10話
「おじゃましまーす」
「うわー、里奈ちゃん、ちょっと待っててって、言ったのに!」
あたふたする真理に、里奈は「もう充分待ったよ」と、にべも無い。そして、そのままずかずかと部屋に上り込んでしまう。
そんな里奈の目を真っ先に引いたのは、やはり……。
「へぇ~、ロフト付き? お洒落だね」
ロフトを見て、目を輝かせた里奈は 今にも梯子を上がっていきそうな勢いだ。
真理は慌てて、だが、さり気なく、ロフトを上へと押しやった。
「あー、そこは物置にしちゃってるんだよね。だから、ごちゃごちゃなんだ」
里奈の目に、座敷わらしは映らない。そうとわかっていても、里奈を座敷わらしに近づけるのは不安だった。
といっても、座敷わらしを潰すわけにはいかないので、ほんの少し押し上げるに留めただけなのだが。
当然、ロフトの奥からは「わあ、なに、真理?」と、小さく悲鳴が上がるが、我慢してもらうより他にない。とにかく、この場をうまく乗り切ることが先決なのだ。
しかし、真理の心配は杞憂だったようだ。
「なんで隠すの? 怪し~い。何かイケナイものでも隠してるんじゃないの? ……あっ、ロフトの下がベッドになってるんだ」
里奈の関心は、あちこち飛ぶようにできているらしい。案外あっさりとロフトへの興味は薄れてしまったようだった。
「そ、そうそう! そうなんだよ。でも、ついついソファとしても使っちゃうんだよね、便利だから」
上手く誤魔化せた、とホッと息をついたのも束の間、次の瞬間、真理はピキーンと固まってしまった。
「ホントだ、快適! テレビもちゃんと見えるように置いてあるんだね」
里奈が何の躊躇いもなく、ベッドに腰掛けたのだ。
――わぁっ、俺のベッドにっ……、女の子がっ……!
何しろ、この部屋に女の子を呼んだのは初めてなのだ。
――いやいや、落ち着け、俺。
真理はこっそり深呼吸した。
彼女は決して誘っているわけでも、真理を試しているわけでもないのだ……多分。
さっきまでは、なるべく穏便に帰ってもらおうと、そればかり考えていたのに、今はその逆だ。座敷わらしのことは、頭からすっぽり抜け落ちてしまっていた。
そんな真理の心の内を知ってか知らずか、里奈は白い生足をプラプラさせている。
「でも、安心した。ちゃんと男の子の一人暮らしっぽい所があって。里奈の部屋よりずっと綺麗にしてるんだもん。これじゃあ、どっちが女の子かわかんない~って思ってたんだ」
そう言って、里奈が指差した先は、ミニテーブルの上の弁当の空容器。
「わあ、昼に食べてそのままだった」
それは座敷わらしが食べた弁当だったが、真理は自分のせいにして、空の弁当を流しに持って行く。里奈の白い生足は目の毒で、少しインターバルを置く意味もあった。
おかげで、人心地つけたのかもしれない。真理は里奈に水の一杯も出してないとか、そういったことに気が回るようになっていた。
「あ、そうだ、何か飲むよね? 酔い覚ましに」
そうは言ったものの、あるのは缶ビールとペットボトルの水だけ。冷蔵庫を開けて、真理は思わず「う~ん」と唸ってしまう。
すると、背中に温かく、柔らかい感触が……。
「何があるの?」
里奈が後ろから抱きつくようにして、冷蔵庫の中を覗き込んできたのだ。
「あっ、お水がある。里奈、お水がいいなあ」
真理の脇の下から、腕がにょっきり伸びてくる。密着度が更に増したが、里奈はあくまで水を取ろうとしているだけなのだ。
ペットボトルを手に取ると、里奈は涼しい顔でベッドに戻っていく。
「里奈、のどが渇いてたんだぁ。いただきまーす」
白く、細い首が、水を嚥下していく。
それが妙になまめかしくて、真理はふらふらと吸い寄せられてしまう。
「真理くんも飲む?」
無邪気に思えた里奈の笑顔も、今は妖艶に見える。
真理はペットボトルを受け取ると、そのままミニテーブルの上に置いた。喉はカラカラに渇いていたが、欲しているのは水ではない。
