1話
タクシーの後部座席で、柳田真理はいささかうんざりしていた。
東京から父の田舎の東北までという長旅で疲れているところに、母の説教とも愚痴ともつかないものが始まってしまったせいだ。
車窓からの眺めについうっかり「うわー、ぜんっぜん変わってないじゃん。懐かしいなあ」などと、のん気に呟いたのがいけなかったのだろう。
この一言が母親の、何か変なスイッチを押してしまったのだと気付いても、後の祭。
「懐かしい? そりゃあ、そうでしょうよ。あんたがお父さんの田舎に来たのはお祖母ちゃんのお葬式が最後でしょ。それ以降は受験だの、部活の合宿だの、なんだかんだ理由をつけて、顔を見せに行くのさえ嫌がって。親戚が全員揃ってるって時でもあんた一人だけいなくて……。母さん、どれだけ肩身が狭かったか」
一度着火した母は、手がつけられない。
こんな時に「いやいやいや、大学合格の報告に、二年前に一度来てるってば」などと、口答えをしてはいけない。
「その時は祖父ちゃんが市内の病院に入院していて、家の方には寄らなかっただけだ」などと反論しようものなら、このうんざりする時間がその分、長引くだけだろうから。
話を聞いている振りをして、やり過ごす。これに限る。
そんな母子を乗せてタクシーは、青々とした田んぼの中の一本道をひた走っていた。
やがて、前方に一軒の屋敷が見えてくる。
大きくて古めかしい、伝統的な日本家屋は、集落を見下ろすように高台に建っていた。
それが父の生家、柳田家だった。
出迎えたのは、父の妹の直美叔母さんだった。数年前に離婚して、高校生の息子を連れて出戻ってきているのだ。
「あら、まあ、真理くん? あらあら、随分と大きくなって!」
「縦にばっかりひょろひょろと伸びちゃって、困ってるのよ」
「そんなことないわよ、すっかりかっこ良くなっちゃって。やっぱり東京の大学生は違うわね。モテるんじゃないのぉ?」
「モテる? ぜーんぜんよ」
叔母は社交辞令を言ってるのだろう。
しかし……。
――なんでおふくろが俺に代わって勝手に謙遜するかなあ? まあ、モテないってのは事実だけさ……。
背は高い方だ。
顔はごくごく普通。とりたてて不細工ではないと、自分では思っている。
だけど、人畜無害そうで、今一つ魅力に欠ける。そんなことを女子に言われたことがある。無害という言葉が悪口になると、その時初めて真理は知ったのだが……。
とにかく、いくら本当のことでも、ひとから言われると腹が立つというものだ。
しかし、不服顔の真理はすっかり忘れていた。この叔母が、ただで人を褒めるような人ではないということを。
「あら、そうなの。パッタリと遊びに来なくなったのは、デートで忙しいからだと思ってたわ」
――そうきたか……。褒めまくったのは嫌味の前フリだったってわけか。
しかも、ここから自慢話へと強引に持っていくのが、この叔母は上手いのだ。
「忙しいと言ったら、うちの健ちゃんも忙しいのよ。なんたって今年は大学受験だから」
健ちゃんというのは叔母の一人息子で、その溺愛ぶりは親戚中の知るところだ。
「なのに、お祖父ちゃんの介護をよく手伝ってくれるのよ。あの子は優しいから……。受験勉強に集中させてあげたいんだけどねえ……。でも、今日は真理くんが健ちゃんの代わりにやってくれるのよね。助かるわぁ。」
「はあ……」
「でも、お祖父ちゃん、びっくりしちゃうかな。珍しい人が来た! って。びっくりし過ぎて心臓が止まっちゃったりして」
そう言って、叔母はアハハハと笑うが……。
――笑えねー。ブラック過ぎて笑えねー。
今日は一泊する予定なのだが、真理は既に帰りたくなっていた。
そんな真理と引き換え、母は着くなり荷を解いて、もうエプロン姿になっている。
祖父が自宅療養になってから、月に二、三回、東京から遥々こうして手伝いに通っているのだから、慣れたものだ。
