02四鳥別離の慟哭
世界間に開いている空気孔のような微細な空洞。
重力子のみが通過できる狭き門。
そこを通れば異世界に行けるのだ、と真顔で言われても人類にはそこまで存在を圧縮できる技術はそもそもない。
那由多の果ての時代ならば――魔法とも言えるぐらい高度に発達した科学の世紀ならば、あるいはその穴をくぐり抜ける装置が生まれているかもしれない。
けれどそれは、仮定の話。現実的に人間はその穴を通過することは出来ない。
だから何か意思あるものがそこを通過したのだとすれば、それは人間ではない何か。動物でも植物でも、生命ですら無い何か。意思の残滓のような儚いものに限るのだ。
「天使様!呼びかけに応えて下さり、感謝致します。私は帝国諮問団大賢者ファーレーンの一番弟子ナタリアと申します。天使様、お導きを」
『あぁ?』
白い道衣で裸体を隠す幼い子供が一心に祈っていた。彼女は目を固くつぶり、敬意を示すように地に這いつくばる。
ナタリアにとっては乾坤一擲の賭けである。なけなしの信仰心を総動員して、全身全霊で祈りを捧げていた。いくら神仏を信仰していなかったとしても、目の前に現出されてしまえば有無はなかった。居ないものは頼れないが、目の前にいるのならば縋る意味はある。
『誰だこのガキは?』
「ナタリアと申します。天使様」
『天使、天使ねぇ……』
「あの」
『人違いだぜ、ガキ。俺はそんなご大層なモンじゃねーよ。見な』
恐る恐るナタリアは平伏した状態から表を上げた。”声”は確かに聞こえている。しかし目の前には何も居ない。いや、陽炎のように揺れる空気がそこにはあった。明らかに”ここに居るべきではない存在”の気配を感じ取り、ナタリアは漏れかけた悲鳴を押し殺した。
なにを怯えている、と己を叱咤しナタリアは先程までの決意を思い返す。大いなる存在を呼び出そうとしたのは自分だ。自分の責任だ。何を恐れることがあろう。ただ真摯に願い、祈るのだ。救ってください、と。
へそを曲げられて誅殺されることさえもこの時のナタリアは覚悟のうえだった。
『ん?見えねーのか?』
意外に軽薄な”声”に疑いを持つことさえ不敬だと、捧げるような信仰を向けていた。しかし――
『おわっ、さわれない……ゆ、幽霊?』
戸惑ったような”声”。揺らめく陽炎がまるで腕のように伸ばされナタリアの頬を撫でていた。しかし、感触は全くない。目で微かに動きを追えるだけでじっとしていれば見失ってしまいそうな儚い陽炎はごく自然にナタリアの身体をすり抜けていた。
『声は、聞こえているんだよな……?』
「はい。聞こえております」
空気を震わせて伝声しているのではない。頭蓋の内側に直接響く、<念話>魔術とも違う。脳の神経を直接痺れさせるような、別格の意思伝達手段だった。その原理はナタリアには到底理解の及ぶものではなく、ただあるがままに受け止めるしか無い。
「私の祈りを聞き遂げてくれますでしょうか?」
『はあ?なにをだよ』
「お救い下さい。お力を貸し与えてはもらえぬでしょうか」
『断る。それよりもさっさと俺を元の場所に返してくれ』
「それは……私の手に余ります。天使送還の術式はありませんので」
『はぁ?嘘だろ?それに二回目だが俺は天使じゃねーって言ってんだろ。ガキは人の話を聞かないから困る』
「ですが、そのお姿は――」
ナタリアは揺れる陽炎を見透そうとするように目を凝らす。ピントの合わないレンズを微調整するように神経を使う作業。けれど魔的なものに関しては天賦の才を持つ少女は、不可能を可能に変えてしまう。
空間から浮き上がるように輪郭がぼんやりと見えてくる。この世界に居るべきではない存在だからいつまでも安定しない影。真っ白の布地に落とされた黒い絵の具の染みのように、どうしようもなく”声”は異物だ。
