18格致日新の数秘
レヴィが野蛮すぎるやり方で、ミックを追い出したのは今や昔。
数日間魔道研究所にこもって研究に勤しんだナタリアは、<循環盾>を実用域にまで昇華させていた。余った時間を利用して、<電探>術式まで着手しているから流石である。
長い休暇に出ているコンラに貰った反響定位法の論文を存分に活用している。現時点では精度は荒いが、周辺の大まかな地形を探ることはできている。これも夜と日の属性を併せ持つナタリアならではの、開発速度の成せる技だった。
期限までに新術式を完成させるのはもはや達成された目標でしかない。
そういうわけで、時間に余裕のできたナタリアは、ミックから送られた書類に目を通した”声”の報告を聞くゆとりができたのだ。
『やばいな。王国軍の現役旅団の整備状況まで書かれてやがる。保有戦力も概算とは付記されているが、実際ここまで細かいと数字を鵜呑みにしたくなるぜ。まぁここら辺は直接は関係ねぇ。焦点は一つ。この国が戦乱に巻き込まれないかどうか、それだけだ。そういう観点から見ると、王国に関しては心配無用といった感じだ。教育改革によって庶民の教育水準が向上し、民間市場は活性化されているようだが、その影響は国軍に及ぶまでにはタイムラグがある。戦力・兵力において帝国を上回るためにはあと二十年は必要だし、早まって開戦するにしても十五年というところだろう。しばらくは静観していて問題ねぇ。一方で問題なのが、帝国国内の反乱件数の増大だ。ミックの所見ではこの植民地反乱も王国の差し金らしい。国富までの無防備な時間を、やり過ごそうという腹だろうな。反乱は定期的に発生して、その度に鎮圧されている。が、今回の反乱は皇帝が帝都を長く空けなければならないほどだから、一味違う。戦力比較では帝国禁軍と地方軍の混成軍が負けるとも思えないが、長引きそうだ。帝国滅亡の直接原因にはなり得なくても、遠因にはなるかもしれねぇな』
国が滅びるなどと。誰かに聞かれれば、即座に処罰されてもおかしくない。幸い”声”を聞けるのはナタリア一人。現時点では無用な心配だと言える。
『総合的に考えると――今の所は特に何かあるわけでもねぇな』
「それは良かったわい」
気のない返事。
”声”の提言を入れて調査したものの、ナタリアは国が滅びるということの実感がなかった。言葉の意味もわかる。なんとなく悲惨なことが起こりそうな想像もつく。しかしその全てが想像の域を出ず、何ら具体性のない取り止めのない妄想だ。
現実味がないから、何を思うでもなくただ淡々とミックに依頼した。
生まれる前から百年も続いてきたものが、無くなるというのはちょっと想像できない。昨日から明日まで、永遠に続く存在が消えるなどとは。
体系化された歴史という学問が存在しないことの弊害だった。正確には歴史に近いものはある。帝国史や聖伝など一方の立場から過去の出来事を恣意的に取り纏めたものならばいくつもある。
しかし客観性を著しく欠くために、国家の興亡などについては触れられない。つい数十年前には帝国の侵略戦争によって幾つもの伝統ある国家が滅亡してきたというのに。加害者は被害者の心情には無頓着で、無関心だ。それは国家指導層のみならず、庶民にも共通する現象だと見える。
たとえ百の国家を滅ぼしてきたとしても、彼らは自分自身が滅亡する側に回るとは思わないだろう。むしろ絶対に負けないという間違った確信を抱くかもしれない。
聡明な大賢者の弟子であるナタリアも帝国民であるということには変わりなく、帝国不滅の思考の軛から逃れられなかったのだ。
”声”がしばらくは心配ない、と言っても元から心配していない。安堵とか喜びとか、気持ちが乗っていないのは当たり前だった。
ナタリアの興味はむしろミックが持ってきた紙の材質に向けられていた。
大賢者の弟子だった頃に使っていたのは、表面を薄く削り取ることで、何度も使用できる木板がメインだった。内容によっては<転写>を使って勉強することもあった。使い捨てのメモに高価な紙を使用するなど考えられないことである。
王国が廉価な紙の量産方法を開発したのならば、彼の国の教育水準はさらに上昇することだろう。
『それにしても、中々文字には慣れないぜ』
”声”がぼやく。
『幸い数値中心の報告書だったから良かったものの、これじゃあ読書なんかは夢のまた夢だな』