長男の嫁も大変だなと、密かに思ったが、それは口には出さずにおいた。余計なひと言が命取りになると、行きのタクシーで学習済みの真理だった。
やたらと広いこの屋敷は、庭に面した広縁も、やたらと長い。
その長い広縁の先にある、祖父の部屋へと母に連れられて歩いていると、叔母の一人息子・健に出くわした。
「健ちゃん、こんにちは」
母が声をかけるが、返事もしない。
ニキビの目立つ顔には幼さも残るが、ボサボサ頭が目をほとんど覆い隠しているので、表情は窺えない。
「何、アレ?」
どんよりとした暗いオーラを漂わせ、無言で通り過ぎていく背中を、真理は呆れ顔で見送った。
「アレが介護の手伝いもしちゃう、心優しい男子高校生?」
しかし、母は気にも留めていない様子だ。
「難しい年頃なんでしょ」
そう言って、そのままスタスタと歩いて行ってしまう。
その様子から、あれはいつものことなのだと納得した真理は慌てて母の後を追った。
しかし、どうにも足が重い。
それが緊張のせいだと、祖父の部屋の前に立ってようやく気がついた。
何しろいい思い出はあまりない。
煮物の中から椎茸をこっそり弾いたところを見つかって、「好き嫌いをするとは何事だ」と怒鳴られたこと。
庭の松によじ登ったところを見つかって、「もう降りて来るな」と命令されたこと。その時は大泣きして謝って、それでようやく降りることを許されたのだ。
箸の上げ下ろしから、普段の姿勢まで注意される。次第に、祖父の前では萎縮するようになっていた。
何より一番苦痛だったのは、祖父の怒りが最後には必ず母に向かうことだった。自分が怒られるよりも「どういう躾をしてるんだ」と怒鳴られる母を見る方がつからった。
頃合いを見て祖母がとりなしてくれるのだが、その祖母が亡くなってしまっては、真理の足が遠のくのも当然と言えるだろう。
「お義父さん、嫁の由美子です。今日は真理も連れて来ましたよ」
母が朗らかに声をかけながら、祖父の部屋の障子戸を開け放つ。
とっさに母の背中に隠れた真理は、小さな子供の頃に逆戻りしたかのようだ。
しかし、すぐに自分はもう子供ではないのだと実感することになる。
純和室の真ん中、でんと鎮座する介護ベッドの中に、真理の知る祖父はいなかった。
――こんなに小さかったっけ……? 二年前に病院で見舞ったときは、もっと元気だったのに……。
「お祖父ちゃん? 寝てるのかしら」
母の呼びかけに、老人は何の反応も見せない。落ち窪んだ目は、今は固く閉ざされている。
「じゃあ、真理、ちょっと看ていてちょうだいね」
母はそう言って、空になっていた水差しを持って出て行ってしまった。
残された真理は、恐る恐るベッドに近寄った。
畏怖の対象であった祖父は、今やこんなにも細くて小さい。
真理は身の内から、じわじわと罪悪感が湧き上がってくるのを感じた。
「祖父ちゃん、ごめん……。もっと早く見舞いに来ればよかった」
祖父の腕をそっとさすってみる。それは、まるで枯れ枝のようだった。
丁度そのタイミングだった。祖父の瞼がゆっくりと開いたのは。
起こしてしまったか。
真理は一瞬ドキリとした。
しかし、今、目が覚めたというよりは、さっきまでただ眼を瞑っていただけのように見える。その証拠に、真理をひたと捉える目は、しっかりしていた。
「あ、あの……」
もしかしたら、真理を孫だと認識できてないかもしれない。
だから、名乗ろうとした。あなたの長男の誠一郎の息子の真理ですよ、と。
しかし、先に祖父の乾いた唇がわずかに動いた。
大きくなったなと言われるのか、おまえは誰だと言われるのか。とにかく何か言おうとしている。
真理は怖々と祖父の口許に耳を寄せた。
「わらし様に……お食事……を。誰も……、世話、しない。きっとひもじい……思い……してる」
枯葉を踏みしめた時のようなカサカサとした小さな声が訴えたのは、思いもよらないことだった。