異物は世界から弾かれている。混ざりあえないから異物なのであって、水面の油滴のように見つけること自体は容易い。
おぼろげな影は人の輪郭に変化し、ナタリアはその男の額に異形の証を見つけてしまう。
角。
魔物か獣にしか存在しない尖った角が額からごく自然に生えていた。動物に近い外見的特徴を持つ亜人たちにさえも角を持つ種は存在しない。角持つヒト形など、人類の敵対種以外に有り得ない。それは聖伝で”悪魔”と恐れられる化け物の証だった。
「その、角は……」
『角ぉ?』
一瞬でも集中を乱してしまえば、たちまちナタリアの目の前から”声”の男の姿は雲散霧消してしまう。泡沫の幻のように儚く、コールタールのように鈍色を輝かせる、不浄なる聖上。
ナタリアは意識をそれに集中するあまりに周囲への注意が疎かになっていた。
コンセントレーションを乱す原因となるべき物は外からやってきた。
カッカッカと早足で石造りの床面を叩く足音が聞こえてくる。そしてその足音は徐々に近づいてきている。我に返ったナタリアは、浮気現場を抑えられた不貞妻のように狼狽する。自分が人目をはばかる儀式の最中だったことに思い至ったのだ。
焦りは冷静な思考を奪い、ナタリアはおろおろと狼狽えるばかり。もはや陽炎のような微かな存在の痕跡さえ読み取ることはできない。
やがて焦っているようにも聞こえる足音が部屋の前で止まった。
コンコン。
「ナタリア様。居られますか?」
「な、何用ですか?」
「衛兵長がお呼びです。至急いらっしゃるように、と」
布壁の向こうの、さらに扉の向こう側から使者のくぐもった声が微かに届く。
「い、今は手が離せない緊急の要件がありますっ!後で必ず伺うと伝えて下さい」
「……ですが衛兵長も凄い剣幕でした。早めに行かれたほうがよろしいかと」
「わかりました!!」
ナタリアの切迫した大声と上司の剣幕を天秤にかけた使者はしぶしぶと言った様子で引き上げたようだった。
『呼ばれてるのなら、さっさと行ったほうがいいんじゃねーの?』
「……」
ナタリアは中空にジト目を向けた。短時間の内に、この世ならざる存在に対する敬意というものは半減している。仮に”悪魔”だとしても聖伝に伝えられるほど野蛮で破壊を好む質では無いようだ、と判断している。危険なのは変わりないが、今すぐ対処できる問題ではないと思っているし、下手に刺激して事態が悪化することを憂いてもいた。
「天使様ではないのならば、貴方様はどなたなのでしょう。差し支えなければお教え下さい」
『さあてねぇ。いや、はぐらかしているわけじゃないから、そんな目で見るな。というか、本当に見えてないのか?』
余程集中しなければ”声”を視認することはできず、張り詰めた気が抜けていたナタリアは見当違いの方向を睨んでいた。”声”に指摘されて頬を赤らめて正しい方向に向き直る。
「……化生、ですか」
『どうだろうな。この場では否定も肯定もしない。多分、幽霊とかそんなものだと思うがなぁ』
陽炎は部屋のあちこちを触りまくっていた。”声”は自分が世界に存在しているようでいて、どうしようもなく剥離していることを理解していた。触れられないし、誰にも見えない。声も聞こえない。この世界にとっては影のような曖昧な存在だと本能に理解させられていた。そんな霊魂のように曖昧な”声”を認識できるナタリアは特別でオンリーワンなのだ。
自分がどういう存在なのか確かめるために、”声”が実験を繰り返している時、またもや廊下から騒々しい足音が響いてきた。
先ほどの足音さえ焦心が感じられたというのに、余程急いでいるのだろう。ドカドカとまるで障害物を破壊しながら強引に突き進んでいるかのような騒音だった。
そして――