”声”の国とは使う言葉が違うらしい。話し言葉は通じるのに、不思議なものだ。それでも”声”の物覚えは良い方で、ナタリアが暇を見つけて教えるという適当な勉強方法でもある程度の読解はこなしてしまうのだ。
さすがは悪魔。
『ただなぁ。回りくどいんだよな。アラビア数字見慣れてるから、いちいち頭のなかで変換するのが面倒だ』
「アラビア数字とやらがお主の国の言葉なのじゃな」
『ほら、この四とか捻くれてて見難いったらありゃしねぇ。こんなの六と見間違うだろーが。……まっ、十進法だっただけでも儲けものだがな』
一、二、三と”声”が文字をなぞりながら読み上げていく。目を凝らせばぼんやりとしたその指先が辛うじて見て取れた。
『表記法も慣れないな。見て直感的に理解できないから、わざわざ計算し直さなくちゃ満足に見ることもできねぇ。不便じゃね?』
”声”はぶつぶつと不満ばかり漏らしている。これだけ数字に強いということは、会計でもやっていたのだろうか。そもそも商人のように職能としての算術技能を有する者以外に、数字を読める者はよっぽどの教養者だろうに。
ナタリアもある程度なら数字が分かる。ただそれも千辺りまでが限界だ。万とか億とか、到底使われないような桁数の数字までは覚え切れていない。
覚える労力と得られる利益が見合わないのだ。
『表記法だけでも改めれば、随分とマシになるんだがな。だってほらこれ。千五百六十人って人口。千と五百と六十を全部足し上げなくちゃ、まともに読み取れないなんて欠陥品だろ。1560。こうやって記せば、視覚的にも分かりやすく、しかも計算しやすいだろうに――っと!まてよ!?』
”六十”という記号に指を這わせていた”声”が突然声を張り上げた。
『なんかおかしいと思っていたら!ゼロが無いのかよ!』
まるで<循環盾>の構想を思いついた時のナタリアのように、”声”のテンションは上がっていた。もし彼に実体としての身体があれば、飛び上がって喜んでいたかもしれない。
興奮した彼からなんとか詳細を聞き出す。
ゼロを数字だと認めるのは、いかに柔軟な子供の頭でも難しかった。けれど、桁数の空白を補う記号の一種だと思えばなんとか理解は出来た。
しかし、それ単体で0という概念を認めるのはすぐにはできそうにない。
『そういえば、この世界の数学のレベルはよく知らないんだよな。数学者とか名乗ってたあいつに聞いて見るのはどうだ?』
数学者という言葉をキーワードにして、ナタリアは最近の記憶を篩にかけた。浮かび上がってきたのは、オデオンとの何気無い会話の一幕。
「デュアルソロス殿、か。確かに満足に礼も述べられなかった。時間もあるのじゃから、礼物でも持参して挨拶しに行くのもいいかもしれん。何と言ってもご近所さんじゃからな」
亜人のデュアルソロスはオデオンの店の近辺で数学塾を営む先生だ。通常頭が悪いと言われる種族の出身ながら、学者を名乗るというのは並大抵の苦労ではないだろう。
貴族たちの差し金によってナタリアに送り込まれた刺客を、腕力のみで追い払ってしまった度胸もある。お粗末な刺客だったことは否定しないが、それにしても頼りになる御仁だ。
醜い外見とは裏腹に、湖よりも深い慈愛を持ち、大樹の幹よりも太い肝っを持つ強い人だ。
たまに朝の出勤時間、パンを買いに来た彼を見かけることがある。時間もないから話し込むことはできないが、挨拶くらいはする仲だ。突然訪ねて行っても失礼にはなるまい。
思い立ったが吉日とばかりに、ナタリアは少ない予算をやりくりして、市場に買い物に出た。
どういう土産が良いものだろうか。彼を見る時は、いつも食物を求めている印象が強い。そういう路線で探してみる。
串焼きの屋台はパスした。味はなかなかのものだが、何と言っても匂いが強烈だ。冷めると不味いというのも贈り物としてはマイナス要因。却下だ。
巨大な湖を水源地として持つ帝都には、内陸地ながら海産物が豊富である。魚類貝類も結構な割合で見かけるのだが、いずれも鮮度が良くない。自分で食べるならともかく、人に渡すには忍びない。
消去法で選択肢を潰して行き、残ったのは新鮮な果実の類だった。
青果店で探し求めた緑の木の実と赤い果実を幾つか購入する。それぞれ調理の香り付けに使える物と、生で食べられるものである。これならば失敗はないだろう。
