞かされると、どうしようもなく、心がぐらついた。
迎えに行って、本当にいいのか。
わらしにはやっぱりすごい力があって、それによって、祖父たちにとんでもない不幸が降りかかるのではないか。
――いや、わらし本人がそんなことないって言ってたじゃないか。誰かの又聞きの話より、俺はわらしの言葉を信じよう。
真理は頭をプルプルっと振った。そうすれば、余計な考えがふるい落とされるような気がした。
運転手のおしゃべりは、その後、時事問題から身の上話にまでに及んだ。
真理がそれに少々辟易し始めた頃だ。柳田家の屋敷が前方に見えてきたのは。
「おや?」
その屋敷の異変を察知したのは、真理ではなく、運転手の方だった。
「……焚き火……、いや、ありゃあ、焚き火の煙じゃないぞ! 火事だ!」
「えぇっ!?」
真理は慌てて窓にかじりついた。
高台に建つ屋敷だから、黒い煙が天を衝くような勢いで立ち上るのがよく見える。
確かに、枯葉を燃やしているのとはわけが違う。尋常じゃない煙の量がそれを物語っている。
「大変だ! 運転手さんっ、急いで!」
一体全体屋敷で何が起こっているのか。
わからないから、余計に不安になる。
急いで、もっと急いで。
真理は運転手を急かしに、急かした。
そうして、屋敷の前の公道にタクシーをつけさせると、真理はそのまま坂になっている私道を駆け上がった。
そこで見たものは、炎と煙に包まれる屋敷と、庭先で呆然と立ち尽くす健の姿だった。
「おい、健! どうした、何があった?」
真理の姿を見てとると、健は途端にガタガタと震えだした。
「あ、あ、あ……」
まともに話すこともできない健がその場に崩れ落ちようとするのを、真理は許さなかった。
胸ぐらを掴んで、「しっかりしろ!」と叱咤する。
見たところ、怪我はしてないようだ。だが、何故、一人なのか。
「叔母さんは、どうした? まさか家の中じゃ……?」
「あ、母さんは病院、行ってて……」
「119には?」
「あ……」
「中にスマホが入ってる! それで早く通報しろ!」
持っていたバッグごと健に押しつける。それと同時に、真理は庭に向かって走り出していた。
「あ、あのっ! 模試の結果が悪くて! 母さんに見せたくなくて、それでっ、庭で燃やしてたら、風で火が舞い上がって……!」
後ろから健が言い訳めいたことを喚いていたが、そんなことはどうでもいいことだった。
真理の頭の中にあるのは、座敷わらしのことだけだ。
「わらしっ!!」
とっくに逃げ出している、と思いたい。
だけど、初めて会ったとき、座敷わらしは空腹のあまり倒れて動けなくなっていたではないか。
その姿が頭から離れない。
今も奥の間で、うずくまって動けなくなっているとしたら……。
「わらし! いたら、返事してくれ! わらし!」
庭の真ん中で真理は叫んだ。
植え込みの中からひょっこり顔を覗かせてくれたらいいのに。
そう思う半面、燃え盛る屋敷から目が離せない。
しかし、焚き火から飛び火したと、健が言っていた通り、庭に面した広縁の燃え方が激しくて、中の様子が見えないのだ。
「くそっ!」
裏に回るか、と思ったとき、甲高い犬の鳴き声を真理の耳はキャッチした。
「ワンワンッ」
どこか必死さが感じられる鳴き声だ。
一体どこで鳴いているのか、真理は辺りをぐるりと見回した。
すると、広縁の隅、煙が立ち込める中に、真理は小さなシルエットを見つけた。
「ワンワンワン」
ここだ、ここだと真理を呼んでいる、あれは……。
「チン太くん!?」
赤い舌をペロッと出した、愛嬌のある、あの顔は、確かに座敷わらしのぬいぐるみのチン太くんだ。
「わらしはまだ中なのかっ?」
ぬいぐるみが歩き、鳴く。そんなことに、いちいち驚いている暇はない。
座敷わらしのためならば、おもちゃたちは行動を起こすのだ。
くるりと尻を向け、屋敷の奥へと入って行ってしまったチン太くんは、だからきっと、座敷わらしの許に真理を導こうとしているに違いない。
真理は、そう確信した。
座敷わらしは中にいる。
きっと動けないのだろう。
助けられるのは、真理だけだ。
真理はダウンジャケットを脱ぎ捨てて、おもむろに池に飛び込んだ。
寒風吹きすさぶ中、池の水が冷たくないわけがない。
しかし、その水を頭からかぶっても、不思議と少しも寒くなかった。
今、真理の頭の中を占めているのは、ただひとつのことだけだ。
――待ってろ、わらし。今、助けに行く!