「ナタリア様!!何をしておられるのですかッ!!大賢者様がお呼びなのですよ!!」
怒声そのものが塊となって飛来してきたかのようだった。ノックすら無しに蹴破るようにして木戸を押し開ける。大賢者の研究室の扉だから鍵もそれなりに頑丈なものを使用しているのだが文字通りの一蹴である。
鼻息荒く、のしのしとナタリアの部屋まで近づく人影。
ナタリアは怒鳴りつけられて身体を竦ませていたが、自分が望まざる形でピンチに追いやられようとしているのを知り、顔面蒼白となる。天使を召喚するつもりが、自称悪魔の怪しすぎる生命を呼び出してしまった。仮に彼が世界に災厄をもたらすとすれば、ナタリアは滅びの原因となった災厄の魔女という事になる。名を高めたいとは考えていたナタリアだったが、悪名であれ歴史に名を残したいというほど過激ではない。
儀式の露見を何よりも恐れた彼女は、素早く魔法陣を寝台下の隙間に押しこみ、小声で”声”に去るようにお願いする。
『あー、面倒。でも心配要らないと思うぜ?多分、きっと、メイビー』
ケラケラと”声”は笑った。彼の隠し方に気を揉むナタリアの顔色はいまや夜光花の花びらよりも真っ青だった。
「は、入らないで!!」
究極の混乱に陥った時、人は複雑な行動をとることができない。もっとも単純化された反射的な行動をとってしまうものだ。
なんの意味もない進入禁止の叫び。しかし、マナーを破り鍵を壊してまでやってきた侵入者に、なまなかな制止の言葉が通用するはずもなかった。
「何を言っているのです!今がどういう状況か貴方分かっているのですかッ!?」
垂れ下がった布のカーテンを押し破り、ついに儀式の禁が破られた。入ってきたのは言うまでもなく衛兵長。ナタリアを呼びに使いを出したものの、我慢できなくなって直接乗り込んできたのだ。
「……す、すみません。どうしても手が離せないのです。師父様には謝罪を伝えて下さいますか。後日埋め合わせはいくらでもするから、と」
ヒクヒクとナタリアの唇の端は引き攣っていた。幸い、といっていいのか”声”は衛兵長の目の前に突っ立ているのに、衛兵長はまるで気づいた様子がない。衛兵長は完全にナタリアだけに怒気を向けていた。
ほんの少し安心しつつ言い訳をするナタリアの横っ面を張り飛ばす勢いで、衛兵長が叫んだ。
「違います!!大賢者様がまたお倒れになったのです!一刻の猶予もなりません!」
「お祖父様が!?」
「最期にナタリア様とお話がしたいと仰せです。医務官にはどうすることも出来ず、我らも大賢者様のお言葉をお伝えすることくらいしか……」
無念なのだろう。無力感を噛み締めるように衛兵長は俯いていた。ついさっきの威勢の良さとのギャップが劇的過ぎて、ナタリアは信じたくない現実がどうしようもなく真実なのだと悟らざるを得なかった。
悪質なジョークでも白昼夢でもない。
信じたくものを信じざるを得ない。ナタリアは喉が砂漠の熱砂のようにカラカラに乾いていることを自覚した。
大賢者は病床にあったが、ここひと月はそれが常態になっていた。日に日に悪化していく容態だったならば、来るべき終末に覚悟を決めることもできたかもしれない。けれど実態はそうではなく、倒れて起き上がって病んで復調して、を日常のように繰り返す大賢者の容態は、かえってナタリアに奇妙な安心感を植え付けていたのだ。
今日体調が悪化しても、明日には快復している。そんな根拠なき安心感。
「嘘じゃ……、ないんだ」
否定はできなかった。
何故ならば、彼女が天使降臨という大博打に挑もうとしたそもそもの発端。原因はこのどうしようもなく詰んだ状況にあったのだから。
人が動けば状況は動く。これはそういうことなのだろうか。
「ええ。……とにかく、急ぎましょう。ここで間に合わなければ、きっと貴方は一生このことを後悔し続けると思います」