「里奈ちゃんっ……」
真理は隣に腰を掛け、里奈の肩を抱いた。
「真理くん……」
――大丈夫。拒絶されてない。
至近距離で見つめ合ったからこその確信だ。
いや、拒絶どころか、里奈は後ろに後ろに重心を傾けている。自然と押し倒される格好になるように、と。
そのときだった。
「松子ちゃ~ん、髪の毛サラサラ~、松子ちゃ~ん、髪の毛サラサラ~」
上から何とも能天気な鼻歌が聞こえてきて、真理は一気に現実へと引き戻された。
――そうだった。わらしがいるんだった……。何やってるんだ、俺は……。
何故、このタイミングなんだと恨めしく思うが、退屈になる頃合いだったのだろう。それで人形遊びを始めたとして、何が悪いのか。
それに、降りてくるなとは言ったが、歌を歌うなとは言ってない。言いつけたことは、きちんと守っているのだ。
真理は、がっくりと肩を落とした。盛り上がっていた気持ちが、しおしおと萎んでいく。
それを誤魔化すように、喉が渇いたふりをした。
「あー……、やっぱり水飲もうかなー。のど渇いちゃったなー」
しかし、言い終える前に、里奈に「しっ!」と制されてしまった。
見ると、里奈は眉間にしわを寄せ、ひどく難しい顔をしている。
腰の引けた真理に対して怒っているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「……今、何か聞こえた」
里奈は耳をそばだてていたのだ。
「真理くんも聞こえない? 微かに……子供のすすり泣く声が」
座敷わらしの鼻歌を、はっきり聞き取っているわけではないらしい。
だからと言って、この能天気な鼻歌がすすり泣きに聞こえるとは……。
「はぁ? すすり泣き?」
真理はぶんぶんと首を横に振った。
「聞こえるんだってば! ほら、また!」
『松子ちゃ~ん』
「お母さーん、って」
『髪の毛つやつや~』
「え? いっしょう……うら、むわ……? やだ、一生恨むわって言ってる!?」
――いやいやいや、そんなこと言うような奴じゃないって!
と、思うままを口にすることができないのがもどかしい。
「う~ん。気のせいじゃないかな」
だから、当たり障りのない言い方で否定するしかない。
しかし、里奈は怯えてしまって、聞く耳を持たない。
「真理くんにはわからないだろうけど、里奈は霊感強いから感じちゃうの。この部屋、絶対何かいるよ」
――いや、いるには、いるけど……。全く害のない奴でして……。あ~、困ったな。
途方に暮れる真理の横で、里奈はすっかり固まってしまい、目だけをおどおど、きょろきょろさせている。そんな中、全ての元凶である座敷わらしだけが、のん気に鼻歌を歌っているという状況だ。
「松子ちゃ~ん、髪の毛サラサラ~、松子ちゃ~ん、髪の毛、あっ!」
しかし、唐突に歌が途切れた。
真理が「どうしたんだ?」と思う間もなく、視界を掠めるようにして、上から何かが降ってくる。
降ってきたのは何か黒っぽい、小さな塊だ。
その塊が小さくバウンドする様子を、真理と里奈は自然と目で追いかけていた。
それは丁度二人の真ん前で、コロンと止まり……。
次の瞬間、どこからそんな声が出るのかというほどの、里奈の絶叫が響き渡った。
「ぎゃああああああーっ!!」
それは、小さな少女の首だった。黒い髪が床の上に扇状に広がり、まるでさらし首のようだ。
しかも、顔がこちら向きで、バッチリ目が合ってしまう状態だ。その表情は薄っすら笑みを浮かべていて、それがまた不気味だった。
真理も思わず「ひぃっ!」と息を飲んだが、よくよく見れば、その顔は馴染みのもので……。
――わっ、松子! わらしの奴、何やってんだ。
真理がとっさに思ったのは、ふてくされた座敷わらしが投げつけたのか、ということだった。が、あれほど大事にしている人形を、座敷わらしが投げたりするわけがない、と思い直す。