『亜人で疑問に思ったんだが、食生活も人間と同じなのか?もし大きく違うならば、都市に住めないだろうから、大部分は一致するんだろうが……』
「種族によって肉を好む部族や、魚しか食べない種族もある。じゃが、彼の種族はほとんど人間と同じものを食えるはずじゃ。個々人の趣向はこの際置いておくとして、まぁ問題なかろ」
デュアルソロスと同じ種族の少年が院にも一人いたが、彼の食事は他の子供となんら違いのないものだった。
ナタリアの推測通り、豚人間は雑食である。しかも人間よりももっと食べられるものの幅は大きい。普通であれば腐ってしまったと判断されるような腐肉でも平気で平らげてしまうのだ。微生物の消化の際に発生する毒素、排出物をスパイスの一種だと感じる舌の構造になっている。故に彼らは飢饉で苦しむということが少ない。なんとなれば、同族の死体を食らえば飢えはしのげるのだから。
都市部に住む少数の豚人間や、奴隷として労働させられている豚人間の子孫の間には屍肉を食らうことは野蛮な風習だと忌避されている。しかし、地方の貧しい集落では今も当然のように行われている習慣である。
”同族喰らい”として彼らの種族が人間に蔑視されているのは、理由のない排斥というわけではない。
オデオンに聞いておいた住所は、本当に店の近くにあった。細い通りを二本横断した先には、二階建ての集合住宅があった。増改築が繰り返されたのか、他の秩序ある建物とは異彩を放った形状をしている。
立方体、直方体。様々なキューブが積み重なり、あるものは半壊しながらも山のように互いに寄りかかっている。
彼の数学塾兼自宅は、ここの二階にあるらしい。
そもそも玄関を見つけることさえ一苦労だったが、暗がりに目を凝らし洞穴の入り口染みた虚穴を発見する。夜属性で知覚強化できない人はどうやって入り口を見つけるのだろう、といらない心配をしてしまう。
細く、丸い廊下を進み、はしごのような急階段を登って行く。
年月の流れは残酷で、痛んだ床や壁は今にも壊れそうだ。こんな狭い場所にあの巨人は住んでいるのか。
二階でようやく目当ての部屋を見つけた。隙間風がバンバン入ってきそうな木戸を軽くノックする。
「デュアルソロス殿!居られるか。ナタリアじゃ」
鋭敏な聴覚が部屋の中でバタバタと動く音を聞き取る。
「んが、すぐ出る」
騒々しい音は一分ほどで止んだ。
ギギギと引き戸が横滑りする。この扉はどう考えても彼の巨体が通り抜けられる大きさではない。人差し指だけで器用に引き戸を開いたデュアルソロスは外に出て迎えるでもなく、ちょいちょいと指先だけで中に入るようにサインを出した。
出入りのできない家など欠陥ではなかろうか。いかに彼の体が大きいとはいえ、それなりの住処を選べばいいのに。こんなネズミの巣穴のような住居でなければ、これほどまでに窮屈な思いはしないはず。
「突然の訪問で済まぬな。大層な用があるわけではない。先日助けてもらったお礼を手土産に持ってきたのじゃ」
デュアルソロスの巨体にも見えるように、精一杯の高さに買ってきた果物を掲げた。今更ながら量が少なすぎる気がする。地属性魔術はほとんど覚えていないナタリアは筋力強化も使えない。必然的に子供の細腕で持てる重さには限りがある。どちらにせよ、人を雇ったりしない限りは、これくらいの量が限度だったろう。
ナタリアが心中で自己弁護している間に、デュアルソロスの太い指が壊れ物を扱うようにそっと果物籠をつまみ上げる。
「わざわざどうも、ご丁寧に」
くぐもった声でデュアルソロスは軽く頭を下げた。物理的にしっかり下げる分のスペースがなかったから仕方ない。
「それにしても。普段はどうやって外出しているのじゃ?どう考えてもドアの大きさが不適切に見えるがのぅ」
デュアルソロスは背後を振り返り、窓の方を目で示した。見れば彼の巨体でさえも悠々通り抜けられるだけの大きな窓が開いている。なるほど、あれならば出入りも容易。狭い入り口などを使うよりも、余程便利に使える。
しかしその大きさは否応無く目を奪われる。あんなに大きな窓は帝城でも見たことがない。あれほど大きくては、窓と言うよりも寧ろ――
「穴、じゃな」
「ぶふぅ。壊れたけど、便利だからそのままにしてる。雨の日は塞がないといけない、面倒。でも、便利」
