2話
「祖母ちゃん、それ、どうするの?」
祖母がまだ生きていた頃、真理は聞いたことがあった。
夕飯前に、山盛りのご飯を茶碗によそって、必ずどこかに行く祖母を、いつも不思議に思っていたのだ。
「わらし様にお供えするのよ」
「わらし様?」
「そうよ。わらし様が棲みついてくださってるから、柳田の家には代々悪いことが起こらないの。わらし様は幸せの守り神なのよ」
「神様がいるの? その神様って、男? 女?」
「そうねえ、どっちだろうねえ。お祖母ちゃんには見えないからわからないねえ」
「見えないのに、どうして、いるってわかるの?」
真理の子供らしい疑問に、祖母は、ふふふと笑った。
「どうしてって……。わらし様は毎日、たーんとご飯を召し上がってくださってるのよ。それが証拠に、朝には茶碗が空っぽだもの」
「えー、うっそだー。……………………ホントに?」
目を丸くする真理に、祖母は、ふふふと笑うだけだった。
真理は想像してみた。透明人間が山盛りご飯を食べている場面を。
俄然興味が湧いてきて、真理は祖母の後をついて行くことにした。自然にご飯が減っていく、その決定的瞬間を目撃するために。
わらし様の部屋は、屋敷の一番奥にあった。
昔ながらの造りのため、風通りの良いこの屋敷の中で、その部屋だけは異質だった。
まず第一に、窓が無い。そのため四畳半の小さな部屋は、昼でも薄暗い。神様より、お化けが出てきそうな雰囲気だ。
部屋の隅にうず高く積まれたおもちゃもまた、異様な雰囲気を醸し出すことに一役買っていた。これらは全てお供え物だという。
おもちゃが好きな神様なんて、変わってるな、と真理は思った。
しかも、真理が欲しくなるようなものではない。手まりやお手玉、飛行機の模型といった、ひと昔もふた昔も前の古臭いおもちゃばかりだった。
その中の一つ、市松人形の首が動いたような気がして、真理は「ぎゃーー!!」と叫び声をあげた。
神様? 透明人間?
そんなことはもうどうでもいい。
一目散に逃げ出した真理は、それ以後、二度とこの部屋には近づかなかった。
「わらし様か……」
まだ祖母が元気だった頃の、懐かしい記憶に真理は思いを馳せていた。
大人になった今、守り神の存在を信じるかと聞かれれば、答えはノーだ。
ただ、代々受け継いできた伝統を、祖父母の代で途絶えさせてはいけないとは思う。それが柳田家の人間の義務のような気がした。
とは言え、どうしたものか。
夕飯までにはまだ時間がある。何かお供え物になりそうなものはないかと、屋敷の中を探すことにした。
居間でテレビを見ながらせんべいを齧っている叔母を見かけたが、さすがに「そのおせんべい、ください」とは言いづらく、真理は結局、母を頼った。
「え? わらし様にお供えしたい?」
掃除機をかける手を止めて、母は自分の息子をまじまじと見返した。わらし様のことなど全く気にかけていなかったのだと、その表情が物語っていた。
「何を言い出すのかと思ったら……。でも、そうねえ、お祖母ちゃんの日課だったわねえ」
少し思案してから、仏壇にお供えしたお菓子を持って行きなさいと、母は言った。夕食の時には、ちゃんとご飯を用意しておくから、と。
母から許可はもらったが、もちろん祖母にも断りが必要だ。
「さっきお供えしたばかりだけど、ちょっともらっていくね」と、真理は仏壇に手を合わせる。
返事があったわけではないけれど、優しい祖母が怒る筈がない。他ならぬ、わらし様のためならば、なおの事。
東京駅の地下食品売り場で買った東京土産のバウムクーヘンを菓子盆に取り分けながら、真理はふと考えた。あの奥の間に行くのは何年振りだろう、と。
子供の頃、あれほど恐ろしかった奥の間だが、大人になってみたら、どうということもなかった。
――なんだ、ただの薄暗い四畳半じゃん。
部屋に近づくのさえ怖がっていた子供時代の自分を、真理はひっそりと笑った。
しかし、部屋を見渡した拍子に、おもちゃの山の中の市松人形が視界に入って、思わず「ひっ」と声を上げてしまう。
――うわー、あの人形、まだあったのか。目、合わせたくねー。
どこか適当なところに菓子を置いて、とっとと部屋を出て行こう。そんなことを考えた時点で、子供時代と何ら変わってないと気付いていない真理だった。
そんなふうにビクビクしていると、物音ひとつにも死ぬほどびっくりしてしまうもので……。
ぎゅるるるるる。
突然、背後から音がして、真理はそれはもうびっくりした。
怖々と振り向くと、小さな女の子が畳に突っ伏しているではないか。
「う、うわあ、だ、だ、だ、誰っ!?」
記憶を猛スピードで巻き戻してみるが、部屋に入ったとき、女の子なんて絶対にいなかった。
「い、い、い、いつの間にっ!?」
けれど、女の子からの返事はない。
代わりに、また、ぐうきゅるるるるる。
――えーっと、これはもしかして……、もしかしなくても……、腹の音?