『行けよ。俺を送還するのは後で構わねー。空気ぐらい読めるさ』
一瞬だけ”声”に目を向けた後、深く頷いたナタリアは告別の決意を固めた。
「師父様の下へ、走ります。それまでの補助はお任せします」
そして二人は宣言通り、弾丸のように走りだした。
吹きすさんだ疾風は、整えられたシーツをぐちゃぐちゃに乱していた。丁度変事に大慌てした主の起き抜けの痕跡のように。彼女のぐちゃぐちゃの心の有様を暗示するように。
不自然な風が帝城の石回廊に吹いていた。主に使用人たちの利用する裏道とは異なり、国賓を招くときなどに国威を示すために使用する大回廊は道幅が恐ろしく広い。有事の際には兵の一団が通過することも考慮されているために、まるで城下町の大通りかと疑うような道幅がある。
帝国が確固たる覇権を握っていた頃は、その実力に見合った堂々たる構えだったのだが、斜陽の国家には似合わぬ代物である。広げすぎた植民地各地で反乱が頻発し、機動力を誇る自慢の騎馬隊も東奔西走させられて、手足も頭脳も疲弊しているような堕ちた巨竜なのだ、この国は。
腐った毒は流動性を失った支配層に特に顕著だった。国土をかんなで削り取るような連続する反乱のせいで皇帝の権威は大きく損なわれ、植民地の代官――貴族たちの専横は目を覆うほどになっていた。
瘴気のような後ろ暗い毒霧は薄く広く拡散し、ナタリアの敬愛する祖父の元にも届いていた。
弱毒というものは健康な肉体ならなんともないものだ。寧ろ純粋培養の無菌状態の方が生存環境として不自然だから、少々の毒は「なあに、却って耐性がつく」と笑い飛ばせるものなのだ。その毒が真に牙をむくのは、弱みを見せてしまった時。その時微毒はハゲタカのように弱った肉体を啄む。
世界最高の魔術師と讃えられ、世界で唯一根源からの生還を果たした大賢者ファーレーンの体調が不安定だというのは、無敵の超人に生まれたあまりにもあからさまな”弱み”だった。
貴族の宮廷闘争というものは、人生の落伍者を労る優しい社会ではない。むしろ幸福の絶頂にある他者を地獄に突き落として高笑いするような欲望渦巻く陰惨な場所だ。圧倒的な魔術の力と泉のごとく湧き出る知識だけを取り柄に、過分にも皇帝の顧問たる大賢者に取り立てられたただの年老いた魔術師にとっては生き辛い職場だった。心労がたたったのだろうか。病魔が彼の身を蝕み、今この地上から偉大なる魔術師の魂魄を霊界に連れ去ろうとしている。
今際の際。たった一人の愛弟子に別れを告げる為に、彼は最後の気力を振り絞っていた。一分にも満たない邂逅のために、何時間でも耐え続ける。
一夜の出会いだけを心の糧に、一年の長きを我慢する七夕の恋人たちのように。
ただ、待ち続けていた。
魔術によって操作された風は、二人の推進力に絶大なブーストを加えていた。時速にして六、七十キロは越えていただろう。
衛兵長とナタリアは人間とは思えない速度で疾走。おそらく、生身の人間と正面衝突すれば、衝撃で肉がはじけて人体が爆散してしまうほどの高速だ。衛兵長の周囲に色濃く渦巻く魔力は、空属性のもので流体操作に適性を持つ属性である。
人の身で空を切り、風を起こす。
あるいは科学の支配する別世界であっても、前後に二輪を備えた鉄の馬に跨らねば、これほどの速度を叩きだすことは出来ないだろう。
技術レベルだけ見れば随分遅れた世界だが、ただ劣るばかりではない。
常に術者の進行方向に付随する高速旋回する小さな魔力の鏃。空気を切り裂きながら飛来する魔力体の後方に生まれたスリップストリームをうまく乗りこなした上、前後の気圧差でさらなる加速を手にしている。高速起動の代償に発生する乱気流は、流線型の膜のように広げられた気圧差から生じる高速気流層に弾かれて、術者の快速進撃を妨げることはない。