笑った、のだろうか。どうにも彼ら種族の感情表現は判別しにくい。
取り敢えず訪問は歓迎されているようである。
「先生!この隙積術の計算式ですけど……!」
巨体に隠されて見えなかった、部屋の奥から若々しい声が響く。
申し訳程度にいかにも勉強中の本を片手に携えた学徒が姿を見せる。質問を声を上げたものの、興味津々の瞳は視界を覆い尽くすデュアルソロスの巨体ではなく、小さなナタリアの身体を見つめている。
授業中だったのだろう。非日常の訪問者が彼らの好奇心を刺激したであろうことは想像に難くない。
「先生!」
苦い顔をしたデュアルソロスは、仕方なく何処がわからないか見せるように促した。
こうして彼が人に教える姿は初めて見るが、なかなか様になっている。教えている内容は相当高度なもののようで、聞いていてもさっぱり理解できない。”声”でさえ解説をしてくれないくらいだから、よっぽど難しいのだ。きっと。
ちらちらと此方を窺う学徒の視線が鬱陶しい。もういい年だろうに。落ち着きがなさすぎる。
不躾な学徒の態度に、ナタリアは憮然とする。
これ以上粘れば不自然になる。その絶妙のラインで、学徒は質問を切り上げたようだ。見上げるような巨人に頭を下げた学徒は、最後にナタリアを一瞥してから部屋の奥へと戻っていった。
「慌ただしくてすまねぇだ。丁度仕事の最中で……」
「すまぬ。邪魔をするつもりはなかったのじゃ。静かにしておるから、待たせてもらえぬか?」
殊勝に頭を下げると、デュアルソロスはブンブン手を振った。
「いんやあ!差し入れ貰っただけで有難いのに、頭下げんでも!荒屋で良ければ、幾らでも居ればえぇ」
ナタリアが言うのも失礼な話だが、荒屋というのは決して謙遜ではなく、事実であった。
帝都外縁部のスラム化は、ここまで及んでいたのか。
デュアルソロスの住まうアパートメントは、正規の地属性土建屋の手によらない粗末な家屋だった。
救いなのは、部屋の主がしっかり者なところだ。掃除が行き届いているから、不潔ということはない。ただ純粋にボロいのだ。
椅子も見当たらないから、床に直接座り込むしかない。壁に体重を預けながら、部屋の様子を観察することにする。
ナタリアに急かされるように、デュアルソロスは講義をさっさと終えることにしたらしい。
彼の生徒らしき三人の学徒は、常ならぬ事態に浮ついた態度ながら、その思惑に追従する。
しばらくして、ぞろぞろと出て来た学徒三人は仲良くナタリアを一瞥してから狭い入口を潜り抜け、帰っていく。
彼らの後ろからは、見慣れてきた巨体がのっそり姿を現す。
「すまんね。待たせて」
「いや、こちらこそ悪かった」
土産の果物を取り分けながら、デュアルソロスは小皿に盛り付けて行く。
「珍しい柄の食器じゃなぁ」
木製の深皿は、表面に繊細な彫刻が刻まれている。材質はそれほど高価に見えないが、デザインのセンスは良い。
「む。魔術で作ってみただ。地属性じゃけん、<彫刻>で」
少しばかり、驚く。ナタリアは数学には詳しくないが、相当高度なことをしていたことだけはわかる。そのような頭の回転の速さを誇る職種につく人は、大半が夜属性なのだ。頭脳が強化される属性は、その特異性ゆえに他の属性から尊敬されながらも、嫌悪されている。<読心>などと不気味極まりない術が含まれているのだ。その畏怖も仕方のないものだと言えた。
しかし彼は夜属性ではないという。全ての学者が夜属性というわけでもないだろうが、やはり他属性は不利である。種族の壁、属性の壁を超越し、先生と慕われるデュアルソロスは相当の傑物だと見える。
軽く果実を摘まみながら、ナタリアは近況報告を行った。あの襲撃者たちの身元も割れて、貴族派の差し金だったことを説明すると、一緒になって憤ってくれた。
親身になって心配してくれるデュアルソロスだったが、ナタリアが魔導研究所について触れると、顔を曇らせた。
「帝国軍……」
怒りでも憎しみでもない。ただただ悲しみをたたえた表情を見せる。
軍というものは基本的に庶民から疎ましく思われる存在だ。平和と戦力の均衡を担っていると言われても、当然のように平穏を享受する庶民にとってはてんでわからない感覚だ。来店すれば別の客を怯えさせて、客足を遠のかさせる。マナーの悪い一部などは金銭の支払を拒否するものさえ居る。