それに、そんなことよりも里奈をどうにかする方が先だった。ホラー映画のヒロインのように、ずっと叫び続けているのだ。近所迷惑も甚だしい。
「ぎゃあああああ!!」
「人形だから。ね、大丈夫だから」
「きゃあああああ!!」
何とか宥めようとするが、パニック状態でどうにもならない。肩に置いた、真理の手にさえ怖がる始末だ。
里奈は転がるようにベッドから下りると、自分のバッグをひったくった。そして、そのまま尻餅をつきつつ、玄関へと逃げていく。
「帰る、帰る、もう帰る!」
呪文のように唱えているが、どうやら上手く靴が履けないようだ。
真理は松子を拾うと、玄関でいまだジタバタしている里奈を追いかけた。
「里奈ちゃん、落ち着いて。ほら、ただの人形だよ」
松子を見せて安心させようと思ったのだが、これは全くの逆効果だった。
「きゃああああっ!!」
里奈はとうとう靴を履くのを諦めてしまった。胸に靴を抱きしめるようにして、裸足で外へと飛び出していく。
「里奈ちゃん、ちょっと待って! じゃあ、そこまで送るからさ」
終電には間に合う時間だ。せめて駅まで送ろうと思ったのだが……。
「いやあーっ!! 来ないでーっ!!」
絶叫と共に、里奈は走って逃げて行ってしまった。
彼女の後姿を、真理は呆然と見送るしかない。
そうして、しばし里奈の去って行った方を見つめていた真理は、ふと気配を感じて視線を巡らせると、なんと隣の部屋の玄関ドアが薄く開いているではないか。その細い隙間から目玉が二つ、覗いている。
これだけの大騒ぎだ。隣人が何事かと思って出て来たとして、何ら不思議ではない。
「いや、参りましたよ……」
とっさに言い訳をしようとしたのだが、途中でバタンとドアを閉められてしまう。
「あ~ぁ、俺、どんな奴だと思われただろう」
隣人とは全く付き合いがない。誤解をされたら、最後、それを訂正する術がないのだ。
「まったく……。松子、おまえのせいだぞ」
真理は掌の中の松子を恨めし気に睨んだ。
松子はいつもと変わらぬ笑みを浮かべ、泰然としている。
しかし、その笑顔は心なしか、してやったりといった表情にも見えた。
「はぁ~、まあいいや。もう今日は疲れたよ」
がっくりと肩を落として、部屋に戻ると、ロフトから座敷わらしが身を乗り出していた。
「松子ちゃんの髪を櫛でとかしてたら、首がもげちゃったあ。真理、取って~」
「自分で取りに来い」
真理はフンと鼻を鳴らして、松子の首をミニテーブルの上に置いた。
「えー、だって、下りちゃダメって真理に言われたんだもん」
素直な座敷わらしは、言いつけを守り続けているのだ。
しかし、座敷わらしが素直であればあるほど、真理は自己嫌悪に陥ってしまう。
真理は項垂れたまま、座敷わらしを手招きした。
「ごめん、悪かった。もう下りてきていいぞ」
許可を得て、座敷わらしが梯子を下りてくるが、いつもと様子の違う真理に戸惑いを隠せない。
「どしたの、真理? どっか痛いの? 誰かに叱られたの?」
「大丈夫だよ。なんでもないよ。……いや、誰にも叱られないから、胸が痛いのかもしれないな。わらし、俺を叱ってくれよ」
座敷わらしがすぐ上にいるというのに、女の子を押し倒そうとしたなんて、自分でもどうかしてたとしか思えない。
何考えてるんだ、と誰かに思いっきり詰られたかった。
しかし、座敷わらしには思いっきり嫌な顔をされてしまった。
「えーっ! イヤだよ。叱ることないのに、叱れないよ」
「何だよ、叱ってくれって言ってんだ。叱ってくれよ。ケチだな」
「むぅっ! わたち、ケチじゃないよ!」
「ケチじゃないか」
「ケチじゃないもんっ!」
この夜、二人は何で揉めていたのか忘れるまで、こうして言い合っていた。
そんな二人をミニテーブルの上の松子は、首だけの状態で微笑ましく見守っていたのだった。