飛ぶように駆ける二人と生命未満の”声”一つ。
広すぎる大回廊も大いに本懐を遂げたといえよう。高速走行の天敵は曲がり角の接触事故や、運転者の予期せぬ歩行者である。その点、大人三人がすれ違うのもギリギリな裏道や、ジグザグ折れ曲がり見通しの悪い本通路と違って、大回廊の見通しはすこぶる良い。
視界良好。爆走する彼らを視認した人々は道を開けて衝突を避ける。<加速>魔術の使用が許可された大回廊は、さながら屋内用高速道路だったのだ。
逸る気持ちが挙動を加速させ、術式に注入される魔力量は増大していく。上級魔術<轟天>の域に迫ろうか、という神速の機動でもってして、ナタリアたちは医務室へとひた走った。
「あと、少しです」
息を荒げた衛兵長が励ますように声をかけても、ナタリアはまともな返答も出来ず、コクリと頷くだけだった。
やがて。
長い道のりを走りきった二人は、ついに大賢者の居る医務室に到着した。扉の前に直立していた衛兵に二、三言葉を交わすだけで、あっという間に道を開いた衛兵長はナタリアを室内へと誘った。
部屋の寝台で一人の老人が死んだように眠っていた。
叫びそうになるナタリアを抑えて、病人を起こさないように静かに衛兵長が歩み寄る。 その場にいた医務官は一人だけだった。回復の見込みがなく、忙しい身の彼らは死を覚悟した病人に大勢で付きっきりできるほど暇ではない。いかに大賢者が国の重鎮とはいえ、だ。彼らのうち責任者として一人だけを残し、他は既に各々の職務に散ってしまっていた。あるいは師匠と弟子の最後の語らいを邪魔したくなかったのだろうか。
衛兵長が頷き、医務官とともに病人の眠る寝台から距離をとった。囁き声の聞こえないくらい、呼ばれれば気づくくらい、そんな微妙な距離。
用意された二人きりの舞台で、ナタリアは老人の枯れた腕にそっと手を重ねた。
死を覚悟した老人は優しい感触に気づいて薄っすらと目を開いた。かつては聡明さと知的好奇心で輝き続けていた彼の瞳に、英知の光は残っていなかった。生命の火を使い尽くしてしまったような、滅びる直前の灰のような、そんな目だった。
「師父様……」
そっと耳元でナタリアが囁いた。聞こえても聞こえなくても、どうでもいいとナタリアは思う。
果たしてその思いが伝わったのか否か。老人は、白濁した両眼でナタリアではなく、彼女の後方に浮遊していた”声”に向かって語りかけていた。
「頼む……。ナタリアをどうか、助けてやってくれ」
神にでも縋るかのように、病で痩せ衰えた腕を伸ばす老人。
もう目が見えていないのだろう。濁ったガラス球のような虚ろな双眸は焦点が合わず、絶えずあちらこちらを彷徨っている。彼に”声”が見えているとは到底思えない。
あるいは人の世から剥がれ落ちようとする死人だからこそ、人の世の理から外れた霊を見つけられたのだろうか。
あの世という異世界に移動する寸前の狭間を揺れ動く、死期を迎えた命消えゆく人間だから、異世界から召喚された”声”の存在を認められるのかもしれない。
「師父様!師父様っ……」
嗚咽にも似た消えそうな叫び。
老人の孫娘というには若すぎる幼女は、残る腕を必死に掴んで、老人の命を取り零すまいとしている。
死の病。不治の病。自己消滅の病。異常細胞の暴走する病。
老人の未来はどうしようもなく滅びとか、死に直結していて、ここから救うことなど誰にも出来はしない。異世界の知識の断片を持つ”声”でさえも匙を投げる。
「おじい……様」
老人の骨ばった手の甲に触れたナタリアは、幼いながら別れを拒絶できないことを悟ってしまった。二人きりの時だけの呼称を人目をも憚らずに使って、老人に呼びかける。