これが魔獣や亜人部族の襲撃が日常の辺境であれば、また事情は変わってくるのだが、ともかく。帝都で兵隊というのは、少なくとも無条件に歓迎され、信頼を預けられる存在ではない。
デュアルソロスも何か嫌な思い出があるのだろうか。
恩人を不愉快にさせるつもりは、ナタリアにはない。
話題を変えたほうが良いだろう。
「それにしても、教師とは。この帝都でやっていくには随分苦労したじゃろうに」
言外に亜人にしては、という前提が含まれていた。
話題を変えるにしても、もう少し何かあったろうに。
失敗したかもしれない。人生経験の浅さはどうにも隠しようがない。
「あぁ。そうでもなか。碩学院時代の先生が帝都住みだったから、頼み込んで聴講生を分けてもらっただ。今のおらは、人情だけで生かしてもらってるさぁ」
碩学院。魔導研究所の研究員である音の専門家、コンラも在籍していた西の最高学府である。王国の支配者、国王自身の肝入りで造られた叡智のアカデミア。最大の特徴は何と言っても来るもの拒まずの精神である。
最低限の能力テストこそあれ、それ以外は一切を問わない。
学習しようという意思さえあれば、種族や国籍の違いさえ問われないのだ。国民の血税を大量投入しておきながら、利益を受給するのは異邦人や亜人という理不尽を押し通せるのは、専制国家の強みだろう。
ナタリアは知らぬ事だが、一応の中央集権をなしえ、旧貴族の力を弱めた帝国とは異なり、未だ門閥貴族の勢力の強い王国で専制を敷くのは並大抵の苦労でなく、覇王という英主にとっても、精神と体力を擦り減らす難行だった。
産みの痛みに比して、自由すぎる制限。
王国の政治的スタンスを体現する、学び舎の至高にして頂点。
確かに亜人であるデュアルソロスが、学府で学ぼうと志すならば、これ以外無いというくらいに、うってつけの場所である。
実際に行ったことはないが、こうもかの院卒の実力者ばかりに会うと、王国の隆盛を感じずにはいられない。
これ程の人材流出を見過ごせるくらいには、かの国の人的資源は潤っているということだから。
「そうか、デュアルソロス殿は碩学院の出じゃったか。道理で理知的なわけじゃ――ところでその碩学院の頭脳を見込んでの頼みじゃが、これを読んではくれぬか?」
「これは……?」
取り出したのは、いくつかの代数関数が記してある紙の束だった。ミックの正式な取材報酬とは別に、お駄賃として十枚ほど貰い受けたものに、"声"の知識を記録してある。
使用されている言語、及び記号が”声”の国のものだから、そのままではデュアルソロスにも理解は出来ない。ナタリアは一つ一つの記号を説明しながら、自分よりも遥かに大きな巨人の顔色を窺った。
亜人の表情の変化を読み取るのは慣れていないと難しいものだが、幸い院時代の経験が活きた。
難しい顔のデュアルソロスが、驚愕に目を見開くのを確かに認めたのだ。
「……これを、どこで。いや、碩学院の最先端ですら研究中のものの結果がここにはあるだ。それに、頭のなかでなんとなく考えてただけのものまで、全て。ただの子供じゃないだか?」
この世界には見た目と実際の年齢が異なる種族も存在する。例えば、人の生き血を吸って生き長らえる敵対的幻想種だとか、王国よりも更に西。海の果てにあるという黒い森のエルフ達だとか。
「――ただの子供じゃよ。ただし、師は凡百の有象無象ではないがのぅ」
嘘はついていない。しかし、あからさまに相手の誤解を誘うやり方だった。
今デュアルソロスに渡した超先進的数学知識――例えばゼロの概念であったり、演算をきわめて効率的する記号群であったり――それらは敬愛する師父様のもたらしたものではなく、異世界の悪魔から得た知識である。
本当ならば、大賢者の弟子であるということだって、おおっぴらにしないほうが良いのだが……。秘匿すべきことの優先順位を考えると、第一位が悪魔との繋がりであり、第二位が幽議会で決定された大賢者の死の秘匿である。
それらの重大機密と比較すれば、まあ親しい相手には話しても良い秘密にすぎない。
「わしの師は――皇帝諮問団筆頭賢者、ファーレーン様じゃ。あまり公言してくれるなよ?」
懇親の溜めで、告げたナタリアは不敵な笑みを浮かべ、あぜんとするデュアルソロスの窪んだ眼窩を覗きこんだ。
「……それは――誰、だか?」
脱力、してしまった。




