一話 これがはじまり
逃げたいって願うけれど、足は縛られ、心は動かない。
これでいいのだとあきらめて、ここでいいのかと悩む。
なにもできないことが心地よくて、腐る心がいとおしかった。
目に映る光は、あまりにも弱弱しい。体の自由は奪われて、食欲だけが意識の中で蠢いている。
欲望は食料をほしがり、感情は自由をほしがっていた。どちらもかなえられることが無いまま、時間だけがただただ過ぎていった。
残酷なほど時間は過ぎて、感情はもう、消えかけている。欲望だけがただただ膨れ上がって、なくしてはいけない希望さえ忘れてしまいそうだ。人間であることさえ終わりそうなほど。ここで終わることしかできないと、あきらめていく。
「何も、できなかったなぁ……」
のどが水分だけを求めているせいか、耳に届く声はただ枯れて、鉄と石と自分しかいない部屋に、響くことさえしなかった。
人事としてしか、今の自分を見れなかった。
見てしまったら、壊れてしまうから。
情けなくて、恐ろしくて、哀れで、悲惨で――――認めたくない。
こんなことを望んでいなかったはずなのに、こんな結果なんて、誰も求めていなかったはずなのに……。
時間だけが過ぎる。残酷に、人間であるものを壊し始める。
視界は全てを背景としか捉えなくなった。匂いはいつの間にか嗅ぎ慣れない鉄の匂いに満たされていた。手は自らを蝕み始めた。足は逆らうことをやめた。欲望だけが頭を満たし、それさえもどこかへ消された。
僕の心が、逃げ出した。
動くことを体がやめてしまった。生きることを諦めてしまった。だれも、たすけてはくれないから。
残酷な時間は過ぎていく。弱弱しくこぼれてくる光から、食べ物が出されるようになった。分割することさえ億劫になるほどこまごまとした食べかすのパン。こぼれたであろうスープの残り。にごった水。小さな薬。切り落とした肉の残骸。
それらをすべて口へ運んだ。舌は喜んで僕に味を伝えてくれた。
でも、長くは続かなかった。骨が浮き上がっていた体は何とか肉が覆うようになり、梗塞具を面倒に思うようになり始めた。体に神経がいきわたるようになった。かろうじて意識というものが戻り始めた。自分が生きていると実感できるようになった頃、突然一人じゃなくなった。
「ここからが、お前の仕事だ」
ただそれだけを言って、リュックと棒切れだけを渡されて、動物でも見るように僕を睨んだ後、持ち上げられて、光の中に放り出された。
喧騒が意識を起こす。閉じていた目を無理やりに開ける。
人、人、人。絶え間なく続く足音。行き交う人。
何も持たない僕は、世界に放り出された。