「ナタリア……。お前を残して先に行くのは、心配じゃのぉ。しかし、今回ばかりはどうにもならんらしいわ。……遺言状は、枕の下に置いてある。伝えたいことはまだまだあるのじゃが、どうやら儂には時間が足りないようじゃ……魔術の研鑽を怠るでないぞ」
「お祖父様!!」
息も絶え絶えで、苦しそうな呼吸を繰り返していたはずの老人が、急にはっきりと言葉を紡ぐ。それを回復の兆しと見たナタリアは、歓喜を隠しきれずに握る両手に力を込める。
違う。
そうじゃない。
消え行く蝋燭の火が最期に強く燃え上がるように。
これは刹那のきらめき。
老人が”声”の存在を認知していたのがその証左。人は運命に逆らうことが出来ても、法則には逆らえない。
「お祖父様!?……おじい、さま?」
最後に垣間見えた希望の光が、急速にしぼんでいく瞬間を目の当たりにしたナタリアは喉を詰まらせた。
「嘘!嘘!やだやだ。ねえ、起きてよ?目を覚まして?寝ちゃあ駄目。また私の頭を撫でてよ。叱ってよ。お願いだから。お祖父様、もうつまみ食いもしないし、夜更かしもしないって誓うからっ。だから、ねえ……。お願いだからまだ逝かないでぇ!」
悲痛な叫び声が老人と孫の別離を彩っていた。
亡骸に取り縋って、会いたい、起きてと叫ぶナタリアは歳相応であり、その光景を見守ることを職務として強制されている衛兵たちの中にも、目頭を押さえる者が居る。厳格な表情を兜の内側に秘めた衛兵長も、俯き加減だ。
それから一刻が過ぎた。
泣き疲れたナタリアの泣き声は消えかかっていて、室内には静寂が戻っていた。
鎮痛そうな面持ちの衛兵たちは、誰も彼女に近づこうとしない。ただ、帝国に大いに貢献した偉大なる賢者の死を静かに悼んでいた。
「ねえ……」
泣きじゃくっていたせいで、喉を痛めたのかナタリアの呟き声は小さすぎて、部屋の入口を固めるだけの衛兵たちには聞こえていなかった。
「代償ならなんでも支払うわ。この身体一片余すとこなく全てを捧げる。だから、助けてよ。師父様を……助けて下さい!」
『無理だ。もう死んでる』
「そんな……。何か、何かあるのでしょう?隠してないで、助けてよ……」
『……見えず、聞こえず、触れられず。そんな存在に何かできると思うのか』
”声”はこの世界の住人ではなく、ナタリアという例外を除いて誰にも見えず、触れることもできない存在だ。事実として大賢者の遺体の傍で佇む”声”を見咎めた者は居なかった。
衛兵たちはナタリアと”声”のやり取りを不憫な目で見ていた。彼らからすれば愛する人を幼くして失った不幸な少女が、誰もいない宙空に向かって語りかけるというのは、気が動転している人間特有の”可哀想な行動”にしか見えなかったのだ。
『無理だ。どうすることもできない』
「嘘。嘘だよ!お願いだから。なんでもするから。師父様を助けて下さい」
『おい馬鹿やめろ!周りに不審がられてるぞ!』
感情が破裂したように興奮しているナタリアは周囲の耳目を気にするゆとりを失っていた。恥も外聞も無く泣き叫び、”声”に取り縋る。
普段の彼女の信念を知る人がこれを見れば、神に縋らないと豪語する少女の変わり様に涙するに違いない。
ナタリアが暴れそうな気配を察知した衛兵たちは、さすがに看過することもできず、怪我をさせないように優しく少女を取り押さえにかかった。
振り上げた拳を止められたナタリアはかえって感情を抑えきれなくなってしまい、余計に暴れようとしてしまう。
苦々しい思いを抱えながらも、職務に忠実な衛兵たちは言葉で幼子を宥めながら、力づくで錯乱した子供を止める。
最も偉大な魔術師と呼ばれ、その称号に相応しい地位についていた大賢者ファーレーンは一人きりの弟子に見守られ眠るように息を引き取った。公文書には彼の死の際に大暴れした弟子の事など一文字足りとも記されはしなかった。