真理が一歩近づくと、小さな女の子の真っ黒なおかっぱ頭がゆるゆると上がる。
――これで、顔を上げたらのっぺらぼう、なんてことは……ない……よなあ?
真理は身構えたが、これは完全な肩透かしに終わった。
なんてことはない、愛らしい少女だった。
真っ直ぐに切り揃えられた前髪の下、黒い大きな瞳がうるうるしている。
「お腹、すいたぁ」
なんともふにゃふにゃな、これが女の子の第一声だった。
どうやら腹に全く力が入らないらしい。
「おにゃか、すいたぁぁ」
さっきよりももっと力の無い声でもう一度言われて、真理は自分がお供え物のお菓子を持ってることをようやく思い出した。
「お菓子、食べるか?」
しかし、手を伸ばす力もないのか、ただただ見つめてくるばかりで女の子はピクリとも動かない。
仕方がないから包装を破り、いまだ倒れたままの女の子の鼻先まで持っていってやる。
女の子は、くん、と匂いを嗅いでから、一口サイズのそれにパクンと噛り付いた。
指まで持って行かれそうな勢いに、真理は慌てて手を引っ込める。
――なんだ、この可愛い生き物は……。
頬を膨らませ、モグモグ食べる姿はまるでリスのよう。野生の子リスに餌付けしてるような気分だ。
コクンと喉を鳴らしたところを見計らって、もう一個、バウムクーヘンを差し出してみる。
「もう一個、食べるか?」
女の子は嬉しそうに顔をほころばせた。が、すぐに顔をきゅっと引き締めてしましまう。
「ん? 食べないのか?」
「……だって、それは真理の分でしょ」
「へ? 俺? 俺はいいんだよ、腹減ってないから」
「……でも」
「いいんだよ。それ、わらし様へのお供え物だったんだ。けど、そっちは夜にちゃんとご飯を持ってくるからさ。だから、子供が遠慮なんかすんな」
真理が安心させるようにそう言うと、女の子の顔が、ぱあっと明るくなった。
「わたちのために持ってきてくれたのぉ? わーいわーい。ほんじゃ、食べるぅ」
再びパクッと食いついてきた女の子を、しばらくポカーンと見つめていた真理だったが……。
「あれ……? 今、『わたちのため』って言ったか? わたちって、『私』ってことか? おい、どういうことなんだ?」
しかし、女の子はバウムクーヘンに夢中で、真理の言うことなんか聞いちゃいない。
「美味しいね、美味しいね。特に周りの白いところ! すごーく甘くて、すごーく美味しい」
「あ、ああ、そうか、うまいか。……って、いや、そうじゃなくて……」
見た目は普通の女の子だ。年は小学校一、二年生といったところか。半袖の赤いワンピース着てる守り神様なんて、聞いたことがない。
「真理ぃ、もう一個」
「ああ、はいはい。…………って、ちょっと待て! さっきから俺の名前を呼んでないか?」
自己紹介なんてしてもいない。
一体どういうことだと思っても、今は答えを得られそうになかった。
とにかく全部を平らげて、彼女の腹が満たされるまではダメだろう。
「真理ぃ、もう一個」
「あー、はいはい」
聞きたいことは山ほどあるが、仕方がない。真理はヒナに餌を運ぶ親鳥の役に徹するしかなかった。